ガイエスブルグ要塞、自室。
戦況分析資料を前に、アーダルベルト・フォン・ファーレンハイト中将は独りごちるように再分析を実施していた。
「数か月前のアムリッツァ星域会戦に同盟は勝利したが、痛手を被っている。10個艦隊体制への復帰は当面慎むという。当然の判断だ」
損耗した艦艇の補充、消耗した燃料弾薬の再備蓄、そして何より人命の損失に対する国内世論……。
同盟という国家がどのような理屈で動くかは、帝国正規軍に籍を置いた経験から見当がつく。
「であれば、実力不足著しいフレーゲルやヒルデスハイムの艦隊であっても、抑止にはなるはずだった」
彼は自嘲するように口の端をわずかに歪めた。同盟軍ならばあのような烏合の衆を相手取れば楽勝する。実際にした。が、軍事的な意味での「楽勝」でしかない。
「今の同盟にとっては『無傷でも痛手』だ。人命と機材に損失なしでも、燃料弾薬と財布が痛む」
出兵には、戦闘の有無以前に莫大な経費が付随する。財政的に軍縮を選んだ国家が、わざわざ「勝てるが得るもののない」出兵をする理由はない。
「よって、当面は同盟は帝国内戦には手出ししてこない」
これが、彼がガイエスブルグに正規軍6個艦隊と自らを置く計算の土台だった。
ローエングラム陣営が動かざるを得ない状況を作り出し、その圧力の下で善戦してみせる--その舞台が、同盟という不確定要素によって崩されることは当面はない、という前提だった。
「もちろん、この安全期間には期限がある」
彼はそれも覚えている。
正しいはずだった。
フレーゲルやヒルデスハイムのような愚物どもが、この前提そのものを壊すような真似さえしなければ。
ファーレンハイトは、シュターデンの作戦案について自分が下した評価を、もう一度思い返していた。
教科書に載せたいくらいに見事だ。ヒューマンファクターが無視されていること以外は。
しばらく前にそう評した。理論としては一分の隙もない。ただ、そこに乗っている人間がどういう生き物かという一点だけが、白紙のままだった、と。
自分の分析にも、同じ穴があった。
辺境の守りを、フレーゲルとヒルデスハイムに委ねた。実力不足著しい私兵でも存在するだけで一定の抑止にはなる。楽勝できる相手でも今の同盟にとっては「無傷でも痛手」だ。だから当面、同盟は動かない……。
そこまでの計算は、崩れていない。今も崩れていないはずだ。
崩れていたのは、別の変数だった。
フレーゲルとヒルデスハイムが、自分の見積もりよりもさらに愚かであることを、自分は予想さえできなかった。
辺境に置いた駒が、勝手に動いて自滅する。
その可能性そのものを、軽視していたわけではない。私兵の統制の緩さも、貴族という人種の浅慮も、織り込んでいたつもりだった。
だが「織り込んでいたつもり」というのが、そもそも甘い。シュターデンを評したときと、まったく同じ言葉が、そのまま自分に返ってくる。
「理屈としては正しい。ただ一点を除いて」
その一点の中身が、今回は自分自身の見積もりだった、というだけの違いだ。
苦い笑いすら、出てこなかった。
* *
ガイエスブルグ要塞、宇宙港区画。
ブラウンシュヴァイク公オットーは、まさに旗艦への搭乗を終えようとしていた。オーディンにより近い9箇所の拠点のいずれかへ移動し、そこで息を潜めてみせる。
ローエングラム侯をして「諸侯は政府軍を恐れて逼塞している」と誤認させるための、シュターデンの献策どおりの行動だった。
屈辱ではある。だが、大義のためならば受け入れると、自ら諸侯の居並ぶ場で誓ったことでもあった。
その出立の直前、アンスバッハが報告書を携えて駆け込んできた。
「閣下。ボーデン星系より」
ブラウンシュヴァイクは、報告書に目を通した。
フレーゲル男爵とヒルデスハイム伯爵の艦隊が壊滅し、両名が部下に投降を命じたのちに自決したという知らせだった。
「……ヨアヒムの艦隊は」
ブラウンシュヴァイクの声から、出立を控えた高揚が消えていった。
「精鋭だった」
それは、疑問形でさえなかった。事実として述べられた前提だった。
ブラウンシュヴァイクという人間の世界認識において、これは動かしようのない公理だった。
代々の高位貴族は、必ず優秀である。初代皇帝ルドルフ大帝その人が、その身をもって示したではないか。
優秀な血統からは優秀な人材が生まれ、劣った血統からは劣った人材しか生まれない。
だからこそ、皇帝家は皇帝家たり得るのであり、大貴族は大貴族たり得るのだ。
フレーゲルは、自分の甥だった。
ヒルデスハイムはリッテンハイム侯の派閥を支える重鎮だった。どちらも、この公理の外側に置かれたことは一度もない。
従って。惨敗したという事実の逃げ場が存在しなかった。
「アンスバッハ。叛徒どもは、何個艦隊出した」
「3個艦隊とのことです」
「わずか3個艦隊が、ヨアヒムとヒルデスハイム伯爵の4個艦隊を……」
ブラウンシュヴァイクは、報告書を握る手に、自分でも気づかぬほどの力を込めていた。
「閣下」
アンスバッハが、静かに口を開いた。
「ミュッケンベルガー元帥が退任の際に残された言葉を、覚えておいでですか」
「……『なめてかかると手酷い目にあう』、だったか」
「あの時は、腰抜けの捨て台詞として処理いたしました。ですが」
「もう、そうは扱えぬな」
ブラウンシュヴァイクは、しばらく黙り込んだ。フレーゲルとヒルデスハイムが弱かったという可能性は、彼の世界には存在しない。残る答えは一つしかなかった。
「……我々は、叛徒どもの軍というものを、見誤っていたのか」
その一言が、ようやく口から出た。
「オーディン急襲の構想は、捨てぬ」
ブラウンシュヴァイクは、旗艦への搭乗口を見上げながら言った。
「捨てぬ。だが……。これまでのようには進めぬ」
アンスバッハは、黙って次の言葉を待った。
「ファーレンハイトに、あらためて話を聞く必要があるようだ」
* *
ブラウンシュヴァイク公とリッテンハイム侯は、それぞれの旗艦--彼らの認識--に乗り込んだところで、ガイエスブルグ要塞の指揮所へ回線を繋がせた。
ファーレンハイトの指揮卓に、2つの顔が並んだ。
「ファーレンハイト軍事指揮官」
口を開いたのは、ブラウンシュヴァイクだった。
「我々は、金髪の孺子を見誤っていたことを認める」
その一言にファーレンハイトの内心は動揺したが、表情には出さなかった。
「叛徒どもの軍は、急遽出撃させたわずか3個艦隊で、ヨアヒムとヒルデスハイム伯爵の率いた精鋭4個艦隊に圧勝するほどに強い。これを相手に武勲を積み上げてきた、あの金髪の孺子めはさらに強いと認めねばならぬ」
「リッテンハイム侯爵閣下も、同じお考えでしょうか」
ファーレンハイトが確認すると、リッテンハイムは硬い表情のまま頷いた。
「盟主のおっしゃる通りだ。認めがたいが、認めねばならぬ」
さらなる驚きを隠すことに、ファーレンハイトは成功した。
……この連中が、自ら誤りを認めるとは。
ファーレンハイトは静かに応じた。
「御両所がお聞きになりたいことは、恐らく一つでしょう」
「申してみよ」
「そのローエングラム侯爵を、このガイエスブルグ要塞宙域に引き付けたとき。私が負けないか否か。帝政の正常化という本義を、御両所が成し遂げられるまでの時間を、私が稼ぎきれるか否か」
回線の向こうで、ブラウンシュヴァイクとリッテンハイムが、同時に沈黙した。
「戦闘は、相手のあることです」
ファーレンハイトは、間を置かずに無言の問いに答えた。
「必ず勝つとまでは、申し上げられません。しかし時間稼ぎ。これは、できます」
回線の向こうで、ブラウンシュヴァイクが、ゆっくりと息を吐いた。
「そうか」
その一言には、安堵がにじんでいた。
「ファーレンハイトがそう言うのであれば、間違いあるまい」
リッテンハイムも、硬かった表情をわずかに緩めた。
「では、当初の計画通り。我々は拠点へ移動し、逼塞してみせる。ローエングラム侯の目を欺き、機を待つ」
「御意」
「金髪の孺子めが、ここガイエスブルグに足止めされている間に、我々は必ずやオーディンを衝いてみせる。時間さえあれば」
ブラウンシュヴァイクの声には、先ほどまでの動揺が、すでに薄れかけていた。
「時間さえあれば」その言葉を、ファーレンハイトは心に留めた。同盟軍とローエングラム侯を見誤っていたと認めたその舌の根も乾かぬうちに立ち直れるのなら。
その見識について再評価する必要はないようだ。
回線が切れた。
ファーレンハイトは、しばらく指揮卓の前で、動かなかった。
時間稼ぎだけは、できる。
自分が今しがた口にした言葉を、もう一度、頭の中で検分した。嘘は言っていない。だが、それが誰のための時間稼ぎなのかは、あの二人には決して明かすつもりのないことだった。
明かす機会そのものが近く失われる。
どちらがどちらを先にいかにして殺すかは知ったことではないが、ブラウンシュバイク公爵とリッテンハイム侯爵の自制心がさほど強いものだと考える理由はない。
* *
旗艦ブリュンヒルト、司令官室。
ラインハルトの手元にも報告書が届いていた。帝国辺境における、一方的な戦闘の結末。
軍事的な評価そのものは、誰が見ても同じ結論に至るはずだった。
当面の敵将ファーレンハイトも、同じ結論に至るだろう。
アスターテでファーレンハイトを指揮下に置いて戦ったことがある。
あのとき示した判断力を思い返せば、同盟軍に対する認識も、貴族私兵の質に関する認識も、自分と大きく違うと考える理由が思いつかなかった。
だが、思いつかないということと、確認しないことは別だ。
「オーベルシュタイン」
「はい」
「この一件について、貴官の見解を聞いておきたい」
自身の考えも示す。
オーベルシュタインは、報告書に目を通しながら、しばらく沈黙していた。
ラインハルトが期待するような答えを先回りして探す様子は、微塵もなかった。
「軍事的な結論そのものは、閣下のお考えと相違ありません」
「ふむ」
「ただし」
オーベルシュタインは、報告書から顔を上げた。
「敵将ファーレンハイトが、閣下と同じ結論に至るであろうという推測は、根拠が薄弱です」
「ほう」
「閣下がそう推測なさる根拠は、アスターテでの一度きりの指揮経験のみでありましょう。一度の指揮で見えるのは、その人物の判断力の一端に過ぎません。敵将が今、いかなる立場に置かれ、いかなる利害を抱えているかまでは、その経験からは分かりません」
ラインハルトは、わずかに目を細めた。不快さではなく、興味に近い反応だった。
「では貴官は、私の推測に反対か」
「反対ではありません。結論としては、恐らく閣下の推測通りでしょう。ですが、その根拠を『指揮した経験があるから』の一点に置くのは、危険です」
「では、貴官の根拠は」
「敵将ファーレンハイトが、これまで一度も判断を誤った形跡がないという、行動記録そのものです。経験の共有ではなく、記録の蓄積から導いた結論です」
ラインハルトは、短く頷いた。
「同じ結論でも、辿り着き方が違うというわけか」
「閣下の推測が誤りだと申し上げているのではありません。ただ、その推測に閣下御自身が安心してしまうことこそが、危険だと申し上げております」
ラインハルトは、その言葉に、笑いも怒りも示さなかった。
「引き続き、ファーレンハイトの動向を注視しろ。奴が策もなしに、この無謀な挙兵に参加するはずがない」
「御意。偵察艦艇は主隊の2日前にガイエスブルグ要塞の周辺に展開します。内部諜者からの報告は継続中」
「よろしい。さてもう一点、頼みたいことがある」
ラインハルトは、報告書の別の頁に視線を移した。
「弱兵とはいえ辺境に4個艦隊が存在するという前提を我々は置いていた。それが消滅した」
「はい」
「同盟軍の人的損害と機材の損害は、限りなくゼロに近い。だが」
「動員そのものにかかった人員と物資の消耗、そして疲労。これは今の同盟にとって小さくない。この件ですな」
「そうだ」
ラインハルトは、報告書を閉じた。
「内戦を続けてよい時間について、従来の見積もりを立て直せ。フレーゲルとヒルデスハイムの4個艦隊が辺境に存在するという前提で組んだ数字は、もう使えない。作り直せ」
「御意」
オーベルシュタインは、それだけ答えて一礼すると、司令官室を後にした。
* *
数日後、対同盟研究チームからの報告書が届いた。
ガイエスブルグ要塞が存在する、低温準矮星フレイヤが成す星系までは帝都オーディンから約2週間の距離。
その半ばに掛かろうと言うときだった。
開明派貴族リヒターとブラッケが中心となってまとめたものだった。
報告書の末尾、リヒターの署名がある一節に、ラインハルトの目が留まった。
「もっとも警戒すべきは、艦隊でも、物資でもありません」
リヒターは、そう記していた。
「思想です」
ラインハルトは、その先を読み進めた。
「同盟の艦隊が展開するには、相応の準備と時間、そして政治的決断が要ります。しかし、思想の伝播にはその制約がほとんど働きません。密航者一人、あるいは小型の密輸船一隻。それだけで辺境の一惑星に『別の生き方がある』という事実を植えつけるには十分です」
「防備兵力さえ整っていれば、こうした浸透は水際で阻止できました。しかし今、ボーデンとフォルゲンには、それを阻む者がおりません」
ブラッケの追記が、続いていた。
「物資の援助であれば、いずれ底をつきます。輸送力にも限りがある以上、同盟とて無限には続けられません。しかし思想は、一度根づけば自己増殖します。次に不満を抱いた領民が、次の不満を抱いた領民に語り継ぐ。それを止める手段を、我々はまだ持っておりません」
ラインハルトは、報告書を閉じた。
「オーベルシュタイン」
「はい」
「この一節について、貴官の見解は」
「両名の分析は妥当と考えます。ただし」
オーベルシュタインは、いつもと変わらぬ抑揚のない声で続けた。
「思想の浸透を防ぐ最も確実な方法は、検閲でも監視でもありません。領民に、思想を必要とさせないことです」
「つまり」
「善政です、閣下。悪政下で飢えている者に麦の配給と共に思想を説かれる。これこそが心が動きます。しかし麦を十分に与えられている者には共和政治思想など空文」
ラインハルトは、しばらく黙りこんだ。
「水際での阻止」か。
その言葉が、記憶の底にある一つの任務を呼び起こした。
かつて、中佐として巡航艦ヘーシュリッヒ・エンチェンの艦長を務めていたことがある。
統帥本部情報部による密命。すなわち「帝国貴族ヘルクスハイマー伯爵が、指向性ゼッフル粒子発生装置の試作機とともに同盟へ亡命を図った。その阻止のため訓練を名目に、単艦で同盟領内へ潜入せよ」なるものは、ラインハルトの軍歴の中でもっとも濃厚に生死の境界を彷徨うものだった。
あのときの副長は、少佐だったアウグスト・ザムエル・ワーレン。今は麾下の提督の一人だ。保安主任として乗り組んでいた赤毛の友は、中尉だった。
あの任務を実際にやり遂げた経験を持つ人間は、今の陣営で自分とワーレンの2人だけだ。もう1人の当事者。あの赤毛の友は、今はアムリッツァ星系の恒星風の一部となり、原子に還元されて漂っている。
同盟の領域が、実際にどれほど広いか。単艦潜入がどれほどあっさりと成功し、そして1隻の亡命船、航路も判っているものを捉えることがいかに困難だったか。
どれほど際どく、同盟軍が常時監視しているイゼルローン回廊サジタリウス開口を抜けて生還したか。それを肌で知っている人間は、この陣営にほとんどいない。
同じことが、帝国にも言える。
水際での阻止などほぼ不可能だ。フェザーン商人が銀河のどこであろうと好き勝手に商売をできる現実そのものが、その動かぬ証拠になっている。
「封鎖」も「水際阻止」も個艦規模で行動する相手にはほぼ不可能だ。
この点は、リヒターとブラッケの分析チームにも、いずれ注意を促す必要がある。
だがあの任務は作戦部ではなく、情報部が実施したものだった。
軍務尚書と統帥本部総長を兼ねるメルカッツ元帥の許可なくして詳細を開示することはできない。
帝国軍実戦部隊は統帥本部の下にある。宇宙艦隊司令長官たる自分も。
ラインハルトは、報告書を机の端に置いた。
「もう一つ、指摘しておきたいことがある」
ラインハルトは、話題を変えるように言った。
「同盟には、思想を輸出するという発想そのものが、そもそも存在しないのではないか。フェザーン商人に委託するなり、フェザーン商船に工作員を乗り込ませるなり。やろうと思えば、これまでにもいくらでもできたはずだ」
あの任務に基づく根拠は明かせない。だがこれで注意を促せる。
オーベルシュタインは、少し間を置いてから答えた。
「発想がない、という見立てには同意しかねます」
「根拠は」
「同盟は民主制国家です。工作員の潜入、思想の計画的な扇動。これらは、露見した場合の政治的代償が極めて大きい。閣下も御承知の通り、同盟の政策決定には常に世論という重石がかかります」
「たしかに」
「もし同盟政府が『自由な選択』を掲げながら、その裏で他国民を。しかも同盟の国是に基づくなら『専制支配から救出すべき人々』の思想を操作していたと露見すれば、それは建国理念そのものへの裏切りとして扱われ、政権そのものが即座に崩壊しかねません」
「つまり発想がないのではなく、実行に踏み切れないということか」
「その通りです。加えて、もう一点」
オーベルシュタインは続けた。
「先ほど申し上げた通り。思想が刺さりやすいのは、窮乏した星系です。しかしフェザーン商人が動くかどうかは利益率で決まります」
「ふむ」
「思想が最も刺さりやすい貧しい星系は、フェザーン商人にとっては最も儲からない相手です。購買力のない民に何を売れというのです」
ラインハルトは、わずかに眉を上げた。
「思想の空白と商機は重ならないというわけか」
「その通りです。フェザーン商人が関与するとすれば、それは採算が合う場合に限られます。今のところ、辺境の貧しい星系に思想を運ぶこと自体には、彼らにとっての商機がありません」
「では、同盟が工作を行わない理由に、もう一つ層が重なるわけか。政治的リスクを冒す動機に乏しく、かつ、それを代行させられる商業的パートナーにも旨みがない」
「御意。ですが」
オーベルシュタインは、抑揚のない声で付け加えた。
「これもまた、変わりうる条件です。辺境の窮乏がある水準を超えれば、逆に『窮乏星系にとっては高値、フェザーン商人にとっては格安値で仕入れて別星系へ転売する』余地が生まれます。貧困そのものが、いずれ商機に転じることもあり得ます」
「動機がない、ということに安住はできない、というわけだ」
「その通りです」
* *
ガイエスブルグ要塞、指揮所。
メインスクリーンには、出航してゆく艦列が映し出されていた。ブラウンシュヴァイク公爵、リッテンハイム侯爵。それぞれの「旗艦」を先頭に、9拠点のいずれかへ向かう部隊が、隊列を組んで離れていく。
ファーレンハイトはその光景を一瞥しただけで、視線をシュターデンとの間に置かれた分析卓へ戻した。
「参謀長。考え直すべきことがある」
「伺いましょう」
「これまでは、ローエングラム侯爵といかに戦うか。それだけを検討していた。だが今後は、その戦いをいつまで続けてよいか、そこも合わせて考え直す時期だ」
この会話が、指揮所に居並ぶ将校たちの何人かを通じて、いずれ大貴族の耳に届くであろうことは、ファーレンハイトも承知していた。
この場には、大貴族本人や大貴族の示す報酬に忠誠を持つ人間が、必ず紛れ込んでいる。だからこそ、隠す必要のない分析を、あえてここで行う。
「分析対象は一点だ」ファーレンハイトは続けた。
「同盟軍が、真に帝国を脅かす規模の行動を開始するまであと何ヶ月あるか」
シュターデンは、手元の資料に目を落とした。
「アムリッツァでの損耗補充。今回の動員による人員・物資の再消耗。この2つが重なった今、同盟の再始動には、以前の見積もりより時間がかかると考えるのが妥当でしょう」
「同意する。だが、正確な月数までは、まだ詰められていない」
「詰めるべきでしょうな」
「ああ。この数字が、我々に残された時間そのものだ。そしてもう一つ、詰めておきたい」
ファーレンハイトは続けた。
「防備兵力が消滅した帝国辺境に対し。同盟軍は小規模な兵力だけで、共和思想なる有害思想を、あるいは物資そのものを辺境の民に送り込める。そういう懸念だ」
「軍事的な脅威としては、その通りでしょう」シュターデンが応じた。
「守る側がいなくなった以上、同盟は大規模な艦隊を割く必要すらない」
「だが、それは同盟軍だけを見た分析だ」
ファーレンハイトは、資料を一枚めくった。
「同盟という国家そのものの、今の実情を見なければならない」
「と、おっしゃいますと」
「思想の伝播に大きな輸送力は要らない。僅かな小型艇。せいぜい駆逐艦の数隻。それで足りる。この点では貴官の指摘は正しい。今後も警戒すべきだ」
「では、物資の面は」
「無理だな」
ファーレンハイトは断言した。
「同盟が今、辺境の民に物資を継続的に送り込めるほどの輸送力の余裕を持っているとは思えない。もし持っているなら、とうにアムリッツァでの損耗補充も、艦隊の再編も、もっと早く済んでいたはずだ」
「根拠を伺いたい」
シュターデンが資料から顔も上げぬまま問いを発する。
「同盟の国内事情そのものだ。仮に今。同盟の民生輸送に余裕があるなら、こちらの辺境への物資供給どころか、自国内の再建をとうに終えているだろう。損耗補充にすら手間取っている国が、他国の民への継続的な物資供給などできるはずがない。軍需と民需では桁が違う」
シュターデンは、しばらく黙って考えていた。
「つまり。思想は安く運べるが、物は高くつく、ということですな」
「その通りだ。警戒すべき脅威は思想の方であって、物資の方ではない」
「その推測には、いくつか詰めが甘い点があります」
シュターデンが、依然として資料に視線を落としたまま言った。
「まず『損耗補充にすら手間取っている』という前提そのものが、我々の間接情報に基づく推測に過ぎません。一次情報ではありません」
「その通りだ。我々は挙兵後、帝国軍情報部から情報提供を受けていない」
「次に、仮にその推測が正しいと仮定しても。『民生輸送に余裕がない』ことと『辺境への物資供給ができない』ことは同義ではありません。同盟が優先順位を変え、国内の再建より対外工作を優先する可能性は、この分析からは排除できていません」
ファーレンハイトは、わずかに口の端を上げた。
「排除できない、というのは正しい。だが、可能性は無視していい」
「根拠を伺いたい」
「同盟という国家の性質だ。あの国の政策決定には、常に世論という重石がかかる。国内の再建を後回しにして、他国の民への支援を優先する。そんな政策判断を、今の同盟の有権者が支持するとは思えない」
「……なるほど」
シュターデンは、そこで初めて、資料から目を上げた。
「その論法は、承服いたしかねます」
「なぜだ」
「今の一言には、数値も記録も、何一つ根拠として示されておりません。『そう思えない』という、閣下の感覚のみです」
ファーレンハイトは、それには答えなかった。
この男は、いつもこうだ。
数字と記録の上では、寸分の隙もない。同盟の輸送力、補充の遅れ、情報の出所……。
一つ一つの検証は、ファーレンハイト自身が一から組み立て直しても、恐らくこれ以上のものは出せない。
分析経緯を読み飛ばして結論だけ読んでも構わないほどに信頼できる。
だが、その先。
「同盟の有権者がどう動くか」という、数字に現れない部分に足を踏み入れた途端、シュターデンの思考はぴたりと止まる。止まったことにすら気づかない。
彼の分析は教科書に載せたいくらいに見事だ。ヒューマンファクターが認識されていないことを除けば。
「参謀長の指摘は、正しい」
ファーレンハイトは、それだけ答えた。
「数値的な裏付けは、私が引き続き詰める。だが、この読みそのものは変えない」
シュターデンは、それ以上は追及しなかった。
ファーレンハイトにもこれ以上は、このヒューマンファクタ―以外の分析は全面的に信頼できる男に分析を依頼できない。
「ファーレンハイトが自身の値段を吊り上げる大前提」すなわち「帝国が少なくとも現状程度に強くあり続けうる期間」
これについては、ファーレンハイトには自身以外に頼るものがない。
「では作戦分析だ。まずローエングラム侯の帝国政府軍が到着するまで、残り日数は」
「7日です。偵察艦艇はその2日前から展開を開始」
即答かつ、断言。
低温準矮星とは、この天の川銀河に水素とヘリウムしかなかった時代に形成されて今に至る「同じ質量の恒星より明らかに低温」の恒星です。
このような惑星には、銀河を公転する間に捕獲したもの以外は固形惑星はありません。
低温準矮星がなす星系で水素とヘリウム以外の何かが新規に検知されれば、それは人が持ち込んだものだと即座に判明します。
ので、ガイエスブルグ要塞があるフレイヤはそのような星系だと設定しました。
これはイゼルローン要塞が巡っている恒星アルテナについて「惑星を持たない孤独な太陽」と原作に明記があることからの着想です。
回廊封鎖用、あるいは星域封鎖用要塞を築くのにこれほどの適地はないでしょう。
運よくその星系に鹵獲惑星がない限り「水素とヘリウム以外の何もかも他の星系から持ち込まないといけない」と言うコストがかかることだけが欠点です。
補足:A.C.クラークの「地球帝国」のように金を単なる錆びない便利な金属として安く生産できるほどの核融合技術があれば別です。
銀河英雄伝説世界の核融合技術はその水準にないと考えています。これは本作の設定でもあります。
原作に「元素生産用の融合炉はない」と明記はありません。
「鉱石が恒星間交易の対象である」と言う複数の描写から、仮に元素合成用の核融合炉があるとしても「採算ラインにない」ことは明白と解釈しています。