酷い雨だった。
行きかう人の服装すべてが黒一色の光景は笑にとって初めての経験だった。
大阪はいつも色とりどりに彩られているし、光っている。そんな国をいつも闊歩している笑にとって、この状況は異様そのものだったが、人々の表情や雰囲気からして、いつもの元気な声を上げる場所と時間ではないことくらいは察せられた。
まだ成長途中の笑の隣に佇む徹子は無表情だった。
ただの無表情なら、笑にもその感情が理解できた。
だが今この時に限っては、笑には徹子が何を思い、何を考えているのかが一片として掴めない。
例えば少しでも目が潤んでいたら。例えば少しでも歯噛みしていたら。
悔しさや怒りといった負の感情でもとらえることができたら、何かしらの言葉、一単語だけでも声をかけることができたはずだ。
喜びや嬉しさを感じていることは全くないだろうということがわかっていても、見たことのない徹子の感情に、笑は黙るしかなかった。
こんな時でなければ、徹子のスーツ姿に憧れ、かっこいいとはしゃいでいただろう。
この歳ならば、まだスーツに着られているという印象を持たれても仕方ないのだが、徹子はぴっしりとそれを着こなしていた。
それ―喪服―が似合うと言われても、当の徹子は喜びはしないだろうが。
「大変やね、徹子ちゃん」
すっと現れたのは、かじかだ。舞台に出るときの着物でもなければ、いつもの親しみやすい私服でもない。
笑ですらめったに見ない黒い礼服に真剣なまなざしは、一見すれば別人に見えるほどだ。
芸人「笹野かじか」ではなく、笑の父親、そして鉄の親友「杉田
「いえ、お父ちゃんのほうが大変ですので、今は私がしっかりせえへんと」
喉に何かが詰まっているような声で徹子は答える。
身体を濡らさないように開かれた黒い傘を傾けて、目元を隠す。
「こういう時には強がらんくてもええんやで。何か問題があったら……なくてもええけど、いつでも呼んでくれな。すぐすっ飛んでいくから」
「ありがとうございます」
それ以上かじかは何も言わずに笑の頭をぽんぽんと叩き、連れ出す。
笑は何も言えずに、ただ徹子の震える身体を遠くに見ることしかできなかった。
徹子の母、つまり鉄の妻である
通天閣のロボット化を巡る戦いのなか、翠も最前線を張る一人だった。
結婚する前から剛腕を振るい、子どもが出来ても退く気もない彼女を、鉄も頼っていた。
その翠が過労で倒れたと聞いた時にはもう遅く、鉄が翠の最期の言葉を聞く前に、彼女はこの世を去ってしまった。
絶え間なく続く戦いに、じわじわと翠が追い詰められていたのにも関わらず、そんな素振りはまったく見せなかった。
夫である鉄でさえ、気づけなかった。
そのことが鉄を失意のどん底へと突き落とした。
最愛の妻である翠の死を悔やみ、彼女が蝕まれていることに気づけなかった自分を恨んだ。
そして生まれた負の感情はやがて、過労の原因である通天閣ロボを巡る戦い、さらには大阪全体までに広がるまでに至った。
結果、通天閣ロボが完成してしまったことが、鉄をさらにみじめったらしくした。
あれだけかけた多大な労力も時間も、なにより翠の死も結局意味のないものになってしまった。
それが鉄を暴挙へと駆り立てたのだ。
もちろん、傷を負ったのは鉄だけではない。娘である徹子も深く悩まされることになった。
母の死を体験するにはまだとても早かった彼女が感じたのは、底知れない絶望と解消されない不安だった。
大阪を恨みつつ、大阪をあるべき姿に戻そうとする父のがむしゃらぶりは、徹子の目には頼もしく、そしていまにも崩れそうなものに映った。
父には支えがいるのだ。母のような、彼に匹敵して彼に頼られるような助けが。
徹子はモサになってからは特に、彼女は自分の時間というものを持たずに、その力のほとんどを自警団の活動に費やした。
そうじゃないと、父がいなくなるような気がして耐えられなかった。たった一人で置いていかれるのがたまらなく怖かった。
思えば、徹子の「信念」というものはこの頃から無くなっていたのかもしれない。
口に出して、それがあたかも存在して、それのために仕事をしているのだと言い聞かせてきたのかもしれない。
歳をとって仕事ができるようになったと思っても、まだまだ子どもなのだ。
自分の行動に責任が持てない子ども。自分の行動がどういう結果を生むのかわからない子ども。
笑の涙を見るまで、それに気づかなかった。
いや、気づかないふりをしていたのだ。
父が正しいと思い、父に尽くすという大義名分を盾にして、徹子は戦った。それが大阪のためになると、笑のためになると思った。
だが、負が抽出されたようなあの涙を見せられて、徹子は何もかもがわからなくなった。
大阪のためになることを本当に考え、尽くすことのできる力が彼女にはあった。だけどもそれをしなかったせいで親友とも家族とも呼べる笑を追い詰めてしまった。
何かをしなければならない。今からでも、この狂った世界に対して何かを。
でも、その方法が彼女にはわからなかった。
「聞いてんのか、徹子?」
自分を呼ぶ鉄の声に、びくっと飛び上がってしまった。
染みついてしまった姿勢は拭えずにこびりついている。
「私は……」
鉄の眉がぴくりと動く。たった数ミリの動作に怯えてしまった。
「いえ、なんでも……」
断るでも頷くでもなく、もごもごと答える。
「失礼します」
団員が入ってきて、一礼。
徹子に小さな封筒を渡したかと思うと、すぐさま去っていった。
悲しいことに、こんな光景ももう慣れてしまった。
鉄がこんなことになる前は、よく世間話をして、仕事中にも関わらず大笑いしたものだ。この部屋にもたくさん机があり、団員全員の距離が近かった。
「今日もしっかり頼んだで」
その言葉から逃げるように部屋を出て、イヤホンを手に取る。そこについている石に、昔のような輝きはないように思えた。笑と夢を語り合ったときの、あの輝きが。
大きくため息をついて、渡された封筒をあらためる。中にはたった一枚の紙が入っていた。
体力の続く限り走って、笑はその場にへたりこんで手で顔を覆った。
口から漏れるのは、嗚咽だか悲鳴だかわからない。自分がどこにいるのかもわからない。
わかるのは、ただ涙を流しているということだけだった。
徹子と敵対関係になってから何年も経つ。
だがしかし、直接的な言葉を言われたのは初めてだった。
――友達なんかじゃ……っ
思い出すと、その言葉が反響しては笑を傷つける。
親友でもあり、姉のように慕っていた徹子が言ってしまった言葉を信じたくはなかった。
だから今まで突っかかっていったのだ。徹子の真意を探るために、徹子との繋がりがあると信じるために。
「もう嫌や……もういややぁ……」
父にも徹子にも否定され、笑のよりどころは無くなっていた。
夢は所詮夢だったのだ。
団を抜けて、いや、大阪を出ても誰も気にしない。
笑は頭に乗せた小さな王冠を手にした。それに飾られた笑石に、涙がぽたりと落ちた。
綺麗な光を放っているはずのそれは、視界が滲んでいるいまは濁って見えた。
「こんなもん!」
地面に叩きつけるか、そこらへんに放り投げてでもしてしまえば、溜飲も下がる。この国の未練、笑の夢の未練もなくなる。
手を握りしめ、思い切って腕を振り上げたそのときだった。
「笑ちゃん!」
望未たちだった。そこの傍らにはハンネコとカミトラ。
大阪の地理に詳しくないはずのよそ者がなぜ自分を見つけられたのか、笑は困惑した。
「なんで……」
「この子が教えてくれたの」
千綾はカミトラを撫でながらそう言った。
その言葉で笑は周りを見渡し、自分がどこにいるのかようやく気付いた。昔、徹子に石を渡した場所。道頓堀川の船着き場だ。
徹子のお気に入りの場所に、いつのまにか無意識に来ていたのだ。
足元にすり寄ってきたハンネコとカミトラを撫でる。
逃げた笑の行方を追うために、この二匹の協力を得たのだ。もっとも、二匹の言葉がわかるというのは千綾の話で、望未たち三人はその後を追いかけるだけだったが。
「もう……ええねん」
「え?」
俯く笑の顔には、望未たちを観光案内していたときの快活さ、徹子と対面していたときの頼もしさは影もなかった。
「もううちのことはええから……」
「よくない!」
望未は声を張り上げた。
「よくないよ……仲違いしたまんまなんて」
「関係ないやろ!」
「関係……はないかもしれないけど! そんなの寂しいよ!」
もとは空腹で立ち寄っただけの行きずりの旅人だ。だが、姉妹のように育った彼女たちのことを放っておくなんて、もはや考えられなかった。
ここに来たのが望未たちでなく、真茶未だったとしても、きっと同じことを言っただろう。
微妙な空気に、結季奈は思わず目をそらしてしまう。その先に、見知った人影が立っていた。
「あ……」
徹子だ。その手には一枚の紙が握られていた。
すぐに道頓堀川の橋に来るようにと書かれたそれを、徹子はスーツの内ポケットにしまう。
嫌な予感はしていた。わざわざこの橋を指定してきたという時点で、笑の顔が横切ったのだ。
それでもここに赴いたのは、徹子もまた、彼女の持つ夢を捨てきれないからだ。
「来てくださったんですね」
言ったのは、結季奈だった。
大阪レボリューションズの団員に封筒を手渡したのは、彼女だ。もちろん一人ではたどり着けないだろうからと、千綾が引っ張っていったのだが。
徹子が直接案内し、自分の部屋に入れたことは団員の知るところ。おかげで警戒も薄れていた。
これを見た徹子が来るかどうかは賭けではあったが、結季奈と千綾は確信していた。隠すことのできない未練が見えたからだ。
二人で動こうとしない徹子を無理やり引っ張り、笑の目の前まで連れてくる。
「……」
無言。
笑と徹子、相向かう二人を流れるのは数年分のわだかまり、怒り、悔しさ。
それだけではない。反省と親愛と慈しみも。
願うことなら今すぐ抱きしめて、長い年月が作り出したものを取っ払ってしまいたい。
だけど手が動かなかった。
伸ばしてしまえばすぐ。その数十センチが遠すぎて、見えない厚い壁があるような気がして、動けない。
進むことも退くこともできずに、ただその場で固まる。
近づくのが怖すぎる。
もしも。もしも拒絶されたら?
二人の間には、長い年月が作り出した無限にも思える距離と恐怖があったが、それはあっさりとゼロになった。
「これで!」
望未が笑の、千綾が徹子の手をとって無理やり合わせた。
一瞬、何が何やらわからずに、二人は口をぽかんと開ける
「仲直りです!」
「あ……」
先に口を開いたのは笑だった。
だが何を喋るでもなくぽろぽろと涙を流し、頬を濡らす。望未と千綾が離した後も、二人は繋がれた手は決して離さないように強く握りしめた。気づけば、徹子もまったく同じ涙を流していた。
言いたいことはたくさんあった。
あるいは罵倒、あるいは賛辞、慰め、励まし。世間話でもいい。中身のない話でも。
会ったら言ってやろうとしていた言葉が、仲直りしたら言いたかった言葉が心の中で反響する。頭がぐちゃぐちゃになって、何を言うべきかが自分でもわからなくなっていた。
徹子は身体の内が熱くなって、笑をぎゅうっと強く抱きしめた。
「ごめん。ごめんな、笑」
嗚咽混じりの臆病な声が徹子から漏れる。
ずっと避けていたことだったが、杉田笑の親友橋下徹子として、どうしても伝えなくちゃいけないことだった。
「う、あ……あああぁぁ……!」
笑が聞き逃すはずもなく、その徹子の告白を聞いた瞬間に涙が溢れてきた。