(side : ■■■)
――――――――悪心は山頂にありて、我々に魔を吹き込む。憎しみがある限り、憎まれている限り、彼が死ぬ事はない。
ごく平凡な家に、彼は生まれた。貧しい家だったが誰もが平凡に生きて、静かに息を引き取れる正しさに満ちていた。それなのに、何の前兆もなく、当たり前に、彼は悪魔と呼ばれた。
日々の苦しさ、貧しさに耐えるために必要とされた教え。解決の出来ない問題。救われる事のない人々の心は、この理不尽を叩きつけられる生贄を必要とした。それが、彼だ。
目を抉られ、喉を潰され、腱を切られ、全身に罪に相応しい処置をされ、山頂に幽閉された。
なぜ自分が?
それに理由などないと知ったとき、彼は真実"■■■■■■■"となった。
人間が体験出来る責め苦の全てを味わった彼は、当然のように死亡し、理不尽に対する憎しみだけが岩牢に焼き付く。
月日は巡る。彼が消えた後も、彼が憎み続けた村人たちがいなくなった後も、村そのものが消え去った後でさえも。焼き付いた憎しみは不変にして不滅。人の世が続く限り永遠にあり続ける。何もない荒野で。彼は山の頂に縛られたまま、人間の営み、人間の醜さ、人間の喜びを――――世界の終わりを眺め続ける。
温かな光。自分には与えられることの無かった
― ―
「なぁんの因果かねぇ」
円環世界の壁は壊れ、この身は無に還った。ただ一人の
「何だってこのオレが、こそこそとしきゃなんねーのさ」
己以外が存在しない大空洞で、
「オレみたいな最弱サーヴァントと契約せずに済んだあの女と、あの女を救って見せたあの野郎。まったく、世界は不思議なことばっかだな」
胡坐を掻いて肘をつく。自然と背中は魔力炉心から離れ、肩越しにそれを振り返って苦笑する。かつて
「いる筈のない人間、ある筈のない
随分と世界が捻じれたな、と独り言ちて立ち上がる。彼らがここに辿り着くのは、まだ先の事。ここで待ちぼうけを食らうのは勘弁だ、と。
「あのお姉さんにはコンタクトとったから……後は、ひーふーみ……うん、数えたくねぇな。それはさておき、次は誰にすっかなー。青い髪の兄さんには
脳裏に覚えのある顔を幾つか浮かび上がらせ、指を折る。まったく、此度の召喚者も人使いもといサーヴァント使いが荒いったらない。しかも、その召喚者自体は日本にすら来ていない。大まかな指示を与えて
「あー、ほんっとーに損な役回りだわ。何が悲しくて
口角を持ち上げつつも愚痴を溢し、
― ― ― ― ―
ランサーが目を覚ましたのは、もう直ぐ昼に差し掛かろうかという頃だった。昨夜はライダーに自室を貸し出していたため離れの一室を借宿にしたのだが、その部屋のベッドを占領しランサーは昏々と眠り続けていたのだ。ちなみに、俺はキャスターが寄こした使い魔と、間桐の家を監視させているバゼットとハサンとのやり取りで一睡もしていない。つまり、徹夜だ。閑話休題。なかなか起きてこないランサーに対し、大して魔力を消費した訳でもなかろうとアーチャーは皮肉っていたが、セイバーは何か思い当たる事があるのかぼんやりと虚空を見つめ頷いていた。虚空、とはいえそこには魔術師がいる。やはり、彼女には彼の姿が見えていて何らかのコンタクトをとっているのだろう。そうでなければ、彼が俺に憑いていること自体がおかしいのだから。
「ランサー、」
ベッドに腰かけ、薄手の毛布に包まる男の髪を梳く。いつもは綺麗にまとめられている襟足が広がり、枝分かれする川の支流のようだった。
「んー……」
焦点がはっきりとしない瞳が俺を捕える。寝起きで少しだけ潤んだそれが、まるで熟れた果実の様で、酷く欲がそそられた。そんな考えを振り払い、伸ばされた腕を甘受する。
「目覚めのキスをご所望か?」
「いいねぇ、ロマンチックで」
首裏に回された腕に誘われて、その薄い唇に口づけを落とす。バードキスを三回ほど、唇の他に両方の瞼にも落としてやる。ともすれば恋人同士の様でもあるが、これはそんな関係に落とし込められるようなものではないだろう。
「夢を見た」
「そうか」
「荒野に独り立つ、摩耗した男の夢だ」
「……そうか」
「そいつは言ってたぜ、マスター。"自分は救われた、だから次はアンタが"ってな」
「…………そう、か」
骨ばった指先が、眼尻をなぞる。切り揃えられた爪先が睫毛を弾き、そろそろと頬を撫でていく。
「オレも、そう思う。アンタは救われていい、幸せになっていい、だから――――」
この戦いから降りろ、と。戦うために召喚に応じた彼が、そう言う。その言葉を彼に言わせてしまった事に深く胸の奥を抉られる思いがした。酷い裏切りだ、俺が戦いから遠ざかれば、彼もまた戦いから遠ざからなければいけないというのに。しかし、最悪の場合、令呪をバゼットに返還すれば彼はまだ戦える。そんな俺の考えを見透かしたようにランサーは、俺についていくと、そう言ったのだ。それは悪魔の囁きだ。なんとも甘美な誘いだ。けれど、それに頷く事を、俺自身が良しとしない。喩え、誰かが俺の幸せを祈ってくれているのだとしても、俺自身が、為せてもいない願いを放り出して自分だけが幸せになる事が許せない。魔術師は、今の幸せを享受するのが義務だと言った。だが、それではいけないと、心のどこかが叫びをあげる。だってこの身は、
「それは、本当にアンタの願いなのか」
真剣な瞳が俺を射抜く。居心地の悪さに身動ぎ、目をそらそうとしたが両手が頬に置かれているためそれも出来ない。赤い瞳に俺の顔が映し出され、そこに映る俺の瞳の奥にもランサーが映っている。
「それは本当に、アンタが願った事なのか」
瞬間、脳裏で何かが弾ける。同時に、胸の奥が焼けるような痛みを訴えてきた。
――――いったい誰が、機能を休止させた魔術炉心を使う事を考え付いたでしょう。今回の勝者は僕ですが、
それは、誰が言った事だったか。強大な魔術炉心の前で高らかに笑う魔術師と、それに追従する魔術師。傍には少年と、黄金の鎧武者と青年が。……きっと、それが
「マスター?」
「ああ、いや……少し疲れてしまったようだ」
突っ張っていた腕の力を抜き、ランサーの上に崩れ落ちた。鍛え上げられた胸板に抱き留められ、背中に力強い腕が回る。
「オレはどうすればいい?」
「……そのままでいい。そのまま、ここにいてくれ」
胸の薄くはない肉の奥から、確かな鼓動が耳に届く。自分よりもやや大きな男を抱えさせたままでいるランサーには申し訳ないが、これが存外心地いい。もう、久しく聞くことのなかった他人の鼓動だ。自分の鼓動ですら聞こえなくなった今では、どうしてかこの鼓動こそが自分が生きている証ではないかとすら思えてくる。
「アンタの手は冷たいな」
まるで死人みたいだとランサーは苦笑した。左手が絡めとられ、温かな指が冷たいと言われた俺のそれと交差する。獣のように、体を重ね、相手の熱を貪るのではなく。ただ優しく包み込み、まるで、体温を分け与えるかのように。全身の力が抜け、細く細く息を吐き出す。
「寝ちまいな。少しぐらい休んだって、アンタには何の障害にもならんだろうよ」
その言葉を最後に、俺の意識は闇に沈んだ。意識を失う間際、
『大丈夫、君は
そう笑う、魔術師の声を聞いた気がした。