未来がなくなった枝の一本。
プロトアーサー体験クエストの影法師の彼について捏造。旧剣は登場しない。終章ネタバレ、というか終章の一部からそのまま取ってきてるシーンがあるので第一部未クリアの人は閲覧しないことを勧めます。
これは、その願いを押し通した青年の話。ほんの少し見えたものが違ったばかりに、足掻くことをやめた一人の人間の、物語にもならないような道筋。
ぽつ、ぽつ、と鍾乳石から雫が落ちる音がする。二つの人影が洞窟の奥で、黄金色の杯の前に立っていた。
一人が願う。我に無限の富を。この研究を成就させるに足るほどの、莫大な富を。
彼はその願いを口にすると、隣に立つ白髪の青年に顔を向けた。曰く、君にも願う権利がある。
もう一人。白髪の青年。イスラエルの魔術王。王という名の統治機構。彼はその問いをもって、はじめて願いというものを抱いた。いや、それは正確ではない。彼は願いを抱けるような存在になろうとしたのだ。
ソロモン王に願いはない。あるはずがない。彼はただ、乞われるがままに国を治める為の神の僕だ。そして、サーヴァントは変化することがない。死者は変われない。それは今を生きる人間だけの特権だ。だから、
人になりたい、と彼は言った。
人並みの欲と、人並みの感情を持つ、一人の人間になりたい。願いを抱けるようになりたい。受肉ではだめだ。サーヴァントとして現界するのではだめだ。ソロモン王とは関係のない、一人の人間として生きる権利が欲しい。
そして、世界が暗転した。
マリスビリー・アニムスフィアの見ている前で、褐色肌の青年は姿を変えていった。白髪は桃色に近い茶髪に。トパーズ色の瞳はペリドットのような黄緑色に。褐色の肌も、北ヨーロッパ出身者じみた白いものに。身につけていた数多の魔術霊装も全て力を失い、何の変哲もないポロシャツやジーンズやスニーカーに変じる。
そこにいたのは、ただの男だった。マリスビリーが知っているキャスターとは顔立ちが似ているだけの、一人の人間。サーヴァント特有の威圧感など、かけらも残っていなかった。近くの大学に留学して来たとでも言えばそれで通じてしまうだろう。
アニムスフィアの屋敷で目を覚ました彼に、マリスビリーは身分を用意した。ロマニ・アーキマンと名乗るその青年は記憶喪失だということになり、アニムスフィアの降って湧いた財産、その一部で生活することになる。
あと12年で世界は滅び、そしてそれはきっと自分がどうにかできるようなものではない。それがロマ二・アーキマンが知っていることのすべてだった。どこが発端なのかはわからない。なにが契機なのかもわからない。ただ、人類が2017年を向かえずに焼き尽くされる事だけは確信していた。
それはほんとうにどうしようもない恐怖で、けれど対策のしようもなかった。だからロマニは、諦めることにしたのだ。
ただマリスビリーと、そしてある日冬木大橋の下で出会った明らかに人ではない青年にそれを伝えただけで、自分はなにもしなかった。マリスビリーのくれたものとアルバイトの給料でもって、12年だけ、思いっきり人生を楽しむことにしたのだ。
英雄譚が好きで、恋愛小説が好きで、図書館ではいつも歴史の棚か文学の棚にいた。月に一度、駅前のケーキ屋でショートケーキを買うのがささやかな自分へのごほうびだった。レシピも見ずにクッキーを焼いて盛大に失敗したり、読みもしない新聞の勧誘を断れなかったり、そういう風に、ロマニは人生を圧縮した。楽しそうなものにはすぐに取り組むそんな彼を、魔術など知らないそんな彼を、マリスビリーの娘が羨ましそうに見ていた。
冬はこたつになる小さなテーブルの上に、本が数冊と大学ノートが広げられている。シャープペンシルの先の消しゴムはとっくにすり減って、青白黒の三色スリーブの消しゴムも丸くなっていた。ロマニの数少ない長続きした趣味が、英雄の生涯をこうしてノートにまとめることだった。
少し区切りが見えたところでコーヒーでも入れようと座布団から立ち上がるのと、ベッドの上の携帯電話が鳴るのはほとんど同時だった。とても珍しいことに、それはアルバイト先ではなく、遠い異国の雪山にいるはずのマリスビリーから。
「はい。ロマニです」
「アーキマン、オルガマリーよ。落ち着いて聞いて」
電話越しに聞こえてきたのはマリスビリーの低い声ではなく、年頃の少女のもの。魔術師ではない、弱みを見せても問題ないロマニが相手だからか、その声は少し震えていた。
「父が―――マリスビリーが死んだの。体は時計塔に送って、ロンドンで葬儀をするわ。あなたも参列するなら、相応に準備をしてちょうだい。……それじゃ」
呆然としたままのロマニの返答を待たずに、オルガマリー・アニムスフィアは電話を切って、次の番号を打ち始めた。アニムスフィア家は時計塔のロードの一角。たとえ残された当主の年齢が二桁に届いたばかりであっても、その利権が変わるわけではない。むしろその実権を彼女の小さな手から奪い取ろうという試みは激しいものになるだろう。けれどそれはロマニ・アーキマンにとってはあずかり知らぬことだ。カルデアの医療主任であったなら話は別なのだろうが、この世界のロマニはドクター・ロマンではなくフリーターのアーキマンさんである。
―――そして月日は流れる。フィニス・カルデアの所長が代替わりしてから五年がたっていた。
少し生き急いでいるだけの青年は、なにも知らない70億人と同じようにその日を迎えた。その日はアルバイト先の花屋が定休日で、なんとなくロマニは今月二回目のショートケーキを買ってきた。
何も知らないカルデアの所長は、ブリーフィングに遅れてきたマスターに業を煮やしていた。その日はAチーム主席の誕生日で、雪山の上ではたいしたこともできないけれど秘蔵のお菓子を一緒に食べようかと思っていた。もう一つの世界よりも気の抜き方を知らなかった彼女は、居眠りマスターをミッションから外すことはしなかった。
着任早々所長の目の前で居眠りをした48人目は、それでも全員揃っていることが肝要なのだと最後の予備としてレイシフト用のコフィンに入れられた。何が起きるのかもよく分からないままきょろきょろと見回している彼は、興奮しすぎだからと麻酔をかけられて―――二度と目覚めることはなかった。
カルデアスが赤く染まるその瞬間、人間であることを選んだ男は自宅にいた。綿の抜けてきた座布団に座って、砂糖をたっぷり入れたコーヒーを飲む。マグカップを持ち上げる左手にも、フォークを持つ右手にも、指輪なんてものはなかった。人間として生きるのならば必要ないだろう、とマリスビリーが判断したから。
それは、とてもずるい結末なのだろう。抗うこともせず、知っていることを放棄した故の最後。ありふれた人間ではなかった彼が、ありふれた人間として終わってしまうことは。けれどソロモンではない彼には、消えてしまうもののために戦うのは荷が勝ちすぎた。