当時は感謝をお伝えする余裕もなかったことをお詫びします。
自由惑星同盟最高評議会議長執務室。
私(サンフォード)は執務机に次々に届く報告書を決済していた。
お飾りに過ぎないサンフォードの立場を反映して、届くものは本当にサイン待ちの段階に仕上がった報告書ばかりだ。
したがって決済といってもサインのみで、議長の裁定を求めるものはほとんど無い。
とは言うものの、興味を惹くものは多々含まれている。
ふと思う。
今の『私』は自由惑星同盟の最高権力者ではあるが、突然ベンチの監督席に放り込まれたスポーツファンのようなものだと。
結果としてトリューニヒトを唆してアムリッツァキャンペーンを阻止させてしまったが、あれも最高評議会議長としての責任感から行ったわけではない。
飲み物や菓子を片手に「ここは送りバントより強攻だ」とか「ディフェンスラインを上げる指示はもう少し待つべきだ」などと論評しているスポーツファンの方が、具体案があるだけ先日からの『私』よりもまだマシかもしれない。
まあそんなことはどうでも良い。
この世界の住人の一人として何事かを成すにも、この世界に放り込まれたファンの視点で楽しむにせよ、勉強する必要はある。
そして資料は次々に届く。
たとえば、今読んでいるのは情報交通委員会から上がってきた有事準備船制度の適用縮小に関する報告だ。
こんなものは原作(または正史、演義)のどこにも触れられていなかったはずだが、思い出してみると示唆する記述はあったような気もする。
シヴァからイゼルローンの間に広がる宙域に点在する星系にはテラフォーミングせずに地球原産の生物が住める惑星を持つものがいくつかある。
エル・ファシル星系の惑星エル・ファシルなどは広大な海を持ち、億単位の人口を養うことも可能と言われているが実際の人口は300万人でしかない。
同盟建国よりもさらに前、10000光年の長征の終わり近くにこの星系を見出した船団の首脳部はこの地に国家を築くことさえ一度は検討したがすぐに却下した。
なにしろイゼルローン回廊に、つまりは銀河帝国に近い場所にあるからだ。
ばグエン・キム・ホアが「距離の防壁」と言う言葉を初めて発したのはこの時だと言う説もある。
その後もこの地への入植は制限され、住むものは同盟軍基地要員の他には基地で働く軍属とその家族のみと言って良い状態が200年以上に渡って続いてきた。
宇宙暦8世紀末における自由惑星同盟の人口は130億人、エル・ファシルの人口は300万人。
それぞれを100で割り算してから考えてみると、『私』にとってなじみ深い国家に置き換えできる。
つまり21世紀の日本に置き換えて考えるなら、有事に戦場になる可能性が高く、自衛隊基地や米軍基地が最大の働き口になっているような人口3万人程度の地方自治体を思い浮かべれば良いのだろう。
有事に戦場となることを前提としているこれらの星系に軍属とその家族とは言え民間人を住まわせている以上、同盟政府には有事に彼らを脱出させるための手段を講じる義務がある。
たぶん21世紀の日本にも有事に際して3万人を緊急避難させる能力があっただろう。
あの時代の地球において並ぶものの少ない大国だったのだから。
さて、国境方面の辺境星系へ赴く商船は有事準備船制度により荷下ろしや客扱いを終えた後にある程度の期間にわたり出航を差し止められる。
その代わり、船会社は差し止め期間と船腹規模に比例した補償金を得られる。
これにより、たとえばエル・ファシルの場合は総人口300万人を収容可能な船腹が平均して惑星上にあるように調整がなされているのだ。
もちろん、補償金が出ているとは言えこれらの星系では輸送費が割高となり物価が高い。
8年前、この備えは実際に役立った。
原作ファンの『私』にとっては、サンフォードの記憶に頼らずに思い出せることだ。
ヤン・ウェンリーが望まない出世街道に飛び乗るきっかけとなった、「エル・ファシルの奇跡」である。
先日の閣議で、大規模出兵案の否決後に扱われたいくつかの議題のひとつとしてこの制度が俎上にのぼり、縮小されることになった。
地域社会開発委員長がそれを強く求めたのだ。
イゼルローン要塞が同盟の支配下にある以上、もはやエル・ファシル等の国境方面星系が安全を脅かされる可能性は低い。
入植の自由化と、有事準備船制度の適用解除をセットで実施して良いはずだと言う主張には閣僚の誰からも反対がされず、この制度の運用当事者である情報交通委員長が作業の実施を約束した。
その一方で情報交通委員長は有事準備船制度に用いてきた予算を各種航路の整備に充てることを主張し、財務委員長が形式的に反対したのちに同意した。
サインし、次の報告書をとりあげる。
国防委員会からのもので、制服組による戦略検討会議の結論をまとめたものだ。
表題と前文を読むと、銀英伝ファンが原作について議論するときに必ずと言ってよいほど出ていた話題のものだと判った。
同盟と帝国、フェザーンのいずれの視点で見ても議論の対象になっていた「アムリッツァで同盟軍が大損害を被ることが無かったら」を半ば実現しようとしている報告書だ。
楽しみにしていたはずだったが、いざ開いてみると全く心躍らない。
まず、最高評議会が大規模出兵を否定したことは、アムリッツァ相当の大出兵と大損害が無いことを保障しない。
来年初頭の統一選挙で大規模出兵を訴える会派が勝利すれば、その結果は史実のアムリッツァと同様になるだろう。
同盟軍は大損害を受ける。
帝国側の迎撃戦略がどんなものであれ、同盟側がどのように行動するのであれ、数的劣勢の同盟軍が敵地で勝てるわけがない。
そして、大規模出兵に反対した政治家がクローズアップされることになる。
史実ではトリューニヒトの他にはレベロとホワンだけだったが、『私』の干渉でいくらか変化したこの世界ではもっと多い。
それでもなお最も巧妙にそれをアピールしているのが彼であることには変わりはない。
あろうことか、それとも当然というべきか、トリューニヒトの子飼いであるはずの憂国騎士団(記憶にあるとおりの極右団体だ)が先日の閣議以降は盛んにトリューニヒトを非難して回っている。
その非難は反対票を投じたどの政治家に対するよりも、トリューニヒトに対して強い。
もっとも、閣議に出席していた私(サンフォード)から見ても憂国騎士団は嘘をついているわけではない。
トリューニヒトが議論をリードし大規模出兵案を否決に追い込んだことは全くの事実なのだ。
そして、もうひとつの疑問にも答えを得ることが出来た。
出兵案を否決に追い込んだことで、トリューニヒトを支持する軍需産業各社はさらにその支持を強めた。
これは考えてみると当然だったかもしれない。
どんな産業でも、受注はコンスタントにある方が嬉しいだろう。
質と量の両立した労働者を安く臨時雇いできるなら別かもしれないが、今の同盟ではそんなことは望めない。
しかし、アムリッツァ・キャンペーンの回避よりも重要な問題がある。
史実(演義?)において、同盟にとって真の致命傷となったのはアムリッツァの大損害ではない。
マクシミリアン・ヨーゼフ2世とコルネリアス1世を兼ねた危険人物が登場し、同盟が立ち直るよりも早く『ラグナロック』作戦に必要な準備を整えたことこそが致命的に働いたのだ。
もし史実においてアンスバッハがラインハルト殺害に成功していた場合、後を継ぐのがキルヒアイスであろうとロイエンタールであろうとも、ラグナロックの実施時期はもっと遅くなっていたはずだ。
その結果も史実とは違っていたことだろう。
報告書に目を落とす。
同盟に倍する人口を持ちながら、帝国の国力は同盟の20パーセント増しでしかない。
非常に労働生産性が低い国家であると指摘しており、この前提は今後も変わらないものと軍部と国防委員会は考えているようだ。
実際、今の段階ではそれ以外に予測しようがない。
帝国が社会階層のありとあらゆる箇所に抱える歪みとハンディキャップは、原作知識を持ち出すまでもない。
否、原作に触れただけの『私』の知っている事柄などよりもサンフォードの記憶と知識の方が多い。
たぶん。
今のところ、『私』は自分の記憶とサンフォードのそれを区別できているつもりだ。
さて、かのマクシミリアン・ヨーゼフ2世にさえ帝国が抱える問題を軽減することは出来ても、解消は出来なかった。
その後を継いだコルネリアス1世にさえ、帝国の軍事力全てを束ねて同盟に侵攻することと、彼の帝国の安寧の両立は出来なかった。
この2者を兼ねて倍数を乗じたような人物が近い将来に出現するなどと、誰が予想できるだろう。
その人物とは現時点において尚書でもなければ皇帝の外戚でもなく、軍部のナンバー4に過ぎない。
そう考えたとたんにサンフォードの記憶が呼び起こされた。
彼ローエングラム伯ラインハルトは20歳にして元帥、しかも誰もが認める艦隊戦闘の名手。
この若さですでに、幾度も同盟軍に痛撃を与えている。
そうだ、この時点の彼を最大限に高く評価してもそこまでだ。
広い視野を持つヤン・ウェンリー、この世界でもっとも広く情報を集めている立場のアドリアン・ルビンスキーでさえも、ラインハルトが軍人と言う立場を超えた野心を持ち、それを実現するだけの実力を持っていると認めたのは現時点よりもずっと後だ。
最初に言及したのはたしかヤンで、(史実の)アムリッツァの直後に思いつきのように呟いていたはずだ。
現時点では思いつきやカンによる意見まで探しても、そこまでなのだ。
いや、そもそも現時点でのラインハルト自身、あそこまでのハイペースで歴史を動かす構想を持っているだろうか?
史実においてキルヒアイスが死に際にあの一言を発することがなかった場合に、ラインハルトは新帝国の樹立を成し遂げたとたんに衰弱して過労死するほどのペースで働いただろうか。
考えが逸れていることに気づいて報告書に視線を戻す。
評議会からの指示に基づいて軍が作成した軍事戦略とは古典的なものだと書かれている。
こちらの消耗よりも敵方の消耗を増やすことに主眼が置かれている。
そんなに上手く行くのだろうかと素人目には不安ではあるが、ラインハルトと言う大問題に比べれば小さな問題に過ぎない。
史実においては「数年前まで帝国軍ナンバー4だった男が歴代のどの皇帝よりも危険な存在となって同盟を滅ぼしつつある」と言うことに同盟側が気づいたときにはすでに手遅れだったのだ。
そして、私が昔から抱いている疑問が浮かび上がる。
トリューニヒトはどの時点でラインハルトの危険性と、同盟の将来が無いことに気づき、自らの方針を転換したのか。
史実(あるいは『私』の知る原作)において、アムリッツァ・キャンペーン後の同盟軍は可動3個艦隊にまで弱体化した。
しかしその時点でもトリューニヒトは「帝国を打倒した史上最高の議長」となる野心を持っていた。
そして記憶によると史実のその時点--今年、宇宙暦796年の末くらい--では、ラインハルトがマクシミリアン・ヨーゼフ2世以上の大改革を成し遂げることを予見させる要素はなかったはずだ。
しばらく考えた私(サンフォード)は小さく首を振った。
今や、原作(正史なのか演義なのか知らない)の1巻「黎明編」を読み返す機会など望めない。
考えるだけ無駄だ。
報告書に承認サインを入れると次の報告書を取り上げた。
今度は人的資源委員会からのものだった。
冒頭の要約だけを読んでとりあえず机に置き、その次にあった財政委員会からの報告書を手に取る。
ついで地域社会建設委員会からの報告書を開き、やはり要約だけ読んでから経済開発委員会からの報告書に手を伸ばす。
原作読者としての『私』が持つ未来知識など、たいしたものではないと判った。
4つの報告書はどれも、現在の自由惑星同盟が抱えている問題に関するものだ。この分だと、他の委員会からの報告書も同じ問題を扱っているのかもしれない。
根本原因はどれも同じ。
銀河帝国の存在そのものだ。
先日の最高評議会でホワン・ルイ人的資源委員長が説明したように、現在の同盟は中堅労働人口を欠いている。
そのために社会全体で消費財とサービスの供給が不足している。
同時に、毎年大きな額の現金が市場に供給され続けている。
主に遺族年金として。
この2つの要素によって、市場全体に供給される消費財とサービスに比して現金供給が大きい。
しかし深刻なインフレは抑止されている。
ひとつには財政委員会の努力が一応は成功しているとも言える。古典的な、非常に不人気な方法によって。
つまり高率の付加価値税(間接税)と多額の国債という形で市場から現金を回収し、軍事費に充ててきた。
半強制的に現金を軍事部門へ動かしているとも言える。
長く続く戦争に負けないために、そうせざるを得なかった。
さて、財政委員会の努力ともうひとつの要因によってインフレが抑止されている。
つまり--『私』が持つ1500年以上も昔の知識によれば--企業側から見ると労働者の新規採用には消極的になるはずの状況にあるのだが、それでも自由惑星同盟の失業率は極めて低い。
未成年や高齢者も雇用しないと人手が足りないほどの、深刻な労働人口不足にあるためだ。
そして、限られた労働人口はバーラトを始めとする中央諸星系へ流入し、集中を強めている。
地域社会のインフラ整備や経済成長は遅々として進まず、それどころか人口が減少に転じている星系さえ存在している。
どれもこれも、戦争に負けつつある国家で生じる事例の集大成だ。
その全ては戦争そのものに、つまりは銀河帝国の存在そのものに原因がある。
大きな渦巻きである銀河の、渦の間にある空隙を川なり海なりに例えよう。
銀河帝国の版図たるオリオン局所枝と、自由惑星同盟の版図が広がるサジタリウス渦状腕の間に広がる、恒星が極めて少ない暗黒の領域たる渦状腕空隙を川なり海に例えて考える。
この時代のある経済学者の言葉を借りるなら、自由惑星同盟は「巨大な限界集落」なのだ。
現に自由惑星同盟は働き手の多くを岸辺の防御兵力と防御資材の生産に充てないとならない。
しかもそのために共同体の維持に支障を来たしているのだ。
「人口130億人の限界集落」と言う奇妙な表現が事実を示している。
再度、机上に並べた報告書を眺めてみる。
人的資源委員会の報告書は戦死者抑制による労働人口の回復ペースを分析する作業に関するものだ。
今のところ、専門家の間でも意見が別れているとある。
高い方の予測はいささか信じがたい数字で、低い方の予測値および中間的な値に注意を向けてみたがこれらもかなり高く思える。
考えてみれば、この国は自由惑星同盟なのだ。
わずか16万人で発足してから113年後には、250万人の兵力を辺境に繰り出すことが出来た国なのだ。
人口の増大に関して、古代人である『私』の感覚は通じないのだろう。
ただし、20年で人口を2割増大できると言う中間予測値の扱いには注意を要する。
「1年後には労働人口が2パーセント増える」ことを意味しない。
100人の新生児は1年後には、ほぼ確実に100人の1歳児になる。
自由惑星同盟における医療水準はそう考えて良いレベルにある。
しかし20歳の若者5人と95人の新生児になるわけではない。
今から数年内に気鋭の若者として社会の戦列に加わることを見込める人口は、今現在において存在しているハイティーンの少年少女人口、それに大学生やそれに相当する人口でしかないのだ。
そして、いかに医療水準が高いとは言え人間が働ける年齢には限度がある。
ハイティーンの少年少女が気鋭の若者として社会に加わる一方、高齢者は引退してゆく。
せっかく専門家集団がまとめてくれた資料だというのに、なんとも初歩的な読み方しか出来ないことに私はやや苛立ちを覚えた。
まさにベンチに放り込まれたばかりのファンだ。
地域社会建設委員会の報告書は、人口の回復だけでは問題を解決できないと強調している。
これも、根本原因は銀河帝国にある。
かつて、銀河帝国との間で貿易が無かった時代にはこの問題は軽いものだった。
要約すれば、フェザーン回廊を通じて帝国から「貧乏」が輸入されている限り問題が解決しないと言うものだ。
銀河帝国との交易が無かった時代の自由惑星同盟においては、地域社会の各種インフラ建設や企業誘致は今よりもずっとハイペースで行えた。
開拓が始まったばかりでほとんど人口が無く、税収も乏しい辺境星系が多額の投資を行えたのだ。
小型の居住ユニットが小さな鉱山の傍にあるだけの辺境惑星の、星系自治政府を名乗るのもどうかと思うような役所が乏しい税収をこつこつと貯蓄して、十分に給ってから各種機材を購入し移民を募り企業誘致を開始した……わけではない。
その時代、同盟の中央諸星系が必要とする各種の1次資源は主に辺境星系から購入されていた。
ハイネセンやテルヌーゼンといった、入植開始からの歴史が長く経済的に発展している中央諸星系での資源需要は常に大きかった。
また、同盟政府もそのように誘導する政策を採っていた。
たとえば中央諸星系では鉱山よりも工場で働く方がより多くの賃金を得られるように。
また同時に、中央諸星系の企業にとっては星系内の鉱山から1次資源を買うよりも、辺境星系から買う方が安くなるように。
この状況では中央諸星系の景気さえ拡大基調に保たれていれば、辺境星系から出荷される資源は飛ぶように売れてゆく。
そして辺境星系の自治政府が発行する惑星債が償還期限を迎えるころには、その星系には惑星債の利回りを支払う能力が確実に備わっている。
なんとも楽観的な話だが、実際にほとんどの星系ではそうなった。
そうならなかった星系では違うことが起きた。しかしそれは別の資料を後日読むことにする。
数年前までの無人惑星の荒野に都市が拓かれ設備の整った港が設けられ、企業が進出し、郊外ではテラフォーミングシステムのエンドユニットが稼動を開始し荒野を緑野へ森林へと作り変え、工場が操業を開始する。
もちろんそうなれば税収も飛躍的に増える。
小さな鉱山の傍に居住ユニットがいくつか並んでいただけの惑星が、ほんの数世代のうちに工業惑星となる奇跡が数百も続けて起きた。
そして新興の工業惑星は資源を買う側に移り、新興工業惑星に数倍する数の鉱山惑星が拓かれる。
史書はこの時代を銀河連邦の黄金期の再現だと言う。
しかし実際のところ、銀河連邦の黄金期さえ越えている。
この時代の自由惑星同盟は100年そこらで人口を1万倍に増やし、支配下領域を数十万倍に拡大する、人類史に類例の無い怪物的な国家だったのだ。
しかしそれは唐突に終わりを迎えた。
フェザーン経由で銀河帝国の安価な産品が流入してくるようになったことで。
なにしろあちらは奴隷労働なのだ。
技術集約的な高度な製品ならともかく、1次資源における価格競争で勝てる相手ではない。
そして同盟政府には、フェザーン回廊を封鎖する能力はない。
同盟のいたるところで辺境の鉱山惑星は産物の値下げを余儀なくされた。
さて、この状況で誰がそれら辺境の星系自治政府が発行した惑星債を買うだろう?
惑星債が売れない星系、すなわち宇宙港や航路支援設備の建設整備が滞ることが確定した星系にどんな企業が進出するだろう?
無人だった星系が入植開始からわずか数世代のうちに工業星系となり数千万の人口を擁し、自由惑星同盟を支える確固たる柱のひとつとなる。
そんな奇跡は起きなくなった。
サジタリウス渦状腕において最初に人類が住み始めたバーラト星系から、その周辺へと経済圏が広がってゆく過程はここで停止した。
いまや辺境惑星と言えば、入植開始から百年以上が過ぎていながらオアシスが点在するだけの惑星や、地球型の生態系を形成することに成功していながら数万人しか住んでいないような惑星ばかりだ。
史実において、あるいは原作においてひとつの悲劇の舞台となったガンダルヴァ星系の惑星ウルヴァシーなどは典型的な事例だ。
もちろん同盟政府も、入植開始から歴史の長い、経済力がある星系もこれを放置はしなかった。
対策はしてきたが、それは悪化を防ぐ範囲に留まっている。
最悪の事態は避けられた。
すなわち「同盟のあらゆる工場で消費される1次資源がすべて帝国産、同盟人が体を包む衣類もどれも帝国製、私(サンフォード)が肘をついているデスクの木材も帝国からの輸入品」と言う事態にはなっていない。
フェザーン回廊が開かれてからというもの、同盟政府は国内産業の保護政策を続けてきたのだ。
別の言い方をすれば、先に工業化に成功した惑星の税収で地域社会を支える体制へと切り替わった。
フェザーン経由で輸入される帝国の産品に関税を掛けることは何度も試みられたが、もちろん取りこぼし、見逃しの方が多い。
フェザーン回廊の封鎖さえ出来ない同盟政府に、広大な同盟領に広がる航路の全てを見張る能力などありはしない。
農業や鉱業を基幹産業としている辺境星系を支えることは、ハイネセンやテルヌーゼンのような、巨大な経済力と人口を持つ星系にとってはさほど大きな負担ではない。
しかし、工業化に成功してから歴史が浅い星系(たとえばカッファー、ネプティスなどだ)にとっては巨大な負担を課せられることでもあった。
こうして地域社会の建設は停滞あるいは衰退に入り、同時に自由惑星同盟全体に深刻な地域対立が生じることになった。
労働人口を回復するだけではこの問題は解決しない。
現在の同盟には失業者がほぼ存在しないが、もし経済成長を再開できないまま人口が増大した場合には失業問題が生じることになりかねない。
では経済成長を再開するにはどうすれば良いのか?
フェザーン回廊を通じて同盟経済は帝国経済と--最悪の形で--繋がっている。
帝国の奴隷や平民の所得レベルと言うキャップあるいは足枷を掛けられている。
これが自由惑星同盟のインフレが抑止されている、もうひとつの理由でもある。
そして経済成長が抑止されている理由のひとつでもある。
自由惑星同盟はイゼルローン回廊経由の戦争によって労働力を失う一方、フェザーン経由での安値物品流入によって地域の経済成長を抑止されているのだ。
もちろん労働力の余裕が本当に無いのだからリフレーションなど論外だ。
デスクの上に並べた報告書をぼんやりと眺めつつ、『私』は改めて思った。
ベンチに放り込まれたばかりの素人に何が出来るのか。
他の当事者に対して有利な要素などあるのだろうか?
どれも私(サンフォード)にとって難問ばかりで、放り込まれた状況を気楽に楽しむには程遠い。
4通の報告書を荒っぽくまとめるなら、現在の自由惑星同盟は巨大な限界集落、なんとか人手を増やすアテくらいはついた程度の状況にある。
イゼルローンがこちらの手にある限りは、死亡率を引き下げ、出生率を上げることは出来そうだ。
その効果が生じるまでのタイムラグをどう乗り切るかによっては、戦争に拠らずして破滅することもありうる。
そう考えてみると、ひとつだけはっきりした。
この立場を引き続き楽しむ、あるいは苦しむべきかどうかは判らない。
もし続けるのであれば次の統一選挙と議長選に出馬することになるが、その公約は私(サンフォード)の自由にはならないということだ。
サンフォードの支持基盤というものがもしあるとするなら、それは閣僚たちとその背後にある各専門委員会に他ならない。
その一方、数年後に生じるはずのラインハルト・フォン・ローエングラムと言う脅威にどう備えれば良いのかはさっぱり判らない。
銀河英雄伝説のアニメシリーズが製作された時期にはオリオンは銀河の中心から渦を巻いて伸びる渦状腕だとされていましたが、最近では渦状腕の途中から伸びる局所的な枝だとする説が主流なようです。
ストーリーには関係ない話ですが、本作ではオリオン局所枝(帝国領)、サジタリウス渦状腕(同盟領)と言う表記を使います。
また作中の自由惑星同盟は現代日本とは別の国であり、人手不足の事情も違います。