逸見エリカは、一人暗い部屋の隅で、体育座りで呆然としていた。
先日、彼女の『友人』だったはずの少女、西住みほが、黒森峰女学園から姿を消したのだ。
理由は、栄光の十連覇がかかった、戦車道の全国大会において、事故によって川に転落した戦車の乗組員を助けようとしたことに起因する敗北。そのことを負い目に感じてのことだった。
エリカはその水没した戦車の乗組員だった。だからこそ、エリカはみほに感謝し、彼女を必死に励ました。あなたのお陰で救われた、だから、気にやまないで欲しいと。
だが、他の生徒たち、そしてなにより、日本戦車道界隈において絶大な影響力を誇る彼女の実家が、それを許さなかった。
みほは日に日に精神を病んでいき、その結果が転校という形で現れたのだ。
そのことが、エリカにはショックだった。私が支えきれなかったから、みほは転校してしまった。私が水没などしなかったら、こんなことにはならなかった。と、自分を責めた。
エリカもまた、みほのことで精神的に追い詰められた。その結果、ここ数日間、エリカは学校に顔を出していなかった。
「…………」
カチッ、カチッ、と、ただ時計の音だけが響く。はたしてどれだけそうしていたかわからないが、エリカはずっと塞ぎこんでいた。
ただ、静寂が部屋を支配する。
しかし、その静かな世界は、トントン、という、扉をノックする音によって打ち破られた。
「…………?」
一体誰だろう、こんな私に用だなんて。
エリカは不思議に思いながらも、それまでずっと開いていなかった扉を開く。するとそこにいたのはなんと、黒森峰の隊長であり、みほの姉である、西住まほだった。
「た、隊長……?」
「エリカ、もう随分と学校に来ていないな」
まほは鋭利と言っても過言ではない視線をエリカに向けながら、そう言った。
エリカはそのことでまるで責められているように感じ、弱々しく頭を下げた。
「……すいません、どうも、学校に行く気になれなくて」
「気持ちは分かる。だが、そろそろ学校に来てみてはどうだ? 誰もお前のことを責めてなんていない」
そうではない、自分自身が許せないのだ。
エリカはそう心の中で呟いた。
「……はい、それは分かるんですが、でも……」
だから、まだ学校に行く気にはなれない。そう言うつもりだった。しかし、
「……それに、私だって心配しているんだ」
「…………!」
まほの、感情の篭ったその言葉に、エリカははっとさせられた。
まほがこのように感情を出すことなんて、今までまずなかった。だが、目の前のまほは、感情を一瞬だが露わにした。
そのことが、エリカに気が付かせた。エリカもまた、みほに対する自分のように、まほを悩ませてしまっているのだと。そこまで、まほは自分のことを思ってくれているのであると。そしてそれが、それまで自分のことばかりを責め続けていたエリカの心に、変革をもたらすこととなった。
みほのことで自分が悩んで駄目になってしまったように、まほにも、自分のことで辛い気持ちにさせてはいけない。それが、残された者にできる、数少ない努力ではないか。
「……だから、学校に来てくれないか、エリカ」
まほは冷静な口調で、しかしその瞳の奥には、エリカのことを思う気持ちを秘めながら、そう言った。
正直、エリカはまだ自分のことを許せていない。しかし、そのことでまほにまで心労を重ねてほしくはなかった。妹を失って、自分以上に辛いはずの彼女に。
「……分かりました」
エリカは震えそうになる声を、なんとか振り絞って応えた。
「本当か!」
まほがまた、声に感情を乗せて、嬉しそうに応える。
「はい、明日から……また、学校に通わせて頂きます」
「そうか、よかった……!」
まほはエリカの目の前でほっと胸を撫で下ろした。そのことが、どれだけまほに自分が心苦しい思いをさせてしまっていたのかの証左のように、エリカには思えた。
「それでは明日……そうだ、明日、せっかくだから一緒に学食で昼食をとろう。恥ずかしながら、みほがいなくなってから、一緒に食べる相手がいなくてな」
まほが表情を柔らかくしながら聞いてきた。まほなりの気遣いが、そこからうかがい知れた。
エリカとしては、それは嬉しい申し出であり、まほのその提案を断る理由はなかった。だからエリカは、
「……はい。そうしましょう」
と、儚げな笑顔を浮かべて応えた。
翌日、エリカは約束通り学校に出席した。同じクラスの生徒たちは驚きエリカを取り囲んだが、エリカは簡単な言い訳だけをして、詳しく心中を語ることはなかった。
そうして、みほがいなくなる前のように、いつもどおりの授業を受け、一日を過ごす。
そして時間は流れてお昼時、エリカは他の生徒に捕まらないように足早に学食へと向かった。そこには、まほがすっと立って待っていた。
「む、エリカ。来たか」
まほは昨日とは打って変わって、いつもどおりのポーカーフェイスだった。
そのことが、エリカを安心させた。ああ、いつもどおりの隊長だ、と。
「お待たせしました。それではいきましょうか」
エリカとまほは一緒に食券を買う。エリカは好物のハンバーグがあるハンバーグ定食、まほはカレーライスだった。
二人は食券を渡し食事を受け取ると、適当に空いている席へと座る。そしてそこで、二人同時に手を合わせて、
「「いただきます」」
を口にした。
そして、そのままエリカはハンバーグを一口サイズに切り取り、口に運ぶ。
だがそこで、エリカは唖然とした。
味がしない。
エリカは、口の中で好物であるはずのハンバーグを何度も何度も噛み締めながら、急に襲ってきたその事態を飲み込めずにいた。
いくら口に入れても、いくら噛んでも、いくら舌の上で転がしても、一切味がしないのだ。
焦ってハンバーグと一緒についている野菜も口にしてみる。しかし、結果は同じ。あの野菜の青臭い香りが、まったくしてこない。
味噌汁を啜っても、白米をひたすら噛んでも、口の中には感触があるのみで、一向に味はやってこない。
何が、一体、どうなっている?
そのただならぬ様子を心配してか、一緒に食事をとっていたまほが、心配そうにエリカのほうを見つめてきた。
「どうしたエリカ? そんな慌てて食べて」
「……い、いえ! べ、別に何でもありません!」
我ながら下手くそな嘘の付き方だと、エリカは思った。
大慌てで取り繕う姿は、他人から見たらさぞ滑稽だっただろう。だが、エリカは今の自分の現状を知られたくなかった。
だっておかしいじゃないか、突然味覚がなくなるだなんて。そんなことが、自分の身に振りかかるだなんて。
エリカは信じたくなかった。だから、他人を騙すことで自分を騙した。
そう、これはたまたま。たまたまなんだ。たまたま味がしないだけ。
エリカはそう信じて、目の前の料理を半ば無理やり胃の中へと入れた。
その夜、エリカは両手に大きなレジ袋を抱えながら、学生寮へと戻った。
中身は、コンビニで買ったおにぎりやパン、弁当など、とにかくありったけの食べ物を詰め込んでいた。
エリカはそれを、机の上に一気にぶちまけると、手当たりしだいに商品を閉じているビニールの包装を乱雑に剥がして、中の食べ物を口に突っ込んだ。
「んっ……! んっ……!」
とにかく食べ物を口に詰め込む。スイーツコーナーで買ったショートケーキも、棚に陳列されていた粗末なハンバーガーも、レジで売っているチキンも、一緒くたに食べる。そしてそれを、炭酸ジュースで流し込む。口から垂れてもまったく気にしない、かなり汚い飲み方で。
しかし、
「……どぼじで、どぼじでよおおおおおおおおおおおおお!!!!」
エリカは食べ物をボロボロと零しながら、慟哭した。
どんなに大量の食べ物を口に入れても、どんなに汚らしい食べ方をしても、エリカは、その舌になんの刺激も与えることが出来なかった。
◇◆◇◆◇
その週の終わり、訪れた休日を使ってエリカは病院へと行くことにした。さすがに、自分をごまかし続けることは出来なかった。
エリカはひとまず、耳鼻咽喉科を受診した。口内のトラブルは、まずそこへ行ってみるといいと、ネットに書いてあったからだ。
だが、エリカの期待とは裏腹に、耳鼻咽喉科では、異常を見つけることはできなかった。だがそこでエリカは、病院から今度は心療内科へと行くことを勧められた。味覚障害は、心的なものからくることがあるという。
そこでエリカは、今度は心療内科へと行った。そしてそこで医者に診察を受けた。
すると、医者から次のような答えが帰ってきた。
「どうやら、逸見さんの味覚障害は、強いストレスが原因のようです」
強いストレス? 一体どんな? いや、私はそれが一体何か分かっているはずだ。
そう、みほのことだ。
個々暫くの間、エリカはみほのことでずっと心悩ませてきた。
それは、まほによって部屋から連れだされた後も本質的には変わっていない。
しかし、まさかそのことで味覚を失うことになるなんて、思っても見なかった。
エリカは病院へ通院することを約束し、いくつかの薬を処方してもらって、その日は帰路についた。
そして部屋に戻ると、エリカはなんだか急におかしな気分になってきた。
「あはは……はははははははっ!」
これは天罰だ。みほを追いやってしまった、天罰だ。そう思うと、あれほど苦しんでいたはずの心がすっきりしていくのを感じた。
もう私には、みほに会わせる顔がない。だって、こんな哀れな女、みほの友人にはふさわしくないのだから。
そうだ、もし次会うことがあったら、おもいっきり嫌な奴として接しよう。もうみほとは友人じゃない。そのことをよりはっきりさせるために。
エリカの頭は、なんだかもやが晴れたようにすっきりした。
エリカは不思議と爽快な気分で、そのまま台所に立ち、夕食の料理を作り始めた。
ただ腹を満たすだけの、今の自分に相応しい空虚な料理を。