私が取り憑いたせいで、朧がぼろぼろにならないように 作:七駆提督
最初に、耐えられないほどの重みが全身にのしかかる。
支離滅裂に暴れまわる音の濁流はいまにも鼓膜を突き破りそうだ。
弾丸のように視界に飛び込んでくる極彩色の光が視神経をかき乱す。
鼻孔に溢れかえる雑多な匂いで脳が溶けるのではないかと不安になる。
からからに乾いた口の中で舌の上を支配するのは電撃のような味の騒乱。
何より、肌が焼けるように熱い。
『動いてよ!』
次に、声が聞こえた。それが悲痛な思いを込めた叫びであることはわかったが、どこから聞こえたのかはわからない。厳密に言うなら、聞こえたという表現は不適切だ。前述したとおり、聴覚はまともに機能していないように思う。自分でも妙だとは思うものの、頭のなか、あるいは心のなかで響いたというほうが正確だろう。叫び声の残響がむなしくこだまする。
『まだ、死ねない! こんなところじゃ、まだ……』
決意と覚悟を秘めた声に、私は返す言葉を持たない。そもそも、どうやって声を発すれば良いのかもわからない。ただただ滅茶苦茶になった五感に翻弄されるばかりだ。
『駄目、避けなきゃ! 動いて、動いて、お願いッ!』
響き渡る声はとても近いようにも、限りなく遠いようにも聞こえる。何か手助けしてやりたいとも思うのだが、あいにく体を動かすことができない。
いまさらながらに思い至る。私の体はどうなっているのだろうか。
「っ! あ、ぐぁっ!」
ようやくまともな音が聞こえた。耳を埋め尽くしていた雑音が、何かにきれいさっぱり吹き飛ばされたのだ。全身に強烈な熱と衝撃を感じて、次いで叫びたくなるほどの痛みを覚える。次に聞こえたのは、人の悲鳴。これが私の声だろうか。随分とか細い声だ。少なくとも成人を過ぎた男性のものではない。
『大丈夫、直撃はしてない。まだ戦えるッ!』
とにかく全身が痛む。しかし、痛みのおかげで感覚がまともに働き始めたように思う。まずは、周囲の状況を確かめたい。物体が反射した光を受け止める眼球と、それを情報として処理する脳。視覚というのはそういうものだったように思う。だとしたら、今まで視界を覆っていた無秩序な光の奔流は、私の脳が光情報を処理できていなかったことのあらわれかもしれない。眼球に意識を集中する。欲しい情報だけを選別しないといけない。ゆっくりと、視界が意味を持った構造を成立させていく。
最初に、辺り一面の青と、立ち上るいくつもの黒煙が見えた。およそ10メートル先には、黒一色の衣服に身を包んだ女性の姿。両手を組んでこちらを見据える彼女の瞳は、まるで感情が欠落しているかのように冷たい光を湛えている。次に自分の姿を確かめることにした。私は腹部を抱えるようにして、横向きに倒れ込んでいるらしい。視界を横に、つまり自分が横たわる地面を見ようとして、私は息を呑んだ。海の上に浮いているのだ。正確を期すなら、海面の少し上に浮かんでいると表現すべき状態だった。だから、水の浮力によるものでは到底ありえない。私の体と海面の間には、複雑な模様が描かれた光の板のようなものがある。この光の板が、私を浮かせているようだ。
「……っ! あ、かはっ!」
手足の感覚を確かめる。どうやら、動かせるらしい。ゆっくりと立ち上がろうとするよりも早く、腹部を中心に鈍い衝撃が走った。肺の空気すべてと一緒に、口に生臭いものが広がる。胃の中のものが逆流したのだろう。気道に入り込んだ吐瀉物のせいで、激しく咳き込みたいのに、咳き込むだけの空気が足りずに、私の喉は詰まった排水口のような音を漏らすばかりになる。
「興醒めだ。噂に聞いた駆逐艦がその程度だとは、危険を承知でここまで来た甲斐がない」
急激な酸素欠乏で虚ろになりはじめた視界で、頭上から聞こえる声の方向に視線を向ける。黒衣の女性が、私の腹部を踏みつけていた。彼女が足に力をかけるごとに、私はプレッシャーポンプか何かのように消化器のものを口からぶちまける。吐瀉物がなくなったなら、圧迫されることによって傷ついた消化管からの血液が口にあふれだす。吐瀉物の生臭さと、血液の臭いなら、どちらがましだろうかと私は冷静に考える。
『なんで……。こんな終わり方、嫌だよ』
「なされるがまま、か。私の思い違いだったようだ……。すまないな、無駄に苦しめてしまった」
黒衣の女性の瞳に、僅かながらに後悔の色が滲んだように見える。次いで向けられたのは、彼女が右手に握った大きな筒だった。私の視線とまっすぐ向かい合っている。つまり、私の頭に向けられているということだ。いまだに理解が及んでいないが、彼女が私を殺害しようとしているのは間違いなさそうだった。
『まだ、やれるのに』
心のなかで響き続けていた声の正体は、結局わからないままだ。少なくとも、私に声が届く距離には黒衣の彼女しかいないように思う。その姿は見えないのに、歯を食いしばって悔し涙を流しているであろうことは容易に想像できる。私は、声の主との意思疎通を試みることにした。馬鹿馬鹿しいかもしれないが、よく考えれば私自身のことが何も理解できていないのだ。せめて、誰かと話がしたい。呼吸すらできない以上、肉声を発することは不可能だ。だから、黒衣の彼女との対話は叶わない。ならば、心のなかに声を響かせ続ける何者かしかいない。
『君は、誰だ?』
『……ッ! あなた、誰!?』
胸中に念じるように浮かべた言葉は、声の主に届いたようだ。警戒と敵意を滲ませた声が返される。
『ごめん、わからないんだ』
『出ていってよ! 体を返して!』
『返す? どういうこと?』
『人の体を奪っといて、よく言う!』
『待って、待って欲しい。本当にわからないんだ』
声の主が絶句しているのが分かった。体を奪うとは、どういうことだろうか。素直に解釈すれば、今の私の体は声の主のものということになりそうだが、そんなフィクションのようなことが起こり得るだろうか。しかし、私自身、自分が何者かもわからないのだから、強く否定することもできない。眼前の黒衣の彼女と、心中の声。あまりにも無知な私に、処理できる事柄だとは思えない。
『今は、信じるよ。でも、このままじゃあなたも朧も死んじゃう。お願い、こんなところで終わりたくないよ』
『どうすれば、いいの?』
『戦って、あいつをやっつけて。その力は、あるから……ッ!』
『戦うって、どうやって……』
『ごめん、説明する余裕……なさそう』
この体が私によって奪われたものだとすれば、今の私の死はすなわち声の主の死も意味してしまう。私自身はともかくとして、名も知らない誰かまで巻き込むのは本意ではない。黒衣の彼女がこちらにむけた筒は、恐らく銃器の類だろう。映画や何かで見たことのある、44口径だかいう拳銃よりもはるかに巨大な銃身から放たれる弾丸は、恐らく今の私の頭くらいは容易に爆ぜさせるはずだ。だったら、撃たれるわけにはいかない。声の主と相談している余裕が無いなら、とにかく彼女を退ければいい。なるほどシンプルだ。
「悪いな……。人違いだったようだ。許せとは言わん」
黒衣の彼女の声は、どこか穏やかにも聞こえる。対話の余地はありそうだが、発声に必要な息ができない。落ちそうな意識をどうにか持ちこたえて、私を踏みつける足、その脛に渾身の力で拳を叩き込む。
「ぐっ、姑息な真似をっ!」
一瞬脱力した彼女の足を逃すつもりはない。随分ものものしい金属製の靴を左手で掴み、右手の平で彼女の膝を思いっきり押し込む。
「何を……ぅ、あぁっ!」
重い抵抗を感じながら、さらに膝を押し込めば、膝関節が逆側に折れる鈍い音が響く。それでも私は力を緩めず、彼女の膝をへし折る。完全に破壊された膝関節は、尖った刃のように彼女の膝の裏を突き破る。いわゆる開放骨折という状態。ほとばしる彼女の血液を顔に浴びながら、横たわった姿勢から、腰を浮かすと同時に足をすらりと伸ばして、彼女の顎を蹴り飛ばす。片足を酷く損傷し、顎を蹴り上げられた彼女がその場で膝をつく。一方で私は飛び跳ねるように起き上がる。
「やあっ!」
「ぐ、ああぁっ!」
背筋に力をこめて、思いっきり振り上げた右膝を彼女の頬へと叩きつけた。きりもみしながら空中に跳ね飛ばされた彼女は、どうにか海面で受け身を取るが、這いつくばったような姿勢のまま立ち上がることができないようだった。
『戦うの、上手だね』
『自覚はないよ。次は?』
『撃って』
『何を、どうやって?』
『背中、それ!』
再び声が聞こえる。確かに、私の背中には重々しい金属の塊が背負われていて、なんとなく手で探ると、やけにずんぐりとした銃のようなものが収められていた。気のせいかもしれないが、これが背中に背負ったものに収められていることも、そしてこれの使い方も、知っていたように思う。冷たい金属の感触が、やけに手になじむ。
『落ち着いて、引き金を引いて』
『うん、大丈夫』
両手を海面について、どうにか立ち上がろうとする黒衣の彼女に砲身を定める。左手は引き金に、右手は左手を下から支えるように添える。私は、彼女の命を奪おうとしている。だというのに、驚くほど冷静だった。無知だからこその自覚の欠如によるものなのだろうか。ためらうことなく、引き金に添えた指を引いた。体を押し返すほどの反動は、上半身を軽く反らして受け流した。放たれた弾丸は、正確に彼女の額に飛来する。ものの数回の瞬きの後、巨大な爆発が生じる。爆風に吹き飛ばされるより早く、私は背後側に飛び退いて身をかわす。
『え……まだ撃つの?』
『うん、きっとまだ終わってないよ』
爆発による黒煙が晴れるよりも早く、私は再度身構えた。なんとなく、黒衣の彼女はまだ健在である気がしたからだ。
「……かはっ! ははっ……良いぞ。やはりこうでなくてはな。いままでは手加減でもしていたつもりか、駆逐艦、朧!」
黒煙を払うようにして、不敵に笑う彼女が姿を現す。しかし、私がへし折った片足はついに引きちぎれたらしく、膝の先からは吹き出るように血が滴っていて、その顔も砲弾が直撃したことで血にまみれていた。あとひと押しで、彼女は倒れるだろう。私は再度、砲身を彼女に定める。
「……ぐっ、あ、うあっ!! くそ、無粋な奴らだ。」
彼女のすぐ背後で、海面が大きく爆ぜた。衝撃に押された倒れた彼女は、うずくまって血を吐きながらも憎々しげに呟く。
「おけ、朧はっけーん。って、ぼっろぼろじゃん! めっずらしー」
「ちょっ……アンタ大丈夫なの!?」
黒衣の彼女の背後で、二人の少女が私に向かって手を降っている。一人は長く艷やかな藍色の髪を結い上げた、切れ長で涼やかな目元が特徴的な勝ち気そうな少女。もう一人はピンクブロンドと表現できそうな淡い桃色の髪をした、瞳が大きな快活そうな少女。彼女を撃ったのはあの二人らしい。私を案ずるように声を張り上げているが、おぼろ、というのが私の、あるいは声の主の名前なのだろうか。
『あっちの二人は、君の友達?』
『うん、仲間だよ。髪を結ってる子が、曙。桃色の髪の子が、漣』
「戦艦棲姫、こんなところまで一人で来るからには、覚悟できてんでしょうね?」
「漣たちをナメてたんなら、もう後悔しても遅いわけですが……。」
朧と漣がそれぞれ武器を構える。私は銃火器の類に明るくはないが、二人とも構えに無駄な力が入っていないことはわかる。扱いに慣れているのだろう。
「そうだな……。覚悟はできている。貴様たちを侮っていたわけでもない。が、今回の戦いはどうにもすっきりしない。ここは退かせて貰おう。」
「はぁ? アンタ、馬鹿なの? んな勝手なこと、許すわけ……ないでしょ!」
「珍しくボノと同じ意見。釣りにしても面白くないよ、そーいうの!」
曙が戦艦棲姫と呼んだ、黒衣の彼女は不敵な笑みを見せる。両手を胸の前に持ち上げたのは、私たちの攻撃を防御するためだろうか。
『撃って、とどめを』
『うん』
少女たちが武器を構えるのにあわせて、私もまた照準を定める。狙うのは彼女自身ではなく、そこから少し逸れたところだ。
「それでも、生き延びてみせるさ。戦艦のしぶとさを、甘く見ないことだ。」
戦艦棲姫の言葉を遮るように、少女たちの砲身が火を吹いた。爆炎が生じる直前、片足だけの彼女は、それでも飛来する砲弾を避けたのが見えた。正確な予測と、あの怪我でも素早く動ける力強さがあって始めて成立することだ。だが、私が狙うのは、まさに彼女が身をかわしたその先。高々と跳躍した彼女が着地する先へと、砲弾を放つ。
「行けっ!」
「ぐっ……まだだ! やはり、貴様の首は私にふさわしい! 次を楽しみにしている!」
タイミングは完璧だった。着地した戦艦棲姫の頭を、砲弾は正確に射抜くはずだった。しかし、彼女は不安定な姿勢のまま、片手で私の砲弾を受け流したのだ。あまつさえ、破損した彼女自身の武装を引きちぎり、その尖った破片を投げつけてきた。
「くっ!」
私の首めがけて、まっすぐに飛来する鋭利な破片を片手で掴む。再び戦艦棲姫に視線を向けたときには、既に彼女は遠く距離を離していた。曙と漣も正確に彼女の動きを掴み、追撃していたようだが、これ以上追いかけるだけの意味はなさそうだ。
「次に来たら絶対に沈めてやるんだから! っていうか、朧、それ大丈夫なの? 血まみれじゃない」
「そんなことよりも、漣としてはおぼろんがおっぱい丸出しになってることのほうが気になるのですが……」
黒衣の彼女の撤退を確かめて、駆け寄ってきた二人が心配そうにこちらを見つめている。改めて自分の体を見下ろすと、確かに曙が言うとおり体中傷だらけだった。加えて、漣の言葉も事実である。私の服はぼろぼろになっていて、淡い緑のブラもまんなかで引きちぎられたように裂けている。戦艦棲姫に踏みつけられた拍子に破れたのだろうか。何にせよ、私は上半身をまるで隠せていなかった。
『隠して』
『ん?』
『隠して! 胸ッ!』
『あ、あぁ。そうだね。でも、二人も女の子だよ。こんな状況だし、気にしなくとも』
『気にする!』
声に従って片腕で自分の乳房を隠しながら、二人を交互に見つめる。なんと言葉を返せば良いのか、わからなかった。そんな私の様子に、曙が怪訝そうに目を細める。
「アンタ、本当に大丈夫?」
『どうしたらいい?』
『あ、そっか。とりあえず、朧の言うとおりに話して』
『うん』
「ごめん。油断しちゃったみたい……。でも、大丈夫。」
「いやー、それはさすがに大丈夫じゃないっしょ。」
「もう大淀さんと明石さんには連絡してるから、即入渠よ、入渠!」
「そんなの、いらないのに……。」
朧、というのがこの声の主の名前だということを確信した。声の主――ここからは朧としよう――が問題なくこの二人の少女と会話ができるのだから、なるほど私が朧の体を奪ったというのが真実味を帯びてきたように思う。今の私にそんなことをしでかす動機もなければ、どうやって朧の体を奪ったのかもわからないが、状況を見るに事実だけは間違いなさそうだ。例えば、本来は朧であった私が記憶を奪われて、簒奪者であるところの朧が本来の私の記憶を利用している、そんな可能性もなくはないが、そこまで疑えばもうきりがない。何よりややこしい。
『ところで、入渠っていうのは、何?』
『入院、みたいなものかな。いらないのに』
『無理はしないほうがいいよ』
朧の声は不満そうだ。休んでいる暇などない、ということだろうか。視線を伏せて、自分の体を確かめる。一瞥する限り、朧はまだ十代の前半といった体つきに見える。しかし、細いけれど無駄なく鍛えられた手足や、引き締まった腹筋が、彼女が普通の少女ではないことを示しているようにも思う。今更にすぎるが、あの戦いは一体何だったのか。
「とりあえず、帰ろうよ。今日の晩御飯は何が良いかなー。A定食はビーフシチューらしいよ。ボノの大好物でしょ。」
「え、本当? そ、そっか。じゃあ、早く帰ろうかな。朧、アンタはすぐにドックに行くこと。あとでご飯、持ってってあげるから。」
「う、うん。ありがとう、曙……」
「ボノ、やっさすぃー。」
「うっさい!」
私は朧の言うとおりの返答を二人に返す。どうやら、今の朧が得体の知れない何者かであることは気づかれていないらしい。
「朧、歩けんの?」
「うん。なんとか」
「無理すんじゃないわよ。何ならおんぶしてあげるから」
「ボノ、やっ……」
「次言ったら本当にぶん殴るから」
私が歩けると告げた瞬間、二人の瞳に安堵の色が宿ったように見えた。優しい子たちなのだろう。なおのこと、私が彼女たちの友情に水を指しているようでいたたまれなくなる。
『ごめん、朧……。色々と聞きたいことがあるんだけど』
『後にして欲しい。朧も、色々と考えたい』
『……だね。まずは、君の治療だ。』
朧が私を信用していないことは十分にわかる。当然だろう。だからこそ、今は二人の少女のあとに続いて、朧の意図どおりに行動することにした。
*
二人の後をどうにか追いかけてたどり着いたのは、巨大な軍港だった。私たちを出迎えた、黒髪が美しい怜悧そうな女性が職員たちに指示を出し、私は驚く間もなく医療設備に運ばれた。次に淡い緑の髪の優しげな女性に出迎えられた私は、早々に服をすべて脱がされて、なにやら色々と検査機器にかけられた末に、今は清潔な真っ白いベッドに寝かされている。右手には点滴が打たれているが、薬液はおそらく普通にあるビタミン剤の類だろう。薬液パックに書かれた製薬メーカーにも、そして製品名にもなんとなく見覚えがある。そういう場合、一般市販用と概ね同種のラインで製造される医療用の製品、ということになるのだと聞いたことがあった。何にせよ、あれだけの怪我にしては、治療は簡素だ。設備を見る限り、それこそ緊急の手術にも対応できそうなのに、である。
『朧は……わたしは、消えちゃうのかな。どうしたらいいの? お母さん……』
心のなかに朧の声が響く。声を押し殺して、さめざめと泣いていることが伝わる。表現としては詩的すぎるかもしれないが、心が彼女の落涙で濡れているのがわかるのだ。涙の理由は、あえて記すまでもないだろう。十代そこそこの少女が、突然自分の体を乗っ取られたのだ。今後、彼女の意識が消滅しないとも限らない。まして、彼女は私にも理解できない存在と戦いの日々にあるらしい。これで、心が乱されないというなら、そっちのほうが心配になるというものだ。
『朧、なんて言えばいいか。できるだけ早く、君から出ていくよ』
『……。なんだか、最初からあなたがそんな人だから、余計に不安。もっと悪い人だったら、あなたを憎み続けるだけで良かったのに』
『悪い奴、かもしれないよ。なにせ、何も覚えてないんだから。元々が悪い奴だったかもしれない』
『朧は、そうじゃないと思う。一緒に戦ってくれたから、わかる。でも、やっぱり怖くって』
強い子だ、と思う。私が存在するだけで、朧を苛み続けるというのなら、可能な限り早く消えてしまいたいと思う。例え、それが私という意識の死とシノニムの関係にあったとしても、こんな状況は許されるものではないのだから。そもそも、今の私には何もない。守るべきものも、惜しむ記憶もだ。消滅することが怖くないわけではない。だが、朧と私を比べてどちらが尊重されるべきかと言えば、である。
「朧……ご飯、持ってきてやったわ。入るわよ。」
不意にノックの音が耳朶を揺さぶった。音の方向を見ると、ゆっくりと扉が開かれていくのがわかる。扉から現れたのは曙だった。その両手には、皿の載ったお盆を持っている。彼女に続いて、漣が両手に小さなバッグを抱えて足を踏み入れる。最後に、初めて見るおとなしそうな黒髪の少女が、静かに扉を閉めた。
『紹介するね。最後の子は、潮。あの子も朧の仲間だよ。』
『わかった。会話は君に任せてもいいかな』
『うん、大丈夫』
私たちは先ほどと同じ手段を取ることにした。つまり、私は朧に伝えられたとおりに話すということだ。どうやら、私たちは五感を共有しているらしい。朧の身体動作にかかわるイニシアティブは私にあるが、受け取る情報は完全に共有されている。
曙がベッド横のテーブルにお盆を置いた。香ばしく豊かな匂いが鼻孔を擽る。そういえば、空腹であることを自覚した。
「ビーフシチューよ。すっごくおいしいかったから。あと、菜の花の辛子和え、好きだったでしょ? 間宮さんに頼んで作ってもらったから。しっかり食べんのよ」
「ありがとう、曙」
「いい? さっさと元気になって、バリバリ働きなさい。じゃないと、アタシたちの株が下がんだからね」
「ほんっと、ボノは典型的なツンデレですね」
「漣、ちょっとこっち来なさいよ。前歯全部折れるまでぶん殴ってやるから」
「曙はツンデレじゃないよ。だって、いつでも、最初から優しいから」
「う……潮まで。」
「みんな、ありがとう。少しだけ休むけど、すぐに元気になるから」
朧に言われたとおりに言葉を返したまでは良かったのだが、自然と笑いがこみ上げてしまった。どう表現するべきだろうか。昔から大好きで、何度も繰り返し見た映画の、特に大好きなシーンにさしかかったときの安堵感のようなものが、私の胸中を満たした。私自身にも理由はわからないが、笑い声が止められない。肩を震わせる私に、さすがに三人の少女たちは目を合わせる。
『急にどうしたの?』
『いいや、なんだか……おかしくってさ』
『どういうこと?』
『よくわからないんだ。なんだろう、こんな感じのやりとり、マンガなんかでお約束だろ。だからかな』
『うーん、そうかも?』
朧はどうも釈然としない様子だけれど、笑ってしまったものは仕方がない。朧にフォローをお願いすることにした。
「あははっ……本当、曙って優しいから大好きだよ。ありがとう。もちろん、みんなも」
「ば、ばばば馬鹿じゃないの!? なに突然マジになってんのよ」
「おー、テンプレ反応キタコレ! おぼろん、ボノルートに入ったんじゃない?」
「曙、可愛い」
「みんな、今度の演習で絶対ボコボコにしてやるから。覚悟しときなさいよ! 帰る!」
耳まで顔をまっかにした曙は、肩を怒らせて扉の方に歩いて行く。ただ、部屋を後にする直前、肩越しに振り向いては「アタシも嫌いじゃないわよ、みんなのこと」なんて言う辺り、不器用ながらに本当に優しい子なのだろうと思う。
「じゃ、朧の様子も見れたことだしー、漣たちも帰ろうか。お、そうだそうだ。これ、Vitaと3DS、貸したげるから。ソフトもいっぱいあるよー。朧がやりたがってたダンロン3もあるけど、早く元気にならないと、枕元でネタバレしちゃうぞー」
「わ、嬉しい。ありがとう、漣」
漣が抱えていたバッグをベッドの上に置いた。話の内容からすれば、ゲーム機を貸してくれるということだろうか。記憶を探ってみるが、予想どおり何も思い出せない。ゲーム機、という単語を知っている以上、その手のものがある時代に私は生きていたのだろうか。
「私も……朧にこれ、貸してあげようと思って。私、もう読んだから。」
「ん、それ……村上春樹か。懐かしいな」
「懐かしい? あぁ、そうだね。多崎つくるからだと、4年くらいだもんね」
思わず私は片手で口を覆った。朧の言葉を待たずして、潮に返答してしまったのだ。村上春樹という作家の存在は、私の記憶にもあるようだ。幸い、潮は私の言葉を無理のない形で解釈してくれたようだが、今後注意しなければならないだろう。もちろん、今後、という言葉が必要になるほどに、朧に居座るつもりはさらさらないことを前提として、である。それにしても、ゲーム機という普通名詞に比べて、作家の名前はより具体的な知識であるように思う。私を知る鍵になり得るだろうか。
『本、好きなの?』
『どうだろう。わからないな。多分、嫌いではないよ』
『朧は好きだよ。創作でも、ノンフィクションでも、読む人のことを考えて必死に伝えようとした言葉って、とても尊いものだと思うから』
『それはわかる気がする』
「んじゃあ、漣たちも帰るよ。ま、たまの休暇だと思ってさ、ゆっくりしててよ」
「朧、何か欲しいものがあったら、ライン入れて? 買ってきてあげるから」
「うん、二人ともありがとう。曙にも、伝えておいて」
ウィンクしながら部屋を後にした漣の後に、潮がふわりと手を降ってからゆっくりと扉を閉めた。途端に静かになった部屋の中、あたたかそうに湯気を立てる食事に視線を向ける。正直なところ、さきほどから何度か空腹でお腹が鳴っていたのだ。早々に頂くことにする。ゆっくり食べねば火傷しそうなくらいに熱々のビーフシチューを一口食べて、炊きたての白いご飯を口に運ぶ。どちらも食べたことがないくらいにおいしかった。そして、何より私の視線を釘付けにしたのは、菜の花の辛子和えだ。
口に入れた瞬間、少々痺れる程よい辛味と、菜の花のほろ苦さが舌を満たす。抜群の味付けだと思った。
『あなたも、菜の花好きなの?』
『そうみたいだね。味も食感も、好きだったことをなんとなく覚えてるよ』
『とくに、うちの食堂は料理の達人がいるから』
『そうなんだ。他のものも食べてみたいな』
空腹だったからか、思いの外早く食べ終わった私は、一息ついてから壁にかかった時計を見やる。時刻は20時を過ぎたところのようだ。
『これからどうしよう』
『本当は、色々とあなたとお話したい。でも、朧……今日は疲れたから、明日でもいい?』
『わかるよ。私も疲れちゃったみたいだ。じゃあ、少し早いけど眠ろうか』
『食器を片付けて、顔くらいは洗いたいな』
『そっか、そうだよね。じゃあ、ゆっくり歩いていくことにするよ』
緑の髪の女性の話によれば、施設の外にさえ出ないなら、無理のない範囲で歩くこと自体は問題ないらしい。検査後に着せてもらった寝間着のままだが、点滴が打たれている以上は着替えなくてもいいだろう。点滴スタンドを右手で支えながら、食器の載った盆を左手に部屋を出ることにする。扉を開けてすぐ、この施設の職員であろう女性が盆を受け取ってくれた。後は、洗面所に向かうだけだ。
『あれ? 洗面所の方向、知ってるの?』
『ん? おや、なんでかな。まぁでも、こういう施設って大体廊下の端にお手洗いや洗面所があるものじゃないかな』
『うーん、そうだけど』
無意識に踏み出した一歩に、心のなかで朧が首を傾げたような気がした。なんとなく足を踏み出したに過ぎないから、要は勘のようなものだ。顔を洗いたいというのももちろんある。しかし、それ以上に少々憚られる話ではあるが、用事を済ませたいと思っていた。生理的欲求が朧にも共有されているのかはわからないが、言葉を待たずに足を踏み出したというのも、それが理由の一つだ。
『あの、ね。その……お手洗い、行きたいでしょ?』
『うん。だから少しだけ急いでる』
『でも……えっと、確かめたいことがあるの』
『どうしたの?』
『あなたは女の人? それとも……』
なるほど、歯切れの悪い朧の物言いに合点がいった。確かに、彼女にとっては重大な問題だ。よくよく考えてみるが、自分が男性か女性かすらもわからない。
『ごめん、わからない。でも、その……なんというべきか』
『そう、だよね。朧の方こそ、ごめんなさい。あんまり気にしないで』
かくして、私という私自身にとっても不気味極まりない存在と、朧という少女の共同生活が始まった。いや、共同生活という表現は正しくない。私による、朧への取り憑き生活とでもいうべきか。今の私の目的は至ってシンプルだ。一刻も早く、彼女から消え去ること。これに尽きる。元々の私が、悪意を持って意図的に彼女に取り憑いていたのだとすれば、ことは一刻を争う。私が元々の意識を取り戻してしまえば、朧の身が一層の危険に晒されることになるからだ。そうでないにしても、彼女にとって危うい状況であるのは変わりない。まずは、情報が必要だ。彼女が、彼女たちが何者なのか。そこにヒントがあるかもしれない。そんな一縷の望みを託すこととして、今日はここで筆を置こう。