涼しい風が頬をなでる。
お祭りの雰囲気で浮かされた身体の熱は冷めず、しかしその熱が心地よかった。
道頓堀川が流れる水上バスの船着き場。珍しい場所でもなかったが、徹子はここがお気に入りだった。
人の喧騒は耳に入らず、太鼓や笛の音でさえ遠くに聞こえる。そんな静けさの中、ぱたぱたと軽い足音が聞こえてきた。
振り向けば、小さな女の子がその足を必死で動かしながら、笑顔で向かってくる。
愛らしい顔を振りまきながら向かってくる少女に、思わず頬が緩んでしまう。
「徹子ちゃ~ん」
「あら、笑」
笑はそのまま徹子の胸元にダイブし、徹子は抱え上げ、ひとしきりぐるぐると回ったあと下ろした。
回された笑はふらふらとしながらも満面の笑みのまま徹子に抱きつく。
大阪の文化に貢献した笹野かじか、道州制時代から大阪を支えてきた橋下鉄はお笑いと政治という舞台の違いはあれど、大阪を盛り上げようとする気概をお互いは認め合い、やがて将来を語り合う良き友になり、切磋琢磨しあうライバルにもなった。
そんな大きな存在である二人を、小さいころから見てきた幼馴染の笑と徹子もああいう大人になりたいと常々話していた。
まだ小学生になりたての笑にとって、高校生とはいえ当時から他よりも大人びていた徹子は頼れるお姉さんという憧れの対象として映っていた。
東京大決戦が終わってすぐ、大阪は国として独立し、新しい体制に大人たちはごたごたとしていたが、まだ子どもである二人にはいまいち実感は無かった。
ご当地色は強まったものの、相変わらず大阪は笑いで満ちている。
その笑いの根元にいるかじか。
その大阪をより良きものにしようと奮闘する鉄。
そんな情熱ある人のいる国で生まれたことに、彼女たちは誇りを持っていた。
わたしはこの国が好きだ。いつか父のように、いや父を越えてこの国を盛り上げていこう。
まだ小さいながらも徹子はそう思っていた。
「浴衣、似合ってるで」
「えへへ~」
着付けてもらったのだろう。可愛らしい花柄模様がアクセントの黄色い浴衣は笑によく似合っていた。祭りでなにか食べてきたのか、ソースの匂いが少し漂ってきた。
対する徹子は放課後に祭りに参加したため、高校の制服のままだった。それに浴衣だとかそういうのは合わないとして、私服でさえ飾りっ気の無いものを選んでいた。
「ねえねえ、ほら!」
笑は懐からなにか輝くものを掲げた。
「
笑が取り出したハート型のピンク石は、少し前に徹子の手元に落ちてきたものだった。
不思議と淡く光るそれを、加工でもして何かに飾りつけようかと思っていたが、徹子は笑に譲った。欲しそうに目を輝かせていたし、それにこういうのは笑のほうが似合う。
事実、それを宝物である小さな王冠に装飾して乗っけた笑の姿は違和感無く、むしろその愛らしさに磨きがかかった。
「んーん、これね、さっき落ちてきてん。こっちが笑石!」
笑は頭の王冠を指差した。確かにそこには徹子が渡した石が飾られたままだ。
「これ、徹子ちゃんにあげる!」
「ええの?」
「うちには徹子ちゃんにもらった笑石があるし、これでお揃い!」
にかっと笑う笑が差し出した石を快く受け取る。
空に掲げるときらきらと輝いていて、夜に映えた。
「おおきにな」
にこりと笑って返す徹子につられて、笑も笑顔で返す。
「名前どうしよか」
「笑石じゃあかんの?」
「あかんあかん。これだって徹子ちゃんが名前つけてくれたんやから、今度はうちがつける!」
そう言うなりむむむと悩む笑を徹子は眺めた。
『笑石』という名前は、石を渡したときに徹子がつけた名前だ。
かじかに憧れ、自らも芸人になろうとする笑の夢を応援するために、そしてその夢を持ち続けられるようにと。
その笑がいまは徹子のために真剣に悩んでいる。
愛想はいいほうじゃないし、目つきは生まれつき悪い。そのクールさに魅力を感じつつも、高嶺の花だと思って言い寄ってくる男どもはいない。
そんな自分をこんなに慕ってくれていることに、徹子は嬉しさを感じていた。
「えーと、えと、あれ、いつも言うてるやつ……」
「『信念を持って』?」
「それ!」
自分の信じたことを貫く。『信念を持って』というのは父である鉄の口癖だった。
たとえ周りに間違っていると言われても、自分が正しいと思うならそれを強い意志で貫き通せ。
父はそれを言い続け、いつの間にか徹子に移ってしまい、徹子自身の口癖にもなってしまった。
「信念、石……えーと……いしん……『いしん』!」
はっとして人差し指を立てた笑は得意げそうに胸を張った。
「いしん…………うん、気に入った。これの名前はいしんや」
いかにも幼い子どもが考える安直な名前だった。言葉が上手くかかってるともいえない。
だけど、その名前が妙に気に入った徹子はにこりと笑って、それを握った。
どん、と大きな音が響き、身体を震わせる。遠くで花火大会が始まったのだ。
笑は手を差し伸べてきた。その手を取り、徹子たちは騒がしい祭りの中へと戻っていった。
見える景色がぼうっとしている。ついでに頭も働いていないようだ。
うちは何をしてたんやったっけ?
ああ、そうや。徹子ちゃんにまたやられたんや。
意識がはっきりしてきたと同時、がばっと起き上がる。
「にゃ~ん」
身体に乗っている、聞き慣れた鳴き声の主と目が合った。ハンネコだ。
覗き込んでくるつぶらな瞳を認識するとともに、ここがどこかもわかった。
猫カフェ『阪神猫』だ。
有名店でもあると同時にお笑いフラワーズの隠れ家でもあるここは笑のもうひとつの家でもある。
「おう、起きたんか笑ちゃん」
「おっちゃん」
擦り寄ってきた虎、カミトラの頭をなでているとキッチンから店主が現れた。
いつも豪快に笑うおっちゃんも表には出してないがお笑いフラワーズの一員であり、公私ともに笑の助けとなっている。
「倒れた笑ちゃんを、所沢……やったかな? そこから来た観光客に運んでもろたんや」
きょろきょろと見渡しても、見知らぬ顔はない。
観光に来たのだろうか、その少女四人組は笑を運んで腹を満たした後、店主が勧めたナンバーフラワー劇場に足を向けたらしい。
本当なら、大阪の文化と自由を守るお笑いフラワーズ副団長として、礼もかねて劇場や食事処を案内したかったが今は時期が悪い。
お笑いフラワーズと大阪レボリューションズの対立は激化の一途をたどっている。両団員が顔を合わせれば喧嘩、らんちき騒ぎが起きる。最近ではそのせいで観光客もゆるゆると右肩下がりだ。
「お父ちゃんには!?」
「言うてない言うてない」
当然、というふうに店主が腕を振る。
笑がモサだということを父である笹野かじかは知っている。しかしだからといって、ことあるごとに徹子と衝突して怪我をしているというのは知られたくないことだった。
どうせお父ちゃんは心配せずに叱ってくる。
お笑い芸人を目指す。幼いながらも夢を伝えたあの日から、父は甘えを許さなかった。
この業界の厳しさを教えるためか、娘だからといってコネを使わせないという意志の表れか、怪獣とまで評されるほどの実力をもつかじかはとにかく笑へ干渉することを避けた。
それは奇しくも、徹子の態度が変わった頃と同時期でもあった。
「また徹子ちゃんとケンカしたんやて?」
笑はむすっと頬を膨らませた。
きっかけはお笑いフラワーズに所属するお笑いコンビ「地味障子」が行った路上お笑いライブだった。
大阪国では特殊な場所を除けば、お笑いライブをするのに許可を申し出る必要はない。
いままでも様々な芸人が路上で漫才やコントをし、テレビに出るまでになりあがった者だっている。
夢を目指して、お笑いフラワーズも内外で切磋琢磨していた。
そんなある日、大阪レボリューションズからとある決め事が発表された。
「お笑いフラワーズに所属しているお笑い芸人がナンバーフラワー劇場以外で芸事を行う場合、その日時と場所を明記し、申請すること。許可が下りなければ一切の芸事を行ってはいけない。」
当然この理不尽な通達に憤慨したものの、申請さえしっかりすれば芸ができるはずだと半ば無理やり納得し、数多くの申請を行った。
大阪レボリューションズはそれをことごとく蹴った。理由も知らせないまま。
「前からそうやったけど、最近はもっとめちゃくちゃや」
カミトラの背中に顎をのせ、笑はむーっと唸った。
東京大決戦のあと、とりわけ道州制崩壊のあと、大阪の地位向上を謳っておきながら橋下鉄が行った取り決めはほとんどがお笑いを衰退させるものだった。
最近では明らかにお笑いフラワーズに対する当たりがきつく、笹野かじかがいなければ簡単に潰されてしまっただろう。
「ハンネコ!カミトラ!」
笑は立ち上がって、壁に立てかけられていた巨大ハリセンを背中に戻した。
呼ばれた二匹は扉に向かう笑の後ろをのっそりとついていく。
「どこ行くんや?」
「劇場!」
ナンバーフラワー劇場。
八九一人を収容できる巨大な劇場であるそこは、三六五日毎日朝から夜まで漫才、落語、コント劇が公演されている。
観覧前に適度な緊張を持ったままリラックスできるよう常に綺麗に保たれているロビーでは、客だけでなく芸人も含めてたくさんの人で賑わっている。
笑顔で言葉を交わすその様子だけ見れば、自警団の対立など微塵も感じさせない。
「すごい賑わってるね」
「これじゃ入れないなぁ」
その様子を劇場の入口で眺めながら、望未と逢衣は感嘆のため息を漏らした。
ちょうどコント劇が終わったところで、出る人と入る人でロビーはぎゅうぎゅう詰め。
「前の週くらいじゃないとチケットは手に入らないみたいですし、どちらにせよ観ることは出来ないみたいですね」
「なんだ、残念」
通りすがりの人の話を聞いた結季奈が言うと、逢衣ががっくりと肩を下ろし、ため息をつく。
おすすめといえば? と聞けば、あの店主やお笑いフラワーズが即答で答えたこの劇場に期待が膨らんでいたのだ。それに、親世代が絶賛していた伝説のお笑い芸人笹野かじかを見たみたいという面もあった。
しかたない。残念ではあるが、ごはんも食べたことだし、最後の依頼場所である広島まで急ごう。そう思った矢先だった。
「うっわ、すっげぇ人だかり」
逢衣が指さしたのは、客でいっぱいの劇場出入口とは別、関係者入口へ入ろうとしている二人の男だった。
「ファーッハッハッハッハ!
「いやいや兄さんには敵いませんわ」
「そんなこと……あるけどな!」
甲高い笑い声を上げながら、ご自慢の白い出っ歯を煌めかせるのは、あの笹野かじかである。
そのすぐ後ろをにこにことついていっているのはお笑いコンビ「地味障子」の村上だ。
二人ともお笑い芸人としても、自警団お笑いフラワーズの一員としても相当な有名人であるはずなのに、シャツにジーパンという出で立ちからは仰々しいオーラが感じられない。だがそれは決して凡庸というわけではなく、輝きを見せながらも親しみやすいという印象を与える。
現に、二人が出てくるのに気づいた群衆も、臆することなく話しかけたり写真を撮ったりしている。かじかと村上もそれに笑顔で応え、さらには客のボケにツッコむ、ギャグを見せるなどのサービスもしていた。
「笹野かじかさん」
大きいわけでもないのにやたらと通るその声に、先ほどまでの楽しい雰囲気はどこへやら、ピリッとした空気が漂い始める。
橋下徹子がそこにいた。
お笑いフラワーズの団員、そして劇場の客が徹子をにらむ。多勢に無勢にもかかわらず、その目は揺らぐことがなく、かじかを見据えていた。
「あなたが団長を務めるお笑いフラワーズについてご相談に参りました」
「相談? これだけこじれて今さら話することなんてあらへんやろ。それより君もこっち来て楽しんだほうがいいで徹子ちゃん」
亀裂の入った雰囲気はそのままに、なおも笑顔を崩すことなくかじかは答える。
「いえ、私は大阪レボリューションズの副団長という立場を投げる気はありません」
「『投げる気はありません』? 『投げる訳にはいきません』の間違いやないか?」
「内容は……」
一瞬、徹子は苦虫を噛み潰したような顔を見せ、ごまかすように懐から出した一枚の紙きれを掲げた。
「ここに全て書いてあります。以前あなたたちが拒否した内容とそう変わりませんが」
「へえ……それやったら、答えもわかってるんやないか?」
「以前の申し出を拒否するというのであれば、仕方ありません」
徹子は懐にしまい、別の紙を取り出した。
それを放つと、紙はひゅっと飛んでいき、すでに構えていたかじかの手に収まった。
かじかは眉をひそめてそれをまじまじと見る。お笑いフラワーズが大阪の品位をうんぬん、今後の治安をうんぬん、いろいろ御託を並べてはいるがつまり、「ツインタワー宣言」による自警団同士での決闘の申し込みだ。
「それにサインしてください。この状況に決着をつけましょう」
「これ、鉄がやれ言うたんか?」
「……いいえ、私の独断です」
それを聞いた瞬間、かじかはその決闘書をそのまま放り返した。
徹子が放った以上の速さで紙は返ってくる。目にも止まらぬそれを、徹子はなんとか受け取る。風圧で前髪がふわっと揺れ動いた。
「それなら受けれんわ。ツインタワー宣言はあくまで『両自警団の代表者』を対象としてるはずや」
突き放すように口を開いたかじかの言うとおりだった。
モサであろうとも、徹子は大阪レボリューションの代表者でなく、そしてお笑いフラワーズの代表者であるかじかが拒んでいる以上、決闘書の効力は無いに等しい。
折れそうなほど歯を食いしばり、ぐっと手を握った。紙はくしゃくしゃになり、眉間にしわがよる。
「でも……」
「でもやあらへん。それに徹子ちゃんを巻き込みたくないんや」
それでも私は……っ。
昔から変わらないような、かじかの優しい言葉を受けて、徹子の歯にますます力がこもる。
無力なこどもに見られているような気がして、そして自らもそれを認めてしまいそうになり、徹子は首を振る。
「また来ます」
ようやく喉を振り絞ってそう言った。
うつむいたまま、モサの影も無く去っていく徹子を見送り、かじかもその場を去る。
望未たち一行を含めた、残された面々はこの場で繰り広げられたピリピリとした小さな争いにあっけに取られながらも、さすがは劇場前、しだいにその活気を取り戻していった。
「なんだったんでしょう……」
結季奈が唖然とつぶやく。
目の前で繰り広げられた論争は、彼女らにとってまったく意味のわからないものだった。
自警団同士の争いというのを見るのは初めてではない。だが、大阪国の人たちだってあの自警団同士の対立が何を意味しているのかわかっていないのだ。
「あー、おった!」
口を開いて立ちすくんでいた望未たちの耳に、つんざくほどの大きな声が響いた。
びくっとして振り向くと、望未たちを指さしていたのは笑だった。
ハンネコとカミトラを従えて、にこっと笑って駆け寄ってくる笑に、ぽかんとする四人。
「笑ちゃん……だっけ?」
訊いてくる望未に、勢いよく頭を縦に振って答える笑。
そのあと大げさにはっとして、深々と頭を下げる。
「うちを店に運んでくれたみたいで……どうもありがとうございました」
「いーのいーの、ごちそうになったし」
逢衣が手を軽く振りながら答える。笑を運んだお礼として、あれだけの量いただいたのにも関わらず、店主はタダにしてくれたのだ。
自警団の人に連れられて、半ば強引だったけど……という言葉を飲み込んで、望未は目の前の少女を見た。
歳のころは自分と同じか少し下くらいだろうか。可愛らしい顔にふわっとしたショートボブの髪。快活な印象を与えながらも、反面落ち着いた雰囲気が見える。言ってはなんだが、イメージする「大阪の感じ」とはすこし離れた印象を受けた。
あの橋下徹子というモサも、笑とは別の意味で大阪らしくなかった。
「お礼として、いろいろ案内しようと思てるんですけど、どないですか?」
「えーと……」
カミトラはいつの間にか、喉をごろごろと鳴らしながら、千綾に撫でられるままになっている。
その様子を恐々と見ながら、望未は口ごもる。
提案は魅力的なものだったが、腹を満たすことのできたいまは一刻も早く先に進みたい気持ちでいっぱいだった。
マッチャグリーンの代わりとしての最後の依頼、広島まではまだまだ遠い。
手紙には、事情はこっちで話すからとにかく早く来てくれとしか書かれていない。それに、これまでの道のりでも時間がかかりすぎているのだ。それらが望未の焦りに拍車をかけていた。
「いーじゃんいーじゃん、せっかく言ってくれてるんだからさ」
もごもごする望未の思いを一蹴するかのように、逢衣が言った。わしゃわしゃと、半ば乱暴にハンネコを撫でながらにかっと望未を見る。
そう言ってしまえば、好意を無駄にするのも悪い。千綾もこの国やカミトラに興味津々だし、普通なら触れることのできない虎をおそるおそる触る結季奈もどことなく楽しそうだ。
それになんだか引っかかりを感じて、首を横に振ることができないのも事実。
案内したくて仕方ない、とうずうずしている笑を見て、ついに望未は頷いた。