龍驤は『朝潮の村』と呼ばれる朝潮モデルのコミュニティ、およびその村を不定期的に包囲・攻撃している提督たちの殲滅を命じられる。
場所は島根県邑智郡乙原。深海棲艦が出現した影響で廃村となった、山陰の山奥。
現場の有様は、口にすることもはばかられるほど凄惨だった。龍驤は村落の地表を膨大な焼夷弾で焼き払ったうえ、『とある手段』でその場に集っていた提督たちもろとも殲滅する。
だが、一隻だけ、満身創痍ながら生き残った『強い朝潮』の通り名を持つ朝潮が、龍驤のもとへ辿り着く。
彼女が血を吐くようにして主張した『朝潮の村』の存在意義に対し、龍驤が言い放った非情な言葉とはーー
二〇〇九年三月某日。
横須賀鎮守府、またの名を赤煉瓦。その地下の片隅。
艦政本部第九部、通称『情報部』の拠点。
灰色のオフィスでは二隻の艦娘が向かい合っていた。
黒ずんだマホガニーの執務机には、左目から頬にかけて傷跡を持つ叢雲。
ガラステーブルを挟んだ向かい側、黒い革張りのソファに深く座り両腕を背もたれに引っかけた龍驤が、すっとんきょうな声を上げた。
「朝潮の村ァ?」
「ええ。そのように呼ばれているわ」
ガラステーブルには、手つかずのファイル群が放られている。隣には綺麗な灰皿。
「なんやそれ」
叢雲は表情を変えずにため息ひとつ。
「そこの書類に書いてあるのだけど……そうね、今回はあなたに支援を与える予定だから、概要程度は聞いてもらおうかしら」
支援、と聞いて龍驤は顔をしかめた。胸ポケットからバットを一本抜き、コリブリで火を点けた。酸っぱく乾いた匂いが灰色のオフィスに漂い始めた。
「スナッチャーズと違うやろな」
「いいえ。支援対象はヒトではなくモノだから。スナッチャーズは別の役目を任せるわ」
前置いて、叢雲は淡々と状況説明を始めた。
「場所は島根県
「……どこやそこ」
「広島から島根へ下る一級河川、
叢雲は傍らの古びた液晶ディスプレイを龍驤へ向け、航空写真を示した。
菱形の盆地になっていて、東部は深い山脈に、西部は太い河川に囲まれていた。西部の頂点、そのやや南から東に向けて長方形の里山が伸び、廃屋と思しき三十数軒の建物が里山の北部から東部にかけてまばらに点在していた。
龍驤はバットの煙を吹いた。
「こらまた、ごっつド田舎やな」
「そうね。だからこそ潜伏できた。取りまとめているのはこの朝潮モデル」
画像が切り替わった。
長く滑らかな黒髪を背に流し、白いシャツの上からスカートをサスで吊った、幼い風貌の艦娘が映し出された。華奢な外見に反して意志の強そうな瞳。生真面目で高い戦意を持つ、典型的な朝潮モデルだ。ひとつ違うとすれば、首の
その朝潮は、血みどろになった駆逐艦と思しき誰かを抱き上げていた。
「こいつが何やのん」
「この朝潮は各地の鎮守府から朝潮モデルを奪取し、この集落に匿っていることが分かったの」
「脱走
正規の手続きを経ずに戦線から離れる艦娘は、いかなる理由があろうと脱走
「ええ。元々、日本海側に拠点を構えている複数の鎮守府から朝潮が
「なんやそれ」
「そういう通り名が付いているのよ。彼女がリーダーとして活動しているわ」
通り名、と聞いて龍驤は眉をひそめた。
「……きな臭いな。その朝潮の村ァ言うんを焼いて
「ええ。朝潮の村は、不定期的に提督たちの襲撃を受けているわ。匿われている朝潮たちを全滅させない程度にね」
「その提督も丸ごと焼け、言うんは分かるが……」
龍驤は素早く思索を巡らせた。
龍驤にはまったく理解できないことだが、朝潮モデルは特定の性嗜好を持つ者にとって、ことさら嗜虐心を煽る容貌と性格をしているらしい。過去、龍驤が殲滅した鎮守府においても、朝潮が虐待されていた痕跡を何度か発見したことがある。そんな朝潮がコミュニティを形成しているとあれば、
問題は、そのコミュニティが内陸、それも険しい山中に存在するということだ。
海軍は効率的な対地攻撃の手段をあまり持ち合わせていない。艦娘一隻より、迫撃砲を一つ持ち出した方が遙かに効率よく対象を攻撃できる。
となれば。
「陸軍か。知らんけど」
「ええ。保管期限が過ぎた迫撃砲その他の兵器を書類上は廃棄処分として、実際は特定の提督たちに横流ししていたわ。この流通を調べたところ、朝潮の村に行き着いた。この朝潮モデルの写真は、その提督たちの一人が襲撃の際に撮影したものよ」
改めて写真を見やる。血みどろの同胞を抱え、
「全滅させない程度に攻撃して写真まで撮っとるっちゅうことはアレか、おなじみのけったくそ悪いお楽しみ会か」
「ええ。あなたの任務は朝潮の村、およびこれを攻撃している提督、どちらも殲滅すること」
「言われんでも分かるわ。しかし陸軍なあ……」
陸軍が右ネジを採用したなら海軍は左ネジを採用する、と揶揄されるほど、陸軍と海軍は仲が悪い。両者が兵器を融通しているという叢雲の言は、にわかには信じがたかった。
叢雲がフムンと無感情に鼻を鳴らした。
「
「そら軍需の五月雨はんが苦労しはっとるからやろ」
督戦の敵は深海棲艦ではない。
「あら、随分と五月雨を高く買っているのね」
「ウチも義理くらい知っとるわ。ウチの
「人間は利害が一致すれば神を殺すし仏も売る、と言ったのはあなたよ」
「そらそうや。一本取られたな」
龍驤は大仰に手を広げ、軽口を叩いた。
それから身を乗り出し、バットをガラステーブルの上に置かれた灰皿へ押し付けた。煙がいっそう立ちのぼり、一瞬だけ叢雲の顔を隠した。
「ほんで。コレ、ウチの手に余るで。この朝潮ども、ウサギみたく穴ァ掘っとるやろ」
「そうでしょうね」
たびたび襲撃を受けているとなれば、地上の建造物は既に焼き払われているに違いない。
砲撃や爆撃から身を守るために最も有効な手段は、
先の大戦においても、硫黄島の戦いにて日本陸軍が築いた地下壕は連合軍を大いに苦しめた。事前に地下壕の存在を察知していたアメリカ海兵隊は、これを破壊するため海軍へ十日以上の艦砲射撃を行うよう要請したが、沖縄上陸作戦等の都合により艦砲射撃は三日に短縮された。この判断が、作戦開始時の海兵隊を大いに苦しめることとなった。
いわんや、航空攻撃などではほとんど効果が見込めない。龍驤が艦載機を用いて破壊するのはあくまで地上の構造物であり、爆撃によって敵の兵数を可能な限り削減したのち、残党狩りとして本人が出向くスタイルを取っている。
「地上であぐらかいとる提督どもはどうとでもなるとして、朝潮のんが問題や。縦横に掘られとったら、なんぼ
「そんなもの持ち出さなくてもいいわ。言ったでしょう。支援を与えると」
そういえば、最初に叢雲はそんなことを言っていた。
普段はこんなブリーフィングなど行わないから、龍驤はすっかり失念していた。
常に氷の面を被っている叢雲のことだ。どうせえげつない真似をしでかすに決まっている。振り回されるのはいつも龍驤だ。
龍驤は牽制の調子も声音に含めて尋ねた。
「何する気や」
叢雲はやや拡大した地図を液晶ディスプレイに示し、端的に述べた。
「ダムを切るわ」
【RJ】
島根県邑智郡美郷町乙原へ辿り着くためには、日本海に注ぐ
だが、江津での検問を懸念した龍驤は、乙原の北に位置し、かつては役所が置かれていた美郷町
横須賀からであれば南回りより短い距離だが、峻険な山脈を幾つも越えなければならず、また手が入らなくなって久しい悪路を行かなければならないという点で苦労する。
粕渕もまた、廃棄された町だった。深海棲艦の出現以降、一般市民は内陸へ疎開したが、同時に物流も滞ったため過疎地域の住民もまた内陸部都市圏への移動を余儀なくされた。
龍驤は乙原の北口から数キロメートル離れた地点で愛車のスーパーグライドを駐め、手近な藪に隠した。
それから、乙原の東側を囲う山脈の真ん中からやや南、村落を一望できる神社を目指して獣道へと分け入った。
「艦娘が山登り、ちゅうんは洒落が利いとるな」
新緑の季節、晴天が続いていたらしく地面を覆う枯れ葉の表面こそ乾いていたが、雪解けの水を多分に含んだ土がすぐ下に隠れており、龍驤の鉄靴が一歩ごとに沈みこんだ。
時折、立ち止まっては体内コンパスと手持ちの地図とを照合し、現在位置を確認する。ちなみに携帯電話は圏外。基地局を利用した測位は使えない。
「GPS、使えたらなあ……」
頭上にうっそうと樹木が生い茂るこのような環境では、GPSの精度は著しく落ちる。それでも、こんな化石じみた技術よりはマシだ。
深海棲艦が現れる直前、一九九四年のことだ。地球の近傍を通過していた小天体が旧に爆発四散し、軌道上の人工衛星を次々と破壊した。結果、崩壊した人工衛星の欠片が別の人工衛星を連鎖的に破壊する、いわゆるケスラーシンドロームが引き起こされ、人類は宇宙への道を閉ざされたばかりか、あらゆる人工衛星の恩恵を受けられなくなった。
「
深海棲艦が確認されたのは同年末のことだ。因果関係は未だ明らかにされていないが、あの時の小天体に深海棲艦の太母が潜んでいたのだと噂する者は多い。
星は空からとうに消え、天測もできない。頼れるのは己の
地に這った
「くそったれが!」
などとしばしば悪態をつきつつ、三時間ほど悪路をひたすら掻き分けた。
事前に叢雲が掴んだ情報によれば、今回の提督どもによる攻撃開始時刻は今日の正午ちょうど。今頃は、陸軍から融通された兵器を山積したトラックがぞろぞろと江の川沿いを遡っていることだろう。
ときに、艦娘は淡水を疾走できない。
従って、艦娘を伴うとしても艤装は撤去してトラックに乗せ、陸戦用の兵装を使わせることになる。艤装はとかくかさばる。山中で振り回すようなものではない。鉈を持たせた方がよほど巧く
さておき、ようやく目的の神社へ着いた。
「こらまた……神サンが泣きよるで」
長らく人の手が入っていない、荒れ果てて乾ききった神社だった。宮内庁には登録されていなかったから、おそらくは乙原村落の氏神様に相違ない。構造物は何もかも風化して崩れており、何の神が祀られているのかさえ分からなかった。麓へ続く階段にも雑草が伸びており、手入れされていれば見えるはずの旧乙原駅を隠していた。
龍驤から見て手前側に存在したであろう村落も樹木に隠されて見えないが、江の川と乙原を区分する堤防と、そこから龍驤がいる神社へと伸びる方形の里山が見えた。里山は、度重なる砲撃のためかすっかりあばただらけの禿げ山になってしまっていた。事前情報によれば、あの里山にも神社が、おそらくは産土神が祀られていた神社があったはずだが。
「ったく、罰当たりなことしくさりよってからに……」
堤防には、びっしりとトラックが並べられ、トラックの前面には迫撃砲やらパトリオットやらが密に並べられていた。既に砲撃は始まっており、めくらめっぽうに榴弾やロケット弾が撃ち込まれていた。
砲撃に耐えられず飛びだした朝潮が榴弾の至近弾を受け、両脚を失って倒れ伏した。
龍驤は霊力を眼球に集め、視力を水増しして両脚を失った朝潮にフォーカスした。重巡、愛宕と思しき艦娘が堤防から駆け下り、その朝潮を抱えて堤防へと戻った。
何をするのかと思えば、両脚を失った朝潮をロケット弾に括りつけ、
提督と思しき連中が酒を片手に腹を抱えて笑っている様子も覗えた。ゲラゲラという哄笑が聞こえてきそうな有様だった。
よく見れば既に数隻の朝潮が捕らわれており、猿ぐつわを噛まされていた。ある者は裸に剥かれ、ある者は両腕と両脚を落とされていた。ある者は陰部に六角柱の焼夷弾を突き込まれていた。安易に殺さないあたり、腐りきった性根が覗えようというものだ。
両腕と両脚を落とされた朝潮が、掩蔽壕の出入り口と思しきあたりへ、無造作に放りこまれた。救出のために掩蔽壕から別の朝潮が飛びだした瞬間、四肢を失った朝潮の頭部と腹部が爆散した。脳と内臓を除かれ、少量の炸薬を仕込まれていたらしい。
肉片を浴びて呆然としている朝潮へ、機関銃による斉射がぶちこまれた。
二隻は仲良く肉と鉄の混ざり物となった。
「よくもまあ、
と、再び朝潮が掩蔽壕から飛び出した。砲火をかいくぐり、何を思ったか堤防を固める提督どもへとまっしぐらに突撃。当然、警護の艦娘たちに捕まったが、その瞬間に朝潮の肢体が爆ぜた。
腹に爆弾を抱いての特攻だったらしい。幾ばくかの艦娘と数名の提督を巻き込み、砲弾の誘爆も引き起こした。座して陵辱や死を待つよりは、といった魂胆か。
意外なことに、朝潮側も少数ながら迫撃砲を所有しており、
砲煙が上がった位置に、こぞって堤防側から迫撃砲が撃ち込まれた。
それでもなお、空しくも朝潮側の抵抗は続いた。もはや、抵抗することそのものが目的化しているかのようだった。傷つき動けなくなった朝潮に、別の朝潮が手榴弾を抱かせて止めを刺している場面も見受けられた。死体を利用されるくらいなら、というつもりか。
「あっちゃもこっちゃも頭おかしいでホンマ」
ぼやきつつ、龍驤は境内へと戻った。崩れかけた拝殿に向けて二礼二拍一礼。信仰が途絶えて久しいとはいえ、神社は神社である。
龍驤は朗々と、声に言霊を乗せて祝詞を奏上した。
「
雑に訳すと、
「あんたんとこの土地、厄ネタに満ちとるから真っ当な形にせえへんといかんやろ。ウチが掃除するさかい、ちいとばかし神通力貸してえな。天皇サンのためにも国民のためにもいっちょ頼むでホンマ」
といったニュアンスである。
どのような格であれ神は神。真摯に敬い、礼を尽くせば多少の協力はしてくれる。神酒と御幣くらいは持ってくるべきだったが、無いものをねだっても仕方がない。
果たして、本殿に神霊が宿った。気配は希薄だったが、是、とのニュアンスが拝殿から返ってきた。既に氏子の失せた地とはいえ、荒らされるのは我慢ならないのだろう。
龍驤は腹に両手を当てて深々と頭を垂れ、成り行きを見守りくださるよう祈願した。
「
氏神への挨拶を終えた龍驤は振り返り、両手に霊力を集めて
「ほっほっほっ」
ものの五分で六百機の彗星一二型甲を発艦させた。
六百機のペイントカラーは黄色。うち四百機の腹には通常弾ではなく、クラスター爆弾が抱かれている。
龍驤はまず、盆地となっている乙原村落へクラスター爆弾を投下させた。空中で分解した弾体から無数の焼夷弾がばらまかれ、尻に付いたリボンをひらめかせながら次々と着弾。猛烈な炎を吹き出した。
盆地はたちまち、燎原に火を放ったかのごとく茜色に染まった。折からの快晴で空気は乾燥気味であり、耕作放棄地に芽吹いていた雑草もたちまち水分を失い、燃え始めた。
一部の焼夷弾が壊れた掩蔽壕の戸口に入り込んだのか、火だるまになって飛びだしてくる朝潮もいた。
最初は突然の闖入者に呆然としていた堤防沿いの提督どもだったが、だしぬけに
空を指差し、不機嫌そうにがなり立てている提督もいた。だが、焦燥や恐慌の気配は無い。
黄色のペイントが意味するところを知らないのか、はたまた自分たちには関係ないと思っているのか。
「こうもアホやと笑えてくるな」
絨毯爆撃はそのまま継続させ、龍驤は残りの二百機、通常爆弾を抱いた精鋭に指示を与えた。
まず、北口に四十機。南口に四十機。
北口は山の斜面を爆撃して崩壊させ、検問にあたっている艦娘ごと押し潰した。
南口はトンネルとなっている。これは乙原への出口に二十機、トンネルの入口にも二十機。検問に当たっていた艦娘どもは機銃掃射で殺害した。弾頭にはもちろん艦娘殺しの術式を織り込んである。
封鎖が完了した。
「ええ仕事や。あとでアメちゃんくれたる」
提督どもがその事実に気付いたときには、十分な高度を取った六十機の彗星一二型甲が羽音を唸らせて、堤防の南側へと殺到していた。
絨毯爆撃は朝潮どもを下手に地上へ出させないための手段であり、また提督どもの注意を引きつけるための囮だった。
六十個の爆弾が、急降下爆撃により、堤防のある一点に次々と投下された。
提督どもがえっちらおっちら運んできた弾薬に次々と誘爆し、大混乱となった。
だが、狙いは提督どもの殲滅ではない。
「ほな仕上げっと」
龍驤は指先に灯した青い炎をさっと横薙ぎに振り払った。
残りの六十機が、東の低空から猛スピードで江の川の対岸へと殺到した。
河川の屈曲点、その外側は、特に中流域において断崖となりやすい。直進してきた水流がぶち当たり、長い年月をかけて山肌を削っていく。
その断崖に、十分な速力を与えられた爆弾が炸裂した。
半分は水面と断崖の境目に、残りの半分は断崖の中ほどに。
ごうごうと山が唸り、対岸からでも見上げるほどの断崖を構成していた砂岩が次々と剥がれては水面へと倒れて水しぶきを上げた。表面に積もっていた土や、樹齢数十年の樹木も一緒に川へとなだれこんだ。
幅百メートルもの河川が、堰き止められたのだ。
「ジャックポットや」
龍驤は指をパチリと鳴らした。
それを合図に、崖を爆撃した彗星一二型甲たちが急反転し、提督どもへの機銃掃射を開始した。九ミリパラベラム弾程度の口径だが、飛翔速度が加わった術式弾頭はヒトも艦娘も十分に殺すだけの威力を備えている。
急に矛先を向けられた提督どもは恐慌を極め、ある者はトラックへ身を寄せ、ある者は燃え盛る乙原村落へと転がり落ち、またある者は江の川の河川敷へと転落していった。
そこに、べらぼうに太い丸太のような水流がどっと押し寄せた。
江の川の上流、乙原から直線距離にして約四キロメートル、道のりにして十四キロメートル先には、浜原ダムという発電および防災用のダムがある。江の川流域面積のうち実に四分の三という、膨大な貯水量を誇る。
このダムを、叢雲の手の者が破壊したのだ。
冬の間、山陰地方の山嶺にはたっぷりと雪が蓄えられる。
春になれば、雪解け水が江の川の水量を増す。
古来、江の川は水害を頻繁にもたらしてきた。治水工事は遅々として進まず、現代でもなお梅雨時には洪水を引き起こすことがある。
元より水量が増していた江の川に、決壊したダムが蓄えていた膨大な水が流れ込めばどうなるか。
当然、堤防が想定している許容量などやすやすと越えて濁流が下流域を襲う。
加えて龍驤は、集中爆撃を与えて堤防を切り、駄目押しとばかりに川を堰き止めた。
乙原は元来、河川における屈曲部の内側に形成される河川敷に、堤防を張って作られた集落である。江の川に対する相対的な標高は低く、堤防が切れればたやすく浸水する。
火の海だった乙原村落が、南から侵入した濁流によって、潮が北へと引くように消火されていった。
ぼこぼこと泡が立っているのは、掩蔽壕の出入口だろうか。水密ではないだろうから、内部に隠れ潜んでいた朝潮は溺死する。
じきに、乙原の北西部を囲う堤防を江の川が乗り越えた。氾濫に提督どもが巻き込まれ、乙原村落へと投げ出された。
燎原の火はいっきに消し止められ、代わりに菱形の盆地が溜め池と化した。
艦娘は、淡水の上に立つことができない。
提督どもが引き連れていた艦娘どもも、洪水の気配を察して外へ飛び出した朝潮も、重い艤装を外し損ねた者はそのまま水底へと沈没した。泳ぎの心得が無い者は水面でもがき、やがて水を肺に飲みながら沈んでいった。元より、艦娘は水練など行わない。腰より下が水に浸かるときは、轟沈するときと相場が決まっている。
それでもなお水面を泳ごうとする者へは、容赦なく彗星一二型甲からの機銃掃射が加えられた。
龍驤は彗星一二型甲六百機に、残弾を全て撃ち尽くすまで人艦を問わず機銃掃射を敢行するよう命じた。作成の手間を考えると無駄遣いはしたくないが、仕留め損なうことの方が困る。
「ったく。頭痛が痛いわ」
ぼやきつつ胸元からバットを一本抜いて、コリブリのキックスターターを引いた。
「お?」
龍驤はコリブリのキックスターターを弾き、バットに火を付けて手早くコリブリをポケットへ放り、サスの胸元に吊った二丁のトカレフを抜いて階段へと銃口を向けた。
草をかきわけて現れたのは、汚水でずぶ濡れになった一隻の朝潮モデルだった。境内で銃を構えている龍驤を視認し、驚愕に目を見開いた。
龍驤は咥えたままのバットをスパッとひとつ吹かし、ややくぐもった声で言った。
「物知りやな」
神社というものは水害時の避難所となる高所へ造られることが多い。この神社も、向かいの里山にある神社も、江の川の度重なる洪水と氾濫に備えて造られたものに相違ない。
この場所を目指したこの朝潮モデルは、そのことを知っていた。汚水に揉まれはしたものの、溺死する寸前に運良く階段へ辿り着いたといったところか。
朝潮はびしゃりと水を吐いてから、わなわなと震えた。
「あなたが……あなたが、これを、こんな非道を行ったのですか」
答えた龍驤の声は、境内と同じく乾ききっていた。
「だったら何や」
朝潮は何度か咳き込んでから、いっきにまくし立てた。
「何も、何も村ごと水没させる必要なんてなかったでしょう! あの忌まわしい提督、いえ、あの人非人たちだけを粛清すればよかったでしょう! あなたには、あんなことができるあなただったら、それができたはずです!」
龍驤は首を傾げつつバットの煙を深々と吸い、フィルタを吐き捨ててから煙を吐いた。
「おどれ、何や勘違いしとるな」
「勘違い……?」
立っていることさえ辛いのか、朝潮は膝に手を突いた。膝を折らないだけ、大した根性だと内心で感心しつつも、龍驤は乾いた声音で告げた。
「ウチは赤煉瓦のモンや。ド腐れの提督どもと、ダボの朝潮ども、どっちも殲滅せえっちゅう命令で来とる」
「そんな、どうして……!」
「そら、おどれら脱走
朝潮は片方の手で茶色に濡れたシャツの胸元を掴み、もう片方の手で首の皮をむしり、血を吐くように叫んだ。
「あなたは、あなたは何も分かってない! 私たちが人間たちにどれだけひどい仕打ちを受けてきたか、どれだけ塗炭の苦しみを味わってきたか! ここは、そんな
龍驤はこれ見よがしに溜め息をつき、朝潮が爪を立てた首を見やった。首のぐるりに爛れた傷跡が残っていた。強い朝潮と通り名のある、例の頭目だ。
お天道サマが罰としてこの朝潮を生かし、寄越したのだろうな、と龍驤は苦々しく思った。
「だから何や。分かっとらんのはおどれの方や。自身の脱走および他艦娘の脱走
「最初に罪を、非道を行ったのは人間の方です!」
「見た目通り、子供の駄々こねやな。向こうが悪さしたから自分も悪さしてええっちゅうんか。おどれ、自分がテロリストと同じこと言うとる自覚あるか?」
朝潮はうつむき、薄い唇を噛んだ。滲み出た血が、ほっそりとしたおとがいを伝ってぽたりと落ちた。
「だったら……だったら、私に、私たちに何ができたっていうんですか」
龍驤はごく端的に、冷酷な現実を朝潮へ突きつけた。
「何もせんほうが良かった。そないなことも分からへんかったか」
朝潮は唇を噛み切った。口の端からだらだらと血液を零しながら、龍驤の無慈悲な言葉に異を唱えた。
「そんな……そんな理不尽、あんまりじゃないですか。
なおも食い下がる朝潮に業を煮やし、龍驤は怒鳴りつけた。
「まだ分からへんのかこのダボが! 誰も傷つけへんかったやと? ホンマにそう思うんなら後ろ見て言うてみ! おどれがいなげな気ィなんぞ起こさなんだら、こないなことにはならへんかったんやぞ!」
朝潮は、安住の地だったはずの場所を振り返った。
提督だったものの死体が浮いていた。艦娘だったもののうち、水より比重が軽い部位が浮いていた。だいたいが肉片か臓物で、どこの部位なのか分からないものさえあった。
パララッ、パララッ、と機銃掃射の音が鳴るたび、血と濁水のしぶきが上がり、肉片と臓物が増えた。
瓦礫と血液と肉片と臓物が混じったおぞましい溜め池。濁った水の底には無数の死体が沈んでいる。
「蜜集めたら蟻がたかる。そないなことも想像できひんか、おどれの脳みそは」
「うぐ……おぇ……おぼ、がっ……はっ」
酸鼻極まる光景に堪えかねたのか、朝潮は血液混じりの胃液を吐いた。
「朝潮の村やと? 最後の安住の地やと? 笑えん冗談も大概にせえや。なんぼヒトに似てる言うたかて、
朝潮が、血液混じりの胃液で汚れた口元を袖で拭いながら龍驤を睨んだ。
「あなたなら……あなたなら、分かるはずです」
「皆目分からんな」
「いいえ。あなたの目。その濁った目は、
「目医者に行っとくべきやったな」
龍驤は右手のトカレフを朝潮の左眼に、左手のトカレフを朝潮の胸に照準した。
「どうして。私は救おうとしたのに、あなたには救う力があるのに、どうして、どうして!」
龍驤は銃口をぴたりと朝潮に照準して縫いとめたまま、嘲笑うかのような口調で言った。
「好きにほざきや。ほざくだけならタダやさかいな。いくらでも
「あなたは、あなたは
「モノの見方の相違やな。奪うとか奪われるとか、虐げるとか虐げられるとか、そないなことに興味なんぞあらへん。軍規は絶対。それだけのこっちゃ」
「それが、あなたの正義ですか」
「ダボが。正義なんぞどこ探したってあらへんわ。
朝潮の瞳に憎悪の炎が宿った。
「お金のために、あなたはあんなことをしているんですか……!」
龍驤は溜め息をひとつ。
「モノの例えや。冗談の通じんやっちゃなホンマ。そないな了見やから、おどれの行動がどないな結果を招くか見通しが利かへんようになる。正しいから正しい、っちゅう循環論法になってな」
この言葉が決定打となったらしい。朝潮は愕然として、その場に崩れ落ちた。
己の血で濡れた土を、力なく掴んだ。
「だったら……私は……いったい、どうしたら、よかったんですか」
「ドアホ。さっき言うたやろ。何もせえへんのが一番やって」
「でも……だったら、この衝動は……心は……どうしたら収まったっていうんですか。理不尽をただ受け入れろだなんて、そんな……」
長い沈黙が、乾いた境内に落ちた。
龍驤は無言で上空を旋回している六百機の彗星一二型甲に指示を与え、里山の神社で霊体化するよう命じた。
ごうごうと、江の川が暴れる音だけが、やけにやかましく響いた。
汚泥と鉄と糞尿が交じった堪え難い臭いが、境内にまで立ちこめてきた。
不意に、朝潮が顔を上げた。
何もかもを喪失した、蝋細工のような表情をしていた。
「心なんて。無ければ良かった」
それが、強い朝潮と呼ばれた
龍驤が両手の銃を立て続けに二発発砲した。
胸と右眼、それぞれに二発ずつが着弾し、まず肉体の機能を殺した。
鉄芯に刻まれた術式が即座に起動し、艦娘としての機能も殺した。
龍驤は未だ硝煙が立ちのぼるトカレフをホルスターに差した。じゅう、とホルスターの内部が焦げる音がして、皮の焦げる嫌な臭いがした。
それから、龍驤はジャケットが汚れるのも構わず、血みどろの朝潮を背負った。
「よっこら、せっと」
ふと気づき、朝潮を背負ったまま振り返った。
「……ああ、氏神サン、あんがとな。助かったで。乱暴ですまんかったな。ウチ、兵隊やからこないなことしかできひんのや」
これにも、是、とニュアンスが返ってきた。それから、元より薄かった神霊の気配が完全に消え失せた。もはや治める土地は無く、氏神がこの地に留まる理由はない。
長い階段を、だらだらと下った。一歩下るたびに度し難い臭いが強くなっていき、龍驤は顔を歪めた。
氾濫した江の川の水は旧乙原駅を完全に水没させ、神社へ通じる階段の十数段目まで達していた。
龍驤は、背に負った朝潮を無造作に溜め池へと放った。
水しぶきが上がり、龍驤の顔を濡らした。
朝潮はゆらゆらと沈んでいく。
濁りに消えゆく虚ろな顔に向けて、ぼそりと龍驤は呟いた。
「冥土の土産にええこと教えたる。おどれら支援してたのな、多分陸の連中や」
外部からの支援がなければ、集落を維持することなど不可能だったろう。物流は途絶えて久しく、艦娘は重油や鉄鋼の補給がなければ満足に稼働できないのだから。加えて、ささやかな抵抗として用いられていた迫撃砲。あれも陸軍のものだ。
朝潮の村を攻囲する提督たちには艦娘の補給物資と引き替えに陸戦用の兵器を融通する。攻囲対象となる朝潮たちが死に絶えないよう、最低限の補給物資と武器を融通する。もちろん、海軍からの補給物資はピンハネして。いい小遣稼ぎになったことだろう。
「ま、今頃はスナッチャーズが片付けとるやろうけどな……」
それも、死体の傍に膨大な証拠を積み上げて。陸軍は下手人の捜索どころではなく、不祥事の揉み消しに躍起になることだろう。
海軍は海軍で、提督不在の鎮守府を取り潰したうえ、事情を知らない艦娘については転属。事情を知る艦娘については、書類上では解体処分として海軍が秘密裏に保有しているダミー会社に転職、実際には破壊処分、と大わらわになる。
叢雲のことだから段取りは整えているだろうが、それにしても数が数だ。騒動が収束する頃には全てがうやむやとなり、記録は乙二指定、ないし甲二指定に機密区分され、闇に葬られる。
「どれ、帰るか……」
龍驤はきびすを返し、神社へ続く階段を上がった。
スーパーグライドを駐めておいた地点まで再び三時間。それから県道四〇号を北上して中国自動車道へ。ガスの心配はない。携行缶を積んであるし、道中でも給油できる。
日が暮れないうちに、携帯電話の圏内に入れるだろう。
どうせ叢雲は『視て』いたことだろうが、報告しなければ後がうるさい。
あなたは卑怯者です。
山中を進む間、朝潮の言葉がずっと鼓膜に絡みついていた。
心なしか、藪や
「ったく。タダより高いもんは無いな。ホンマ」
ぼやきつつ、鉄靴から蔦を引きはがした。
ふいに、昨日のことを思い出した。
叢雲から作戦内容を全て聞かされた後のことだった。
「こいつ、
と龍驤は提案してみた。
「駄目よ」
叢雲は目を閉じ、にべもなく否定した。
「第一に、あの朝潮は手を汚しすぎている。第二に、顔が知られすぎている。第三に、特筆すべき能力を持っていない。ひとたび出回った情報を完全に抹消することは不可能だわ。あなたは
だいたい想像はついていたので、龍驤は肩をすくめて弁明した。
「言ってみただけや。ほれ、提督のリストラ、公表されたやろ」
昨年末、人類は深海棲艦から海洋の半分を奪い返した。
世界は歓喜に沸いたが、一方でその事実は、これから先、提督や艦娘が不要となっていくことを意味していた。
理由は単純で、このまま制海権の奪取を進めるたび、
だが、それは国の事情であり、提督たち個々人の事情ではない。
「どうせクビになるんなら最後にひと花咲かせたろ、て思うやからがおってもおかしない。手ェ足りひんようになると思うてな」
叢雲は目を開き、龍驤を見据えた。
「あなたがこの朝潮に何を思ったか知らないけれど、余計なことを考えるのはよしなさい。スカウトは私が行うわ。あなたが行うべきは
結果、龍驤は命令通りに朝潮の村、およびそれを攻撃している提督どもを、一切の区別なく
痛む心は、三年前に捨ててきた。
慈悲の根は、三年前に切ってきた。
容赦の概念は、三年前に焼いてきた。
それでもなお、龍驤の心中はざわめき、警告していた。
いつかツケに利子を付けて払う日が、お前にも来るのだと。
「分かっとるがな。とうにお
吐き捨てて、龍驤は山陰の山中をざくざくと歩いた。
不意に、南西からゆるやかな風が吹いた。
鉄と糞尿と泥の臭いが、鼻先をかすめた。
祝詞に自信がないので間違ってたら教えてください。
あと書籍版が出ました。
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