一先ず推敲に推敲を重ねて、ようやく出せるレベルにはなったと思いますが、なんか違うと思われたら些細なことでもお気軽に言ってください。
――随分と規則的な鳴き声が、どこからか聞こえてくる。
自分の眠気はその鳴き声のリズムに合わせて次第に晴れて行き、意識が徐々に浮上し始める。そうして靄がかかった視界を何度か目を瞬かせ、見慣れてきた天井をぼんやりと眺め、覚醒するまでの僅かな時間を過ごす。
現状を確認できるくらいに意識が覚醒し始めると、まず初めに行ったのは布団から出ることだ。寝起きの所為か、少しだけ重く感じる毛布と布団を左手で押しのけ、若干の反動をつけて上半身を持ち上げる。そのまま無意識に空いた右手を口の前に持っていき、残っていた眠気を乗せた欠伸を一つ零して目元の雫を払い、周りを確かめる。
とはいっても、そこにあるのは就寝前と変わらぬ景色。前方へ詰められた机と椅子。奥の方の少しだけ開けられた窓の前にあるイスに掛けられた二枚のバスタオル。碌に使われることのないメモ書き扱いの黒板。既に一週間を越え、先ほどの天井と同様に見慣れ始めた景色ではあるが、殺風景さが災いしてこの頃はマイルームにいること自体退屈になってきている。娯楽がないのは別に構わないが、見栄えが無いのは憩いの場としても宜しくない。
今度財布に余裕がある時に、観葉植物か何かを買おうと心に留めておき、ふと心地よい風が首筋を撫でるのを感じた。一瞬のことだったから気のせいか、と思いながらも出所を探し、それが僅かに開けられていた窓からだと分かるとすぐさまそちらに足を向けて、控えめに開いてた窓を大きく開ける。そして自分は思わず、息を漏らした。
外からやって来たのは、眩しいというほど強くなく、暗いと言うほど弱くない朝日と、少しひんやりとした、それでいて慰撫するかのような穏やかな風。例えるなら……夏の早朝頃の山の空気とでも言うべきだろうか。自分は山になど行ったことが無いため、完全に想像によるものだが、その心地よさにしばし放心してしまう。
――ムーンセルには基本的に晴れの天気しか存在しない。だが、その晴れにも微妙に違いがあることに最近気づき始めた。朝早くから冷たい風が吹き付けるような時もあれば、霧で靄がかかっている時もある。これもまた以前凛から聞いた、飽きさせないための措置なのだろうか。
などと、どうでもいいことを考えながら今日の空気を強く求めて窓から身を乗り出し、それを全身で堪能しながら深呼吸をすると、吸い込んだ新鮮な空気が自分の体内に行き渡るのを感じて、知らずその身を震わせる。
そのあまりに澄んだ空気から、今いるのは都会風の学園ではなく
そんな風に外の空気を心行くまで堪能していると、数メートルほど離れたところから何かがもぞもぞと動く音がして、思わず身を固くする。おそらく式だろう。窓から部屋に流れ込む風の所為か、単なる時間経過の所為かは分からないが、目が覚めたのだろう。
普段ならなんてことないことなのだが、こと今日の自分に限って言えばそれは今後に関わる重要な分岐点のようなものであり、選択次第で事態は悪化することになる。勝負となるのは第一印象。失敗は許されないことを認識し、固唾を呑み覚悟を決めて式に向き直る。
振り返ると、式は寝転がっていた敷布団に正座をやや崩したように座りながら自分の服装の乱れを正していた。そのままその様子を眺めていると、こちらの視線に気づいた式はやや見上げるように顔を向けて不機嫌そうに柳眉を逆立て、責めるように睨みつけてくる。そのあからさまな威嚇に、少しだけ怯みそうになる。しかしここで怖気づくわけにはいかず、丹田のあたりに力を込めて堪える。
そして小さく一息ついて、強張る体から力を抜いて緊張を解して式に一言、
――おはよう、式。
誰もが聞いたことはある、ごく自然な挨拶。なるべく刺激をしないように穏やかな笑みを浮かべて言葉も短く、簡潔に話しかける。一先ずこれで様子を見ようと返事を待つが――、
「……………………」
――一向に返事は来ない。式は相変わらずの不機嫌顔でこちらを見据えたままで一切の反応なく、聞いていたのかすら怪しいほどだ。しかし式は耳が悪いわけでは無く、自分も聞こえないほど小さな声で言ったつもりはない。
つまるところ、現在式は自分と会話すらしたくないほどに怒っているのだろう。若干、空気を重く感じ始めた。
……予想していなかったわけでは無いが、それが現実となってしまったことで、かなりのショックを受ける。思わず膝から崩れ落ちそうになるが、窓にもたれ掛かることで何とかそれを防ぐ。一先ず深呼吸をして気持ちを入れ替え、しっかりと現状に向き合う。
最初に現状の再認だが、式が怒っている理由はやはり昨日の件――主に藤乃のことで間違いはないだろう。だが、腑に落ちない。良いか悪いかで聞かれれば、悪いほうに天秤は傾くのだろうが、それでもこれほどまでに式が怒る理由になるのだろうか、という疑問が頭から離れない。
敵と言える藤乃と何時間も話していたのは、確かに褒められたことではない。しかし敵というなら凛だって一応そうなるが、これまで一緒に食事をしたり雑談を交わしたりしたが、それを咎められた覚えはない。いや、正確には一昨日あるのだが、あれはノーカウント……でいいはずだ。式だって本気で怒っていたわけでは無いと思う。
となればやはり、元々式の中で溜まっていた
しかしその問題が分かっていないのも現状。今真っ先にやることは、やはり式の悩みを解消することだろう。こういうことはきっと凛や橙子さんの方が得意なのだろうが、他人任せで解決しても意味が無い。
時の流れに任せる、というのはもっとない。それは解決ではなく、問題からの逃避でしかないからだ。そのやり方では、式の悩みは結局解消されないし、何よりこれは自分の力で解決しなければ、きっと自分と式の関係は戻らない気がする。
だから自分はここで立ち止まるわけにはいかない。ここは積極的に会話を図るべきだろう。
そういうわけで、色々と話題を振ってみたわけではあるが――、
――思えば、こんなに早く起きたのは初めてじゃないかな。
「……」
――今日はどんな感じに過ごす?
「……」
――えーと、式?
「……」
――この様である。どうやら式にとって昨日のことは、想像以上に
これはまずい。非常にまずい。まずこのままでは日常的なコミュニケーションが不可能だし、自分が貢献していたなどと厚かましいことを言うつもりはさらさらないが、サーヴァントを相手取るのは式一人では無理だ。
ライダーとの最初の戦闘では、基礎能力の格差で終始押され続けの惨敗。
二度目の戦闘も、互角程度の戦いができていたがそれでも大きな負傷は免れなかった。
そして決戦場でこそ勝利したものの、肝を冷やすことは何度もあった。
この聖杯戦争、主役は確かにサーヴァントだが、それを支えるマスターの存在も必要不可欠だ。司令塔としては勿論、サポート役としてサーヴァントの回復や能力の強化、そして敵サーヴァントの妨害など。特に回復なんかは肝心要なことで、戦闘を繰り広げるサーヴァント達にそんな余裕はない。それに能力強化も、サーヴァントごとにステータスにばらつきがあり、その差を補い戦況を有利に運ぶためにもそれが可能なマスターは重要だ。
特にダン・ブラックモアは自分たちより格上の存在。万全を期して挑んでも勝てる可能性は低い。つまり何が言いたいかというと、協力しないと勝利はないのだ。
故に、無いだろうとは思うが式が一人で先走ったり、こちらの
とはいえ、自分たちの日常会話はそこまで多くなく、また自分たちの関係もまだ一週間程度。式の趣味嗜好に関しては碌に知らないし、式もまた同様。自分たちの共通事項は精々年が近いということと、和の雰囲気が気に入っているということくらいに過ぎない。
これは生死を共にする関係にしては、やや繋がりが薄いと言えるのではないのだろうか。ちょうどいいし、ここらで様々な話題を振って式の興味を探ってみるとしよう。
そう思い、口を開く――直前に『く~』という、気の抜けた音が静寂に満ちていた空間に響き、室内にあった重い空気が弛緩する。
出所はすぐに分かった。何しろ、自分が視線を向けていた先だったからだ。
要するに――出所は式だ。もっと正確に言えば、式のお腹のあたり。
そのまま何をするのでもなく、ただじっと見つめていると、式は紅潮した頬を隠すように再びそっぽを向いてしまう。
思えば昨日、自分たちが最後に食事をしたのは昼ごろで、夜は式は紅茶を一杯で、自分に到ってはそれすら口にしていない。
それを思い出すと、自分も空腹を意識し始め、思わず腹部を手で押さえる。
――……朝食、食べようか。
「……」
ぽつりと囁くような、自分の小さな声が部屋中に響き渡って数秒後、式は遠慮がちに首を上下に振った。
……これで一先ず冷戦のような緊張感のある時間は、終わりを告げた。
※※※
――暗いな……。
「ええ……」
一先ず腹ごしらえとして購買へとやって来たわけだが、購買に流れる空気の異質さにやや意気消沈してしまう。異質、といっても先日アリーナで感じたような、ああいった明らかに害意が感じられるものではない。ただ単純に、この一週間で慣れ親しんだ空気と真逆の性質の空気が流れていることが、あまりにも異常に思えたからだ。
これまで自分がこの購買で感じていた空気は、碌に人がいない昨日を除けば常に和気藹々とした、学生らしい雰囲気だった。
しかし今の空気は重苦しく、会話などどこにもなく、ただ食器が重なり合う音ばかりが響き渡っているだけで、まるでお通夜のような雰囲気だ。
今までが今までだったので、この空気には違和感しか感じられない。それは式も同様で、この様子にはやや困惑した面持ちだった。
しかしそんな状況下でも、腹の虫は敏感に食物の臭いを嗅ぎ取り、急かすように空腹感を呼び起こす。それにやや苦笑しながらも食券を買い、席を探す。いつもの手慣れた動きは、こんな重苦しい空気の中でも平素通りであった。ただいつもは返却口に近い席を探すが、今日はなるべく離れた場所に着く。
席に着くと式は割り箸を割り――割れ方が気に入らなかったのか、少しだけ眉を顰める。それに再度苦笑を零し、綺麗に割れていた自分の割り箸を差し出し、ややためらいがちであったが式はそれを手に取り、歪なそれをこちらに差し出す。
「それで、今日はどうするの?」
――ああ、今日は昨日同様お礼回りをしてからサーヴァントの情報を探ろうかと思う。
「情報? 昨日は特に目ぼしい情報は無かったと思うけど」
――いいや、小さいけど一つだけあったよ。
「……?」
こちらを見つめながら首をこてんと右に傾け、顎に手を当て考えるような仕草をするが、思い当たらないのか顔を段々と顰めていく。その仕草に可愛いな、と思いながらもそれを表情に出さないように自制する。どうやら式はさほど頭脳労働は向いていないらしい。
その様子をそのまま堪能していたい気分にもかられるが、正直この購買の空気には長く晒されていたくないので、名残惜しいが答えを教えることにする。
――昨日ダンが言っていただろう。『イチイの毒は不要』って。
「……ああ、そういえば言っていたわね。でもそれだけじゃあ情報としては弱くないかしら」
――まあ確かに。これだけじゃあ相手の真名に辿り着くことはないだろう。
式に情報の正体を教えてあげると、ようやく思い出したのか首を戻して視線を目の前の物――ご飯やみそ汁、漬物に卵焼きなどがある『朝食セット・和(210PPT)』に戻し、箸を動かしながら反論してくる。
式の言うとおり、イチイは世界中に広まったものでそれを毒として使用するのは珍しくもなんともない。これだけでは到底相手の情報を得ることは敵わないだろう。
だがこういう小さなところから情報とは探っていくものだし、それに毒を使ってくると分かればあらかじめ解毒剤を用意しておける。何にしろ、調べておいて損はないだろう。
「それもそうね。となれば、この後行くのは図書室?」
――ああいや、その前に――。
この後の予定を式に告げると、式は好悪が判断できない微妙そうな顔をした。
※※※
食事を終えてほんの数分後、やって来たのは清潔感溢れる白を基調とした部屋――保健室だ。窓から射す光は朝の淡い光ではなく、いつの間にかまばゆく照っており、モダンなテーブルクロスは目に優しい色合いをしている。
マイルーム以上にアットホームな雰囲気を持つこの保健室は、訪れる度に心を和ませてくれる、ムーンセル内における数少ない憩いの場だ。
そしてそんな保健室の主、間桐桜もまた他者を和ませてくれる掛替えのない存在である。
「先輩、式さん。お茶のお味は如何ですか?」
――ああ、とっても美味しいよ。持って来たお茶菓子にも合うし。
「ええ、本当に。こんなに美味しいのは初めて飲んだわ」
その言葉にお世辞はない。自分も式も、心からそう思えたのだ。
自分たちの手には、テーブルの反対側で満面の笑みを浮かべる桜が淹れてくれた緑茶と、自分が購買で買った小さな饅頭がある。どちらも良い物だが、特にお茶の方は碌に味を知らない自分でも最高の物だと判断できるほどに美味しく、心に染みわたるものだった。
――にしても悪かったね、桜。態々押しかけてしまって。
「いえ、気にしないでください。私も退屈していましたから」
そういえば自分は過去に二度、初日と藤乃を連れて来た時に保健室へとやってきたが、そこで桜以外の人と会ったことはないし、桜以外の人がいた痕跡を見つけたことが無い。まあ、保健室の利用目的はあくまで怪我の治療、サーヴァントの回復が各々で可能な以上、マスター自身が負傷しない無い限りこの場所を訪れることはないだろう。
些か寂しいとは思うが、人が訪れないということは負傷者がいないと言うことなので、そこだけ考えればいい事だとも思える。
だが、本当の殺し合いと分かった以上、これからはマスターを積極的に狙ってくるような、手段を選んでいられなくなる者も出てくる筈だ。主に暗殺に特化したアサシンと組んでいる者や、サーヴァント自身がそこまで強くないため奇策頼りの戦い方しか選べなくなった者たちが、これからは仕掛けてくることになるだろう。紛うことなく現時点で最底辺に位置する自分たちには無用な心がけだが、これからは格下相手でも気を抜くことはできないだろう。そして――校舎内でも。
アリーナでもそうだったが、実際に戦闘が始まって強制終了されるまでには僅かなタイムラグがある。そのことを考えるに、おそらく校舎内での戦闘でも止められるまではタイムラグがあるし、もし反応する間もなく、一瞬で片を付けられてしまえばどうしようもない。無論、それを防ぐために監督役がいるのだから、校舎内での場合はほとんど狙われることはないし、狙われるにしてもそれは五回戦以降になるだろう。
濃密な日々を過ごしていたが、聖杯戦争はまだまだ二回戦。こんな序盤でペナルティを受ける訳にもいかないだろうし、校舎内での戦闘は当分心配しなくてもいいだろう。
そうして思考を巡らせていると、ふと今の自分がアットホームからかけ離れていることに気づき、一度それらを頭の片隅へと追い遣り饅頭を口に含む。途端、中の餡の甘みが口に広がり、気持ちが解されていくような気分になる。
「そういえば先輩、聞きたいことがあるって言ってましたけど、なんだったんですか?」
そうして饅頭を堪能していると、不意に桜が新たな話題を挙げてきた。
――ああ、そうだったね。大したことじゃないんだけど……。
「いえ、それでもかまいません。さすがに特定のマスターに肩入れするような真似はできませんが、それ以外なら何でも言ってください」
やや曖昧な態度を取る自分と対照的に、何を聞かれても真剣に答えると、力の籠った瞳で告げる桜。その桜の姿に目は口ほどにものを言う、とはよく言ったものだと一人納得する。
喉の渇きを潤すために続けてお茶を飲むと、最初暖かかったお茶は少しだけ温くなっていた。どうやら自分は先ほどの思考に随分と時間を割いていたらしい。
聞きたいこと、というのは当初悪いと言って中々茶菓子を受け取ってくれなかった桜に対する建前のようなものだ。桜もそれは理解しているはず。それにその聞きたいこと先ほど式に話した『イチイの毒』に関すること。図書室でも調べられるので、重要度はさしてなかったりする。何より内容が若干なりとも聖杯戦争に関わることで、先ほど自省したこともあり、今は出したくないというのが正直な気持ちだ。
故に、聖杯戦争とは関係のない適当な事を聞いておくという選択肢も、なくはない。
むしろ、この空間のこの雰囲気を保ち続けたいのなら、そうしておくのが一番だ。
だが、建前と分かっていながらもこうして話題に上げたということは、桜は桜で自分の力になろうと思っているのだ。それはもしかしたらNPC、というかAIにとっては当たり前の考えであるのかもしれない。しかし、自分には彼女のこの真摯な瞳が、単なる義務感やルーチンワークから生まれた物とは思えない。
――自分の願いを取るか。
――桜の気持ちを取るか。
葛藤しつつも、決心して口を開く。
「実は――」
※※※
『イチイ、別名アララギ。果実は甘いが種は苦く、含まれているアルカロイドの一種タキシンは有毒。種を誤って飲み込むと呼吸困難で死に至る場合がある』
それが桜に聞いてことと、図書館で調べたイチイに関することを纏めた大まかな説明である。他にも色々とあるが、毒という面だけを掻い摘んでみればこんなところだろう。調べた事柄を端末のメモに纏め、手に持った分厚い本を元の位置に戻す。ちなみに付いて来ていた式はこの棚の書物から早々に手を引き、膝を曲げて向かいの棚に向かっている。
なお今自分が読んでいた本の棚は自然科学関連で、式が向かっている棚は小説関連、それも若年層――所謂自分たち向けのライトノベルというジャンルの物で、式やその中の一冊の表紙を、やや羨望が混ざった視線で見つめていた。その本は詳しくは知らないが、表紙から察するに日常のほのぼのとした学生生活などだと察する。
とりあえず、未だにこちらの調べ物が終わったことに気付かない式にその本を借りていくかどうかを尋ねてみると――本を借りる権利を持つのはマスターのみ。ちなみに期限はない。基本はデータなので、慎二みたいに正規の手続きを踏まずに本を取っていかない限り本は残ったままだ――鷹揚に首を横に振り、静かに断った。迷いのない行動だった。
そのまま式は未練などないようにあっさりと本を棚に戻して立ち上がると、自分の前に立ち、早足で扉に向かっていく。まるで逃げるかのように去っていく式に追随するように自分も早足に廊下へと出る。
すると誰かが窓を開けたのか、爽やかな風が廊下を吹き抜けていくのを感じた。陽気な暖かさを連れてきた風は式の髪を靡かせる程度に強いが、式自身は大して気にした様子はなく、素直に心地よさを堪能している。斯言う自分も式同様に陽気さのあまり、つい気が抜けてしまう。アリーナでないとはいえ、あまり褒められたことではないが偶にはいいだろう。それに先も言ったが、序盤から校舎内で仕掛けてくる者はいない筈だ。
そうして頬を緩ませながら目の前を歩く式へ視線を向けると――その先の、階段前で佇む少女とおもむろに視線が合い、その整った顔立ちに目を奪われ視線を外せず、互いに見つめ合っていると、あることに気づき僅かに若干驚きの声を洩らしてしまう。
ややカールのかかった紫の髪に、小麦色の肌と、それに合う胸元の緩いエキゾチックな白い薄い衣装。容姿から察するに彼女はエジプト辺りの出なのだろう。それは世界中のウィザードが集まるこのムーンセルならば、珍しくはあるが別段驚くことでもない。
自分が驚いたのは、少女の心の内が伽藍堂であったことだ。能面のように無表情で、瞳の奥にあるのは無機質な光だけ。おそらく、地上の一般的なNPCも、彼女のような面貌をしているのだろうと、そう思えるくらい彼女には人間性というものが欠如していた。
驚愕に顔を染めてしばらく眺めていると、着いて来ない自分を不審に思ったのか三歩程前の式が振り返り、少女がおもむろに歩き出すのが視界に映る。そのまま少女は自分の傍まで近づき、自分の身体もそれにつれて段々と身が強張ってくる。そして一歩半という短い距離を開けて、彼女はピタリと静止する。その動作すらも、どこか機械染みているように思えて若干の恐怖を感じる。
「――はじめまして。私はラニ。あなたと同様、聖杯を手に入れる使命を負った者」
その澄んだ鈴を転がすような声に僅かながらも感情が乗ったことで、ようやく彼女が同じ人間であると分かり安堵する。
「あなたを照らす星を、見ていました。他のマスターたちも同様に詠んだのですが、あなただけが……霞に隠れた存在」
星を詠む……占星術みたいなものだろうか。ムーンセルは月にあるのだし、その手の術者が星を読むには最適な場所だろう。聖杯戦争に集まっているのは自分や慎二みたいな一魔術師だけでなく、テロリストや王様、軍人など多才な者も多くいるのだから、そう言った術者が出てきても、これまた驚くことはない。
自分が
「では、改めて質問を。どうか答えてほしい。あなたは、何なのですか?」
故に、いまの自分にその問いに答えるべきことは一つ。
――岸波白野。いまはただ、聖杯戦争に参加する一マスターにすぎない。
言いよどむことなく、確固たる口調でそう告げる。自分の答えを聞き終えた彼女は、その言葉の意味を咀嚼し、理解するようにしばし目を閉じる。
「――つまり、いまのあなたは何者でもないと?」
――ああ。それで、君は何のために自分のことを知りたがるの?
「師は言いました。人形である私に、命を入れる者がいるのかを見よ、と。私は新たに
逡巡の躊躇いもなくすんなりと語り出したことに、やや呆気にとられる。
「師が言うのであれば、私は探さなければならない。人間というものの在り方を。そのために、私は多くの星を詠むのです」
――それが、自分だと?
「それはまだ分かりません。ですが、あなたは少し他のマスターとは、違う星が見える」
――違う星、か……。でもそれは、自分だけとは限らない。
「その通りです。ですから私はそれを判断するため……もっと人を見なければならない。あなたも、そしてブラックモアも。だから私に、見せてほしいのです」
そのセリフは力強く、彼女にしてはやけに感情が乗せられた言葉だった。しかし本人には自覚は無いのか、表情に変化は見られない。
「何か彼の遺物を見つけたら、私の所まで来てください。私は三階の廊下の奥で待っています。その時、空を見てみましょう。私はあなたを利用し、あなたは私を利用する。如何でしょう、ブラックモアの星を詠むことは、あなたにも無益なことではないはずですが」
畳み掛けるよう、矢継ぎ早に言葉が紡がれる。
ダンという存在を知ることで、彼女は目的を果たし、自分たちは差を縮める。確かにこれは双方に利のある内容だ。しかも一方だけが損するわけでもない、対等な取引だ。拒否する理由はない。だが、これだけは言っておきたい。
――君は自分を利用するのでも、自分は君を使用するのでもない。どちらかが欠けてもできないことを協力し合うんだから、そんな風には言わないでほしい。
自分の言葉に彼女はふむ、と言葉を零し再び目を閉じ、すぐさま開く。
「――つまり、お互いのために力を合わせよう、ということですか?」
――ああ、そう言う事。
「なるほど……。確かに先ほどよりも気持ちのいい考えです」
少女は先ほどとは違い、余韻を味わうように瞳を閉じて、頬を僅かに緩める。それを見る自分も、自然と顔が綻んでくる。
「今から三日後には、星を詠むのに適した時が満ちるでしょう。その時までに、遺物をお持ちください」
しかし次に彼女が目を開くとその顔は元の無表情に、声音も平素の物に戻ってしまい、それをやや残念に思うが、決して顔には出さない。今の自分には、もはや恐怖や緊張感というものは無かった。
「それでは、ごきげんよ――」
う、と彼女が別れの言葉を言い切る前に、開け放たれた窓から強い風が入り込み、廊下全体に吹き付ける。その矛先は様々で、教室のネームプレートをカタカタと揺らしたり、掲示板に張られた記事を波打たせ、式の紙や浴衣を揺れ動かせ、彼女のスカートを捲り上げ、乙女の花園を露わにした。
――眼前に広がった光景に、思考が全部まとめて吹っ飛んでいく。
自分には多くは語れないが、とにかく自分は今、とても衝撃的な光景を見た。
「――――――」
それは彼女の背後にいた式も同様で、文字通り開いた口が塞がらない状態にあった。
「……ごきげんよう」
しかし当の本人は全く気にした様子はなく、風の被害が収まった後、一拍置いて別れの言葉を告げるとそのまま何もなかったかのように三階へと通じる階段へと歩を進めていく。
……呆然と立ち尽くす自分たちは問い詰めることも出来ずに、ただ彼女を見送っていた。
……もはや驚くことはない、と思っていたが、どうやら世界は自分が思う以上に広い物らしい。
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