2026年8月7日18時20分。
18時の更新公開では章管理ミスがありました。たった今修正しました。まだ第3章です。この話は第3章第3話です。
ここで時間をいくらか遡る。
ローエングラム侯率いる帝国軍宇宙艦隊が帝都オーディンを全力出撃した直後のことである。
ガイエスブルグ要塞、作戦会議室。
彼ら「正義派諸侯軍」には大胆にも「金髪の孺子」が全艦隊を出撃させた事実がすでに伝わっていた。
情報伝達者の筆頭は前軍務尚書エーレンベルク予備役元帥、そして前統帥本部総長シュタインホフ予備役元帥であったがもちろんそれだけではない。
各家の有能な家臣団がオーディンに残してきた間諜たちであり、さらに「いかなるものでも売る」フェザーン商人である。
ブラウンシュヴァイク公オットーの声には、いつもどおり根拠のない自信が満ちていた。
「オーディンからこのガイエスブルグに至る航路、九箇所に拠点を築く。おのおのに相応の兵力を置けば、金髪の孺子がどれを攻めるにせよ確実に消耗する。疲れ果てたところをこちらから叩き潰せばよい」
居並ぶ諸侯の何人かが追従の声を上げた。ファーレンハイトは、その様子を興味なさそうに眺めながら、内心では別のことを考えていた。
……九箇所すべてを本気で守ろうとすれば、当然ガイエスブルグの守りは薄くなる。ラインハルトが律儀に九箇所を順に攻略してくれると期待するのは、希望的観測でしかない。補給線と通信網さえ断てば、九箇所の拠点は攻略の手間もかけずに無力化できる。そうなれば残るのは、手薄になったガイエスブルグへの一撃だけだ。
このような作戦構想は戦史講義において、古代地球史の事例がある。
ただし、インペリアル・ジャパン海軍いわゆるIJNは類似の妄想--太平洋を何の理由もなくオガサワラ諸島を目指し横断するアメリカ海軍いわゆるUSNが「IJNが何の根拠もなく想定した」USN艦隊進撃路の上に分散させた兵力との戦闘を順番に実施し、オガサワラ東方にこれもIJNが根拠なく設定した「決戦海面」に兵力を削られた状態で到達する--なる「ゼンゲン作戦」なるものを30年以上も大真面目に検討した。
だが実施はしなかった。
実施してこそいないが、この構想を「作戦」とも「戦術」とも「戦略」とも呼びつつ30年も研究したことは1000年以上を経た今でも戦史講義において悪例として学ぶべき必須例となっている。
この構想は戦略なのか戦術なのかさえ、当事者さえも理解できないものだったのだ。
もちろんほんの僅かにでも士官教育を受けたものであればこのIJNの妄想には「好都合な仮定以外の何もない」ことにすぐ気づく。
そしてブラウンシュバイクの示した構想はまさにIJNの妄想を、1000年以上も経て宇宙で再現しようと言うものだ。
だが、それを指摘したところで、この男が理解するとは思えなかった。理解させることに意味があるとも思えなかった。
「閣下の御構想、拠点の存在自体には意義がございます」
ファーレンハイトは口を開いた。ブラウンシュヴァイク公の表情がわずかに緩む。
「ただし、九箇所すべてに実戦兵力を割く必要はございません。各拠点の役目は偵察と通信中継に留め、実戦力はこのガイエスブルグに集中させるべきかと」
「……つまり」ブラウンシュヴァイク公は、思ったより早く飲み込んだ。「金髪の孺子をここまで引きずり込み、遠征の疲労が頂点に達したところを迎え撃つ、というわけか」
「御慧眼です」
内心でファーレンハイトは、この程度の理屈は誰でも思いつくと思っていたが、口には出さなかった。
「いや、閣下」
割って入ったのは、シュターデン参謀長だった。戦略理論の専門家を自任し、かつてアスターテではファーレンハイトと共にラインハルトの指揮下にあったが、その才を認めたことは一度もない男だった。
かつて帝国軍士官学校で教官を務めていた時期があり、ファーレンハイトも学生の一人としてその講義を受けたことがある。理論の緻密さそのものは、当時から一級品だった。
ミッターマイヤーがある席でシュターデンを評して「理屈倒れ」と切って捨てたのを、ファーレンハイトは覚えている。あの2つか3つ年下の男は、口は悪いがこういう見立てだけは正確だった。
「軍事指揮官ファーレンハイト上級大将の案に、さらに手を加えてはいかがでしょう」
「ほう。申してみよ」
「金髪の孺子すなわちローエングラム侯の兵力をこのガイエスブルグに引きつけておく間に、手薄となった帝都オーディンを衝くのです。皇帝陛下を我らが擁したてまつれば、逆賊の名はラインハルトのものとなりましょう」
会議室に、期待混じりのどよめきが広がった。
ファーレンハイトは、まだ口をつけていないコーヒーに視線を落とした。
……ジョークとして面白い。この男は、ラインハルトが帝都を空にしていることに、理由があるとは考えないのか。
考えれば分かることだった。空にできるということは「空にしても構わない」ということだ。この程度の裏を読めない人間が、戦略理論の専門家を自認している。
そう評されてもいる。
だが、それは好都合でもあった。
「すばらしい案かと存じます」
ファーレンハイトは言った。会議室の空気が、驚きに変わる。先ほどまで冷静に本筋を語っていた男が、この危うい賭けに賛同するとは思わなかったのだろう。シュターデン自身、いくぶん意外そうな顔をした。
これに内心、ファーレンハイトは驚いた。
素人ばかりの烏合の衆とばかり思っていたが、正規軍艦隊司令官やそのスタッフたちだけでなく諸侯の間からさえも驚きを示したのだ。
士官教育を受けていない人間でもブラウンシュバイクとシュターデンの構想に危うさがあることには気づくらしい。これは計算外だった。
「ただし」ファーレンハイトは続けた。
「この栄誉ある任、誰が担うべきか。我ら諸侯軍には、こうした大事を託すにふさわしい者は限られております」
「では、誰が」
ブラウンシュヴァイク公が問う。ファーレンハイトは、待っていた問いだというように、わずかに間を置いてから答えた。
「我ら正義派諸侯の筆頭たるお二方をおいて、他にございましょうか」
ブラウンシュヴァイク公とリッテンハイム侯が、同時にファーレンハイトを見た。
「盟主閣下と副盟主閣下御自らが指揮を執られてこそ、この作戦は真に『正義派諸侯軍』の名にふさわしいものとなりましょう。責任ある地位にある者が、責任ある行動を示す——それ以上の説得力が、どこにございましょうか」
沈黙が落ちた。だが、それは拒絶の沈黙ではなかった。ファーレンハイトには分かっていた——この手の男たちは、正論という体裁さえ整えてやれば、自らの野心をそこに投影せずにはいられない。
信じてもいない正論だ。
内心でファーレンハイトは呟いた。真意は別のところにある。指揮系統に従うつもりのない、統制不能な野心家どもを、本人たちの欲望を満たす形で戦線から取り除く。それだけのことだった。オーディン強襲が成功しようが失敗しようが、ファーレンハイトにとってはどちらでもよかった。
「……よかろう」
ブラウンシュヴァイク公が重々しく頷いた。
* *
執務室に戻ったファーレンハイトは、椅子に身を沈めながら、先刻の会議を反芻していた。
規模だけで言えば別働隊に過ぎない。だが、盟主と副盟主が率いる部隊こそが正義派諸侯軍の真の主力だ。
会議の場で、彼はそう解説した。ブラウンシュヴァイク公とリッテンハイム侯が自ら指揮を執るこの部隊こそが、帝政の正常化--つまり彼らの言う「正義」の実現--を成し遂げる中核である、と。
誘導するまでもなかった。その一言を聞いた瞬間、この部隊を構成する私欲の塊たちが、勝手に「相互に家臣を派遣し、連絡を密接にしよう」と言い出した。
その家臣団には、確実に暗殺者も紛れ込むだろう。
自分の艦に他家の目付役を迎え入れることを、当の本人たちが「連携」の名のもとに自ら申し出た。
この陣営の軍事指揮官であるファーレンハイトが命じる必要も、この陣営の参謀長であるシュターデンが提言する必要すらなかった。
野心と猜疑心を持つ者同士を同じ籠に押し込めば、あとは勝手に喰い合う。その状況が、自動で生成された。
そして、これにはシュターデンも気づいたらしい。
会議の終盤、シュターデンの表情にわずかな翳りが差したのを、ファーレンハイトは見逃さなかった。だが、それを理屈として口にするほど、あの男は愚かではなかった。
代わりにシュターデンが指摘したのは、まったく別の——そして、確かに理論上は正しい一点だった。
「ローエングラム侯は、オーディンを空にして出陣しております。つまり、すでに我が方の打つ手に対する彼なりの罠を用意していると言うことです」
理屈だけは、相変わらず立つ男だ。
ファーレンハイトは、それを聞いた瞬間の自分の反応を思い返した。正しい指摘だった。だからこそ、あえて取り上げなかった。この作戦の成否は、もとより彼の関心の外にある。
シュターデン参謀長が続けた内容を思い出す。
「ローエングラムなりの罠とは、恐らくこういうことでしょう。出撃兵力の一部を、航路のいずこかに伏せておく。オーディンへの逆進撃をいつでも行えるように備えておくのです。正義派諸侯軍の真の主力がオーディンを急襲し、皇帝陛下をお救いしようとする、まさにその直前で阻む。そのために、あえてオーディンを空にすると言う隙を見せている」
理屈としては、実に正しい。IJNのスエツグ提督が「集中して挑んでも勝てるか分からない米海軍相手に、こちらが分散して待ち伏せてはなおのこと勝てない」と指摘してゼンゲン作戦(?)とやらを終わらせたよりもまだ正しいかもしれない。
ファーレンハイトは執務室で、その分析を反芻しながら評価した。伏兵、逆進撃、寸前での阻止。戦術理論としては一分の隙もない。士官学校の教材にそのまま載せてもおかしくない出来だった。
だが、正しいのはただ一点を除いて、だ。
正義派諸侯軍にオーディン急襲などできるわけがない。
「皇帝の身柄を確保」と言う大手柄を目の前にした瞬間、指揮系統も何もあったものではなくなる。誰が先陣を切るか、誰が皇帝陛下を「お救いした」栄誉を独占するか?
その一点をめぐって、勝手に同士討ちを始めて自滅する。ラインハルトには伏兵を用意する手間さえ要らない。
シュターデンの理論には、人間という変数が欠けている。彼の描く戦況図には、艦隊も航路も兵站も精密に描き込まれているが、そこに乗っている人間がどういう生き物かという一項目だけが、白紙のままだった。
だからこそ、あの男は理屈倒れなのだ。
ミッターマイヤーの評は、やはり正しかった。
なおも回想する。さすがに、個々の発言を思い出すつもりも議事録を読み返すつもりもなかった。精神の健康を損ねかねない。
参謀長の解説なさったとおり、政府軍は伏兵を配置していることでしょう。ですから、ここガイエスブルグ要塞に残る数的主力の役目も明白です。
ファーレンハイトが会議の場でそう述べたとき、リッテンハイム侯が賢しげにーー恐らく本人の主観では重々しくーー頷いた。
「すなわち、ファーレンハイト軍事指揮官の率いる兵力が、ここガイエスブルグ要塞に金髪の孺子の兵力を引き付けること。金髪の孺子をして、伏兵までもここガイエスブルグ要塞に攻め寄せねばならない状況を作る、ということだな」
ブラウンシュヴァイク公爵が、後を継ぐように続けた。
「我が義弟リッテンハイム副盟主の言うとおりであるな。勇戦奮闘し、金髪の孺子から小賢しくも伏兵を置く余力をなくすことを期待しておる。むろん、金髪の孺子の伏兵ごときは打ち破れるがな」
そこで、シュターデンが口を挟んだ。
「我らは帝政の正常化を目的に集う正義派諸侯軍であります。この主力の行動は絶対に成功させねばならぬこと。それはまさに、リップシュタットに集い盟約に署名したときに、すでに定まっていることです。伏兵といえども、それと戦えばわが軍も無傷ではありえず、しかも時間を必ず消費します」
これも、理論として正しい。
ファーレンハイトは、執務室でその一言一言を思い返しながら、そう結論づけた。付け加えるべきことがあるとすれば、ただ一点。
そもそも成立しないオーディン急襲に備えて、ローエングラム侯が「伏兵」などというものを置くはずもない、ということくらいだった。
「よって。作戦上の主力たる盟主、副盟主の直率する部隊はギリギリまで行動の意図を察知されぬように振舞う必要があります。ローエングラム侯をして『諸侯は政府軍を恐れて拠点に逼塞している』と誤認させるまで静かに待つべきであります」
シュターデン参謀長の指摘は全く正しい。そんな屈辱をこの連中が受け入れるはずがないこと以外は。
幸いなことに盟主ブラウンシュバイク公爵、副盟主リッテンハイム侯爵はこれに頷き、大略このように述べた。
「帝政の正常化と言う大義を成すことが我らの目的である。金髪の孺子ごときに震えあがって見せる一時の屈辱も必要であれば進んで受け入れる」と。
実際にはそんなことはできるわけもない。
* *
この軍議を傍聴する戦史家があれば、必ず指摘したであろうことがあった。
帝国軍士官学校の戦史教官であれ、いつの時代のどの国の戦史教官であれ、真っ先に、そして繰り返し説くことである。
「何ゆえに、兵器の進歩とそれによる戦技戦術の変化を超えて、戦史を学ばねばならないのか。たとえば古代地球で、火器がまだ投石と弓矢しか持たなかった時代の戦闘事例までも学ぶのか」
答えは常に一つである。これまでも、今も、これからも。
「軍事学は、兵器の進歩に関係なく成立する。なぜなら作戦行動とは、結局のところ人間が分析し、決断した結果に他ならないからだ」
仮に、この軍議の一部始終が銀河の向こう側——自由惑星同盟——に伝わっていたなら、同盟軍の戦史編纂室も、再開設された戦史研究科の教官も、まったく同じ指摘をしたであろう。
戦争とは、結局のところ人間が行うことなのだ。手にする得物が投石と弓矢であろうと、核融合弾と中性子ビーム砲であろうと、それは変わらない。
ヒューマンファクターを無視した戦術論、その上位構造である作戦術、さらにその上の戦略論。それらはいずれも、人間という変数を欠いた瞬間に意味を失う。
シュターデンに。否、シュターデンの作戦案と敵手分析に、そしてこの軍議全体に欠けているのはまさにそれである。
そして、それ以外は完璧である。
前提のひとつであるヒューマンファクタ―を正しく示す指揮官--たとえばローエングラム侯の前任の帝国宇宙艦隊司令長官ミュッケンベルガーを筆頭とする将帥たち--にこれまで恵まれてきたからこそ、シュターデンは参謀勤務と教官勤務を繰り返して今の地位にあるのだ。
さて、ともあれ頭痛の種はシュターデンが意図せずして片付けてくれた。
あとは彼がこの陣営に参じた目的をいかに果たすかを考えるべきだ。
いかにしてこの陣営で稼ぐか。答えはとうに出している。大貴族の私有財産をかすめ取るような、些事ではない。
俺自身が商品だ。
俺を高値で雇う人間、あるいは陣営を作ること。それだけが、この内戦における唯一の目的だった。
換金には、まず値をつけねばならない。
値をつける方法は、一つしかない。ローエングラム陣営を相手に、善戦してみせることだ。
誰に見せるかが、問題になる。
ラインハルト個人に見せつけるだけなら、話は単純だ。だが、それではあまりに一点賭けが過ぎる。ラインハルトが交渉に応じない可能性、応じても値切ってくる可能性、あるいはこの内戦の決着そのものが自分の想定と違う形で転がる可能性……例えば俺がローエングラムによって戦場で打倒される可能性。
それらを考えるなら「買い手」の性質は限定される。
たとえば、帝国宰相リヒテンラーデ公爵。ローエングラム侯という駒が便利だが危険すぎることは、あの男にとって自明のはずだ。
なにしろリヒテンラーデ公爵には、自前の兵力がない。今はローエングラムに頼るしかないが、頼りきりになることの危うさを痛感していることは知っている。
この程度の情報を摑む経路くらいは、個人的に持っている。いくらか金は使ったが、俺を高く売るための必要経費だ。
帝国宰相は自らの姪--確かコールラウシュ伯爵の娘--をローエングラム元帥府に秘書官として送り込んだことは間違いない。
これは公然と実施したらしく、ここガイエスブルグ要塞に到着してからも諸侯の噂話のひとつになっていた。
曰く「帝国宰相リヒテンラーデの小心なること。金髪の孺子めに自分の姪を差し出すとは」「あれでは帝国宰相とは言っても、領地にこもって領民から崇められることだけが趣味のマリーンドルフ伯フランツと変わるところなし」なる笑い話として。
ガイエスブルグでの善戦は、ラインハルトへの個人的な売り込みではない。
ローエングラムという、有能かつ危険な駒に備えて、もう一つ有用な駒を欲する。あらゆる勢力。
それが、俺を売る相手だ。
全市場向けのIR活動だ。
自分を何として売り込むか。答えは一つしかなかった。
「ローエングラムを倒せる可能性のある、希少な指揮官」
強者に媚びるのでも、負け犬として憐れみを乞うのでもない。
ラインハルトという、誰もが恐れながら誰も御しきれずにいる駒に対して、対抗しうる数少ない駒のひとつとして、自分の値をつける。それだけが、この内戦において唯一意味のある広告だった。
一度の戦いで、複数の買い手候補に同時に自分を売り込む。決算発表のようなものだと思えば、感傷を挟む余地もない。
だが、この広告活動には、二つの制約がある。
一つは、時間。同盟軍がアムリッツァでの損耗を癒し、体制を立て直して再び動き出す前に、この内戦に片をつけなければならない。
同盟という不確定要素が市場に戻ってきたとき、帝国内戦がまだ続いていれば?
ファーレンハイト個人の値札などどうでもよくなるほどの、まったく別の危機に変わる。
もう一つは、量。ローエングラム相手に善戦してみせることは必要だ。だが、その善戦が本当の消耗戦に転じ、帝国そのものを弱らせてしまえば元も子もない。
強い帝国があってこそ「ローエングラムを倒せる可能性のある指揮官」には値がつく。帝国が消耗しきってしまえば、誰を倒せようが倒せまいが、そこにはもう買う価値のあるものが残っていない。
薄氷の上を、ちょうどいい深さまで踏み込む。それだけの話だ。
会議室にいたあの男たちには、仮にこの計算を示しても理解するまい。大貴族たちには理解する知力がない。
シュターデン参謀長と正規艦隊司令官6名、そしてそのスタッフは内容そのものは理解できるだろうが、同意も賛意も示すまい。
彼らの誰一人として「この戦いで何を売るか」を考えていない。考えているのは「誰が勝者の椅子に座るか」だけだ。
だからこそ、あの九箇所の拠点も、無駄にはならない。
偵察と通信中継に格下げしたとはいえ、拠点そのものは残る。そこに、統制の効かない我欲の塊たちを、少しずつ配置していけばいい。指揮系統に従う気もなく、それぞれが手柄と保身だけを考えて動く連中が、オーディン—ガイエスブルグ間に点々と居座る。
ローエングラム陣営から見れば、これは厄介極まりない。正規の敵軍として相手取るなら、まだ楽だ。
だが烏合の衆が勝手に暴れ、勝手に降伏し、勝手に寝返る。
そんな相手に対処することは、大規模な宇宙海賊の平定作業と名分こそ違うが帝国軍の本務だ。
彼等を放置することは帝国を弱める。治安戦の名手シュタインメッツ提督がその指揮下にあるとは言え。
「労力ばかりかかり、得られる戦果とは帝国の弱体化防止のみ」であることは、誰が実施しても同じ。
欲望のままに勝手な動きをする集団への対処を、ローエングラム陣営に強要することはできる。
そしてガイエスブルグ要塞には正規軍6個艦隊と、自分が残る。
ここに正規軍6個艦隊と自分がある限り、ローエングラム陣営はこれを放置できない。
放置すれば、正義派諸侯軍の実質的な主力を温存させたまま内戦が長引く。
かといって力押しで叩き潰そうとすれば、周到に整えたこの要塞で、相応の消耗を強いられる。
そのいずれもローエングラム侯は採らない。一方で、この内戦を続けて良い期間に制限があることは彼も承知している。
もちろん帝国宰相リヒテンラーデ公爵も。
よって俺はこの要塞の支援を得て善戦してみせればいい。それだけで、俺の値は上がる。
この売り込み計算はリップシュタットの庭で署名したときから定性的なものではあった。
定量化もある程度は進んだ。
宇宙艦隊司令長官ローエングラム侯と帝国宰相リヒテンラーデ公爵。両者を軍事組織の長として支えるメルカッツ軍務尚書。いずれも、兵力にも時間にも制限があることは承知している。
そう期待して良い相手であり、ブラウンシュバイクらとは異なる。
「同盟がどの程度の期間で立ち直るか」と言う時間制限についても定量分析はある。
先のアムリッツア星域会戦が示した通り。同盟とはイデオロギーだけで動く単純スイッチ制御の機械のような集団だ。
振り返れば、150年の戦争はまさに同盟がそうであるから続いている。
先んじてイゼルローン回廊を封鎖し帝国を放置してサジタリウス腕の開発に、国力増進にこの150年を用いていれば。
それが出来ないとしても、あのブルース・アッシュビーが帝国軍に大打撃を与えたときから数えて30年以上。
実に6度に渡ってイゼルローン要塞の前に同盟軍将兵の死体を積み重ねる愚行を同盟は繰り返した。
同盟がこれを行わずイゼルローン回廊のサジタリウス側出口の封鎖に務め、サジタリウス腕の開発と国力再編に時間を使っていれば?
恐らく今ごろはローエングラム侯も彼ファーレンハイトもオーディンを守るための絶望的な戦いを行っているか、あるいは帝国はすでに滅亡済みだったことだろう。
だが、同盟とその軍隊は決して無能ではない。
帝国辺境を守るフレーゲル男爵、ヒルデスハイム伯爵の指揮下に合計4個艦隊の兵力があることを無視はしない。
最低でもこれを圧倒するに足る兵力を準備するまでは、いかに単純動作する同盟と言えども動けない。動きようがない。
ファーレンハイトが自身をいかに高く売るか。その算段はここまで組み上がっていた。誰に売るかは未定である。最高値を示した誰かだ。いっそ同盟軍でも構わない。
いつまでに売るか。これも決まっている。どこまで踏み込んでいいか、これも同盟の動向と、帝国の回復力すなわち国力で決まっている。
すべてに答えを出したつもりだった。
だが、ファーレンハイトも気づかなかった。
辺境の守りを委ねられているフレーゲルとヒルデスハイムが、ファーレンハイトの見積もりよりも、さらに愚かであることには。