ぎぃこぎぃこ
木の櫂が水を裂く。
ゆらゆらと波間に漂う小舟、貴方が握り締めるのは僅かな小銭。
強く握ろうとすると、チャリチャリと銭が踊る。
──六文銭。それは死出の旅の安寧を願う祈り。
時折、跳ねる水音がぴちょんぴちょんと、耳に響く。
貴方は、霧が深い中、浮かび上がるように目立つ、鮮やかな赤髪を目に捉えた。
青と白、着物の様な服装が薄暗く、ぼんやりと世界から独立して、あなたの目に飛び込んできた。
じゃぶ、じゃぶ
櫂が音を立てていく──
あなたは何時からか「そこ」にいた。
薄暗く、霧が立ち込める。そんな世界。
ただ一つ、お線香の香りが道を示していた。
歩き、歩く。
長いトンネルを抜け、険しい山を越え、足をひたすらに動かして。
歩く、歩く。
裸足で土を踏みながら。
どこかふわりとした浮遊感を感じながら。
ふわふわ、ふわふわ。
すたすた、すたすた。
どこか懐かしい声を聞きながら、死覇装で身を包みながら、ひたすら歩いていた。
疲れたかもしれない、そろそろ足も棒になり鈍い痛みを発し始めた。
しかし、何かに突き動かされるように。
山を越え、曼珠沙華咲き乱れる赤い道を歩き。
そして、歓楽街の様な出店の並びで癒されつつも。
ついに、対岸が見えない川にたどり着いた。
霧で覆われ、視界は暗い。
緩やかな波紋が川辺に打ち付ける。
ちゃぷん、ちゃぷん。
あなたの耳に水音が、耳に心地よく響く。
景色は暗く、霧がたちこめ、視界ははっきりとしない。
貴方は川沿いに歩くと、船着き場に辿り着いた。
フードをすっぽりと被った船渡しに出会い、言われるままに駄賃を渡し、舟へと誘導された。
いつの間にか、という言葉がぴったりと当てはまる位に、するするとここまで来てしまった。
すでに岸からは発ち、川の上。
ゆったりとした上下が貴方の身体を揺らしていた。
───ねぇ、
先程から楷を操る、赤髪の女がこちらへと語りかける。
少し軽薄にも取れる雰囲気を纏う彼女の目が、あなたを捉えていた。
巧みに櫂を操りつつ、言葉を続けた。
―――今のあんたの現状、理解してる?
心配、というよりは純粋な疑問。そんな風に取れる質問があなたに降りかかった。
ジャブ、と水を漕ぐ音が耳に届く。
貴方はかつてあった「今」を思い出す。
止まった時計は動く事は無く、立ち止まった日のまま埃が積もる。
いつしか立ち止まった刻から、ここまで歩いてきた。
ゆったりと、ゆったりと船は進む。
水音が、耳に響く。
──ねぇ、おーい?
貴方の目の前で手のひらが振られる。
そんな彼女に貴方は理解していることを伝えた。
気持ちは、水面の様に穏やかだった。
じゃぶ、じゃぶ。
ゆったりと、ゆったりと船は進む。
先は、見えない。
霧は深く、船に吊るされたランタンがぼんやりと闇を押し退ける。
──ふーん、理解してるんだ。
興味があったのか、無かったのか、再び赤髪の少女はそっぽを向く。再び静寂が戻ってきた、訳では無く、赤髪の少女は口を開いた。
──最近、理解していない奴が多くてさー
貴方が話さない事を良いことに、ベラベラと話し出す。
死神の近況、仕事のサボりかた、直属の上司の話。
少女の口から、つらつらと言葉が出てくる。
貴方は相槌を打ったかもしれない。
貴方は圧倒されたかもしれない。
どちらにせよ、貴方は聞き役に徹していた。
区切りがついたのか、少女が言葉を切る。
うるさかった空間は消え去り、再び、水音が木霊する。
ちゃぷん、ちゃぽん。
櫂が穏やかな水面に波紋を作っていく。
貴方は目を閉じ、耳を澄ます。
じゃば、ちゃぷん
揺れる波紋が、弾いた飛沫が
緩やかな音となっていき、貴方の心を溶かす。
不意に、音が止まる。
貴方は目を開くと、いくぶんか真面目な顔つきになった少女の顔がズイと近づいていた。
──さて……次はアンタの番だ。
どうやら、貴方の過去を話せ、というらしい。
少女の要望に答えるように、貴方は、話をした。
思い出せる限り、全ての記憶。
セピア色に褪せてしまった物から、ボロボロに擦りきれるまで見返した記憶、近年の穏やかな物まで。
とにかく全ての事を話す。話す。
先程まで話し続けていた少女は、耳を此方へと傾け、聞き役に徹していた。
ぎぃこ、ぎぃこ
櫂が、船が、
静かな、ゆったりとした
水面を滑る。
話始めたのはいつだったか。
あらんかぎりの物を貴方は吐き出した。
暖かな色、寒かった色。
その全てが、境界である川の上で輝きを放つ。
「この世」
「あの世」
境界線の上にある川で、歩いてきた道を振り返る。
霧で曇った景色が煌めき、輝く。
きらきら、きらきらと
ぼんやりとした世界に鮮やかな色が散らばっていく。蛍が夜空に散ったように、星が夜空に昇ったように。
色が、色が、様々な色が霧に浮かんでいった。
そして……
遂に、貴方は長い、本当に、
耳を傾け続けていた少女は、満足そうに頷いている。
──あぁ、これなら安心だ。
漕ぎ続けていた、櫂を止め。うんうんと頷いていた。
貴方は、少しの疲れと満足感、そして、喪失感を全身で味わっていた。
持っていたモノは、向こう岸へと置いていく。
遺された記憶はきっと、現世に残るのだろう。
遺された者がいる限り。
──未練は、無いかい?
優しい口調で紡がれた言葉に、貴方は頷く。
貴方の態度を見て、小さく頷いた少女は、再び櫂をとる。
数秒もしない内に、目の前の霧が晴れた。
目の前には仏閣のような大きな建物がいきなり現れる。
貴方の反応を待たずに、少女は、貴方の行き先を告げた。
──長旅、お疲れ様でした。あれが閻魔庁だよ。
ゆったりと、ゆったりと船は進む。
旅に疲れた魂を乗せて。
彩りに満ちた旅だったのだろう。
幸せに満ちた旅だったのだろう。
貴方の後ろには、霧の中で輝く思い出達があった。
きらきらと輝くそれは、今では遠く、手を伸ばしても届かない。
されど、貴方は、満足そうに船頭さんに「船賃」を渡す。
少女は目を閉じ、貴方から「六文銭」を受け取った。
目を閉じたまま、祝福でもするように、新たな旅路を祝うように少女は告げる。
──最期までどうか、幸せな旅路があらんことを。