アリアのアトリエ~ザールブルグの小さな錬金工房~ 作:テン!
部屋の中央にある竈には、大きな鍋が置かれていた。その鍋の中では、ことことと音を立てて、水が沸騰している。少しずらされた蓋からは熱い水滴が落ち、下には目盛りのついたガラス瓶――ビーカーが置かれてそれを受け止めていた。
蓋とビーカーはきっちり洗いこまれているが、それでも何回か調合を中断して洗い直しを行う必要がある。
少し冷まさなければ熱すぎて持つことすらできないので、どうにも手間がかかる。
それ故に、作業の単純さの割にこの調合は時間がかかって仕方がない。それに加えて、作業の進度を定期的に見なくてはいけないので、他の作業を並行して行うのも今はまだ難しい。
けれど、この鍋の中の水が全部なくなれば、今までの苦労は報われる。
そう「蒸留水」の完成、という事実によって。
アリアにとって鍛冶屋というものは馴染みの深い場所だ。彼女の父親が鍛冶を生業にしており、その背中を見て育った。
そしてそれだけではなく、まだアリアがまだ幼かった頃には、彼女の父親は大きな製鉄所で働いていた。産まれてすぐに母をなくしたアリアは、よく父の仕事場に連れて行かれ、そこで長い時間を過ごした。
アリアが生きてきた十五年間は、鍛冶というものと切っても切り離さないほど密接につながっている。
ガチャン、ガチャンと木箱に入れた蒸留水の容器が、歩くたびに揺れて音を立てる。
ガラス容器なので、落として割れたら一巻の終わりだ。持ち運ぶときは細心の注意を払わなくてはいけない。
アリアにはとあるコネから、錬金術アカデミー入学したばかりにもかかわらず、お得意先を一つ持っている。
まだあまり多くの品を調合できないこともあり、納品するのは中和剤(青)や蒸留水といった簡単なものばかりだ。ちなみに、アリアが納品した品は見習いの人たちの練習材料となる。一応見習いの方たちの完成品は、割安で販売するらしく、依頼の採算はとれているとのことだ。
こうした事情もあり、納品した品は格安で売っているが、「飛翔亭」で仕事をとるときのように仲介料が発生しないので、もらった代金は全てアリアの懐に入る。
まだまだ金のないアリアにとって、この収入は貴重かつ重要なものだ。
この依頼自体はアリアへの好意によるものだ。アリアの腕前に対する評価ではない。
もちろん好意自体はありがたいが、いつか自分の力量で評価されたいというのが本音だ。
だからこそ、向こうからの依頼は最優先で受けるし、一片足りとも手を抜かない。少しずつ信頼を積み重ねて、好意からの依頼だけではなく実力で依頼をもぎとるのが今後の目標だ。
そのためにも、今回はこの依頼を無事に終わらせよう。
そう考え、アリアは依頼人の実直さを示すような素朴だが丈夫な扉に手をかけた。
「すみません!」
カラン、カラーンと扉についたちいさなベルが鳴る。
アリアは声を張り上げるが、どこまで伝わったか自信がない。
なぜなら、アリアの声に負けないくらいその建物の中は騒音で溢れかえっていたからだ。
豪快に鉄を叩く音、拍子をとる男の声に火が燃え火花を散らす音。
全てが渾然一体となって、些細な音は全て飲み込んでしまう。
ここはザールブルグでも一、二を争う規模の製鉄所だ。
毎日その炉には火がともされ、槌を振るう音が止まることはない。
一度扉を開けるとまるで喧騒の濁流だ。耳に痛い。
どうやら先程アリアが張り上げた声は誰にも聞こえなかったようだ。
誰も彼もが製鉄作業に夢中となっていて、こちらを見もしないし声も返ってこない。
仕方がない。もう一度だ。
「すみません!!」
「はーい!! ちょっと待ってておくれよ!!」
ようやく返事が返ってきた。
溌剌とした気風の良い女性の声だ。
その声にアリアは聞き覚えがあった。
小さい頃からよく聞いていた声だ。聞き間違えることはない。
「悪いね、ちょっと待たせたようだね」
「いえ、お気になさらず。こちらが依頼の品の青の中和剤です」
木箱を渡せば、「お、もうできたのかい。早いね」とその赤毛の女性は、豪快に笑った。
年の頃は四十前後だろうか。ザールブルグの女性にしては珍しく、燃え立つような赤毛を短く切り揃え、男物の服を製鉄所の熱気の中でぴしりと着こなしている。
「こちらこそ、いつもありがとうございます。カリンさん」
そう返せば、この製鉄所の主カリン・ファブリックはその日焼けした顔を破顔させたのであった。
アリアの父はもともとカリンの製鉄所で働く一介の職人であった。
幼い頃は父について製鉄所に何度も来ていたので、とてもよく覚えている。
時間の空いた時には、幼いアリアの相手をカリンや職人たちがしてくれたこともある。
危ないところには近よらない、との約束で鍛冶場を見せてもらったこともある。
掃除などのお手伝いをした時には、甘いはちみつを内緒でくれたこともあった。
大人たちが仕事で忙しいときは、近所の子供達と遊ぶこともあった。
あとで思い返すと結局一番一緒に遊んでいたのは、同じように親に製鉄所の職人を持つ少年だったように思う。
その後父は腕を認められて独立したが、その後も交流はつづき、アリアは製鉄所と父の工房を行き来する毎日であった。
アリアにとってカリンは、そんな父の後ろについてまわっていた頃のことを知る古くからの知り合いだ。
昔から可愛がられ、今なお仕事でお世話になっているこの人には、どうにもこうにも頭が上がらない。
「うん、今回の品も悪くないね。この調子なら、もうちょっとすれば職人の方にもあんたの品を回せそうだ」
「そしたら、もうちょっと高く買い取ってあげるよ」と今まで品質を見ていた中和剤(青)から目線を外し、カリンはなんでもないことのようにアリアに告げた。けれど、その言葉はアリアにとってこの上なく嬉しいものであった。
カリンの製鉄所は、数少ない錬金術の手法を金を払って買入れた製鉄所だ。
実は錬金術の金属精製の手法と、長年ザールブルグ中の鍛冶屋が行なってきた伝統的な金属精製の手法にはそこまで違いがない。
最も大きな違いが、中和剤(青)と蒸留水の使用であり、そこさえ変更すれば長年の技術を蓄積したまま、錬金術の生成物に共通した高い品質が約束される。
高い技術力を維持したまま、錬金術の技術を取り入れたことにより、カリン製鉄所で生成される金属は、質・効力共に他の工房の追随を許さない。
既存金属の精製技術だけなら、アカデミーの講師であるイングリドや校長であるドルニエにすら勝つことができるとのもっぱらの噂だ。
そして、その噂は事実だ。
今やカリンの製鉄所は、名実ともにザールブルグ一の製鉄所となっていた。
当たり前だが、そこまで発展すると鍛冶の際に使う材料も一流どころを求めるようになる。
カリンの製鉄所で使う材料の大半は、錬金術アカデミーから卸されているものだ。ただ、このままでは経費がかかりすぎるので、市井の錬金術士に中和剤(青)や蒸留水の作成を依頼したり、コネを増したりすることにより、少しでも安くすませようと、今なお活動を続けている。
ちなみに、アリアから中和剤(青)や蒸留水を買い取っているのも、そうした活動の一環である。
今までアリアが作ってきた中和剤(青)や蒸留水は、カリンからの好意で鍛冶見習いの人たちの練習材料として提供している、という扱いになっている。見習いを卒業した本職用、つまり商売用の原材料にはならない。
つまり、アリアの納品したものに品質にバラけがあったり、最悪使い物にならなかったりしても問題が無いよう、あらかじめ予防線を張った上で、カリンはアリアから調合品を買い取っていたのだ。
もちろんカリンにとってもこれは商売だ。
職人見習いの人達が作ったものは、全てカリンのものとなるし、アリアの側にも十分利益がでているとはいえ、一般的なものよりもはるかに安い金額で錬金術の調合品を購入している。例えアリアの作る品の質が多少悪くても、使う人間が職人見習いでしかも鍛冶練習として使うことが前提だとしても、最低限採算が取れるように取引をしてくるところは、さすが年の功というべきだろうか。
だが、アリアが調合に失敗したり、職人見習いの人たちがとても売りには出せないような失敗作を作ったりしてしまった時には、カリンが全部のババを引くように裏で手を引いている。
つまり、アリアや職人見習い達はカリンという存在に守られた上で、失敗を許される機会を与えられたことになる。
アリアがカリンに恩を感じるのは当然といえよう。
そんな恩ある人が、アリアの作った品を本職の人に回そうか検討してくれているのだ。
自分の力を認められた。
しかも恩人に。
これほど喜ばしいことがあるだろうか。
なかなか表情が動かないアリアも、この時ばかりは笑みを浮かべて喜んだ。
少し勢い込んで「本当ですか!?」と聞き返す姿は、普段の飄々とした態度からは想像できないほど歳相応の少女らしく見えた。
「ああ、ほんとうだよ」
そんなアリアの姿を見て、カリンは微笑ましげに薄い青色の目を細めた。
「そういえばさ」
そうカリンがアリアに話しかけたのは、蒸留水の代金をもらい帰りかけたその時であった。
「最近はディルクと話しているかい?」
「…………いいえ」
カリンの口から出てきた名前は、アリアもよく知るものであった。
ただ、カリンの問いかけにはNein
その答えを半分予測しながら、けれども出来れば否定してほしくはなかったのだろう。
「やっぱりね」とカリンは、苦々しい溜息とともに言葉を吐き出した。
「まったく、あの馬鹿息子にも困ったもんだ。顔を合わせづらいからって、避けててもどうしようもないってのに……」
ディルク、正式名ディルク・ファブリックは正真正銘カリン・ファブリックが腹を痛めて産んだ一人息子である。
もちろんアリアとも面識がある。面識があるどころか、製鉄所を遊び場にしていた二人は互いの歳が近いこともあり、幼馴染といっても差し支えのない間柄だ。
少し前まではその間柄に相応しく普通に話していた。おそらく今回のようにアリアが納品に来た時など、なんやかんや言いながらついでに顔を見せるくらいはしていたであろう。
しかしあることがあってから、アリアはディルクの方から一方的に避けられるようになってしまった。
「まあ、さすがに今すぐは会いにくいでしょうから、私は何も気にしていませんよ」
実際、アリアはさほど気にしてはいない。
ディルクがアリアと向い合って話すのを気まずく思うのは、まあ仕方のない事だと理解している。
とはいえ、一方的に避けられるのはやはり気分が悪いので、普通に話せるようになった暁にはケツの一つでも蹴飛ばしてやろうとは思っている。が、精々その程度だ。
それを正直に告げれば、カリンは腹を抑えて笑い転げた。
「そいつはいいや、その時はあの馬鹿息子に思う存分やってやんなよ!」
「ええ、もちろんです」
「ま、けどね」
思う存分笑い続けてようやく発作が治まり、目尻に溜まった涙を拭いながら、カリンは口を開いた。
「そう言ってもらえると助かるのはほんとうだけどさ、いつまでもこのままって訳にはいかないからね。この製鉄所を継ぐあいつには、大切な取引先になる予定のあんたとは良好な関係のままいて欲しいんだよ」
だからこそできる限り早く今の状況を改善したいのだろう。
こういう問題は、放置しておくとそのままズルズル長引くこともある。
「だからさ、ちょっとあいつらを護衛として雇ってみるつもりはないかい? 格安でいいからさ」
「……………………は?」
とはいえ、彼女の口から発せられた提案は、アリアの予想をはるかに超えてしまっていた。
アリアのように自らアトリエを運営し、自活するものは調合するための材料も自分の足と財力で集めなくてはいけない。アリアの家計は、アカデミーに通うようになってからやれ参考書やら、実験器具やらで出費が重なり、常に火の車だ。
必然的に、彼女が調合の材料を集めるには、ザールブルグの外に出て自分の足で集めるより他にはない。
もちろんザールブルグの外には、魔物や盗賊などが住み着いているので、護衛は必須だ。
材料を採取している時に背後から襲われれば、アリアのような一般人などひとたまりもない。
自らの安全のため、戦う術の乏しいアリアは採取の時には常に護衛を雇っていた。
その護衛費も、素材を全部自分で賄うよりははるかにマシだが、アリアにとって手痛い出費であることは否定できない。
だから今回のように人格・腕共に信用が持てて、その上護衛費が安いと聞いて飛びつかずにいられるか。
(無理だな)
こんな美味しい話、裏がないとわかれば誰だって飛びつくに決まっている。
たとえ……。
「ちくしょう、あんのクソババアが……っ!」
「………………えっと、あの、あなたがレイアリアさんですよね?」
凄まじく気まずい相手が護衛だとしても、である。
カリンのもとに中和剤(青)を納品してから数日後、朝も早くからザールブルグの城壁の外で待っていたアリアのもとにやってきたのは、一組の男女であった。
男の方はカリンと同じく赤い髪を短く刈り揃え、額の上に汗避けか濃い色のバンダナを巻いている。
なかなか精悍な顔立ちをしているのだが、今その顔は不機嫌そうに歪められており、どこか近寄りがたい空気を発している。
女のほうは銀色の髪に若草のように明るい翠眼をしていた。服装はザールブルグでも見慣れたものだが、肌は浅黒く彼女がジプシーの出であることを告げていた。
男の名はディルク、女の名はエマといい、今回の採取でアリアが雇った護衛である。
「まったく、なんでおれがこんなこと……っ」
「ちょっとディルク、雇い主の前で失礼な態度を取らないの! ごめんなさいね、レイアリアさん。これが失礼な態度を……」
「いえ、こいつがこんなんなのはいつものことですし、頭を上げてください」
「うるせぇぞ、てめえら!!」
そこらのチンピラと同レベルの態度に、エマが頭を下げるが、アリアはディルクと幼馴染なのだ。こいつの態度の悪さくらい昔からよく知っている。
たとえ凄まれたとしても、全く怖くはない。
むしろ滑稽だ。
それより、こいつの態度が腹ただしい。
勝手に罪悪感を持って、一方的に避けられ、強制的に面を合わせる舞台を整えられたと思ったら今度は喧嘩腰だ。
いいだろう、そちらがその気ならこちらとて相応の態度で返して差し上げよう。
おとなしそうな外見に反して、アリアは意外と売られた喧嘩は買う人間であった。
カーンと、どこかで戦闘開始の鐘がなった。
「何を言う。君の態度が態度だからエマさんが困っているのだぞ。女性に頭を下げさせるとは、いやはや情けない。もう十七なのだから、もう少し落ち着いたらどうだ。今のままでは、そこらのチンピラと変わらない」
「ぐ、てめえは本当にあいかわらず口だけは達者なやつだな!」
「いやだな、そんなにほめられると照れてしまうではないか」
表情を一片足りとも動かさないまま、わざとらしく照れたような仕草をすれば、向こうからは絶句するような雰囲気が伝わってくる。
ばかめ、そんなんだから、こちらにいいようにからかわれるのだよ。
「それにしても、大切な女性の前で他の女性を褒めるなんて……。本当に君は女心というものがわかっていないな。見捨てられても文句は言えんぞ」
「そうでしょう」とエマに同意を求めれば、勢いに押されたのか「え、ええ」と困惑するように返事が返ってきた。
「ほれみたことか。エマさんとて私に同意してくれているぞ」
「…………ああ、そうだったな。てめえはそういう奴だったよ」
「てめえに遠慮していた俺が馬鹿だった……」と肺の奥から絞り出すような声で、疲れたようにディルクはうなだれたのだった。
勝った、とアリアは勝利を確信したのであった。
アリアとディルクは小さい頃からの幼馴染だ。
そして、周囲からは将来一緒になるものと思われていた。
とはいえ、何か強制力のある制約を結んだわけではない。
精々、口約束程度。将来、有力な相手が見つからなかった場合に備えて、あらかじめ親同士が手を打っていただけのこと。婚約、と名付けるのもおこがましいレベルでのお話にすぎないし、その程度の話ならこのザールブルグではいくらでも転がっている。互いに親しみはあっても恋愛感情はまったく存在しなかった。
だが二人にとっても、この周囲の反応は好ましかった。
もともとディルクは街で一,二を争う製鉄所の跡継ぎ。口は悪いが、仕事に関しては真面目で、小さい頃から将来を有望視されていた。これで女が寄ってこないはずはない。
将来を約束された相手がいる、という効果は覿面だった。アリア以上に良条件の女性でなければ、ディルクの嫁になることは難しいと誰もがわかっているのだ。そして鍛冶屋という面だけならば、アリアほどの良縁はなかなかいなかった。
アリアは、工房持ちの一人娘である。
次男以降が彼女の家に婿入りするもよし、長男でも彼女が二人以上子供を産めば問題なし。また小さい時に母親をなくしているので家事労働も十二分にでき、その上製鉄所に足しげく通っていたおかげで、鍛冶仕事にも理解がある。親世代の大半とも面識があった。
本気でアリアを自分の息子の嫁に!という人が多かったのだ。しかも、仕事上の付き合いのある家から、同時に複数打診される羽目になったのだ。この時、アリアはまだ十歳である。
父親の苦労が伺われよう。
この状況を相談されたカリンからしてみれば、棚からぼた餅どころの話ではなかった。
アリアを息子の嫁にすれば、労せずして一つの工房がカリンの傘下に収まるのだ。アリアの実家にしても、ザールブルグ一の製鉄所の血を引く子供が跡継ぎとなる。
周囲にもはっきり分かるほど、二人が家計を持つことは互いの家にとって利益しかなかった。
そしてその事実は、はっきりと約束してないにもかかわらず、二人の関係を後押しするものとなっていた。
そんなこんなで、アリアとディルクは年頃の男女にしては、比較的仲が良かった。
互いに運命の出会いとか何かしら他の問題がなければ、そのまま家庭を持っていただろう。
この時代、恋愛感情で婚姻する男女は、庶民であってもそう多くはない。特に女性は結婚適齢期である十代の間に恋愛を成立させきり、結婚までこぎつけなければ、その後の一生を「嫁ぎ遅れ」と周囲の白眼視の中で生きていかなくてはならない。
恋愛という夢をみるには、現実は厳しすぎる。
結婚相手は、たいてい家の事情や、家計の状況によって相手は決まる。結婚は子を産み、家の跡継ぎを作るために行うもので、余程の才覚がなければ結婚しないまま過ごすことはできない。
友人同士や幼馴染による婚姻はまだましな例で、最も数が多い。
アリアとディルクも、そのままいけばその最も数の多い事例の一つに数えられていただろう。
そう、アリアの父の死とエマという女性の存在がなければ……。
二人の少女と一人の青年がストルデル川を遡るように、街道を歩いていく。
川に近く砂利も多いので歩きやすいとは言いがたいが、三人とも闊達とした足取りで先を行く。
周囲を警戒する仕草から旅慣れているのは、浅黒い肌と薄い銀色の髪を持つジプシーと思わしき少女だけとわかる。
残りの二人は純粋に体力があるのだろう。それなりに長い時間を歩いているにもかかわらず、疲れた様子は微塵も見えない。それどころか、時折軽口を叩き合う余裕すらある。
街道を行くのはアリア達だ。
すでに最初の気まずい雰囲気は払拭され、特に危うげなく足を運んでいる。
もともとディルクの罪悪感など、アリアにとっては屁でもない一方的なものだ。
勝手に思い悩み、ドツボにはまっていただけのことにすぎない。
旅立ち前の一方的すぎる口喧嘩で、そんなもの持っているだけ馬鹿馬鹿しいことに気がついたディルクは、すでにかつての気安さを取り戻していた。
悪くない傾向だ、とアリアは思う。
けれど、とも思う。
アリアの目線の先には、一文字に口元を引き結んだエマがいた。
それはそうだ。
元婚約者が自分の恋人と親しく話をしていて、それを喜ぶ女性がいるものか。
エマとディルクが恋仲になったと聞いた時には、なによりも先に「あのチンピラ相手に恋愛を成立させきるとは、蓼食う虫も好き好きというのは本当だな。ありがたいことだ」という言葉が出てしまったほどだ。
この時の婚約破棄がなければ、アカデミーに入学することもできなかっただろう。婚約破棄をされたというのに、怒りや悲しみを覚えず、むしろ安堵や相手方を祝福する気持ちでいっぱいだった自分には、やはりもともと恋愛感情などなかったのだと、この時アリアは自分の気持ちを再確認していた。
しかしながら、そんなアリアの感情などエマは知る由もない。
思わず天を仰ぎたくなるが、そんな思いをアリアの鉄面皮はおくびにも出さない。
こういう時には、あまり動かない表情筋の固さがアリアにはありがたかった。
(さて、こういう時はどうしたものか)
ぶちゃけディルクの時は、アリアが真正面から相対すれば事足りる問題であった。
もともとの婚約とて、子どもたちに良い相手が現れたらすぐさま破棄しよう、と親同士でも決めていたのだ。好きな相手ができたなら、それはそれで祝福すべきことで、相手方になにか言うのはお門違いであると、アリアは本気で思っていた。
だからこそ、一度真正面から話をするだけで、アリアとディルクの間の問題は解決したのだ。
しかしながらアリアとエマの間にある問題は違う。
昔からある程度親しい間柄であったアリアとディルクとは違い、エマはアリアにとって幼馴染の恋人という、ほとんど他人に等しい間柄だ。
正直に言って、どう対処すればわからない。
エマの態度からして、アリアがディルクの元婚約者であることは絶対に知っているだろう。
というより、直接顔を合わせたことはなかったが、婚約破棄時にちょっとした騒動になってしまったので、その時恋仲であったエマが知らないわけがない。
レイアリア・テークリッヒ、御年十五歳。
初恋すらまだな彼女にとって、この問題はあまりにも難しい、難しすぎる問題であった。
朝から歩き続け、そろそろ日が陰り始めた頃に、ようやくその場所は見つかった。
それは、森の手前で整備された旅人用の宿舎だ。
ストルデル川沿いの街道は人の往来が多いので、大体一日歩くごとに宿舎を見つけることができる。定期的に兵士が見回りに来るので、わざわざ宿舎の近くで事を起こす盗賊もいない。
旅人にとって、安心して休むことのできる憩いの場だ。
屋根はないが風よけ用の粗末な囲いがあり、工夫をすれば雨よけとしても使うことができる。
休憩スペースを確保して、火を起こせばようやく人心地がついた。
「ちょっと水汲んでくるわ」
「え、ならあたしも手伝うわ」
「いらねぇ。いいからお前は休んどけ」
エマの申し出をすげなく断り、ディルクは鍋を担いで一人川辺に向かった。
まったくもって言葉が足りないと、アリアは思う。
案の定、少しエマの雰囲気が暗くなっている。あそこまですげなく断られるとは思ってもいなかったのであろう。
「エマさん、今日は本当にありがとうございました」
「え? あ、護衛のこと? それならあたし達はあなたに雇われたのだもの、これくらいは当然よ」
堅苦しくなるので敬語はやめて欲しいと伝えたからか、その口調は気安い。「むしろ魔物も出なかったし、今のところただついていってるだけね」と軽快に話す姿に嘘は見当たらない。けれど、やはり見た目通りだけではない。
「いえ、でもお礼くらい言わせてください。あなたは、魔物がいつ出てもすぐに気づけるよう、常に周囲を気にしてくれていた。ここまで安全に来れたのは、やっぱりあなたのおかげです」
「あら、気づいていたのね」
「気づいたのは私じゃないです」
そう、アリア一人だけではエマの様子に気づくことはできなかっただろう。
残念ながら、アリアは旅をすることに関してはド素人だ。
普通の女性よりも鍛えているので健脚で体力があるだけ。
ただそれだけだ。
「気づいたのはディルクです」
「…………っ!? ……そう」
アリアがそう告げると、エマは嬉しさと悲しみが交じり合った複雑な表情を浮かべた。
「ディルクはなんていったの?」
「エマさんが無理してるから、ちょっと注意してくれと。ただそれだけです」
「………………」
事実、アリアの言う通りであった。
たった数日の行程とはいえ、まともに旅をしたことがあるのは自分だけなのだと、普段より気を張っていたからか、エマはいつも以上に疲労を感じていた。
「先程、自分一人で水を汲みに行ったのも、あなたを休ませるためだと思います。言い方には問題しかありませんが」
「確かにね、それは認めるわ」
くすっ、と小さく笑う姿は、異国情緒のあふれる見た目とも相まって、どこか妖艶だ。
沈みゆく太陽の陽を浴びて、銀色の髪が朱色の光を放つ。
「けれど、あなたにはそれを言うのね。ちょっと焼けちゃうわ」
「あのチンピラは変なところで意地っ張りですので。あなたに直接『心配している』というのが恥ずかしかったのでしょう」
面倒なやつだと呟けば、ようやくエマはコロコロと笑ってくれた。
それはどこか大輪の花を思い浮かべる、どこまでも鮮やかな笑みだった。
「そういうところがかわいいのよね」
「そうなのですか?」
「そうなのよ。……けっこうあなたも子供なのね」
「まだ十五ですから」
「そうね」とエマは呟いた。「忘れていたわ」という声が聞こえたが、アリアは聞こえないふりをした。
「ねえ、レイアリアさん」
「アリアでいいですよ」
「……え?」
「アリアでいいです、私のほうが年下ですので」
レイアリアとフルネームで名前を呼ばれることには、違和感しかない。
出来れば愛称で呼んで欲しいといえば、エマは猫のような目をぱちくりと瞬かせた。
「あなた、変わってるって言われたことない?」
「しょっちゅう言われますが、なにか?」
それが一体どうしたというのだろう、そういう気持ちを込めて小首を傾ければ、「なんでもないわ」とエマは疲れたように首を振った。
「なんだか、片意地を張っていたあたしが馬鹿みたいだわ」
「なら、あなたに片意地を張らせていたあのチンピラはもっと馬鹿ですね」
「あなたって辛辣ね。それに結構喋るのね」
「必要のない時は、ずっと黙ってますよ」
「極端なのね」
「ええ、その通りです」
その後、二人の間に流れたのは沈黙であった。
けれどそれは初めて会った時のように刺々しいものではなく、どこか穏やかで優しい沈黙であった。
それは、ディルクが戻ってくるまで、二人の間に横たわり続けた。
二話目にして前後編です。
出来れば一話で収めたかったのですが、話に一区切りがついたのと文字数が一万字を超えてしまったことで諦めました。
アリアのマイペースさが表現できていたら嬉しいな。
批評募集中ですので、一言でもいただけると嬉しいです。