妖怪にとって、月の光は人間にとっての太陽のそれとなんら変わらない。人間であれば数歩先さえ見通すことが難しい夜闇であろうと、月光が差し込んでさえいれば妖怪の目にはその景色がはっきりと映る。
森の中。こいしに手を引かれるがまま、木漏れ日のようにわずかに月光が差し込む空間を、かれこれ一時間は歩き続けていた。
「あのさ……ほんとにこっちで合ってるの? 一向にたどりつく気配がしないわよ」
「ふっふっふ、だいじょうぶだいじょーぶ! 外のことなら全部この私に任せなさーい! ……あれ、この三つの道どっち行けばいいんだっけ? こっち? あっち? そっち?」
「……はぁ」
先日まで雨が振っていたからか、踏みしめる地面は少しばかりぬかるんでいて、足を進めるたびに少しだけ気持ちの悪い感触が靴を通して間接的に伝わってくる。
外をよく知らないフランにとって最初はちょっと新鮮だったそれも、何度も何度も繰り返し続けていたら煩わしいとしか感じなくなってしまった。
そもそもどうしてこんなじめじめとした森の中にいるのか。いや、その原因は思い出そうとするまでもない。下見こと遊びに来たこいしに連れられて。それだけで説明がつく。
外に関しての知識がなかったことが仇になった。こんな居心地の悪い陰湿な場所を通らなければいけないとわかっていれば二つ返事で頷きなんてしなかっただろう。けれど、今更後悔したところでなにもかもが遅い。
「ねー、こいしー。やっぱり木々の上を飛んでいかない? いい加減同じ景色にも飽きたわよ。それに、そっちの方が目的地もすぐに見つかるでしょ?」
「むっ、もしかしてフラン、私が迷ってるって思ってるのかな? かな? ぶーぶー、全然迷ってなんかないもん。それを今に証明してあげるもんっ」
「意地にならないでってばー、もう……」
空気も足場もなにもかもが悪く、地面や木々を這い回る虫けらもまた目障りで、いい加減辟易としてきている。
こいしが意固地になってしまっているからもう少しだけは付き合ってあげるが、次は無理矢理にでも彼女を抱えて空を飛ぼう。そう決意して、あいかわらずきょろきょろと行くべき場所がはっきりとしていないようなこいしに、今日だけでもう何度ついたとも忘れてしまったため息をつく。
ふいと、魔法で右の手のひらの上にこぶし大の焔を生み出してみた。
いっそこれで、この森ごと全部燃やしてしまおうか……。
もちろん冗談……のつもりだったが、鬱憤がたまりすぎていたのか、一瞬だけ本気でそうしてもいいかもと思いかけてしまった。館の中をふらふらしている時と違い、今回はこうして足を進めるだけでストレスがたまる。何度も言うようだけれど、フランは本当に辟易としていた。
……あぁ、もう! やっぱりもう飛ぼう!
「――あっ、あった! あそこだよあそこー!」
「え、ついたの? 本当に?」
こっそりとこいしの背後に忍び寄り、いざ問答無用で抱え上げようとした瞬間、こいしが喜々として進行方向を指差し始めた。
明らかに迷っていたのに本当につけたのか。信じられないとばかりにぱちぱちと目を瞬かせるフランに、こいしはふふんっ、とひどく得意げげな顔を披露してみせた。
「ほら、やっぱり迷ってなかったでしょっ? ふふん、ふっふーんっ! どう? どう? すごいでしょ、すごいでしょー? どやぁ! どやぁあっ!」
「しつこい」
「あいたっ! むぅー……叩くのはひどいよー。ぼうりょくはんたいー」
涙目で額を両手で抑えて抗議するこいしを押しのけて、きちんとこの目でこいしの言うことが事実なのか確認する。
こいしが指差した先にあったもの。それは窓が割れ、壁にもところどころ穴が空いている、ひと目見ただけで人間は住んでいないとわかるようなぼろぼろの廃館だ。
今日は元々、夏だから肝試しに行こう! とこいしがフランを引っ張ってきたのが始まりだった。
肝試しと言っても元々魑魅魍魎の類であるフランやこいしにとって、ただの幽霊風情など恐れるに足りない。せいぜい、人間や妖怪などの他者に取り憑く性質を持った怨霊――輪廻転生の輪から外れ、未来永劫幽霊のままの悪意の塊――が少し危険なくらいだろうか。とは言え、その怨霊はただでさえ弱い幽霊よりもさらに弱い。精神の乗っ取りもこちらが相当弱っていなければありえるはずもない。
肝試しとは怖がりに行くことではなく、幽霊に会いに行くこと。幽霊はあらゆる気質の具現であり、特性としては肉体を持たず、体温が非常に低い。要はこいしは「夏だから涼みに行こう!」と言っていたのだ。
「ねぇフラン、あの家泣いてる……」
「は?」
「ほら、泣いて、震えてるみたい」
「いや、泣いて震えてるのはお前だから。まぁ、その……泣いてるのは私のせいなんだけど」
ちょっと強く小突きすぎたかもしれない。吸血鬼は非常に力が強い。そしてフランは他人と触れ合うことが少ないから、どれくらいなら大丈夫なのかの加減がいまいちわからない。ちょっと反省していた。
しかし震えているのはなぜか。寒がっているのか、怖がっているのか。もちろん後者はありえない。かと言って寒がっているかと言えば、それも違う。夜とは言え今は夏だ。そこまで寒くない。むしろ涼むためにここに来たのにすでに寒がっていては本末転倒である。
つまり第三の選択肢、肝試し的な雰囲気を出したくて、面白がっている。それが正解だ。
「さぁフラン、早速レッツファイト!」
「なんで戦うのよ。レッツゴーね」
あいかわらず当たり前のように英語を間違える。しかもおそらく、いやきっと故意だ。初めてこいしと湖に行った時のことを思い返し、じとっとした半眼になる。
そんなフランの責めるような視線をものともせず、こいしはフランの手を引いて機嫌よさげに弟切荘の看板が掲げられた廃館の入り口へ向かった。
「いやっほーいっ! 元気してるぅ? いつもにこにこあなたの無意識に這い寄る混沌、こいしちゃんだよ!」
無意味に意味不明な自己紹介を叫びながら、こいしが引き戸を開く。中へ足をださーい! 踏み入れると、途端に全身をひんやりとした空気が包み込んだ。まるで秋の夜風のように心地のいい涼しさに自然と頬が緩む。どうやら相当数の幽霊が生息しているらしい。
「中も相当ぼろいわね……気を抜いてると抜けた床に足がはまったりしちゃいそうだわ。こいし、お前はいちいちどこでもはしゃぐんだから注――」
「へぶっ! うぅー……なにこれ。頭打ったー……フランから叩かれたのと同じところー……」
いつも通りハイテンションにスキップでも始めるかのように踏み出した一歩目で床に空いていた穴に足を取られ、派手に頭から転倒していた。スカートもめくれ上がっている。
「あー……言わんこっちゃないわね」
これがレミリア辺りなら指差して笑いながら周囲を回ってあげるところだけれど、こいし相手にそれは忍びない。すぐに近寄って助け起こした。
「あれ、フランが優しい……うーん、これがアメとムチっていうやつなのね。それとも吊り橋効果?」
「どっちも違うから。その……さっき叩いたのは、えっと……ごめんね。悪かったわ」
「へ? あははー、あんなの謝らなくたっていいよ。全然痛くなかったし」
「たんこぶできてるんだけど……」
「全然痛くなかったし! し! しっ! しーっ!」
「わ、わかったわかったっ、わかったからっ。そんな詰め寄ってこないでって」
なにをそんな意固地になっているのかは知らないが、こいしのように床に空いていた穴に足がはまりそうになって、慌ててそこから退いた。
彼女をどうにか落ちつかせると、改めて館の中を進むことにした。
二度も頭を打ったからか、こいしも彼女なりに学習したらしい。やたらめったらはしゃぐのはやめて、足場をきちんと確認しながら歩いている。
……いや。本当に学習、したのだろうか。足を止めてこいしを観察する。
確かに足元はきちんと見ているが、けんけんぱのように床の穴を避けながら鼻歌でも歌いそうな感じで楽しそうに廊下を進んでいる。そのうち床が抜けて同じ失敗を繰り返しそうな予感もするが……こいしはなにを言ったところで聞かないか。
首を横に振って、フランもこいしの後を追った。
「あっ、見て見てフラン。あそこに幽霊がいるよっ」
こいしが指で示した先、階段の近くで、白い不定形の人魂のようなものがいくらかふわふわと漂っている。
「ふーん、あれが幽霊……なんていうか、焼いてふくれたおもちみたいね」
「わっ、たとえがおいしそう。試しにちょっと食べてみる?」
「あれ食べられるの?」
「みたいだよ? うちのお姉ちゃんのペットなんかはよくむしゃむしゃ食べてるの見るし」
「ふぅん。まぁ、私は別にいいかな……ところで、今ので幽霊たちが怖がってどこか行っちゃったみたいだけど」
ぴゅーっ、と逃げるように、いや実際に一目散に二人から逃げ去っていった。こいしなら「待て待てー!」とか言いながら追いかけそうではあるが、二度も頭を打ったのだからさすがにしないだろう。
「待て待てー!」
「知ってた」
即座に走り出そうとしたこいしの襟を掴む。ぐえっ、とおよそ女の子が上げてはいけないような苦悶の声が聞こえたが、三度額を強く打ちつけるよりはマシだと思ってもらいたい。
ぶーぶー。目線で抗議してくるこいしを今度はフランが引っ張って、階段をのぼって二階へ向かう。
こうして歩きながら視線を巡らせれば、どこもかしこも幽霊がはびこっていた。それも当然かもしれない。暗くじめじめとした森の中、人気のない陰気な廃館だなんて、まさしく幽霊が生息するのにうってつけの環境だ。
もしも仮に紅魔館が廃墟になったとすれば、ここと同じように幽霊がそこら中を闊歩するようになるのだろうか。家が廃墟になるのはごめんだけれど、それならば夏はずいぶんと居心地がよくなりそうだ。冬は寒そうだが。
「……あれ? この音……」
「フラン? どうかしたの?」
どこでもいい。ちょうど近場の扉を開けて、多くの部屋のうちの一つの中へ踏み入った。
窓枠さえも取れかかっている窓に駆け足気味で近づくと、外に広がっていた状況に思わず苦い表情を浮かべてしまった。
「やっぱり雨……これじゃ帰れないわ」
「そうなの?」
「吸血鬼は流水を渡れない。知らないの? ……実際は渡るのが嫌なだけなんだけど」
「普通のお水は平気なのに? 変なの」
「まぁ確かにそうなんだけど……流水は私たち吸血鬼にとっては泥水みたいなものなのよ。別に苦手ってわけじゃないけど、自分から渡りたいとは思えないわ」
今はまだ小雨だけれど、風上に広がる雲はずいぶんと薄暗く、これからどんどん雨は強くなっていく可能性が高いことを容易に窺わせた。
「……これじゃあ、今夜は帰れないかも……」
一瞬、外出していたことがレミリアにばれてしまう可能性が頭をよぎる。これまでは比較的短い時間だったから問題なかったが、しばらくの間どこにも見当たらないとなれば彼女はなにかに感づいてしまうかもしれない。
……いや、問題ない。きっと大丈夫だ。フランはあの館の誰とも決まった関わりがない。普段は常に一人。確証を持たれることはまずありえない。
「こいし、先に帰ってていいわよ。なんだか雨が強くなってきそうだろうし、早く帰った方がいいわ」
「え、フランは?」
「私は雨がやむまでここにいる。すぐやめばそれでいいけど、長くて二四時間……まぁ、一日中くらいかな。だから待ってるだとか考えなくていいわ。いたって暇なだけだもん」
「むぅ、でも……」
わずかに水滴が入り込んでくる窓から離れ、部屋の隅にうずくまる。壁に頭も預けて、体を休められる楽な体制を取った。
「別に気なんか遣わなくたって大丈夫よ。ひとりぼっちは、慣れっこだから」
遊び道具を壊してしまうことが多かったフランにとって、自分以外のなにもかもが存在しない世界で過ごし続けることは実際、苦痛でもなんでもない。誰と関わる必要のない、誰の目も気にすることもない、ありのままの自分でいられる居心地のいい孤独。それだけで完結した小さな怠惰の世界。
これまで生きてきた約五〇〇年、ほとんどの時間を一人で過ごしてきた。今までずっとそうだったのに、今更たった一日程度、なにが変わるということもない。一人でいること。フランにとって、それは本当に本気で平気なことだ。
今日はずっと足場も空気も悪い森の中を歩き続けてきて、体はともかく精神が少し疲れている。目を閉じて力を抜けば、一分もせずに眠ってしまえそうだった。
けれど、そうして睡魔に身を任せようとするフランに、歩み寄ってくる気配がある。
「なに勝手なこと言ってるのよ、もー。一人に慣れるだなんてあるわけないじゃん。第一いたって暇なだけって、フランと一緒にいるのに暇なわけないでしょ?」
薄目を開く。ぷんぷんと擬音が浮かんでいそうな表情をこいしが浮かべていた。
「一緒にいるのに、ねぇ。まぁ確かに、お前は一人でも暇なんてしてなさそうだけど」
「そんなまるで私が頭空っぽな
「…………うん、確かにちょっとひどかったかも。ごめんね。悪かったわ」
「え、本気でそう思ってたの? さすがにちょっと傷つく……わけないけどねー。えへへー」
「でしょうね、って」
こいしがフランの真横に来たかと思うと、膝を丸めて座り込み始めた。そして壁によりかかるフランの真似なのか、フランの肩に頭を預けるように傾けてくる。
「……なにこれ」
「貧乏な姉妹が物乞いとかうまくいかなくて部屋の隅っこでかたまって励まし合ってる儚い感じの光景に見えない?」
「なんで状況がそんな限定的なのよ」
「片方が、あったかいね、とか言って。もう片方が、うん、とか呟きながら擦り寄ったりしてー」
「はいはい」
まともに付き合ってもこちらが疲れるだけなのはわかり切っている。適当に流した。そもそも、それよりももっと気になっていることがあるのだ。
「で、お前本気なの?」
「本気? なにが?」
「……雨がやむまで、私と一緒にいてくれるのかってこと」
「へ?」
「……やっぱりいてくれないの?」
「そうじゃなくってさー。え、フラン、もしかしてほんとに私が帰ると思ってたの? そもそも私がいないとおうちに帰れないのに?」
「それは、まぁ、確かにそうかもしれないけど……」
紅魔館には門番の妖怪もいる。帰る際、こいしの能力がなければほとんどの確率で誰かに見つかるだろう。
「でも、お前にはそれに付き合う義理もなにもないじゃない」
「なに言ってんのよー。私たちはシスターブラザーズ、いずれ幻想郷を支配する伝説の二人組でしょ?」
「シスターアライアンスね。っていうか、伝説ってなに?」
「うん! そもそもだよ? フランが見るからに寂しがってたのにほっといてどこかに行っちゃうなんてするわけないじゃん。こんなあからさまな好感度イベントのフラグをスルーするなんて三下の三流のすることだわ」
「好感度イベントって、あのねぇ……そもそも寂しがってたつもりなんてないんだけど。あと結局伝説ってなんなの?」
「うん!」
「いやうんじゃなくて」
ばっ! とこいしが勢いよく立ち上がった。儚そうな感じの貧乏姉妹を演じるのはもう飽きたらしい。
「フランっ、ふーらーんーっ。もっとたんけん、たんけんしようよー」
うずくまったままのフランの肩をぶんぶんと揺らしてくる。あいかわらず騒がしい。休みたいのに休ませてくれない。
「ねーねー! たんけんっ! ねー! ねーねーねー! た、ん、け、ん! ねーねー! ねぇーっ! ねぇーってばー!」
「あーもう、わかったわよっ。わかったから揺らすのはやめてっ。立てないから」
「いやったぁーっ! 幽霊屋敷の探検だーっ! それじゃあまずは日記とかそういうの探そうよ! 謎解きだよ、謎解き! 問題です、なぜこのお屋敷は廃館になったのでしょうっ!」
「あー……それじゃあ第二問。この変な目の妖怪はなんでこんなにハイテンションなのでしょう……なんてね」
フランが立つと、こいしはスキップでもするかのように上機嫌に部屋の扉に向かい始めた。その姿に、くすり、と自然と笑みが浮かぶ。
別に一人だろうとなんだろうと寂しくなんてない。本当だ。
けれど、その一人でいることが楽しいのかと聞かれれば、それは――。
「――へぶっ!」
「……あー、えっと、その……大丈夫?」
「フラン……もし私がここで力尽きても、フランだけは必ず伝説を……がくっ」
「いや、口でがくっとか言われても……」
二度あることは三度ある。三度額を打ちつけたこいしに肩をすくめつつ、彼女を抱き起こした。
一人でいることは別に寂しくはない。けれど、こうして二人でいることを楽しいと感じていることにもまた、間違いはない。
それだけわかればじゅうぶんだ。
どうかもうしばらく、雨がやまないように。そんな風になにかに強く願いごとを託したのは、初めてのことだった。
・あれ、この三つの道どっち行けばいいんだっけ? こっち? あっち? そっち?
・ねぇフラン、あの家泣いてる……
→弟切草より。こっちは右、あっちは真ん中、そっちは左の道。
・私が迷ってるって思ってるのかな? かな?
→ひぐらしのなく頃により。かな? かな? は登場キャラクター竜宮レナの口ぐせ。
・いやっほーいっ! 元気してるぅ?
→グリモア~私立グリモワール魔法学園~より。みんなのサポ役ノエルちゃんの自己紹介文の一部。
・いつもにこにこあなたの無意識に這い寄る混沌
→這いよれ!ニャル子さんより。いつもにこにこあなたの隣に這い寄る混沌。更なる元ネタはラヴクラフトさまのクトゥルフ神話。
・伝説ってなによ
うん!
→遊戯王デュエルモンスターズGXより。「伝説上の生き物さ」「伝説って?」「ああ! それってハネクリボー? それじゃ君が遊城十代?」「そうだけど……お前、ハネクリボーが見えるのか?」。その後、伝説に触れられることはなかった。