開いた窓の外から流れ込んでくる。少しだけ冷えた風が意外と気持ちいい。
今は確か、もう夏が近いんだったか。梅雨とやらに入った幻想郷では、最近はよく雨が降る。今日は降っていないが、時折ずっと遠くを大量の雨滴が降り注いでいる――紅魔館周辺は雨が降らないようになっている――さまが窓越しに窺えることがあった。
雨。姉が『雨の日は嫌い』と愚痴をこぼすさまはそれなりに見てきた――吸血鬼は流水を渡れないため――が、実際にこの目で見たのはそれなりに最近の出来事だ。なにせ五〇〇年近くの長い時間のほとんどを館の地下にある自室で過ごしてきた。仮にかつて見たことがあったとしても、そんなはるか昔のことはとっくに忘れてしまっている。
「……はぁ。なんで私、こんなことしてるんだろ」
窓枠に両肘をつけて、空に浮かぶ満月を見上げる。
暇な一日だった。一日中、ただただ同じところでうろうろしたり、外を眺め続けているだけの一日。実にくだらない。
「一月も前の出来事だもん。忘れてるのが当然じゃん……初対面のやつと交わした、あんなどうでもいい約束なんて」
「なにが忘れてるの?」
「だから、あの変な目の妖怪とした次の十六夜の日に遊ぶってやくそ――待ってなに今の」
今日はずっと一人だった。なんの前触れも気配もなく当然のように返ってきた言葉に応じかけ、一拍置いて慌てて振り返った。
そこにはまるで初めからここにいたのではと思いかけるほど当たり前に、待ち人、古明地こいしが立っていた。
「むー、遊ぶ約束じゃないよ! 私とあなたで一緒にこの幻想郷を支配するための下見だよ! 下見!」
「あー……っていうかさ、お前あれ本気で言ってたの?」
「ウルデラ超本!」
「あぁ、うん……」
一月ぶりに顔を合わせたが、まるで変わらない。あいかわらず意味不明だ。
「……ところで、いつからそこに立ってたの?」
「四半刻の半分の半分くらい前?」
「えーっと」
四半刻、つまりは約三〇分。それの半分の半分だから四分の一、つまりは七、八分程度か。
「いやそんな前からいたんならもっと早く声かけなさいよ。せっかくあんたをずっと待ってたのに」
「待ってたの? ここで? 私を?」
「え、あ、いや」
すごく不思議そうにされて、なんだかたどたどとしてしまう。
「ずっとって、どれくらい待ってたの?」
「う、んと……一〇、時間」
「じゅうじかん?」
「……四つ時くらいからよ」
その答えにこいしは本気で驚いたように、目を見開いてはぱちぱちと瞼を上下させた。
「え、ってことはつまり、昼間から? ちょっと早すぎない? えっと、大分記憶曖昧だけど私ちゃんと夜に来るって言わなかったっけ?」
「う、うるさいっ! 別にいいじゃん! 他にやることなかったの! ひたすら暇だったのよ! 悪いっ!?」
「うーん。悪くはないけど、それなら私が悪いことしたなーって。もうちょっと早く来ればよかったかな」
「べ、別にお前は悪くないって。私が勝手に待ってただけだもん。暇だっただけだっもん。むしろ? いい日光浴になった? みたいな、ね?」
「吸血鬼なのに?」
「いやまぁ、太陽が出てる間は日が当たらないとこで座ってたけど」
じゃあ浴びてないじゃん、というつっこみは無視する。
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ待ち遠しくて一〇時間程度待ってたことなんて、フランにとってはこそばゆいだけの話だ。これ以上この話題を続けたくない。
「それより! 一緒に外で遊ぶんでしょ? そっちの話をしましょ、そっちの」
「だから遊ぶんじゃなくて下見だってばー」
「そうそう下見下見。私たちで幻想郷を支配するための第一歩、下見の話ね」
フランには幻想郷を支配だとかそんなつもりはさらさらないが、ここはこいしに話を合わせておく。話を逸らすためにも。
「うんうん、フランもやる気なようでなによりだね! 私たちならきっとできる、二人揃えばダークファイブだって三人の闇の戦士だってジャアクキングだって闇のファイターだってなんとかマーブル・スクリューで一撃粉砕だよ!」
案の定こいしは上機嫌に胸を張って調子に乗り始めた。言ってることは八割がた理解できないが「そうそうそういうこと」と適当に肯定しておく。
「じゃあ早速外に出よっか。玄関どっちー?」
なんて問いながら本人は真反対の方向に歩き出し始めていたので、さっと襟を掴んで引き戻した。
「あっち。っていうか玄関の場所わからないって、お前どこから入ってきたのよ」
「このお館ってすっごく広いよね」
「あー。歩いてるとよく迷うからわからなくなるってこと?」
「おおっ! 伝わった! シンデレラ!」
「シンパシーね」
すたすたと歩くフランの横をスキップしたり、時折くるくると回転したり、後ろ歩きしながらフランの顔を覗き込んできたり。こいしは、ただ歩いているだけでもひたすら落ちつきがない。
玄関ホールには割とすぐにたどりつく。廊下では誰もすれ違わなかったが、ホールには数えられる程度の雑用係ことホブゴブリンたちがいた。
「それじゃあ外に……あれ? どうして隠れてるの?」
「言ってなかったっけ? 私ってほら、お姉さまに外出禁止されてるの。あんまり目立って外に出ようとするとバレちゃうから。前はそれで雨降らされたし」
「外出禁止? 厳しいなぁ。うちのお姉ちゃんはそんなきついこと言ってきたことないのに。ちょくちょくお小言とかは言ってくるけど」
「……お前の性格からして、いろんなこと諦められてるだけだと思うけど。っていうかあんたにも姉がいたのね。初耳だわ」
「お揃いだねぇ。そうなると私たちのチーム名は妹同盟かな。英語に直すとシスターアイシクルランス!」
「アライアンスね。ちょっとは英語を勉強した方がいいわ。それから、このままじゃ埒が明かないから……お前の能力を貸してほしいんだけど」
「私の力? あ、なるほどね」
フランがこいしに手を差し出してすぐに、その意図に彼女も気がついた。こいしからもフランの手に自分の手を重ねることで、その能力が適用される。
無意識を操る程度の能力。レミリアの目さえ欺いたこの力は、たかがホブゴブリン程度に見抜けるものではない。
こいしに導かれるがままホールを正面から突っ切り、ホブゴブリンの注意を欠片も集めることもなく、二人は堂々と玄関から外に出た。
「……ふふ」
どうしてか、笑みがこぼれる。こいしはそんなフランの顔を覗き込んでは、言う。
「フラン、なんだかちょっと楽しそう?」
「楽しい? ……うん、楽しいかも。お姉さまに内緒で外に出るなんて初めてのことだもん。ちょっと興奮しちゃってるかも」
「興奮っ? わーっ、フランに襲われるー! なんとか同人みたいなことされるー!」
「そういう意味じゃないって。あといい加減そのなんとかって部分思い出しなさいよ」
窓から外を眺めていた時にも感じたひんやりとした風が、今は全身に当たっている。景色だって枠の外だけじゃない。視界全体に紅魔館の庭園が広がっていて、その一角に自分自身がいる。
こいしにかかれば、誰にも気づかれず紅魔館の門を超えることだって思いのままだった。
踏みしめる土の感触、こうして触れられるほど近くにある、緑に溢れた自然の姿。普段館の中でしか過ごさない自分がそんなところにいる若干の違和感と、まるで夢の中でも漂っているかのような心地の良い浮遊感。
本、あるいは絵画や写真の向こう、窓越しでしか知ることがないと思っていたすべてを今、この身そのもので味わっている。
「んーっ。外に興味なんて、なかったつもりなんだけど。意外といいわねぇ、こういうのも」
「まだちょっと歩いただけだよ?」
「私は箱入り娘のお嬢さまだからね。新鮮なのよ、なにもかもが」
「じゃあじゃあ、外出が禁止されてるそのお嬢さまを連れ出してる私は、さしずめ物語によくいるイケチョウガイフェイスな王子さまってところかな!」
「あー、まぁ、よくはいないんじゃないかなぁ……」
イケメンと言いたいのだろう。懲りずに英語でかっこつけようとするこいしにはもう呆れざるを得ない。
というかイケメンもイケチョウガイももはや英語ですらない。後者に至っては貝の名前だ。本に書いてあったから知っている。
「って、わ! え、な、なにこれっ?」
紅魔館の門を越えてすぐ。目の前に広がる景色に突然騒ぎ出したフランの横で、こいしはこてんと小首を傾げた。
「これって?」
「だ、だからこれだってば! このでっかい綺麗なの!」
「湖のこと? こんなに館の真ん前にあるのに見たこともなかったの? ほんとに箱入りなんだねー」
「や、絵画くらいでなら一応見たことあるけど……これがその湖なの? 本当に?」
ずっと奥まで続いている幻想の光景に、無意識のうちに目を奪われていた。
湖。大きな窪みに水を敷き詰めただけの、なんてことはない水たまり。そのはずなのに。
雲一つない夜空から降り注ぐ無数の星々をその水面に映し出しながら、その光たちがゆらゆらと、まるで生きているかのように鼓動している。単に、星空の光を転写した多量の水分が波や波紋で揺れている、ただそれだけ。そんなことは理解できているのに、それこそそんな理解なんて今は一番どうでもよくて、まさしく星の海とも言うべき光景に見惚れてしまっていた。
「ね、ねぇ、あの緑色のいっぱい飛んでるのはなに? なんか湖に映ってる星たちと踊ってるみたい」
「ホタルのこと? 星と踊ってるだなんて詩的な表現だねぇ」
「ホタル……あれが?」
いくらフランが五〇〇年近くの時間を地下室で生きてきた筋金入りの引きこもりとは言っても、さすがにそんな長い時間をなにもせず生きてきたわけじゃない。いろんな本を読み漁ったりもして、ホタルのことも湖と同じで知識としてだけなら知っていた。
ホタルが発光するわけには諸説ある。敵を脅かすためだとか、食べてもまずい――ホタルは毒を持つ――ことを知らせる警戒色だとか。一番有名なのは、異性への求愛行動とされる説だろう。
本には客観的な事実しか書かれていない。虫の生態、虫の特徴。正直なところフランは、自我もなく本能のまま必死こいて汚い光を撒き散らすただ醜いだけの虫けら、くらいにしか思っていなかった。
「……綺麗だね」
「ねー」
水面に揺れる星と踊る生命の光。それを祝福するかのように、あるいは一緒に騒ぎ立てるように、湖を囲んだ森の木々にもまた生を主張する翆色の灯火がある。
そっと自分の右の手のひらに視線を下ろした。
目がある。無数の目が。くだらないと歯牙にもかけなかった、ちっぽけな命の煌めきが。
「あ、そうだ!」
「わ、わわっ!? ちょっと!」
突然こいしがフランの左手をばっと奪い取ると、ぽちゃんっ、と湖に足を踏み入れていた。
いや、踏み入れてはいないか。あくまで水面に立つ形になるようにして妖力で浮いている。器用なことだ。
「私たちもホタルと一緒に踊ろうよ。ね? その方がきっと楽しいよ?」
「……ふふ、あははっ!」
勝手に笑いがこぼれてくる。こいつはいつでもどこでも、どゎなタイミングでも本当に変わらない。
「まったく、お前は本当に変なやつね。でも、ええ。そうねぇ、確かにその方が楽しそうだわ。一日遅れの虫けらどものお祭り騒ぎ、一緒に参加しましょうか」
「一日遅れ?」
「十六夜だからね。満月は昨日だったでしょ?」
「そんな昔のこと忘れましたっ!」
「昨日のことだってば」
確か、満月の日だと妖怪がいろんなところでどんちゃん騒ぎしていて下見どころじゃないとかなんとかで、その次の日に落ち合う約束になったはずだ。フラン的にも、姉がテンション高く騒ぎ出す満月の夜に出かけることが愚策なのはわかっていたので、二つ返事でそれには了承していた。
……や、二つ返事ではなかったっけ。割と大分結構渋った。こんなめんどくさいやつとまた会わなきゃいけないのか、という感じに。
でも結局は頷いたのだ。ねだられるがまま指切りげんまんまでした。嘘ついたら針千本飲まないといけないやつ。そんなことしても妖怪は死なないが。
無理矢理断ることだって、待ち合わせをすっぽかすことだってできたのに、それをしなかったのはたぶん。いや、きっと、自分が彼女のことを。
「それじゃ、ダンスのエスコートをお願いできるかしら。イケチョウガイフェイスなこいしさま?」
口調は冗談交じり。けれど要求は本物だ。
そうして小さく微笑んでみせると、こいしはぱちぱちと目を瞬かせて。
「えっと、その、フラン……貝の顔なんてしてないよ、私。目とか大丈夫?」
「は?」
「もしかして単語の意味わかってないのかな。まったくもー、ちゃんと英語とか勉強した方がいいよ? ドヤ顔で間違えてると恥ずかしいし。まぁイケチョウガイは英語じゃないけどね!」
「…………あのさぁ」
なんか右手が勝手に拳の形を作ってぷるぷると震えてきた。
「私は、お前を、殴っていいよね? いいわよね? ちなみに答えは聞いてない」
「わーっ! フランが急に不良娘になったー! こんな悪い子に育てた覚えないのにー!」
「育てられた覚えもないわ!」
繰り広げられたのはあいにくと追いかけっこのダンスだったが、湖に映った星たちはそれを歓迎するようにひたすら揺らめいてくれた。まぁ、ぶっちゃけ物理的な風圧で波ができてただけなのだが。
結局その日は下見だとかそんなものは一切できなかった。フランは元々そんな気はさらさらなかったにせよ、途中からこいしもとっくに忘れてしまっていたようだ。ただただ湖の付近で遊び呆けて夜は更け、明けていった。
そして最後にフランはこいしとまた約束を交わした。月下。もう一度一緒に外で遊ぼう――今度こそ下見――と、指切りを。
・二人揃えばダークファイブだって三人の闇の戦士だってジャアクキングだって闇のファイターだってなんとかマーブル・スクリューで一撃粉砕だよ!
→ふたりはプリキュアより。プリキュアの美しき魂が! 邪悪な心を打ち砕く! プリキュア・マーブル・スクリュー!