UAが4万を超え、お気に入りも500件を超えていました。大変な亀更新となってしまいましたが、今後もぼちぼちと更新していきますのでよろしくお願いいたします。
フィールドボス討伐~クリスマスイブの夜まで
文字量が普段の四倍ほどありますので、読まれる方はお時間にご注意ください
十二月二十四日午後三時。第四層中央部に位置するカルデラ湖の手前に、フィールドボスである
ピークォッド号は『
攻略開始の時間となったところで、DKBの大型船から
ALSの六人乗りゴンドラから「今日はラストアタックはとれねぇな!」等と欲しくもない一言が飛んでくる。ポジションを決めたのはそっちだろうと言い返したくなるが、操船担当の黒の少年は無言を貫いているのでならばと、彼に溜まっているだろう鬱憤を代わりに晴らすべく細剣二連撃技<<パラレル・スティング>>を黒光りする分厚い甲羅の上から叩き込む。体力がジワリと減ったようにも見えたが効果的ではないのは明らかで何とも空しい気持ちになった。
「今回はあまり出番はなさそうね」
「そうだなぁ。まあ、側面にいれば船は無傷で済むから、楽できていいんじゃないかな」
確かに側面には攻撃が飛んでこないので、船はおろか接近して攻撃しているアスナの体力ゲージすら無傷だ。楽ができていいとキリトは言うが、これでは必死の思いで午前中のふわふわとした気持ちを切り替えた意味がない。無論油断をするわけにはいかないが、拍子抜けしてしまうのは仕方がないだろう。
時折発生する突進の注意だけしておけば、本当にダメージを食らわない。アーケロンの前面に張り付いている二大ギルドの船はそれなりに被弾をしているようだが、大型船の耐久値は高いのだろう、特に慌てることがなく攻撃を続けているように見える。アーケロンの二段のHPゲージの内、既に一本目は空っぽになっており、二本目もぐんぐんと減っている。
「キリト君、そろそろゲージ赤くなるよ!」
もうじきHPがレッドゾーンに入る。暴走モードになればどのような攻撃をしてくるのかはわからないため、アスナは確実に聞こえるように大声で叫ぶ。するとそれに呼応するようにティルネル号がアーケロンから離れていく。念のために距離を取ることにしたらしい。そして、その判断はどうやら間違っていなかったようだ。
甲羅を挟んで反対側から、「離れろ!」とエギルの大声が聞こえたのはHPがレッドゾーンに入った瞬間のことだ。今まで前面にしか攻撃を行っていなかったアーケロンが、ヒレや尻尾を甲羅にぴったりと張り付けその巨体を回転させ始めた。二大ギルドの船の方を窺えば、どうやらソードスキルの連発で削りきる魂胆のようで猛烈な連撃を加えている。しかし、アスナは直感的に間に合わないと感じた。
「アスナ、屈め!」
後ろからの声に、アスナは反射的に身体を屈める。この状況で彼がやろうとしていることは一つだ。アスナはアーケロンの体力が削りきれず船が転覆した時のことを考え、すぐに浮き輪が取り出せるように右手を動かす。ストレージ内の浮き輪一つで二人分の浮力を得ることができるかは疑問だが、少なくともないよりはマシに違いない。
ティルネル号が加速し、アーケロンへと突進していく。普通の船に乗っているならば自殺行為以外の何物でもないが、この船の
「……知ったことか! 俺だって、このポジションを譲る気はないからな!」
ドスンと、
止めを刺したのはティルネル号だが、アスナのリザルト画面にはラストアタック表示がない。つまり、今回は取れないなと言われていた船頭の彼がまたしてもラストアタック・ボーナスをかっさらっていったのだろう。チラとキリトの方に視線を向ければ、やってやったぜと言わんばかりの満足げな顔をしていた。これでまた一つ彼の悪評の元が増えたことになる。
「悪い、急に突進しちゃったけど、やばそうな攻撃してきそうだったからさ……」
「ううん。正しい判断だった思う。でも、このポジションって何のこと?」
「あ、ああ、船頭、ゴンドリエーレのことだよ」
「……ふーん」
明らかにごまかしている感じだが言いたくないのなら仕方ないし、聞かなかったところで特に問題になるような内容のものとも思えないので、アスナは追及をしないことにする。
「まあ、いいわ。とりあえず移動しましょう。あちらさんの視線がすごく微妙な感じになってるし」
エギル達からは称賛の声が掛けられているが、二大ギルドの面々は皆それぞれ渋い表情をしている。こういう時は逃げの一手に限るのだ。アスナの声でキリトもそれを察したのだろう、声をかけてくれたエギル達に手を振りかえした後、櫂を倒し速やかにカルデラ湖の出口へと船を進めた。
次の村は<<ウスコ>>という名前の小村で、ベータテスト時代も重要なクエストは無かったとのことから、休憩と補給を行ったらすぐ次の目的地に行くことになるだろうとはキリトの談だ。カルデラ湖からは大した距離でないらしいのでのんびりと座っていたアスナであったが、突如水面を走りながら現れたアルゴの姿に驚愕する。ついに忍者になったのかとキリトが驚いていたが、それも無理はないと思う。木製のサンダルにフローターのようなものを付けた靴で滑るように水面を進んでいるのだから。
このアルゴという女性の神出鬼没さには驚愕を禁じ得ないが、彼女の目的地も恐らくは次の村なのだろうと、アスナはティルネル号の空いている席の一つを勧める。「お言葉に甘えテ」と言いつつ飛び乗ってきたアルゴは、座席に座るなりアスナに顔を寄せて小さい声で尋ねてきた。
「噂になってたゾ、アーちゃん。攻略組の美少女剣士が、男と手を繋いで歩いてたッテ」
「……まあ、そうですよね」
恐らくアルゴはからかうつもりで言ったのだろうが、アスナにはそりゃそうだろうという思いしかなかった。美少女剣士という言葉には突っ込みを入れたいが、あれだけの人に注目されていたのだ、噂の一つや二つ立って当然だろう。溜息一つつくが、どうやらアスナの反応はアルゴにとっては想定外だったようで、心底意外だという声を上げる。
「おヤ、もっと照れたり恥ずかしがったりすると思ったんだガ。意外や意外、もしかしてもうそんな関係になったりしちゃったのかナ? アーちゃんは大胆だナァ」
「ちょ、ちょっと、そんな関係ってどういうことですか! 違います! 今日のはただのデ……」
デートという言葉を口にしかけて、ぎりぎり飲み込む。アルゴの言うそんな関係がどんな関係なのかはアスナにはわからないが、デートという言葉を口にすればそれなりの関係であることを認めてしまうようなものだ。アルゴのニヤニヤした視線がアスナに突き刺さり、何かしら言い返したい衝動に駆られるが、アスナは必死に口をつぐむ。彼と自分は相棒ではあるが、それ以上の関係ではないのだ。
彼からの好意は感じ取れる。しかし、彼は決してこちらに踏み込んでこない。手を繋いだのも、元々は第二層でバフを貸してくれという名目の元にアスナから行動したものだ。今日は彼から手を繋いでくれたが、それ以上のことはしなかった。攻略に関しては自ら積極的に動くのに、こと人間関係に関しては受動的なのだ、キリトという少年は。
これ以上の事を、望めば、してくれるのかもしれない。だが、それは自らの甘えによる衝動を彼に対して押し付けることになる。そもそも手を繋ぐことだって相棒という関係で行うには少々無理があることであったし、これ以上のことを自分が本当に望んでいるのかもわからなかった。
「アーちゃん、どうしタ? 急に俯いて、暗い顔になってるゾ」
「あっ、ご、ごめんなさい。ちょっと思考の沼に嵌っちゃって」
考え込んでいる内に表情が暗くなっていたようだ。俯いていた顔を上げ、平静を装ってからアルゴに謝罪する。きっと、この問題は一人では答えが出ない。キリトと話し合って初めて何かしらの結論が出せる部類のものだ。だが、それを話すには彼との距離が少し遠すぎる感じがした。アルゴは「そうカ」と一言だけ言うと、アスナをじっと見つめている。
「……マア、あまり考えすぎないことだなアーちゃん。あの世代の男子なんて、少し脱いで誘ってしまえば一発だゾ」
「脱いっ!? ななな、何言ってるんですか! そ、そんなことできるわけないじゃないですか! そもそもそんな関係じゃないって……!」
「ニャッハッハッ! 顔を赤くして言っても説得力無いゾ、アーちゃん!」
――こ、この人は、本当に……!
からかわれているとわかっているのに、つい反応してしまうのはアルゴの話題の振り方が上手いせいだ。そうに違いない。ネタを握られてるために手も足も出ない事実に無性に悔しさを感じるが、口を開けばそこをまた突っ込まれる。今は黙っているのが一番なのだ。
「ありゃ、拗ねちゃったかナ? まあでモ、アーちゃんはクリスマスを楽しめているようデ、結構結構」
「……確かに、楽しかったですけど」
まだ夜にもなっていないというのに、今までの人生で一番楽しいと感じるクリスマスだった。現実世界とは違う、人の温もりを感じることができるクリスマス。一緒にご飯を食べるだけで、一緒に歩くだけで、今までモノクロだった一日が色彩豊かになった。平凡な一日が、思い出に残る貴重な一日に変わった。大切な時間を与えてくれたキリトにはそのうち何かお礼をしなければならないだろうと考えた所で、アスナはあることを思い出す。
――そういえば、プレゼント渡すの忘れてたな。
楽しさにかまけ過ぎて、折角用意したプレゼントのことを忘れてしまっていた。昨日の夜に用意したプレゼントは二つで、キリトとアルゴのものだ。キリトがアスナの歩むべき道を示してくれた恩人ならば、アルゴはアスナに歩き始めるきっかけをくれた恩人なのだ。この二人にプレゼントを渡さないという選択肢はアスナには無かった。
キリトとはこの後も一緒に行動するので夕食の後にでも渡せばいいとして、アルゴには今渡しておくべきだろう。村までは共に来るのだろうが、その後どう行動するのかはわからないし、明日も会えるとは限らない。
「あの、アルゴさん」
「ン、何だイ? 何か話す気になったのかナ?」
「違います! ただ、今日はクリスマスなので、良ければこれ使ってください」
アスナはメニューを操作し、事前に用意しておいた赤いリボンで閉じられた紙袋をアルゴに手渡した。
「オオ! ありがとう、アーちゃん! 開けていいかイ?」
「はい。その、裁縫スキルが低くて実用品とはいかなかったんですけど、もしよければ使ってください」
アルゴに渡した紙袋の中にはマフラーと手袋が入っている。アスナの裁縫スキルでは現在の最前線で通用する程の防具を作ることはできず、かといって使える物を購入できる程所持金に余裕は無い。結論として、実用品ではなく何かあったときに使える物で、冬らしいものをということでこのチョイスになった。普段使うことはできないが、今後雪が降ったり寒い階層が出てくることもあるだろう。その時にでも、使ってもらえればいい。
「イヤァ、まさかプレゼント貰えるとは思ってなかったから、オイラなにも用意してないんダ。ごめんヨ」
「気にしないでください。いつもお世話になってますから」
「そういってもらえると助かるヨ。でも、今度必ずお礼はするから期待しててナ!」
アスナが頷くと、アルゴはアスナからのプレゼントを早速船尾にいたキリトに見せびらかしている。その姿は本当に喜んでくれているように見えて、アスナの心を温める。
――そういえば、誰かにクリスマスプレゼントを贈るなんて久しぶりだな。
幼いころに兄に手伝ってもらって両親に何かしら贈った記憶があるが、アスナが一人で身の回りのことができるようになってからは両親も仕事を優先するようになり、誰かにプレゼントを贈る機会など無くなっていたのだ。
現実世界よりも仮想世界の方が新しくいい思い出が増えていることはアスナの意思を揺らがせるが、相棒の言葉を借りて、プラスの感情を否定するのは
第四層の三つ目の街<<ウスコ>>は三日月形の湖に浮かぶ村だ。バルサ材のような丸太を何本も組み合わせ、その上に十数軒の小屋や通路、広場が作られている。主街区ロービアはヨーロッパテイストの街だったが、この村はまさに南国風といった雰囲気だ。クリスマスイブには合わないことこの上ないが、季節を度外視すれば一見の価値はある景観と言えるだろう。
フィールドボス攻略に参加した他のプレイヤーは主街区に戻ったか、別の場所へと行っているようで今この村に居るのはキリト達三人だけだ。村の中をしばらく進み、トロピカルな雰囲気のレストランに腰を落ち着けた。併設されているオープンテラスは湖に面しており、この街の雰囲気を楽しみながら食事をするにはまさに理想的だ。取りあえずはフィールドボスの攻略お疲れ様ということで、大振りなカクテルグラスに注がれた色鮮やかな飲み物で祝杯を挙げる。
「しかし、キー坊驚いたゾ。クリスマスイブにアーちゃんをデートに誘うとは、やるじゃないか」
「ちょっ! アルゴさんまたその話ですか!?」
「さっき聞いたのはアーちゃんだけだからナ。当然その相方にも話を聞かなきゃ情報屋の名が廃るってもんサ」
この街へ移動している途中の船の上でアルゴとひそひそ話をしていたアスナが急に拗ねたように見えたのはこれが理由だったらしい。キリトの目の前でキャッキャとしている姦しい二人の女性の姿をぼんやりと見つつ、キリトは午前中の出来事のことを思い出す。
食事をし、公園でゆっくり過ごし、商業区の商店を見回り、はじまりの街の城壁の上から見渡せる第一層の全景を楽しんだ後、第二層のレストランで<<トレンブル・ショートケーキ>>をクリスマスケーキ代わりに美味しくいただいた。何分妹以外の女性と二人で歩くなど初めてであったので、アスナを楽しませることができたかどうか不安ではあるが、いつもよりは笑顔が出る回数が多かったように感じたので問題はなかったと思いたい。
「話って言っても、はじまりの街をぐるぐる回ってただけだからなぁ。特に何もなかったぞ」
「嘘付ケ。手をしっかり繋いで楽しそうに歩いてたって情報が上がってるんダ。何もないってことはないだろウ?」
「……まあ、手は繋いでたけど、それ以外は本当に何もないぞ?」
確かに昨日の夜のキリトは嫉妬の心を覚えていたし今日だってデートという形を取ったのも確かだが、アルゴの言う何かとやらがなかったのは事実であるし、またあっても困る。
アルゴの探るような視線がキリトに向けられているが、グラスに注がれたライチっぽい香りのジュースを傾けながらアルゴの追及を躱す。普段なら慌てるところかもしれないが、今回は全く動じないキリトの態度を見て諦めたのだろうか、アルゴは溜息をつくとやれやれといった体で口を開いた。
「本当に何もなかったみたいだナ、キー坊。オネーサンは悲しいゾ、クリスマスイブにデートしたのにキスの一つもしないとハ。アーちゃんに恥かかせたままでいいのカ? ン?」
「キッ、キキキ、キスなんてするわけないじゃないですか!? それに恥なんてかいてません!」
「ホホウ! それはつまり、キー坊のエスコートに満足しているト! 良かったなキー坊、アーちゃんはまたデートがしたいみたいだゾ!」
顔を真っ赤にして涙目になりながら否定するアスナを掌の上で転がして楽しんでいるアルゴ。普段はあれほど冷静で知的な雰囲気のアスナをここまで振り回すとは大したものだと思う。ターゲットを引き受けてくれているアスナと、あのニヤリとした表情がこちらに向いていないことに感謝するが、怒りながらぷるぷると震えだしたアスナが爆発するのも時間の問題だ。
「さテさテ、可愛いアーちゃんの姿も見れたし、オイラは主街区へ戻るとするかナ」
しかし、流石にそこは<<鼠>>と言ったところか、しっかりと引き際を弁えている。怒るタイミングを逃したアスナは自分の怒りの向けどころが無くなり大変であろうが、その内気づくはずだ。アルゴにこんなにからかわれたのは、目の前の黒い奴がフォローしなかったせいだと。キリトからすれば理不尽なことこの上ないが、フォローを入れなかったのも事実なので何も言えないのが辛い所だ。よって、キリトの取るべき選択肢は一つ。別の話を繋げることで、うやむやにするということだった。
「おいおい、もう戻るのか? こんなに早く戻るなら、何のためにこの村まで……ってそれは野暮か」
「そういうことだナ。この村のクエストやら店売りアイテムの情報は早めに必要だろうヨ。それと、一応クリスマスパーティーにも顔を出さなきゃならんからナ。両ギルドのリーダーから直接誘いが来てるんダ。あまり目立ちたくないんだガ、無下に断れんしナ」
「ほう。リンドとキバオウから、ねぇ……」
あの二人はしっかりとアルゴというプレイヤーの重要性を認識しているということだろう。現在攻略がここまで順調なのは、アルゴがベータの情報と現在進行形で上がってくる正式サービスの情報を集積して配布しているからだ。恐らくではあるが、そのような重要人物であるアルゴと二大ギルドの関係は良好だと示すと同時に、アルゴの情報は攻略組も信用しているものだということを下層の面々に知らせるつもりなのだろう。
一時はアルゴもキリト同様ベータテスターとしてバッシングを受けたが、その悪評判を消しても余るほどの功績を上げているのは間違いない。今回の事でアルゴが情報屋として動きやすくなればいいのだが。
「まあそういうことなら、リーダー二人と乾杯でもして楽しんでくればいいさ。折角のパーティーだからな」
「そうさせてもらうヨ。誰からも呼ばれなかった誰かさんの代わりにナ」
「ぐっ! い、いいんだよ! ネトゲプレイヤーのクリスマスは、一人パソコンの前に座ってゲーム内イベントを楽しむものなんだよ!」
「悲しいナァ」
「やかましい。てか、お前だってどうせ俺と大して変わらんクリスマス過ごしてきたんだろ?」
「……キー坊。オネーサンにケンカを売るとはいい度胸ダ、気に入っタ。お望み通り、明日から主街区には入れないようにしといてやル」
「すいませんでした」
青筋を立てつつも、ニーッコリと今まで見たこともない綺麗な笑顔で物騒なことを口にしたアルゴに、深々と、テーブルに額がつくまで頭を下げる。他のプレイヤーならまだしも、そのセリフをアルゴが言うと洒落にならないのだ。
「マァ、アーちゃんのプレゼントに免じて許してやるヨ。優しい優しいアルゴさんとアーちゃんに感謝するんだナ。……じゃあ、そろそろ行くヨ。キー坊、アーちゃん、メリークリスマス」
「おう、メリークリスマス」
「アルゴさん、気を付けてくださいね。メリークリスマス」
アルゴさんの優しい温情で許されたキリトは、いつの間にか復活していたアスナと共に手をひらひらと振りながらアルゴを見送る。あっという間に後ろ姿が見えなくなり、先ほどまでの騒々しさが嘘のように静かになった。湖の小さな波が丸太に寄せる音だけが響き、その定期的な自然音によって増幅されたのだろうか、不意に眠気が襲ってくる。まだ陽は高いがこのまま隣の宿屋で一度休憩を取るのも選択肢の一つかもしれない。遠出をするには遅いし寝るには早いという、何とも中途半端な時間だった。
「キリト君ってさ、アルゴさんと仲良いよね」
さてどうするかと、相棒と打ち合わせでもしようと思った矢先にアスナの言葉が耳に入る。ありきたりな内容の言葉とは裏腹に、じっとこちらを見ているアスナの目線は何故か真剣だったので、キリトは茶化すことなく真面目に答えた。
「ああ、ベータテスト時代からの知り合いだしな。仲は良い方だと思うぞ」
友人、と言っても差し支えはないだろう。しかし、何でも気軽に話せる相手というわけではない。アルゴのポリシーは売れる情報なら何でも売るというものだ。今こうしてキリト達と話していた内容も、誰かが相応のコルを払えばアルゴは売るだろう。アルゴと会話をするときは、必ず発言に一定のフィルターを作らなければならない。
仲は良いし友人とも思うが、仲間とは思わない。それがキリトとアルゴの関係と言えた。
キリトの答えを聞き、アスナは一瞬俯いてぼそぼそと何かを呟いた後、顔を上げる。その表情はいつもの彼女のクールな表情に戻っており、何故アスナが今アルゴとの関係を訊ねてきたのかを察することはできなかった。
「さあ、この後どうするか決めましょうか。まだ寝るには早いし、クエストの二つや三つこなせるでしょう」
理由を聞くべきか迷ったが、自ら話題を変えたということはあまり聞いて欲しくないのかもしれない。キリトは疑問を無理矢理頭の奥に押しやって、今後の予定を決めるべく思考を切り替えた。
時刻は午後五時ちょうど。今後の方針を決めクエストを一通り受け終えたキリト達が、補給を終えてさあ移動を開始しようとティルネル号を係留している船着き場へと足を向けた時のことだ。青く輝いていた上層の底が突如として灰色に曇り、湖から冷たい風が吹いたのと同時に、空から数えきれないほどの白い粒が舞い降りてくる。
「……えっ、嘘……」
「……雪、かよ……」
呆然と、空を見上げる。ほんの数分前まで南国の暖かさと陽光を保っていた世界が、一瞬にしてクリスマスイブに相応しい世界に変わった。南の島に相応しい雰囲気の村に雪が積もっていき、NPCの子供のはしゃぎ声が聞こえる。
「まさか、本当に雪が降るなんて思わなかったな……」
ポツリと呟かれた言葉に無言で頷いて同意を示す。このSAOの世界は各層ごとに気候が設定されているが、それは現実世界の日付とは全く関連性が無いようで、現にこの階層は十二月だというのに体感で二十度を超える過ごしやすい気候設定がされていた。しかし、何の前触れもなく下がった気温と降り始めた雪は階層の設定に関係がない、恐らくはクリスマス限定の<<天候イベント>>なのだろう。ちょうど主街区ではクリスマスパーティーが始まった時間だ。文字通り降って現れたクリスマスらしさに、皆が歓声を上げているに違いない。
「素敵な……、本当に素敵なクリスマスだね」
空から視線を戻しキリトに向けられたアスナの表情は穏やかな笑顔で、直視したキリトの脈拍を上昇させる。何とも気恥ずかしくなりキリトは視線を外して街の中央部にある広場に目を移せば、赤道直下の南の国に雪が積もるという、現実では間違いなく見ることができないであろう光景が広がっていた。
雪化粧という言葉が頭に思い浮かぶと同時に、キリトはベータ時代に訪れたとある場所の光景を思い出す。ベータテストの時は砂と岩ばかりの荒野ににょっきりとそびえ立つ建物でしかなかったが、その荒野が水で満ちているとしたら、この雪と相まってさぞ素晴らしい景色になっているに違いない。
今後雪が降っている層が出てくることもあるだろうが、この第四層で雪が降るのは恐らく来年のクリスマスまではないだろう。ならば今日くらいは、この極めて希少な設定をキリトが楽しむために、アスナに楽しんでもらうために全力を尽くすのも悪くないと思う。
「アスナ。提案があるんだ。さっき決めたばかりなのに悪いんだけど、この後の予定を全部キャンセルしたい」
「えっ? ど、どうしたのいきなり」
キリトの言葉に、アスナが急に何を言い出すのかと驚いている。
「いや、せっかく雪が降ったんだ。こんなクリスマスらしい状況で、いつでもできるクエストをこなすだけなんてもったいないからさ。……アスナが良ければだけど、午前中の続きでもしないか?」
「つ、続きって……」
顔を赤く染め、照れながら呟く姿はとても可愛らしかったが、こちらの視線に気づいたのだろう、「コホン」と咳払いを一つした後にキリトに問い返してきた。
「別に構わないけど……。わたしに気を使ってるなら、もう十分だよ? 午前中にすごく楽しませてもらったし、これ以上攻略以外のことに時間を使うのはきみの足を引っ張ることにならない?」
「ならないならない、俺から言い出したことだし。では、時間をいただけるってことでよろしいですかね?」
コクリとアスナが頷いたのを見て一息吐く。キリトが思い描いている風景が確定したものではないため少々不安ではあるが、その場合でも実質的に攻略を進めていることになるし、何よりもあの場所に居るであろう人物の事を考えればアスナが怒るということも無いだろう。
「よし、行こうか。ちょっと移動に時間がかかるけど、きっと楽しんでもらえると思う」
「うん。じゃあ改めて、エスコートお願いします」
軽く頭を下げはにかむアスナに、キリトは少々照れを感じつつも左手を差し出す。すると、今度は自然に、驚くことなく、アスナがキリトの手を握り返してきた。雪が積もるほどに気温は下がっており、関東住みのキリトにとっては少々寒すぎるもので、顏や右手は冷えてしまっていた。しかし、アスナと繋いだ左手だけは、彼女から伝わる熱のおかげでとても暖かい。
エスコートという言葉を言い訳にして手を繋いだが、それもティルネル号に乗るまでの短い距離だけだ。時間にすれば一、二分のことだろう。それでも、その短い時間の間だけでも、キリトはこの左手から伝わる熱を感じていたかった。
<<ウスコ>>の街を出てからというもの、モンスターがpopする気配がまるで無いことにアスナは疑問を感じていた。操船しているキリト曰く、イベントの日にモンスターの出現率が上下することは珍しいことではないとのことだが、圏外での移動中は常に気を張ってきたせいだろうか、どうにも調子が狂うのは仕方ないことなのかもしれない。
そんな落ち着かない気分でいると唐突にピコンとメッセージ受信の音が鳴り、ウィンドウを確認すればアルゴからのメッセージが届いていた。「アーちゃんのプレゼント早速役に立ったゾ!」という短いものではあったが、わざわざお礼のメッセージを送ってくれるアルゴの気遣いをありがたく感じる。メッセージには容量の小さい添付ファイル――恐らくテキストファイルだろう――が添えられていたが、寝る前に開けてくれと書いてあったので、その通りにしようと一先ずウィンドウを閉じた。
こうして船に揺られている間も雪は相変わらず降り続いており、気温も低い。この雪が<<天候イベント>>とやらであれば、恐らくは今日一杯は――もしかしたら明日まで――降り続けるのだろう。このような気候でフーデットケープを羽織った程度の薄着で船に乗るなど現実世界なら風邪をこじらせること間違いないが、幸いなことにこの仮想世界では少々冷えるなといった程度の感覚でしかない。この世界に<<風邪>>等というバットステータスがあるのかどうかはアスナにはわからないが、少なくとも現実世界より体調管理が楽なのは事実だろう。
船頭のキリトは櫂を大胆に前に倒しており、普段圏外を進むときのスピードよりもかなり早い。しかし、そのおかげだろうか白く
「キリト君、まさかあそこに行くわけじゃないよね?」
予定をキャンセルするとは聞いたが、行き先を聞いてはいなかった。彼の話し方を考えればこのまま迷宮区の攻略開始となることはないだろうが、まさかということもあり得るのでアスナは一応尋ねてみた。
「いやいや、流石に迷宮区は勘弁かなぁ。目的はこっちの方」
キリトが指差したのは南東方向。川はこの先で二股に分かれる様で、ティルネル号は塔のふもとにある最前線の村とは反対側の川を進んでいく。今までの川の両端はただの岩壁であったが、進むにつれて
「アスナ、そろそろ着くぞ」
そうして船に揺られ続けて一時間程経った頃、キリトの声と同時に船の前方から白い霧で覆われていく。急に視界が無くなり、すぐ側にいた筈のキリトの姿さえ霞んで見えなくなるが、アスナは何故かこの霧に見覚えがあるような気がした。そうして考えている間にも船は進み続け、突然パァッと、今までの視界が嘘のように霧が晴れると同時に、アスナの眼には巨大な砦のようなものが目に飛び込んできた。
双頭の古代竜《バイセプス・アーケロン》と戦った時のカルデラ湖よりも何倍も広い円形の湖。その中央にそびえ立つ砦は、最早城と言っても問題ないほど巨大なものだ。荘厳、壮大、そんな言葉が似合うであろう城の頂上には角笛と曲刀を交差させた文様が描かれている漆黒の三角旗、ダークエルフの国である<<リュースラ王国>>の旗が掲げられていた。
白っぽい石で造られた外壁と、灰色の瓦のようなもので覆われている屋根。アーチ型の窓からは屋内からのオレンジ色の明かりが零れ、粉雪舞い降りる藍色の宵闇と見事なコントラストを
「きれい……。現実世界で見た、どんなお城よりも綺麗」
現実世界でも欧州の有名な城をいくつか直接見てきたアスナではあったが、これほど目を奪われる建造物を見たことはなかった。今後クリスマスイブという日付になる度に、アスナはこの光景を思い出すことになるだろう。
「これは最高の……最高のクリスマスプレゼントだよ。ありがとう、キリト君」
「喜んでもらえてよかったよ。ベータ時代は荒野の中の砦って感じだったから不安だったけど、予想通り湖になっててくれてホッとしました。それにまだあるんだ、見せたいもの」
心からのお礼はほにゃりと笑ったキリトに受け取られた。今のアスナの精神状態では彼の笑顔を正面から受け止めることができず赤くなった顔を俯かせるしかなかったが、最後に付け加えられた言葉に対する疑問が沸騰しかけたアスナの思考を少しだけ冷やす。しかし、いつもより回転が遅いのは間違いなようで考えても仕方ないと諦めたアスナは、目の前の幻想的な景色を心に深く刻むべく城を見続けた。
ティルネル号が正門からまっすぐに伸びる石積みの大桟橋に横付けされ、青銅製の係留柱に固定される。キリトが差し出した手を掴んで桟橋へと登ったアスナは、城を間近で見ることで改めてその巨大さを実感した。桟橋の中央で城を見上げているキリト同様に視線を上げる。最も高い
城に入るべく城門へと進むと衛兵に止められたが、第三層のダークエルフの司令官から貰っていた紹介状を掲示すると巨大な城門が左右に開く。キリトに促され城内へと足を踏み入れたアスナは、予想を超える場内の光景に思わず歓声を上げてしまう。
門をくぐってすぐの前庭には植木や生垣、鋳鉄の柵が各所に設置されたランプの明かりに照らされ、アプローチの奥に見える扉までの道には足跡一つついていない。まるで一つの絵画を見ているようであったが、後ろの城門が閉まるのを見て躊躇いながらも足を踏み出す。
仮想の雪を踏みしめながら進み、城のエントランスに繋がる大扉を開ける。メインホールは赤い絨毯が敷かれ、奥には上層に続く大階段が見える。ホールの中央に設置された大理石の噴水から吹き上げられる水が天井からの照明を反射しキラキラと輝いていた。左右にある通路からは、何処からか聞こえるバイオリンの音に合わせるように、見慣れたダークエルフのNPC達が歩いてくるのが見える。
ダークエルフの拠点であるならクエストの進行なども行えるのだろうが、次々と目に入ってくる素晴らしい景色に圧倒されてしまっていたアスナは何を言っていいかわからなくなり、只々溜息をつくばかりだ。
「この城自体もすごいけど、ここの施設はもっとすごいぞ。必要なショップは全て揃ってるし、食事も宿泊施設も一級品。ついでに豪華な大浴場まであるんだ」
「えっ!? お風呂まであるの!?」
「ああ、ここは
「さ、流石にそれはしないわよ。そんなことより、早く中を見て回りましょう!」
アスナはキリトの手を掴み引っ張る様に前に出ると、手を引かれたキリトはバランスを崩しつつアスナに横に並ぶ。
「いいけど、最初の行き先は決めてるんだ。こっち」
何処に行こうかとホール奥の大階段の前で立ち止まると、行き先は決めているというキリトに逆に手を引かれる。アスナが手を引いた時のようにバランスを崩すような強引さは無く、先導されるがままに右の通路を進んでいく。途中で何人かの兵士とすれ違いながら進み、辿り着いたのは屋外。恐らく中庭だろう。
黒っぽい花が咲いたイバラの生け垣が迷路のように設置され、雪が薄らと積もった石畳には誰かが奥へと歩いて行ったのだろうか、足跡が残っている。それを目印にするように奥へと向かいイバラの通路を抜けると、立派な針葉樹に抱かれた美しい庭園があった。本来ならばその美しさに目を奪われるのだろうが、その針葉樹の周りに置かれていたベンチの一つに腰掛けていた女性の姿が、アスナの目を引きつけた。女性の方も庭園に誰かが入ってきたことに気付いたのだろう、顔だけを入り口に向け、こちらを確認したと同時に勢いよく立ち上がった。
第四層でまた会おうと、確かに言った。しかし、彼女はそうらしくないとは言え間違いなくクエストのキーとなるNPCで、クエストが終わってしまえば記憶はリセットされてしまうのではないかとも思っていた。だが、今こちらに駆けよってくる彼女は、自分達のことを覚えてくれているに違いない。
「キリト! アスナ!」
ぐっと、両手で抱き寄せられる。第三層の時とは違い鎧ではなくドレスを着こんではいるが、この女性は、キズメルは、間違いなくアスナの知っている彼女だった。
「キズメル、会いたかった」
見せたいものはこれだけじゃないとキリトは言っていたが、本当に、この出会いこそが最高のプレゼントに違いなかった。右手を繋いでいたまま抱き寄せられたため、左腕だけをキズメルの背中に回し抱擁に応えた。
仲良く話しながら歩いているアスナとキズメルを後ろから眺めながら、キリト達はダークエルフの城<<ヨフェル>>城の大食堂へと移動していた。四本の塔がコの字型の通路で連結されたこの城は、右側が城に駐留する兵士たちの、左側が城主や使用人たちの部屋となっている。中庭には左側から向ったため、大食堂がある右側の二階まではそこそこの距離がある。途中、キズメルのことを知っているのであろうNPCが挨拶してくるが、その様子は形式上の敬意は払っているものの、どこかおざなりに見えた。
「……何か、態度悪いわねあの人達」
どうやらアスナにも同じように見えたのだろう。波風立てるまいとキリトは口に出さなかったが、正義感の強いアスナは納得がいかなかったらしい。
「形だけでも敬意を払ってくれているだけマシさ。私もこう見えて近衛騎士だからな。城のほとんどの者たちから見れば上役になる。いつまでいるかわからない外から来た上役など、面倒なだけだろう?」
「な、なるほど。ここの人たちからすれば、監査でも受けてるように感じるのかしらね」
アスナが戸惑うのも無理がないと思うくらい俗っぽい話だ。この城の外観は幻想的なのに、中で起こっていることはあまりに現実的過ぎる。キズメルの行動は極めて人間らしいがそれにも限度はあっていいと思う。茅場晶彦がどういった意図でこのようなプログラムを作ったのかはわからないが、何となく製作者の苦労を察することができた気がしてならない。
何とも切ない気持ちになりながら歩いている内に、目的地の大食堂に到着する。食堂では兵士たちや子供、ローブを纏った集団などがそれぞれ固まって食事をとっていた。このゲームの設定では魔法は失われたはずだがと、疑問に思ったキリトが彼らのことをキズメルに尋ねると、第九層の王城から秘健回収任務の監督に来た神官だそうだ。横柄な態度なのでこの城の者たちは不満を持っているらしく、キズメルはとばっちりを受けているらしい。
「とまあこんな環境なのでな、少々気疲れしていた所だったのだが……会いに来てくれて嬉しい。二人が来てくれたおかげで一気に気が楽になった」
笑顔を見せるキズメルと彼女に構ってもらっているアスナは本当に仲の良い姉妹のようで、見ているキリトの気持ちを穏やかにしてくれるが、同時にその深い関係に不安も感じる。キズメルは理性的で、意外と世話焼きな部分もある人物だ。彼女にも妹がいたというし、懐いているアスナに妹の面影でも感じているのかもしれない。キリト達とキズメルの関係は極めて良好的と言ってよく、余程の事がない限りは敵対をすることはないだろう。
だが、問題はその余程のことが起きた時の話だ。もし何らかの間違いが起こって、クエストの流れでキズメルと相対する事態になったとしたらどうなるだろう。悪夢のような展開ではあるが、MMOに限らずゲームのストーリークエストでは、お世話になったNPCと戦うということが無いわけではない。従来のゲームであれば画面上の事の話であるから、後味は悪くとも納得することはできた。しかし、このVRMMOにおいて、あまりにもリアルすぎるこの世界においてクエストがそのような展開になったら、プレイヤーはどのような影響を受けるのだろうか。
もしアスナがキズメルに剣を向けねばならない事態になれば、彼女の手でキズメルを
一度その可能性があることを言っておく必要があるだろう。極めて言いづらいことではあるが、知らずにその状態に置かれるのと、可能性があることを知っているのとではかなり違うはずだ。
そんなことを考えていると、メイド服を着たダークエルフのNPCが料理を運んでくる。スープと前菜から始まる立派なコース料理でメインディッシュは鶏のローストと何ともクリスマスらしく、これももしかしたらクリスマスイベントの一つなのかもしれないと、思わずアスナと顔を見合わせた。クリスマスケーキはお昼においしくいただいていたので、これでクリスマスに食べるべきものは一通り食べることができる。
思考が暗い方向へと行ってしまっていたが、折角のクリスマスディナーなのだから明るい思考で食べる方が良い。キリトは考えていたことを頭の片隅にしまい込んでから、アスナとキズメルの会話に加わった。
キリト達に今夜の宿としてあてがわれたのは、城の東側四階にある士官用の部屋。所謂スイートルームというやつだった。共用の居間に二つの寝室が接続しているようで二人で泊まる分には全く問題はない。しかし、キリトとアスナは男と女であるからして、いくら寝室が別とは言え同じ部屋に泊まるというのはキリトには問題なくともアスナには大問題だろう。
左隣の部屋にいるから何か用があったら呼んでくれと言って自室に戻るキズメルを見送った後、部屋の豪華さに気を取られていたアスナが寝室の事に気付き無言でこちらに視線が送られる。視線より先に<<シバルリック・レイピア>>の切っ先が飛んでこなかったことに安堵しつつ、キリトも無言で視線を返す。
「………………」
無言の時間が続く。麗しの
「……キリト君、どっちの部屋使う?」
その願いの甲斐もあったのか、たっぷり考えた後に発せられた言葉はキリトの想像以上に真っ当な言葉だった。即座にどちらでもよいと答えるとアスナは部屋の東側、バスルームに繋がっている方の部屋を選んだ。
「風呂か。さっきも言ったけどこの城には大浴場があったはずなんだけど、部屋の風呂使うのか?」
「あっ、そうだったわね! でも、男湯と女湯は別なのかしら?」
「いや、そこまではわからないけど。多分一緒じゃないかな……」
「…………せっかくだし、行くだけ行ってみましょうか」
取りあえずということで城の東側三階にある大浴場まで足を運んだが、やはりというべきか更衣室、浴室共に一つずつしかなかった。これはダークエルフは混浴が基本という設定なのか、はたまたデータ容量の問題なのかはわからなかったが、ナーヴギアが液体の描写を不得手にしていることを考えると後者の可能性が高いだろう。
「予想通りってとこか。俺は部屋の風呂使わせてもらうからさ、アスナはここでゆっくりしてくるといいよ」
大浴場というだけあって、脱衣所からしてとても広い。真っ白なタイルで床と壁は覆われており、天井にはシャンデリア、隅には大きな鉢植えが設置されている。中央のテーブルには飲み物や果物まで用意されており、現実世界でこのような浴室が用意されているホテルに泊まったら一泊いくらかかるのかわからない。
折角の豪華な風呂なのだからゆっくりと楽しんでもらいたい。側に男が居ては気になってしまうだろうとキリトは気を使って部屋に戻ろうとしたが、後ろを向いた瞬間にコートの裾を掴まれる。
「待って」
待っても何も離してくれないと動けませんという言葉を飲み込んでアスナに向かい合えば、「うー」と唸りながら上目遣いでこちらを見る
「ど、どうした? ここで見張ってた方がいいか?」
「うー……」
じっとこちらを見上げていたアスナが、コートの裾を掴んだまま脱衣所を覗く。脱衣所の中には誰もおらず、浴室の中からも物音は聞こえない。今ならば誰の眼も気にせず風呂を楽しむことができるだろう。とそこまで思考したところでキリトはアスナが唸っている理由を理解した。しかし、理解はできたが問題を解決できるかというと話は別だ。
「男性NPCが来て入らないでくれって言っても、聞き入れてくれるかは怪しいぞ」
NPCとはいえアスナが入浴中の浴室に男を入れるわけにはいかないし、それがシステム的に可能かどうかはわからない。かといって試してみるわけにもいかない以上、ここは素直に諦めてもらうべきなのだろう。アスナを見ればうーうーと唸りながらついには、もじもじとしだした。彼女の珍しい姿をもう少し見ていたいという悪戯心も生まれるが、このままこうしていても仕方がない。諦めて部屋に戻ろう、キリトはそう口にしようとした。しかし、
「ねえ、キリト君……一緒に入ってくれる?」
意を決したアスナの口から飛び出た爆弾発言に、キリトの頭の中は真っ白になった。
脱衣所の規模や雰囲気から浴室もさぞ豪華なのだろうと思ってはいたが、まさかこれほどとは思わなかった。床は透明感のあるアイボリーホワイトのタイルが敷かれ、湖を囲む玄武岩で作られた縞模様の入ったエボニーブラックの浴槽はちょっとしたプール並みの大きさだ。壁は湖に面する部分がガラス張りになっており、三階という高さもあって全景を見渡すことができた。
「凄いね。こうして入ってると、空に浮かんでいるみたい」
「そうだなぁ。夜景もすごいけど、これ昼間に来ても楽しめそうだな」
無類のお風呂好きであるアスナさんが言うには、このようにリゾートホテル等にある海や湖と繋がってるように見えるお風呂のことを<<インフィニティ・エッジ>>と呼ぶらしい。「片手剣のソードスキルみたいだな」「いや、細剣じゃない?」などと染まってきたアスナと軽い会話を交わしつつ、キリトはぼんやりと、いや確固たる意志で湖を見続ける。
今のキリトには下手に視線を動かすことは許されなかった。理由は簡単だ。すぐ横に、手を伸ばせば届いてしまう距離に、白いワンピース姿の美少女が居るのだから。浴槽の縁に腕を組んだ状態で手を乗せ足をまっすぐに伸ばしているキリトと、恐らくは同じような体勢で、金色の
「こんなに大きいと泳ぎたくなっちゃうわね」
「泳いでもいいんだぞ? 城に入ったときにも言ったけど
「きみに見られるでしょ、きみに」
確かに、風呂で泳いでいる人が居たらついつい目を向けてしまうだろう。尤も、アスナなら泳いでいなくても人の目を引き付けそうなものだが。
「でも折角水着も作ったし、どこか目立たない場所でなら泳ぐのもいいわね」
「可能ならモンスターが居ないところでな。もう追いかけられるのは勘弁だよ」
「……あのオタマジャクシモドキだけは、わたし一生忘れないと思うわ」
アスナの言葉に大きく頷くことで同意を示す。あの恐怖と徒労感は忘れることはできない類の物だろう。現実世界に戻った後でも例のBGMを聞く度に思い出すに違いない。
――そういえば、船に乗ってる最中にはあのオタマジャクシ出てこなかったな。
カニやらイモガイやらは倒してきたが、あれ以来あのモンスターと出会う機会は無かった。怒りの
移動手段が異なると出現するモンスターも異なるのか、はたまた単純に出現エリアが往還階段と主街区の間だけなのか。その内機会があるかもしれないのでアルゴにでも聞いておこう。
「キリト君、またつまらないこと考えてるでしょ」
「えっ!? い、いや、そんなことはないぞ?」
モンスターの出現情報はつまらないことではないと言いたいが、それを調べる動機が果てしなくつまらないものだったので形だけの否定をするに
「さっきから随分と熱心に湖を見てるけど、そんなに気に入ったの?」
「ん? あ、ああ、綺麗だよなぁ」
「……ふーん。ま、いいけど」
――絶対に良くないやつですね、そのセリフ。
後で説明する必要がありそうだが、「オタマジャクシに復讐する方法を考えてました」等と言えばレイピアが光ることは間違いない。何かしらでごまかす必要があるだろうが、生半可な言い訳でごまかされてくれるお嬢さんではないのも知っていた。
頭を悩ませるキリトの姿を見てアスナの機嫌はさらに悪くなっていく。しかしちょうどその時に、幸運というべきかどうかはわからないが浴室の入り口からがちゃっと扉が開く音が聞こえた。
キリトは咄嗟に入り口の方へと振り向き、横ではアスナが口元までお湯の中に沈み込んでいる。NPCにもどうやら入浴のアルゴリズムが組まれていたらしい。湯気によって正確な姿は見ることはできないが、どことなくほっそりとしたシルエットが近づいてくる。
「キリト、アスナ、やはりここにいたのか」
視線をフォーカスし続けカラー・カーソルがNPCを示すイエローに変わった後、湯気の向こうから耳馴染みのある聞きなれた声が聞こえてきた。どうやらキズメルが自分たちを探してわざわざ浴室まで足を運んでくれたのだろう。相手が女性と分かりホッとしたキリトは、「キズメルで良かったな」とアスナに言うべく顔を横へ向けようとした。
しかし、どういった理由からかはその時はわからなかったが、何故か顔を赤くしたアスナによって両手で風呂の中に沈められるという仕打ちを受けることになった。
どうしてこうなったかはわからないが、白いワンピースの水着を着た美少女と、紫色のビキニを着たダークエルフの美女に囲まれて入浴している。仮想世界に囚われるという実にゲーム的な状況に置かれているキリトではあったが、こういった女性関係のイベントもゲーム的になる必要はないと思う。
だが残念なことにプレイヤー<<キリト>>の中身は桐ヶ谷和人という十四歳のごく普通の中学二年生であって、ゲームの主人公ではなかった。女性の水着姿などまともに見たこともないし、この状況で平然と会話できるほど女性慣れしているわけでもない。横に並んで腰を下ろしている二人をあまり視界に入れないようにはしているが、緊張してしまうのは仕方ないだろう。
「キリト、先ほどから随分と無口だがどうかしたのか?」
そんなキリトの様子を不自然に思ったのだろうキズメルが問いかけてきた。
「い、いや、なんでもないぞ」
咄嗟口から出た答えは明らかに何かありますと言っているのと同じで、まずいと思ったキリトがそっとキズメルを見るとこちらを窺うような眼と視線が合った。
「ふむ」
キリト、アスナ、キリトと視線を動かしたキズメルは何か思いついたのだろう、面白い獲物を見つけたと言わんばかりにニヤリと笑う。その表情を見た瞬間にキリトの直感が脳内にアラームを鳴らすが、残念なことにキズメルの言葉を止める術は無かった。
「なんだキリト、まさか照れているのか?
「つ、
「そうか? ただの、と言うには随分と親しそうに見えたがな。中庭で再会した時、キリトの手をしっかりと握っていたではないか」
「そっ、それはっ……!」
アルゴだけではなくキズメルにもからかわれることになるとはアスナも思っていなかったに違いない。完全な不意打ちを食らって取り乱すアスナに助け船を出すべきなのだろうが、口を出すと
「まあ
「落ちてないし、落とされる気もありません! もう、やめてよキズメル!」
「すまんすまん」
笑いながら謝るキズメルには全く悪びれる様子はない。尤も、アスナも怒ってはいるものの嫌がってはいないのでじゃれついているようなものだ。
プレイヤーをからかうNPCという極めて稀な光景だが、その会話や動作に違和感は感じない。
――むしろ、自然すぎるということ自体が違和感になるのかもしれないな。
目の前の不思議な姉妹のやり取りを見ながら、キリトはゲーム的な思考に浸ろうとする。
しかし、この時のキリトは忘れていた。姉というポジションであるキズメルにとって、からかう対象はアスナだけではないということ。そして、アスナが完全に冷静さを失っているということを。
「ああ、キリト。アスナはこう言っているが、今日用意した部屋の壁は厚いからな。安心していいぞ」
「かかか、壁!? い、一体何するつもりなのよ! こっち見ないでよ!!」
唐突に飛んできた流れ弾を回避することができず、キリトは油断の代償を二度目の水没という形で支払うことになった。
この仮想世界で過ごした初めてのクリスマスイブはキリトにとって中々に大変な、しかしそれなりに収穫があった一日だった。一つは攻略面。フィールドボスに関しては予定されていたことであったし、戦闘自体もボス戦の割には苦労する難易度ではなかったので特にまとめる必要もないが、手詰まり感のあったキャンペーンクエストを進めることができたのは大きな収穫だったと言える。
入浴中の二度の水没によって思い出すことができた水没ダンジョンでの出来事をキズメルに話すと、突然クエストが進行し途端に目つきを変えたキズメルに城主の部屋まで連れて行かれた。城主の<<ヨフィリス伯爵>>の態度は友好的という訳ではなかったが協力的ではあり、第三層の司令官にもらった紹介状の代わりに<<シギル・オブ・リュースラ>>と言う名の指輪を渡された。ヨフィリス伯爵曰く「身に着けている限り衛兵に咎められることはない」とのことで、これによって実質的にダークエルフ陣営の設備を自由に使えるようになったと考えていい。その代わりにこの層の
そして、もう一つ。テーブルを挟んで向かいに座るアスナとのことだ。
やるべきことが無いしせっかくのクリスマスだからという名目の元、午前中、そして夕方にかけて彼女と共に過ごすことになった。初めこそ緊張していたものの、一度割り切ってからはとても穏やかな時間を過ごすことができたし、命を削り心を
「どうかしたの?」
ぼんやりと正面を向いていたため必然的に目の前に座るアスナに視線が向いていた。その視線が気になったのだろう、手元のメニューウィンドウに目を向けていたアスナが訊ねてくる。
「ああ、いや。今日は色々あったなぁと思ってさ」
「うん、そうね。物騒なこともあったけど、クリスマスイブにやるべきことはほとんどやれたもんね」
「ほとんどってことは、全部じゃなかった?」
「うん。だから、これからその残りをやろうと思います」
アスナがストレージから膝の上に乗るくらいの大きさの紙袋を実体化させる。赤いリボンに巻かれたそれにキリトは見覚えがあった。
「遅くなっちゃったけど、クリスマスプレゼント」
「おお、ありがとう。開けてもいい?」
アスナが頷くのを見てから手渡された紙袋を軽くタップすると包装がしゅるんと解かれ、中から黒が基調の部屋着やマフラーそして赤茶色のフーデットケープが出てきた。
「アルゴさんと同じく実用品を作ることはできなかったんだけど、キリト君部屋着一着しか持ってなかったみたいだから。マフラーとケープは寒いときに使ってね。ケープの色も黒にした方がいいかはちょっと悩んだけど、流石に怪しすぎるかなと思ってその色にしたの」
「黒いフーデットケープとか怪しさマックスで逆に目立ちそうだもんな。この色ならアスナの普段使いのやつと色が似てるし丁度いいかもな。ありがとう、大事に使わせてもらうよ」
「う、うん」
キリトがお礼を言うと、アスナはほんのり顔を赤く染めて軽く俯いた。同じ年代の異性にクリスマスプレゼントを渡すというのは気恥ずかしさを感じてもおかしくない。実際にこれからプレゼントを渡すキリトもそのように感じているのだから。
「では、ですね。アスナさん、俺からもクリスマスプレゼントがありますので、手を出してください」
アスナはキリトに言われるままに左手を差し出した。アスナからのプレゼントをストレージに入れ、その代わりに取り出したイヤリングを手のひらの上にそっと乗せた。
「えっ!? キ、キリト君これって……!」
「店売りの物で悪いんだけど、良ければ使ってくれ。本当なら箱か何かに入れておくべきだったんだけど、気が効かなくてごめんな」
「う、ううん、それはいいんだけど……。これ主街区のアクセサリーショップに売ってたやつだよね? デザインも性能もすごく良かったから見覚えあるもの」
その通りとキリトが頷くと、イヤリングを見て驚いていたアスナの眉がハの字になった。アスナになら似合うだろうと思って買ってみたが、やはり黒しか身に着けない自分のファッションセンスではアクセサリーを選ぶなど無理があったのだろうか。
「あー、その、お気に召しませんでしたかね?」
「そ、そんなことないよ! こんな綺麗なイヤリングをプレゼントとして用意してくれたなんてすごく嬉しいよ! でも……でも、こんなに高価なもの、受け取れないよ……」
アスナの言葉を聞いてキリトはなるほどと納得した。どうやら問題となっているのはイヤリングの見た目ではなく価格の問題らしい。センスが悪いとバッサリ切られなかったことに安心しつつ、キリトはそのイヤリングに決めた理由を説明した。
「ああ、値段に関しては気にしないでくれ。正直それを渡してもまだ利益の釣り合いが取れてないくらいなんだから」
「利益の……釣り合い? どういうこと?」
「ああ。アスナは主街区で装備を<<軽金属防具>>中心に更新しただろ? でも俺は全身がドロップ品かクエストの報酬。つまり、防具に関して俺は修理程度しか金がかかってないってことだ」
ラストアタックボーナスを確保しているのもあるが、全プレイヤーの一番前で攻略を続けているためダンジョンの宝箱の多くを開けることができているのも大きい。とはいっても第四層という低階層であるためどうしてもドロップ品や宝箱の中身は軽量防具に偏ることから、必然アスナよりもキリトが使う物の方が多く結果的にキリトが多くの利益を得ているのだった。
「コンビを組んでいる以上財布が一緒とまでは言わないまでも、得る利益はある程度バランスが取れていないと不公平だろ? アスナは防具を更新したばっかりだったから、中々手の回らないアクセサリー方面ならプレゼントとしても見栄えがいいし、長く使ってもらえると思ってさ」
「理屈はわかるんだけど……」
アスナの表情を見るに納得できていない様子だ。プレゼント自体は嬉しいと言っていたのでそのまま軽い気持ちで受け取ってもらえればいいのだが、彼女の真面目な性格がそれを許さないのだろう。だが、キリトには受け取ってもらわないという選択肢はない。
「まあ、もう買ってしまったものだから、アスナが嫌じゃなければ受け取ってほしい。プレゼントのお返しもしたいし、俺が付けても似合わないし、かといってNPCに売るのは馬鹿らしいからさ」
少々卑怯な言い方だとは思うが、アスナが嫌がっていないのだから多少は大目に見てもらいたい。この言葉と譲る様子のないキリトを見て観念したのだろう、ふうと一息吐いた後アスナは左手にそっと右手を重ねて胸元まで持っていく。
「そこまで言ってくれるなら、使わせてもらうね? ありがとう……すごく、嬉しい」
満面の笑顔と共にアスナは両手を胸元へと持っていく。胸元にて握られたイヤリングをまるで宝物のように扱う彼女の仕草に、キリトは思わず目を奪われた。
「…………」
「……キリト君?」
「えっ!? あ、ああ! ぜひ使ってくれ!」
「う、うん……」
――本当にこの人は……、反則だろ……!
完全に頭が追い付いていなかった。自分が行う仕草が女っ気のない男子に対してどれくらいの威力があるか、少しは理解していてほしいと思う。
「えっと、着けてみてもいい?」
「ああ、もちろん」
アスナがメニューを操作し始めると、胸元に置かれたままになっていた左手の中からシュンとイヤリングがストレージに入る音が聞こえその後すぐに両耳に装着された。アスナは同じようにストレージから取り出した手鏡で軽く確認した後、頬を赤らめながら確認してくる。
「ど、どう……かな?」
髪の隙間から雫型のサファイアが室内の照明を反射し青く輝いているのが見える。栗色の髪に赤が基調の衣装、その中に一か所だけ涼やかに輝く青い光。ファッションというものに疎いキリトではあったが、彼女に似合っているということは理解できた。
「その、俺から見てだけどさ……とても、お似合いだと思います」
「ほんと? ……あ、ありがとう」
恥ずかしそうに頬を赤らめながら笑みを浮かべたアスナを見て、何故かキリトの顔にも熱を帯びていくのがわかる。赤い顔のまま肩をすぼめて俯き加減に座っているアスナの姿はとても可愛らしいが、その可愛らしい姿を自分もしているのだろうから何とも複雑な気分だ。傍から見れば同じような格好をした男女が二人向かい合って座っているのが見えるのだろう。
クリスマスプレゼントの交換をするだけだったのだが、何故か午前中のデートの続きのように思えてしまって気恥ずかしい。この雰囲気のままこの場にいれば余計なことを言いかねないと判断したキリトは、気恥ずかしさを振り払うように勢いよく立ち上がった。驚いたアスナが眼を丸くしてこちらを見ているが、それに構うことなく寝室への戦略的撤退を選択する。
「よし、じゃあやることは全部やったし今日はもう休もう! 明日はちょっと早いけど午前六時にここ集合ってことでいいか?」
「えっ? あ、だ、大丈夫だけど……」
「オーケー。ではそういうことで、おやすみアスナ」
パッと右手を軽く上げてからターンして寝室へを足を向ける。極めて不自然だが、恐らくアスナも行動に悩んでいただろうし問題ないだろう。普段より少々足早にさして遠くない寝室のドアまで移動し、ドアノブに手を掛けようとした。
「キリト君、待って」
その時、静止の声が掛けられ、足を止めたキリトのコートが掴まれる。
「えっと、何でしょうか……?」
「……言いたいことがあるの」
後ろから聞こえた言葉によって、キリトのあるはずのない心臓がドクンと音を立てた。
――言いたいこと……? 言いたいことってなんだ!?
肩ごしに後ろを見れば俯き加減のアスナの姿が映る。表情こそ窺えないが、髪の隙間から見える耳は赤く染まっており、それはキリトにこの後起こるであろう出来事を想像させた。
息を吞む。顔が赤くなるのがわかる。この流れはまさかという考えに至ったキリトの思考は完全に停止し、それによって身体も硬直した。場が沈黙によって支配されるが、身体が固まったキリトにはアスナの次の一言を待ち続けることしかできなかった。
「あのね……今日は一緒に過ごしてくれて、プレゼントもくれて、本当にありがとう。すごく、楽しかった」
コートを引かれる力が強まった後、それからぽつり、ぽつりと、アスナは一言一言に心を込めるようにゆっくりと話し出す。それと共に、身体に入っていた力が抜け、キリトの思考も徐々にクリアになっていく。下手な想像で混乱している場合ではなかった。
「現実世界にいた時より、今まで過ごしたどんなクリスマスイブより、素敵な一日だった。一緒に過ごしてくれる人がいるクリスマスがこんなに楽しいものだなんて、もう忘れてしまっていたから……」
「……そっか」
アスナの言葉にそう返すことしかできなかった。一人ぼっちのクリスマスを過ごしてきたという彼女に掛ける言葉をキリトは持っていなかったのだ。何故なら自分は、彼女が欲していた家族の
「来年のクリスマスに必ずお礼するから、期待しててね。……じゃあ、おやすみ」
そう言い終えると、アスナはキリトの返事を聞かずに自室へと入っていった。それを見送った後、キリトもドアノブを回し寝室へと入る。重い歩みを進め、着替えることもなく備え付けられた豪華なベッドへと倒れ込んだ。
「来年のクリスマス……か」
ポツリと口から零れた言葉は、キリトの複雑な心情を表すかのように力が無かった。もしかしたら、隣室のアスナも同じように呟いているのではないだろうか。
この階層を含めて、突破しなければならない残りの層は九十六層だ。第三層は一週間で突破できたのでそれを目安とすると、残り九十六層を突破するのに九十六週。一年は五十二週であるから、攻略が順調に行われるという前提でゲームクリアまでに一年と十か月近い時間が必要になる。来年は間違いなくこの世界の中で過ごすことになるだろう。下手をすれば再来年も囚われたままかもしれない。
この先二年近くの時間を、命を削り、精神を擦り減らしながら過ごさねばならない事実。はじまりの街に引き籠っていれば精神は擦り減ろうとも命を削る事などなかった。リソースが無くなる前に走らなければという焦燥感があったとはいえ、何故命懸けの戦いへと身を投じようと思ったのか四十八日という時間が経った今でもわかっていない。
戦う理由が曖昧なままにここまで来た。アスナのように何かしらのきっかけがあり戦う意思を持ったわけではない。自分でも足元がグラグラと揺れているのがわかってしまう。どうしても不安になるのだ。このような不安定な状態で、この絶望的な事実から来る重圧にいつまで耐えることができるのかと。不安は更なる不安を呼ぶのはわかっているのだが、キリトはこの思考を止めることができなかった。
天井が崩れる。九十六もの分厚い壁が砕けながら落下してくる。押し潰されたキリトの身体はポリゴン片となったが、それでも足りないと瓦礫となった天井はキリトの身体があった場所へ積み重なっていく。目に見えないはずの重圧が可視化されたような感覚を覚え、キリトは跳ね上がる様に上体を起こした。
――夢……か?
荒い呼吸を落ち着かせ、現状を確認する。夢の中で見たように天井が崩れている等と言うことはなく、綺麗に清掃された豪華な寝室はキリトが入ってきた時のままの状態だ。時刻はもうすぐ二十三時。二十二時過ぎにアスナと別れてこの部屋に入ったはずだから、まだ一時間も経っていない。うたたねのようなものであっただろうに、このような悪夢を見る羽目になるとは。
マイナス思考は良くないと理解していたのに止めることができなった結果がこれだ。しかし、今まで先のことに対して不安を感じることなど多々あったが、悪夢を見ることなど無かったはずだ。いつもとは違う、何か強い不安を知らぬ内に感じていたのだろうか。
無駄な思考だなと、キリトは首を振った。何故悪夢を見たかなど考えても仕方ない。明日はそこそこ早い時間に集合するのだから、こんなことを考える暇があったら早く休むべきだ。
――とはいえ、目も覚めちまったな……。
ミーティングを終えた後には確かな眠気を感じていたのに、今は完全に覚醒してしまっている。この状態でベッドに横になっていても眠れるとは思えないが、とにかく寝られる姿にはなっておくかとキリトは寝間着に着替えようとして、手を止めた。
ストレージの中にある新しいアイテム。アスナからプレゼントとしてもらった黒が基調の部屋着だ。今まで使っていたものも当然ストレージに入っていたが、折角もらったものであるし使ってみるかと、今までの物と場所を入れ替えた後に装備する。素材は布であるから着心地こそ変わらないとは言え、アスナからのプレゼントと思うと少しだけ特別な感じがするのは不思議だ。
初めての家族以外の女性からのプレゼントということを意識してしまい気恥ずかしさを感じていると、唐突に隣の寝室の扉が開く音が聞こえた。余りのタイミングの良さに驚きの余り思わず立ち上がってしまったが、幸いなことに音を立てることはなかった。こんな時間にどこかに出かけるのだろうか。声をかけるべきかとも思ったが風呂好きの彼女のことだ、あの大浴場をまた楽しみに行くのだろう。
音を立てないようにそっとベッドに寝転がり、目を閉じる。物音一つ無く意図的に作っている暗闇の中であっても眠気は来ず、どうしたものかと考えたときに、そういえば扉の音が一回しか聞こえてないと気付く。
先ほどの扉の音はアスナが寝室から出た音だ。大浴場に行くならば、もしくは寝室に戻るならばもう一回扉の音が聞こえるはずなのだが、居間で何かしているのだろうか。
裸足のままベッドを下り、足音を立てぬよう扉へと近づいた後そっと扉を開ける。扉の隙間から今の様子を窺うと、窓際に置かれたソファの上に腰を下ろしたアスナの姿が目に入った。何か作業でもしているのだろうかと思ったが、膝に手を置いたまま俯いている。
何かしているならば声をかけずにそのまま扉を閉めていただろう。しかし、今のアスナは何故か寂しそうに、不安そうに見えた。もしかしたら、キリトと同じように未来のことを考えてしまったのかもしれない。意を決して、扉を開ける。あの状態のアスナを放っておくことなど、キリトにはできなかった。
歩を進めたキリトに気付いたのだろう、アスナの視線がこちらに向く。
「あら、どうしたのキリト君」
「それはこっちのセリフ。眠れないのか?」
「うん。……なんか、落ち着かなくて」
「そっか、実は俺もなんだ。……少し、話そうか」
アスナが頷くのを見てから、キリトはソファの反対側へを腰を下ろした。キリトの言葉に応える時は顔を上げたものの、今は再び顔を俯かせている。自分から話そうと言った手前何か言うべきなのだが、アスナの様子を見れば下手な雑談を振るのはやめたほう良いだろう。ならばと、キリトは思っていたことを直球で、恐る恐る聞いてみた。
「……先のこと、考えちゃったのか?」
どうやらキリトの見当違いではなかったようで、アスナの肩がビクリと震える。顔がゆっくりと上げられ、一瞬口をつぐんだ後、震える声で話し始めた。
「うん……。さっきね、すごく自然に、来年のクリスマスって言葉が出たの。来年はキリト君を驚かせてやろうって、そういう気持ちから出た言葉だった。でも……でもね? 部屋に戻って一人になったら、来年までキリト君と一緒に居れるのかとか、そもそも自分はいつまで生き延びれるのかとか、色々考えだしちゃって。目を逸らしてた現実と急に向き合ったら、なんか、部屋が広く感じて、怖く、なっちゃって……」
言いながら、アスナは自分の心を守るかのように両膝を抱え丸くなる。
「わたし、来年のクリスマスまで生きていたい。今日みたいに、二人で歩いて、ケーキ食べて、雪が降っているこの世界を、見たい……」
声は小さく、震えている。これは間違いなくアスナの心の悲鳴だ。膝を抱えた両手に力が入り、顔を膝に押し付けるようにギュッと縮こまっている。普段の様子から想像もつかないこの弱々しい姿は、自分と出会う前、彼女が戦うと決める前に、はじまりの街の宿屋に閉じこもっていた頃のアスナの姿なのではないだろうか。
一度絶望の底まで落とされた人間がそう簡単に立ち直れるものではないはずだ。それでも戦う理由を作り、ビギナーであるにも拘わらずベータテスターとしてひたすら走り続ける自分に食らいついてきた。その努力は素直に賞賛すべきもので、キリト自身も幾度となくアスナに助けられている。だが、その努力量と比例する形で、彼女の精神への負担は大きくなっていたのだろう。今日一日を殆ど休息に使ったせいで、常に張りつめられていた緊張の糸が切れ、今まで隠してきた心の疲労が吹きだしてしまったのかもしれない。
本来ならば、「大丈夫だ」と、「君は生き延びる。一緒に居る」と、一時的にでもアスナの不安を取り去ることができる言葉をかけるべきなのだろう。仮初めの言葉であっても、明日からのことを考えれば不安というものをだらだらと引き
頭では理解できている。心もそういうべきだと言っている。だが、今ここで仮初めの言葉を口に出したとして、その根拠をどこに求めればいいのか。自分ですら明日一日を生き残ることができるかわからないのに、アスナが生き残るかどうかなどわかるわけがない。安直な言葉で誤魔化すような不誠実な真似をすることなど、キリトにはできなかった。
「…………ごめん。俺には、君を安心させる言葉を言うことができない。それを言えるだけの実力も、根拠も、持っていない……」
自分を孤独から救ってくれた少女が恐怖に怯えているのに、彼女は自分を助けてくれたのに、自分は彼女を助けることができない。情けない。何と情けないのだろう。アスナの感じる恐怖、自分たちが直面している現実に対して、キリトは無力だった。
「……そう、だよね。わたし、何言ってるんだろ。こんなこと言っても仕方ないのに……。ごめんなさい、変なこと言って……」
謝罪を口にしたアスナが立ち上がった。自室へと戻ろうとするアスナを引き留めることもできず、キリトは顏だけでアスナを見送る。
しかし、彼女が横を通り過ぎる瞬間、キリトは見てしまった。キリトとパーティーを組んで以来気丈に振る舞い続けてきた彼女の瞳から一筋の涙が流れていることに。
頭が動く前に、身体が動いた。
立ち上がり、追いかけ、アスナの左手の手首を掴む。普段より足早だったためアスナの右手は既にドアノブに掛けられていたが、部屋に戻る前に止めることができた。突然手を掴まれたアスナは驚きで身をビクリとさせたが、ドアノブに掛けた右手を外し、目の辺りを手の甲で拭ってから振り向いた。
「……キリト君、どうしたの?」
振り向いた彼女の瞳からは既に涙は零れていなかったが、普段よりも潤みを帯びているのがわかる。何も言えないのは変わるわけがないし、それに対しての諦めもあるだろう。本当は部屋に戻って泣きたいはずだ。
だが、今のアスナを一人にすることなど、キリトにはできなかった。
「……アスナが泣いているのが見えて、今の君を……一人にしたくなくて……」
何かをするために、言うために、止めたわけではない。故にキリトは自分が直感的に感じたことを口にする。しかし、言葉に力を篭めることはできず、ただ自分の感情を吐露するだけだった。
「…………急にそんなこと言うの、ずるいよ……」
「……ごめん」
手を掴んでいた右手が力無く身体の横へと戻ってくる。ずるいと口にしたアスナに何も返すことができず、ただ謝るしかなかった。
「……キリト君のせいなんだから。仕方ないって、我慢しなきゃって思ったのに、そんなこと言うきみが悪いんだからね」
キリトが悪いと、アスナが言う。確かに中途半端なことをしたのはキリトだ。それはわかる。だが、先ほどまで寂しげな雰囲気を纏っていたのに、今のアスナは吹っ切れたかのように普段の雰囲気に戻っている。この彼女の急な変わりように、キリトはただ戸惑うしかなかった。
「わ、わかったよ。でも、急に一体何を……」
「今日、一緒に寝てもらうから」
視界の外から飛んできた物体が頭にクリーンヒットしたかのような衝撃を受け、キリトの思考が完全に止まった。
「…………うん?」
「だから、一緒に寝てもらうから」
聞き間違いに違いないと問い返したキリトに、アスナは平然と同じ言葉を繰り返した。確かに、確かに同じ屋根の下で寝たことはあるし、同じ部屋で休憩したこともある。しかし、しかしだ。あれは仕方なく行ったことであったし、あくまで寝具は別々だった。
今それぞれに割り当てられている寝室にはベットは一つ。ダブルサイズであるから確かに二人並んで寝る分には問題ないだろうが、一つのベットに男女が寝るというのはとても、極めて、重大な問題であることは疑いようがない。
「いやいやいやいやいやいや。それはダメだろ嫁入り前の女の子が何を言っているんですか落ち着いてくださいアスナさん」
「何よ、嫁入り前なんて堅苦しい言葉使って。わたしは十分落ち着いてます。別にいいじゃない、ただ寝るだけなんだし」
盛大に狼狽えたキリトの言葉は目の据わったアスナに一蹴された。
「ただ寝るだけって、それはそうだけどさ……!」
「一人にしたくないって言ったのはキリト君でしょ。自分で言ったことなんだから、責任取って」
――責任なんて言葉軽々しく口にしてはいけません!
澄ました顔で言うアスナに思わず叫びたくなったが、口に出したところでどうしようもなく、そもそも自分の情けなさから出た言葉が原因なので何も言い返すことができない。内心で頭を抱えながら、キリトはアスナに手を引かれ寝室へと入っていった。
「そういえば、部屋着使ってくれてるんだね」
寝室に入りベットに腰を下ろしたアスナが、盛大に狼狽え落ち着かず、しかし下手に動けずに部屋の入り口に直立したままのキリトを見て言った。
「あ、う、うん。折角だし、貰ったものは使わないと意味がないからさ」
「ふふ、そうね。自分が贈った服を着てもらうって……なんか恥ずかしいけど、新鮮な気分ね」
頬をほんのりと赤く染めながら言うアスナの姿は、状況も相まって極めて目に毒だ。
――ホント、勘弁してくださいアスナさん……。
心の中の何かがゴリゴリと削られているのがわかる。全力で自重すべきだし、全力で自重して欲しいが、彼女に自重をやめさせるきっかけを作ったのはキリト自身だった。
「ほら、そんなとこに立ってないでもう寝ましょう? わたし、こっち側使わせてもらうから。キリト君はそっち使ってね。国境線は真ん中ってことで」
淡々とした口調で寝る側を指定したアスナが、自分で決めた側のベッドの右側へと移動し毛布の中へと潜り込んでいく。その余りにもあっさりとした態度から、全く警戒されていないということが分かり何とも悲しい気持ちになるが、立っていても仕方がない。ベッドの左側に移動したキリトは、毛布をめくって身を横たえた。
「じゃあ、明かり消すね。おやすみ、キリト君」
おやすみと返すと、部屋の照明が消える。月明かりが差すだけとなった部屋の中で、柔らかくそこそこの高さがある枕に頭を預けながら、キリトは考える。
一時はどうなることかと思ったが、随分とあっさりとした終わり方だった。アスナの照れた顔や涙に散々心を揺さぶられ、今こうして同じベッドの上で同じ毛布に包まって寝ている。文章にすれば想像が捗る展開なのかもしれないが、現実はこんなものだ。
一人でベッドに転がっていた時は寂しさを感じていた。今は手を伸ばせば届いてしまう距離に、自らの最も頼りにするパートナーが居る。だから寂しさ等感じるはずはない。感じるはずはないのだが。
――どうして、こんなにも広く感じてしまうんだろう。
見上げる天井はキリトが先程見ていたものと変わらない。殆どが同じ造りなのだからそれは当然だ。だというのに、今見ている天井は何故か先ほど見ていたものよりも広く感じられた。一人では寂しいと言っていたアスナは、満足してもう眠りについているのかもしれない。横を見ればすぐに確認できるのだが、何となくそれは
結局は自分も寂しかったのだ。アスナがキリトに側に居て欲しいと言ったように、キリトもアスナに側に居て欲しかった。いや、居て欲しかっただけではない。触れて欲しかったのだ。
どうすべきか、しばらく悩んだ末にキリトは顔を横に向けた。
視線の先にはアスナの横顔がある。目は閉じられており、本来アバターの身体では必要のないはずの呼吸も一定だ。どうやらアスナの意識は既に夢の国へと旅立っているらしい。当たり前のことではあったが、正直なところアスナがまだ起きていて視線が合ったりしないかな等と期待していた。
仕方ないよなと、キリトは溜息を一つついた。そんな都合のいい展開があるわけがないのだ。少なくともアスナの不安を少しでも解消できたのだからそれで満足しようと、キリトは目を閉じ意識を手放そうとした。
「どうしたの?」
その時、横から声が上がる。驚いて左を見れば、顏だけをこちらに向けたアスナが眼に入った。
「急に溜息ついて。まさか緊張か何かで眠れないなんてことはないでしょうね?」
「い、いや、そんなことないぞ。ただ……」
「ただ、何よ」
言うべきか迷った。誤魔化してしまえば何事もなくこのまま寝ることができるだろう。しかし、呆れたような言葉とは裏腹にアスナのこちらを見る眼差しは真剣なものだった。嘘をつくことはできない。キリトはたどたどしくではあるが、自らの望みを口にした。
「その、手ぐらいは繋ぎたいな、って思って……」
キリトの言葉を聞き、アスナは「そう」とだけ口にした後、沈黙した。やはり失敗しただろうか、そう思った矢先にアスナの右手がこちらへと動いた。
「……どうぞ」
差し出された手は二人の中間、国境線の辺りで止まっていた。それを見てキリトも左手を伸ばし、アスナの右手に触れる。暖かさを求め、求められて、昼間に繋いだ時とは違い、自然に指を絡ませるように繋がれた。
「……わたしだって、こう、したかったんだから」
握られた左手に感じる圧力が増す。薄暗いためはっきりとはわからなかったが、「こうしたかった」と言ったアスナの顔は赤みを帯びているように見えた。
しかし、こうしたかったということは、アスナも自分と手を繋ぎたかったということだ。ならばどうしてあんな行動をしたのだろう。疑問に思ったキリトが問うと、アスナは頬を赤く染めたまま答えた。
「だって……キリト君、あんなこと言ったのにそれ以上は何も言わないし……。嬉しいのに、どうすればいいかわかんなくなっちゃったんだもの……」
顔を半分毛布に埋めたまま話すアスナの姿を見て、キリトはたまらず笑ってしまった。部屋に入ってからの淡々とした態度も、ベッドに入ってからすぐに目を閉じたのも、要は彼女の照れ隠しであったということだ。
「わ、笑うなんてひどいよ……」
「ごめんごめん」
「…………ふん、いいわよ。どうせ今日だけなんだし、好きにしてやるんだから。明日起きたらベッドの外に放り出してあげるわ」
「それは勘弁して欲しいなぁ……」
アスナの抗議に素直に謝るが、あまりに軽い口調だったのが悪かったのだろう、むくれてしまった。それでも本気で怒っているという感じではないし、その証拠に手は繋がれたままだ。
この状況はクリスマスイブという特別な日付が起こした偶然の産物だ。こんなことをするのも今日だけ。ならばもう少し、自分が望むままに動いてみよう。
「なあ、もう少し、そっち寄ってもいいか?」
普段の自分では言えないような、大胆なことを口にする。アスナは随分と驚いたようで一瞬躊躇ったが、おずおずと回答を口にした。
「……国境線まで、だよ?」
キリトは頷いた後、身体をベットの中央へと寄せていく。移動の途中アスナの右手が握られたが、強張ったというよりは緊張によって力が入ったのだろう。キリトが国境線まで移動し終わると、自然と力が緩められた。
再び寝室に静寂が戻る。しかし、それは当然と言うべきか、長く続くことはなかった。
「キリト君……」
先ほどより近い場所から呼ばれる。この後続けられるであろうアスナの言葉を、キリトは既に知っていた。
「……わたしも、そっち寄って、いいよね?」
「……国境線まで、な」
「うん」とアスナが頷き、身体を寄せてくる。アスナがこちらに来る度に接触している場所が増え、最初は手のひらだけだったのが、最終的には肩がくっつくまで身体を寄せ合った。
「ちょっと、近いね……」
「……うん。でも、暖かいよ」
「……そう、だね」
右手と、左手。肩をぴったりとくっつけ、手を握り合う。お互いの皮膚が国境線となり、昼間よりも多くの熱量がアスナから伝わってくる。アスナもきっと、自分と同じように感じているだろう。
「じゃあ、おやすみ。アスナ」
「うん。おやすみ、キリト君」
挨拶をし、お互いの熱を感じながら、目を閉じる。普段の距離ではない、クリスマスイブだけの特別な距離。
遅くなった理由は文字数の多さもありますが、それ以上に最後の部分をどうするかに悩んでいました。
個人的な嗜好では、付き合っていない二人がいくとこまでいくというのもいいなと思ったのですが、もう少しだけプラトニックな関係でいてもらうことにしました。
正直この二人には精神的な部分でもっとイチャイチャして欲しいからね、仕方ないね。
次回は第四層完結かクリスマスイブ翌日の二人のどちらかになると思います