原作の公開時から議論されていることであり、さまざまな意見があります。たとえば銀河連邦時代にすでにサジタリウス腕には植民惑星があり、銀河連邦末期の混乱と銀河帝国建国後の帝国の縮退によってロストコロニー化していた。ハイネセンのグループがこれを取り込んだという説。
実に色々と興味深く面白い説があります。
この話は、本作中で採用している設定を示したものです。
宇宙暦796年10月の初頭。
CHC執務室にて。
記念すべき、アムリッツァ星系での同盟軍宇宙艦隊の作戦行動は大変地味な結果になった。
国防委員会によるとこれは古典的なもので、「対応強要戦略」とか「"Fleet-in-Being"の応用形」とか言うらしい。
8月に否決された大規模出兵案の代替案として軍部が急遽まとめたもので、とりあえず今回は犠牲者を出さずに済んだ。
しかも銀河帝国に対して「対応強要」に成功した。
大変良いことだ。
『私』はいつもどおり書類にサインするだけの執務を一区切りつけて、今日は同盟の建国時代の資料を読むことにした。
銀河帝国の辺境に放置されている「イオン・ファゼカス号」は同盟にとって記念すべき船だが、人類史においても記念すべき船である。
ワープ航法を用いずに恒星と恒星を隔てる距離を乗り越えることに成功した船はごく少ないのだ。
それにしても、アーレ・ハイネセンがそのアイディアを出したときの同志たちの驚きはどんなものだっただろうか。
語り伝えられ、そして記録も多く残っている。ただひたすらに「予想外」だったようだ。
流刑星アルタイル第7惑星を監視していた社会秩序維持局のスタッフにとっても全く予想外だったらしい。
今日では彼らがどう反応したのか伝わっている。
ワープとは天然に存在する時空の歪みを利用し、局地的かつ一時的に時空歪率を高めて「光速を越えずに光速を越える」と言う強引な技術だ。
今日の艦船でもワープ時には人間の感覚で感じ取れるほどの揺らぎが生じる。
ワープ航行可能な艦船と言うものは、それ自体が特殊な存在だ。
水上船や星系内用艦船の船体を構成するような柔な船体素材では、ワープ時に確実に裂けてしまう。
何日か前の閣議でトリューニヒト国防委員長が臨時改修予算を要望したことで知ったのだが、今日の同盟軍でもワープ時に船体が振動する、いささか運用に不安のある艦があるらしい。
それらの艦艇を今後どうするかは、国防委員会と財務委員会と経済委員会の合議で決めると言うことになった。
さてワープ、そして慣性制御と重力制御について基礎知識を思い起こす。
『私』の知識なのかサンフォードの知識なのか、もう区別がはっきりしなくなってきた。
ハイネセンの時代はこの3技術が実用化されてからおよそ1000年が過ぎた時代でもある。
これらの機関の製造技術はありふれたものになっていた。
流刑星の奴隷でも資料を入手できる程度に。
あるいはその知識を持つ人間を生きたまま流刑星に放り込んでも構わないと社会秩序維持局が考える程度に。
……やはりまだ、21世紀初頭の地球人の感覚が残っていることに安堵し、そして同時にかすかな失望も感じた。
「人類社会のあり方を根本的に変化させた実績のある、実用化されてから1000年を経た技術」と思い浮かべても、ピンとこないのだ。
『私』が生まれ育った時代とは、蒸気機関の実用化から数えても300年ちょっと。
内燃機関となるとその半分程度の歴史しかなく、原子力機関は実用化されてはいても普及には程遠い、そんな時代だ。
そのせいか、あるいは『私』の知性の限界か、ピンとこない。
読み進めるしかない。
さて重力制御装置に至っては建物のエレベーターや鉱山でも多用されていた。
今でもそうだ。
そして、重力制御技術は慣性制御技術と密接に関わっている。さらにはワープ技術の基礎でもある。
どれも空間を歪める装置である点では等しい。
鉱山用の重力エレベーターの部品をかき集めて舶用重力制御システムを作ることも、同じく舶用の慣性制御装置を作ることも、そしてワープエンジンを作ることも出来る。
そのような装置に収容所惑星に投獄された思想犯がアクセスできた理由は実にシンプルだ。
ある技術上の理由から、それらの機材だけがあっても逃亡は出来ない。
そしてそれらの機材へのアクセスを許すことは、社会秩序維持局から見て一定の合理性があった。
設立から今日に至るまで、社会秩序維持局の職務と権限は共和主義者を殺傷することではない。
逮捕した「思想犯」を矯正して「良き帝国臣民」に再教育することだ。
彼らは決して「思想犯」の無駄な死を好まない。
どの程度までなら「必要な犠牲」と考えるかは『私』にとっては青褪めるような基準だが、それでも彼らなりの基準はあったし、今もある。
彼らは同時に「思想犯の矯正と再教育」に必要以上のコストを掛けることも好まない。
また彼らも公務員である。
適切な予算執行の義務は常にあった。
要するに収容所を兼ねた鉱山が大きな赤字を出しては困るのだ。
できれば黒字を出して「逮捕投獄した思想犯をこのとおり帝国に貢献させている」と示せることが望ましい。
その過程では着服や横領、収奪があったようだがこれは別資料にあるらしい。
読んで面白い資料ではなさそうなので、別資料になっていることに感謝したい気分だ。
もっと短く要約することも出来る。
社会秩序維持局はアルタイル第7惑星に限らず、どの収容所に対しても「最小限の国費での運営」「出来ることなら黒字運営」を意図していた。
この意図からすれば、投獄した「思想犯」を生かしておくために必要な機材や労働ノルマを達成させるために必要な機材の整備運用を「思想犯」に行わせることはある程度合理的である。
重力制御機材だけではない。動力炉や水耕プラントの類も「思想犯」に出来る限り任せていた。
局の予算や人員を「思想犯」を生かしておくために使うことを避けていたとも言える。
また、これらにはよりシンプルな技術的背景もあった。
もし正規品に匹敵するような重力制御装置、慣性制御装置、ワープエンジンと言う3美神を「思想犯」たちが自作したとしても、それを用いて逃亡することは出来ないのだ。
ここで、資料は「思想犯側」の視点から見た記述に変わった。
もちろん投獄され強制労働に従事している側は工夫する。
アクセスできる範囲の機材とインフラから逃亡を成功させるための準備を行う。
鉱山用の重力エレベーターの部品から舶用動力ユニットのセットを作り出すこと、そうやって自作したユニットに命を託して宇宙へ乗り出すことは非能率で危険な話ではある。
しかしより技術的に安全な方法すなわち正規品の船舶動力ユニットを入手することは、手段こそあったものの別の意味で危険すぎた。
要するに社会秩序維持局の目を惹く可能性が高かった。
当時も今も銀河帝国においてすべての共和主義者が摘発され投獄されているわけではない。
だから流刑星からの脱出を計画するに際して協力者が得られないわけではないのだが、露見して貴重な協力者までもが逮捕投獄されることになれば本末転倒である。
そんなわけであるから、出来るだけ協力者に危険を及ぼさない方法が選ばれた。
黙々と鉱山での作業に従事している「模範囚」を装いながら部品を集め、たとえば閉鎖した坑道の奥などで組み立てを行う。
しかしそれでもどうにもならないものがあった。
船体の素材である。
ワープを行うとき、船体には膨大な力が掛かる。
これに耐えうる船体素材は、重力エレベーターの部品から舶用動力ユニットのセットを手作りするような形では入手できない。
代用素材ではワープに耐えられない。
そして船体素材というものは、古代地球の海を行き交った木造帆船や鋼の動力船の時代からこの時代の恒星間航行船に至るまで共通の性質を持っている。
知識がある者が見ればどんな船を作るつもりか即座に判るような、巨大な部材を用意する必要があり、そしてそのような部材を作るには大規模な設備が必要であるという性質である。
「……ああ、なるほど」
ようやくピンと来た。人類社会を大きく変えた実績のある、『私』から見てありふれた技術が思い出せた。
「竜骨のある水上船」だ。
船体素材は流刑星の上で密かに手作りできるものではない。
入手するには、理論上は二つの方法が考えられた。
ひとつ、なんとかして監視の目を逃れて調達する。
しかし船舶用の大きな素材を運ぶ企てを見逃す社会秩序維持局ではなく、囚人が増える結果を招いていた。
ふたつ、監視されていない場所に製造設備を作り自作する。
これは理論上は可能だが、その手段が無いという欠点があった。
さて、帝国暦164年。
流刑星のひとつアルタイル第7惑星に、共和主義者として投獄されモリブデンとアンチモニーの採掘に従事していた奴隷の中にアーレ・ハイネセンと言う青年があった。
彼は奴隷の子供たちが氷を削って作った船で水遊びしているのを目にし、天啓を得た。
この惑星と星系から脱出する段階で用いる船はワープを行わない、よって代用素材で構わないとするならば、この惑星には船体材料が無限にあるではないか!
すなわちドライアイスである。
もちろんドライアイスの船はワープに耐えられない。またその必要もない。
社会秩序維持局の監視を惹かない形で準備を整え、この星系からの逃亡を為すことがまず第1歩なのだ。
そして彼らはそれを成し遂げた。
ある峡谷を埋め尽くしたドライアイスの塊の内部にトンネルを設け、手作りの重力制御装置と慣性制御装置を各所に配置する。
これも鉱山から部品を拝借してきた動力炉を複数設置し、水耕プラントを始めとする生命維持システムを組み付ける。
いずれも銀河帝国社会秩序維持局の収容所運営方針が原因で、流刑星アルタイル第7惑星で入手可能だった。
資料には繰り返し「社会秩序維持局の失策」を嘲笑し「ハイネセンの慧眼を賛美」する表現が出てきて少し読みづらいが、まあ資料の作成者が同盟人だから無理もない。
確かに社会秩序維持局の失策ではある。
宇宙船の生命維持システムや動力ユニットとして流用可能なレベルの機材を配置しないと「思想犯」を生かして採掘に従事させることさえ不可能な、あまりに環境の悪い惑星を収容所として選んだこと自体が失策だ。
そして機材の整備を「思想犯」に委ねていたことも結果を見れば失策である。
アルタイル第7惑星と言う思想犯収容所の運営コストを節約する面から見るなら合理的ではあったが。
この失策に対して、当時の社会秩序維持局の担当者が行った弁明が今に伝わっている。
社会秩序維持局の任務は帝国の安寧を乱す思想犯の矯正にある。
思想犯であろうとも銀河帝国の臣民である。
社会秩序維持局の設立に際して大帝ルドルフから命じられた神聖な任務のひとつは思想犯を労働への従事を経て矯正することである。
また思想犯と言えども人類社会に貢献させねばならない。
労働の成果が収益となり帝国に貢献するように収容所を運営することが大帝の御意思に沿うものである。
これは思想犯を扱わない一般の刑務所と同じ原則に基づいている。
帝国刑法には死刑と終身懲役刑はあっても終身禁固刑は無いことを思い起こしていただきたい。
同様に、収容所は思想犯の矯正再教育に際して帝国の財政に負担を掛けるものであってはならない。
『私』が思うに、悪名高い社会秩序維持局でさえも領民を財産として考える類の領主と同じくらいの知性はあったと言えるだろう。
領民を負債とみなす類の、今は絶滅したグループの領主のような集団であったなら逮捕即射殺とか、逮捕後に適当な場所に投棄としていたところだ。
さて。
社会秩序維持局が「船体素材の流通さえ監視していれば逃亡は防げる」としていたのは不十分ではあったが無理もないことである。
なにしろこの方法には十分な実績があった。
しかし同局スタッフの全員がその職務に精励しているわけでもなく、さらに同局内部にも共和主義者の協力者が居た。
怠慢または秘密裏な協力によって、ハイネセンとその同志たちはアルタイル第7惑星の地表上で、周回軌道上からでも見えるような巨大な宇宙船を建造することに成功した。
決行の夜が来るまで、それは峡谷を埋め尽くしたドライアイスの塊にしか見えなかった。
長いこと、そう言われてきた。
実際のところ建造中のイオン・ファゼカス号がどんな姿に見えたのかはかつては伝説と、作業中に内部から撮影された部分映像、内部構造資料から推測するしかなかった。
自由惑星同盟が建国されてからおよそ100年間の間は無数のソリビジョン作品や絵画になっているが想像に基づくものしかなかった。
今ではフェザーン経由で入手した、当時の監視衛星がアルタイル第7惑星の周回軌道上から撮影した本物の映像を同盟のどこに居ても閲覧できる。
たとえばこのCHC執務室でも閲覧できる。
本当に、単なるドライアイスの塊にしか見えない。
かつて想像によって描かれたような美しい存在ではない。
アルタイル第7惑星の地表にあってはごくありふれたドライアイスの氷河でしかない。
当時の映像を見ても、どれがイオン・ファゼカス号なのかはマーカーが入っていないと判らない。
決行の夜。
アーレ・ハイネセンがこの塊を「イオン・ファゼカス号」と名づけて船出を宣言したのは、アルタイル第7惑星のその峡谷が真夜中を過ぎたころだったとされる。
イオン・ファゼカスとはハイネセンに天啓を与えた氷の小船を製作した少年の名である。
また多くの媒体による伝記はこのときにハイネセンが有名な台詞「闇が深くなるのは、夜が明ける直前であればこそ」と発したとしている。
ソリビジョン・ドラマの製作者がハイネセンを描くときの定番でもある。
その時、ハイネセンにそんな余裕があったかどうかと疑問を示す作品や評もある。
また、ハイネセンのこの台詞は実際には古代地球から今日までの鉄則を示した散文的で即物的なものだったとする説もある。
「監視スタッフがもっとも油断するのは夜明け前である」こと、または「あらゆる機材の運営スタッフが単純ミスを犯す確率がもっとも高くなるのは夜明け前である」ことはいつの時代も変わらない。
どれもあまり人気のない説だ。
第一、つまらない。
ともあれ彼らは夜明け前、自らもミスを多発しやすいはずの時間帯に敢えて決行した。
重力制御と慣性制御に成功し、全長122km、幅40kmのドライアイスの塊は割れずに離陸した。
離陸後、静かに大気圏を離脱すると彼らは急激な加速を開始した。
本来ならドライアイスと言う脆い素材はエンジン推力によって崩壊するところだが、慣性制御装置と重力制御装置がそれを防いだ。
船出の跡地が夜明けを迎えたとき、イオン・ファゼカス号はすでに惑星を遠ざかり、あたかも星系外縁部へ戻ってゆく彗星コアのような軌道に乗っていた。
それが彗星コアでは無いことに監視者たちが気づいたのは、イオン・ファゼカス号の2回目の加速を見てのことだった。
船体から昇華し再凍結するドライアイスの微細なダストに包まれて加速してゆくイオン・ファゼカス号が恒星アルタイルの発する光を反射し煌くその姿は、何度となく想像に基づいて創作されている。
可住惑星の極地でしばしば見られるダイヤモンド・ダストと言う現象をスケールアップしたような美しい映像として描いている作品が多い。
今ではフェザーン経由で入手した、まさにその日に帝国側のいくつものカメラで撮影された映像を見ることが出来る。
「無謀にもワープ不可能な粗製の船で逃亡を図る思想犯集団」として保管されていた記録は、今では同盟において建国伝説の一部を為す貴重な資料となっている。
白く輝くドライアイスの巨船、それを包むドライアイスのダスト。
ダストの一部は慣性制御フィールドからこぼれて後方に取り残され、イオン・ファゼカス号は彗星のような尾を逆向きに引きながら星系外縁へ向かって加速していった。
その姿は再接触前の時代に製作されたどの想像図やソリビジョン作品よりも壮麗だった。
この段階で追跡を振り切るために、イオン・ファゼカス号は通常空間航行速力を大きく設定していた。
慣性制御も重力制御も魔法ではない。
作用反作用の法則から完全に自由になるわけではない。
遥か昔、西暦の19世紀にツィオルコフスキーが見出した法則、ニュートン力学の応用のひとつから解放されるわけではなく、エンジンの噴射速度と推進剤搭載量によって到達可能な速力が規定されることには変わりがない。
高性能エンジンを装備し正規品の推進剤を常識的な量搭載した追跡者の船は、やがて粗雑な巨船を追うことを諦めねばならなかった。
イオン・ファゼカス号はその巨体を成すドライアイス塊を文字通り削りながら二酸化炭素を噴射し加速を続けた。
その姿を社会秩序維持局のスタッフたちは歯噛みして見送ったとも、哄笑しつつ軽侮の視線で眺めたとも伝わっている。
慣性制御も重力制御も魔法ではない。
どれほど長時間の加速を続けようとも、光速を超えることは出来ない。
思想犯たちの巨船をワープさせうるようなエンジンはありえない。
これは今でも正しい。イオン・ファゼカス号はイゼルローン要塞よりも大きいのだ。
もっとも、イオン・ファゼカス号の内部にワープエンジンの部品はあった。しかしワープエンジンとして使われるのは後のことである。
通常空間を何十年も掛けて逃亡する?
どこかで粗雑な船の機能が失われるだろう。思想犯どもは自ら遭難死へ向かって加速している。
そう哄笑しながら見送る当局者たちの視線の先で、イオン・ファゼカス号はセンサー群の有効範囲を振り切った。
このとき、イオン・ファゼカス号は光速の半分近くまで加速していた。
大変なスピードに思えるのは、21世紀の人間である『私』の錯覚だ。
星系を脱出し他の星系へと逃れようと言うのに、0.5光速でしかなかったのだ。
このスピードでは5光年を飛翔するのに10年、10光年の距離を超えるのに20年掛かるのだ。
相対論効果によって船内時間は少しだけ短縮される。
しかし外部時間20年が船内では17年に短縮される程度だ。
なんにせよワープ航行技術が実用化されてから1000年ほども経ていた当時の人間の感覚から見れば、論外なほどの低速だ。
船内座標系から見てさえ0.58光速でしかない。
社会秩序維持局のスタッフたちは念のために、奴隷たちがワープ可能な小型船をドライアイスの巨船内部に建造していた可能性を検討した。
そして近傍星系の警備部隊や諸侯に連絡し、奴隷たちがワープアウトしてくるのを待った。
同盟では初等教育で教わることであり、今日では帝国側でも広く知られていることだが、ハイネセンとその同志たちは銀河帝国のいかなる有人星系にも立ち寄らず、近寄ることも無かった。
どの星系にも逃亡奴隷がワープアウトしてくることはなく、この件の追跡を命じられた社会秩序維持局のスタッフは最終的に結論した。
「逃亡奴隷は恒星間空間にて遭難」と。
この結論が出るよりも早く関係者の間に流布された言葉も伝わっている。
「アルタイル星系の思想犯たちは星系から離脱し、恒星間空間での遭難死へ向かって直進しつつあり」と。
オリオン局所枝でもサジタリウス渦状腕でも同じだが、居住に適した惑星を持たない星系に鉱山として有望な天体があってもたいていは放置される。
同じ星系に居住に適した天体が無い場合、労働効率があまりにも下がってしまう。
宇宙船や軌道上施設といった閉鎖環境に閉じ込められての生活を続けることはそれ自体が危険でさえある。
そして鉱山従事者をリフレッシュさせるための人工天体を用意するくらいなら他の星系を選ぶ方が安上がりだ。
しかしハイネセンと同志たちはそれを選んだ。
これも人類史上に類例の少ないことだ。
星系を脱出する過程で船内に形成した大空洞に熱遮蔽内壁を張り、人間の精神を持たせるになんとか足る程度の緑化空間へと作り変えながら孤独な航行を続け、やがて無名の惑星の傍らにイオン・ファゼカス号を停船させた。
その惑星はあまりにも小さく、イオン・ファゼカス号を「着陸させる」のではなく「傍らに停船させる」と言うのが相応しいものだった。
そしてこの惑星は今では残骸しか残っていないとされる。
これは当時撮影された映像がある。
イオン・ファゼカス号と共に、今もこの小惑星は残っているはずだ。
80隻の、ワープ機能を持った「本物の」恒星間宇宙船がこの場で何年も掛けて建造された。
いくつもの事故があり、多くの命が失われた。
その後のおよそ40年の歳月は、オリオン局所枝から逃れることに費やされた。
サジタリウス渦状腕へ。
彼らの時間とリソースの多くは、今で言うイゼルローン回廊を探すことに費やされた。
また、彼らが建造した恒星間宇宙船の航行性能は当時の水準から見ても高いとは言えないものだった。
操船にあたるスタッフの技量も高いとは言えなかったし、またコンディションも良いとはいえなかった。
脱出船団の中で船と船が衝突し、一瞬のうちに1万人が死亡する映像が今日に伝わっている。
長征1万光年。
星図を持たない未知の宙域を乗り越える航行だったとは言うものの、年平均250光年。
1日あたり1光年にも満たない低速航行だったことを意味している。
それでもイオン・ファゼカス号でそのまま航行を続けるよりは数百倍も速い。
そして年の単位で船内にあり続けることは、さまざまな事故の原因となった。
彼らは無名惑星で船を建造する時に、出来る限り大きな緑化ドームを作ってはいた。
だがそれでも限界はあった。
脱出船団の中で人は老い、事故に遭い、あるいは精神に失調を来たし、また船内で新たな命が生まれ、船出のときには少年少女だったものが船団と言う小さな社会の中堅層となり、そして彼らも老い、疲労していった。
今で言うイゼルローン回廊を探り当て、サジタリウス渦状腕へとたどり着く過程で彼らは指導者ハイネセンを失った。
些細なはずの事故だったと言われている。
彼らの旅はまだ終わらず、グエン・キム・ホアがその地位を受け継いだ。
船団と言う小さな社会は人口の減少を続ける縮小再生産社会へと変わっていたが、それだからこそ彼らは「物件」を選ばねばならなかった。
選ばれるべき物件は回廊出口から十分に離れた場所、「距離の防壁」を隔てた場所にあり、中年期の安定したG型恒星が複数存在する宙域。
今の自由惑星同盟中央諸星系である。
その中でもっともソル(地球に住む人間が太陽と呼ぶ恒星。LCC.0000)と似た恒星とそれを巡る惑星が選ばれた。
恒星にはバーラトと言う名が与えられ、その第4惑星には亡き指導者ハイネセンの名が冠せられた。
帝国暦(RC)では218年、宇宙暦(S.E.)では527年のことだ。
アルタイル第7惑星を脱出した40万人すなわち脱出第一世代のうち何人がこの長い旅の終わりまで生き延びて惑星ハイネセンの土を踏んだかは諸説ある。
確かなことは、この過酷な旅の途中から正確な記録者を確保することが出来なくなったこと。
そして惑星ハイネセンに到達した人数は脱出第3世代の少年少女や乳幼児を含めて16万人でしか無かったことだ。
わずか50年間の世代交代で6割の人口を失ったという事実は、脱出船団と言う社会がいかに過酷な環境だったかを今に伝えている。
自由惑星同盟の建国が宣言されてから、270年が過ぎようとしている。
その間にさまざまなことが起きた。
宇宙暦527年にわずか16万人の人口で建国された自由惑星同盟が、宇宙暦640年には銀河帝国との再接触とそれに始まる最初の大規模戦闘、すなわちダゴン星域会戦に200万人を超える将兵を送り込めるまでに成長した。
『私』は自由惑星同盟人であることに慣れてきたのかもしれない。さほど不思議に思わなくなってきた。
前世で友人と論じた覚えがある。
第二次世界大戦直後の日本におけるベビーブーム時代と同等の出生率と、20世紀後半の日本と同等の医療体制が113年続いた場合には初期人口16万人が2000万人へと増える。
人口増加と言うものは「複利計算」とか「幾何級数計算」の典型例だ。
だから、タイムスパンを大きく取るとこんな数字が出てくる。
しかし、これではダゴン星域に200万人規模の軍を送るには不安がある。計算してくれた友人と共に首をかしげたものだった。
人口2000万人前後の国が前線に200万人を送り込むには、『私』や友人が知る範囲でもっとも極端な国……つまり韓国や北朝鮮とか、第二次世界大戦末期の大日本帝国が号していたのと同等の戦時動員を本当に行わねばならない。
しかし、そんな根こそぎ動員が可能なのか?
だが、いざ自由惑星同盟人として「その時代を振り返る」立場になってみると、まったく不思議ではない。
「再接触」時点での同盟の人口は20億人に達していたからだ。
総人口20億人の国が200万人の軍隊を最前線に送り込む。
スケールダウンして、『私』がもっとも身近に知っている国、つまり数ヶ月前まで暮らしていた21世紀初頭の日本に置き換える。
総人口1億3000万人のあの時代の日本には、13万人の自衛官を戦場に送り込む能力があっただろうか?
ちょっと判らない。
では総人口およそ3億人ちょっとのアメリカ合衆国が、30万人の軍隊を戦場に送り込む能力があったか?
これは、あったはずだ。どの出兵だったか覚えていないが、テレビで見た覚えがある。
ただし財政赤字が厳しくなったというニュースも覚えているから、こんな動員を長期間継続することはあの時代のアメリカ合衆国でも出来なかったのだろう。
似たような資料が今手元にある。
仮に銀河帝国がダゴン星域会戦の敗北後にも同規模の攻勢を何回か継続してきたなら、同盟は失血死していただろうとする資料だ。
これは同時に、銀河帝国に名君「晴眼帝」が出現しなかった場合のイフの歴史だ。
このイフの歴史における人類社会の姿は想像もできないが、『私』がなんとなく思うにはそのイフの歴史では、いまごろは同盟も帝国も滅亡していそうな気がする。
さて、建国から「再接触」に至るまでの自由惑星同盟の急成長が何に支えられたかと言う資料を取り出す。
この時代の自由惑星同盟における出生率を見てみると、たぶん21世紀初頭のアフリカ諸国のそれさえ越えている。
そして新生児死亡率は21世紀初頭の先進国各国より低く、また女性が出産に際して課されるリスクと負担は21世紀の先進国よりも低い。
要するに自由惑星同盟の産科医療体制は、21世紀のどの先進国のそれよりも優れている。
21世紀の地球についての資料は読まないことにしているから『私』が前世で見たニュースや周囲の家庭での事例の記憶を頼りに比較しているのだが、そう大きく外れてはいないだろう。
21世紀人の『私』にとっては驚異的だが、現代の同盟人から見ればどれもなんら不思議なことではない。
同盟の黄金期は『私』の知る21世紀の地球から、1500年ほども時代が離れているのだ。
21世紀初頭のアフリカ諸国並みの出生率ともなれば女性の社会的地位が低いかに思われる。
女性の人生が「家庭と産科医院と幼稚園を行ったり来たりし、子供たちが全員成人するまではずっとその世話だけで過ぎる」ものだったかのように思われるが、資料とサンフォードの記憶によればそうではない。
『私』が問題だと思ったことは、黄金期の自由惑星同盟では十分に社会と周囲の力で補えるものだったのだ。
周囲が補うと言っても、もちろん男性が出産の苦痛を体験するわけではない。不可能な上に無意味だ。
実際に整えられ運用されていたのは高度な医療システムと、出産と育児に伴う祝い金の贈呈と育児補助金の給付、ホームワーカーとベビーシッターの派遣制度、そしてもちろん21世紀の地球のどこにも存在しなかった高度なホームオートメーション(ホームコンピューター)の普及、などなど。
どれも単に出生率が高く死亡率が低いと言うだけでは支えられないものだ。
国力が人口増加と同じように幾何級数的に増大したからこそ、このシステムは維持できたし稼動しえた。
地球と言う有限世界では不可能なことだ。
「人口は幾何級数的に増えることが可能でも、経済力を始めとする国力は算術級数的にしか増えない」とは「人口爆発の脅威」として20世紀末から21世紀初頭に掛けて良く聞いた話だ。
だが、それはこの時代の人類社会には当てはまらない。
人類社会を収める容器としての地球は21世紀初頭の当時、すでに限界に達しつつあった。
しかし銀河系は人類社会に比して無限に広いと言って良い。
そもそも銀河系と言う過大なスケールで人類社会を見る必要はない。今日、人類の探査の手が届いているのは銀河系の5分の1の領域だ。
しかしこれさえ見る必要も無い。
同盟領が広がるサジタリウス渦状腕の一部分を見るだけで構わない。
サジタリウスは人類発祥の地であるオリオン局所枝に比べて恒星がまばらで、その一方で航行の難所が多いことで知られている。
このことは、ハイネセンの時代の観測でも判っていたことだ。
恒星がまばらである事実に至っては全人類が地球上で暮らしていたころから判っていたことである。
もっとも、『私』は前世ではそんなことは知らなかった。サンフォードの知識である。
国父アーレ・ハイネセンが新天地としてサジタリウスを選んだ理由がここにある。その時点で「距離の防壁」と言う言葉は無かったらしいが、概念は昔からあった。
無理に惑星上に置き換えるならば山脈や深い谷によっていくつにも分断されたサバンナのようなものだろうか。
さて少ないとは言うものの、今日の同盟が経済活動を行っている、首都星系バーラトを中心とする半径2000光年のいびつな球体の中には実に8000万の恒星が存在している。
これは確かに少ない。
銀河帝国の首都星系ヴァルハラを中心として半径2000光年の球を定義した場合には2億の恒星が存在しているのだから。
しかし今はオリオンを羨む必要はない。サジタリウスの一部を見るだけで十分だ。
同盟の経済圏内に存在するG型の安定した恒星だけを数えても200万を超え、そのうち2パーセント程度が可住惑星を持つ。
4万の可住惑星のうち豊富な水資源を持つ、狭い意味での地球型惑星は5パーセント程度になる。
つまり最小限のテラフォーミングだけで数億の人間を養える惑星が2000ほども存在している。
残りの可住惑星はエコニアやペナルティメイトのような乾燥惑星で、これらも小規模な工事や散布作業を施すだけでそれぞれ数百万人を養える。
そして鉱山として利用できる惑星は「惑星の古典定義」(IAU、AD2006)に適うものだけ数えても10億を超える。
自由惑星同盟の経済の中心地たるバーラト周辺でさえまだそれらを掘り尽くすには至っていない。
民間船で日帰りできる30光年程度の半径内でも8000前後の惑星があり、その20倍以上の衛星があり、小惑星の数は億を超えるのだ。
星系や惑星の性質よりも人手が用意できるか、人手を送り込めるかどうかで開発着手を決めるというのがこの時代の人類だ。
この原則は銀河連邦の黄金時代でも、「再接触」までの時代でも、そして疲弊しきった今の自由惑星同盟でも変わらない。
かつての地球で言う石炭や石油、天然ガスといった炭素化合物はこの時代にあってはエネルギー資源ではなく工業原料だが、これも無尽蔵といってよい。
特に天然ガスは地球型惑星の地下を採掘するまでもなく、星系外縁を探せばメタンの氷やエタンの湖と言う形で一箇所につき兆トン、京トンの単位で手に入る。
炭素が欲しい場合でも炭素質小惑星を探せば使い切れないほど手に入る。
資源を掴む手さえあり、その手が届くならば。
つまりこの時代、人手と船さえ用意できるなら社会発展の余地は半ば無限に近いのだ。
そして、それこそが黄金期の幾何級数的な成長を支えていた。
人手と船さえあれば、使い切れないほどの資源が手に入る。
惑星上で暮らすにおいても、快適で安全な場所を選べる。
古代地球人のように毎年台風が来る地域とか、永久凍土に覆われた土地に暮らす必要もない。
惑星上で農業を行うにしても、数年おきに旱魃になる場所を耕す必要もないし、砂漠の縁で慎重に灌漑を行う必要もない。
稲を育ててコメを収穫したいのならば地球で言う東アジアのような土地がある惑星を探せば良い。
それも、降水量と日射量の不足に怯える必要のない場所を選べば良い。
実際にいくつもある。
小麦を育ててパンを焼きたい、パスタを打ちたいならばヨーロッパと似た土地のある惑星を選べば良い。
小麦の成長期に確実に雨が降り日射量があり、そして収穫期に雨が降ることに怯える必要が無い場所を選べば良い。
これも多数ある。
より正確には、地球原産のバクテリアや土壌生物を放つだけで地球上の優良地域を再現できる、そんな場所のある惑星を選べば良いのだ。
いずれも今の同盟の支配宙域内に1000以上もある。
バクテリアや家畜や魚類も、もちろん多様な植物や昆虫や土壌生物もアルタイル第7惑星から持ってくることが出来た。
足りないものは遺伝子工学による改造種で間に合わせることもあったが、つまりはそれで間に合った。
自由惑星同盟にとってはルドルフと並ぶ悪の化身、銀河手国の官僚機構の中で最も悪名高い存在である社会秩序維持局のおかげである。
彼らが思想犯収容所の運営コストを下げる為に行った施策は、自由惑星同盟の建国だけでなく発展をも支えたのだ。
さて船を動かすにも結局は人手、船の航行を支援する設備の保守や建設も人手だ。
鉱山の採掘機会も、農業機械を動かすのも人手だ。
生産物を運ぶのも人手だ。
人手とは言ってもこの時代の同盟のことだからほとんどの作業は機材のオペレーションだが、機材は労働効率を上げるものであって人の代わりに働いてくれるわけではない。
全ては必要な教育を受け訓練を受けた人間をどれだけ投入できるかで決まる。
この時代、社会の全てはマンパワーと距離で決まる。
黄金期、少年少女が成人して社会人となる度にそれまで耕そうとしても人手が足りなかった土地に農業機械を入れられるようになった。
それまで放置していた炭素質小惑星に採掘システムを入れられるようになった。
放置していたメタンの氷を拾い、エタンの湖から汲み上げることが出来るようになった。
それらも消費地へ運べなければ何の意味も無いのだが、造船所もまた毎年若者を雇用して規模を拡大し、運輸会社も次々に新造船を買って事業を拡大することが出来た。
この時代に多産が奨励されたのは事実だが、それは政府の呼びかけや補助金だけで支えられていたわけではない。
ありとあらゆる事業者が労働力を求め、社員や職員の暮らしを手厚く保護した。
自由惑星同盟の建国の理念からも、単なる商業利益の追求からもそれが正解だったからだ。
21世紀初頭の日本からやってきた人間としての『私』はもっと手短にまとめることが出来る。
「人口ボーナス」がいつまでも続く社会。
資源や農地や居住地の不足といった制限要素にぶつかることがない社会、それが黄金期の自由惑星同盟だったのだと。
建国からダゴンまでの自由惑星同盟の成長は雑に言うと「100年で1万倍」するペースだった。
「50年で100倍」とか「25年ごとに10倍」と言っても良い。
年あたりでは10パーセント弱だ。
要するに戦後の日本の高度成長期とか、ボツワナにおける「セレツェ・カーマの奇跡」あるいはモーリシャスにおける「ラングーラムの繁栄」に相当する成長が100年以上も続いた。
銀河帝国との再接触と開戦があと20数年ほど遅れていれば、自由惑星同盟は200億人前後の人口と銀河帝国を一戦で滅ぼす国力を手に入れていただろう。
そして資源を掴む手が足りず、その手が届かないならばどうなるか。
使い切れないほどの天然資源はただそこにあるだけで意味を持たなくなる。
この時代、全てはマンパワーをどれだけ使えるかで決まる。
それは成長においても衰退においても変わらない。
原作の序章にある「船体材料の入手が脱出計画の露見を招いていた」(大意)と言う話と「多産が奨励され、銀河連邦の黄金期が再現された」(大意)が元ネタです。また「無名の惑星」が残骸になったと言うのはOVAでの描写を参考にしました。
銀河英雄伝説の原作やOVAには突っ込みどころが多いと言われます。
しかしその大半はページ数や時間制限で省かれた結果であって、好きなだけ文字数や時間を使って良いならば本作など比較にならない緻密な設定が田中芳樹氏の手元やOVA製作スタッフの資料室にはあるのだろうと考えています。
要約:つたない考察と無駄な文字数ですがご容赦ください。
蛇足:サンフォードの「中の人」は東日本大震災とその直後に実施された自衛隊・警察・消防・海上保安庁の大規模動員を知りません。