宇宙暦796年標準暦9月末のことである。
自由惑星同盟の辺境に位置するある惑星の地表で、1人の若者が帰宅しようとしていた。
彼は、今日は定時に仕事を終えた。
これによって「週に一度は定時で終業」と言う勤務記録が連続5週間目に入った。
彼が兵役から戻り故郷で塩採掘プラント整備の仕事に就いてから初めてのことである。
業務量が減っているわけではない。
自由惑星同盟のあらゆる工業や農業が停滞して塩の需要が減ったというわけでもない。
むしろ増えている。
この時代にあってもあらゆる機械装置には定期保全と部品交換が欠かせないし、それを守っていてさえも寿命と言うものがある。
だからこそ彼の仕事があるのだが、しばらく前までは各種設備の機械類のメーカーや代理店に部品を発注しても予定どおりに入荷しないことが当たり前だった。
耐用年数が過ぎた部品を多数抱えた機械を塩の平原で動かし続けることこそが彼の仕事だった。
故障した採掘装置の部品がひとつ届かないばかりにその装置の稼動再開を先送りし、他の装置の定期整備をどれだけ先延べできるかを検討する毎日だった。
間に合わせの修理で稼動再開させた機械の稼動状態を徹夜でモニターし、採掘現場のタンクベッドで仮眠することもしばしばだった。
しかし、このところはそういったスケジュールの狂いに起因する過負荷、いわば「利益なき繁忙」は減ってきている。
彼が直接関わる部門だけでなく、この惑星全体でもそうらしい。
真夜中に貨物シャトルが轟音と共に離陸してゆく頻度が減り、しかも日中に一定間隔で離着陸する便数は増えている。
ひょっとすると、そのうちに「計画どおりの仕事」と言う夢が実現するかもしれない。
彼は塩を押し固めた道を疲れた足取りで歩みつつ、彼の愛する故郷、この不幸な惑星ペナルティメイトについてぼんやりと考えた。
自由惑星同盟がその領土としているサジタリウス渦状腕には多数の恒星があり、それに数倍する惑星がある。
数億の惑星の中には可住惑星、生身の人間がその地表で生活することが一応可能な惑星がそれなりの確率で含まれている。
つまりは適切な軌道を巡り適切な陽射しを受け、かつ地質もサイズも自転周期も、自転軸の傾斜角も適切な惑星だ。
要約すれば「古代地球に似た惑星」ということだが、その数はいま現在経済的に航行できる範囲だけでも4万を越える。
しかし可住惑星の大半はこの惑星ペナルティメイトのように、海を持たない乾燥惑星だ。
地球の砂漠に似ていると言っても良い。
それら乾燥惑星は地表の大半が砂漠で、湖が点在している。
両極付近に小さな湖がいくつかあるだけと言う完全乾燥直前の惑星もあれば、極圏だけを見るとハイネセンやテルヌーゼンの極圏と見分けが難しい惑星もある。
ともあれ、海を持たない可住惑星は2種類に分かれる。
かつて海を持っていたことのある惑星と、そうでない惑星だ。
惑星ペナルティメイトは前者のひとつだ。
それどころかほんの1億年ほど前までは「数十億年に渡り海を維持できる幸運な惑星」のひとつだった。
つまり惑星ハイネセンやテルヌーゼン、エル・ファシルなどと同じグループにあった。
しかし今では乾燥惑星となってしまっている。
ほとんどの「海を持ったことのある乾燥惑星」は水がマントル層に浸み込み尽くしたことでそうなっているのだが、ペナルティメイトはそれとは違う。
今でも地表に20億立方kmの水が存在している。
これは、量だけ見れば惑星ハイネセンの海水よりも多い。
それだけの水が両極に、ほぼ全てが氷として存在している。
極地の氷床を取り巻くように湖が存在しているが、それらの湛える冷たい水の量は氷床の莫大な体積に比べると誤差みたいなものだ。
かつて惑星ペナルティメイトに海があった時代に比して、この星系の太陽がその核融合出力を下げたわけでもない。
惑星の軌道が変わったわけでもない。
惑星それ自身に不幸な偶然が起きただけだ。
海を持つ惑星のほとんどがそうであるように、この惑星にもかつてはプレートテクトニクスが作用していた。
つまりプレートが動き、大陸は時にまとまり時に分裂することを繰り返しながら惑星上を移動していた。
そして、約1億年前。惑星表面の3割ほどを占めていた大陸は二つの超大陸にまとまり、それぞれ北極と南極に向かって移動を始めた。
どちらか片方の大陸だけでも低緯度域に留まっていてくれたなら、惑星ペナルティメイトは今でも海を維持していただろう。
さて、海を持つ惑星においては低緯度域の暖かい海から立ち上る水蒸気は大気中を旅して、そのうちいくらかは極圏に雪として降り注ぐ。
もしそこに陸地があれば、降り積もる雪の分だけ海面が下がってゆく。
それはつまるところ、プールから水を取り出しては凍らせ、プールサイドに積み上げる作業の人為に拠らない拡大版に過ぎない。
極圏のどちらか片方だけでも大陸によって占められず、赤道と極地を結ぶ海が残っていたなら。
生成した氷の全量がプールサイドに積み上げられるのではなくせめて4割くらいでもプールに投げ込まれ続けていたなら、この惑星を悲劇が襲うことは無かったはずだ。
しかし、その悲劇は起きた。
最初のうちは極圏に大陸の一部が掛かる程度で、生成される氷の大半は海と言う大きなプールに投げ込まれていた。
雪の大半は海へ降り注いでいた。
しかし、両大陸は極への移動を続けた。
プールサイドに積み上げられる氷の割合は増える一方で、そうしてこの惑星の海は干上がっていった。
それでもなお、現在の悲惨な姿を免れる可能性はあった。
大陸のどちらか片方だけでも極圏から脱してくれれば、積み上げられた氷は再び海へと戻れたはずだった。
しかし海を失った惑星のほぼ全てで確認されているとおり、海が干上がる過程はプレートテクトニクスが不活性化し大陸移動が減速してゆく過程でもある。
そしてプレートテクトニクスにおける時間単位はわずか1千万年程度でしかない。
天文学の世界においては、かなり小さな時間単位だ。
人間にとってはとてつもなく長い時間であり、いかなる天文学者もプレートテクトニクスの1単位時間にわたって特定の惑星を観測しつづけたことなどない。そしてその必要もない。天文学においては観測対象が文字通り星の数だけある。
「約1億年前のこの惑星と同じ」「8000万年前のこの惑星と同じ」と言う惑星の例を示すことは天文学者にとっては容易なことで、であるからこの惑星に生まれ育った誰も「この惑星の過去」を疑おうとはしない。
疑っても意味はない。疑ってもこの惑星の現状は変わらない。
最後に残された海が乾ききり、旧海底平原が塩の平原となってから2千万年ほど経たある年ある日、大陸移動は完全に停止した。
両大陸の中心部が極点とほぼ一致する、現在の位置で。
両極の氷床を取り巻く湖沼群は、かつての海の残骸ではない。
それらの湖沼はいずれも旧大陸の上に位置しており、一度として海の一部であったことはない。
最後に残された唯一の幸運、あるいは不運はプレート停止に伴う火山活動や地殻変動が比較的集中して生じたことだろうか。
おかげで、旧海底でもっとも深い海域だった場所、最後まで海が残った地域は無事だった。
その地域には今でも広大かつ分厚い塩の平原が残されている。
それゆえに惑星ペナルティメイトは自由惑星同盟最大の塩の供給地となっている。
塩。
工業原料としても食品や家畜飼料としても不可欠なこの鉱物資源ばかりは、過去に海を持ったことがある惑星や、現に海を持っている惑星でしか手に入らない。
そして、単に地面を掘って輸送機械に載せるだけと言うもっとも安上がりな方法で採掘できる場所は少ない。
ペナルティメイトはその少数例においてもっとも目立つ存在だ。
自由惑星同盟においてもっとも安くつまりはもっとも有利な「人手あたりの出荷量」を見込める塩の供給源は、ペナルティメイトの旧海底平原なのだ。
とは言うものの、ペナルティメイト自治政府の税収が豊かと言うわけではない。
塩を安く採掘して出荷することは出来ても、高値で売ることは出来ない。
塩というものは人間や家畜の生存に不可欠であるがために無理な高値を設定できない物資だ。
古代地球の諸国家では価格を公定していたと言う説さえある。
もしそうでなくても、彼を含む惑星ペナルティメイトの塩採掘業者は高値で塩を売ることが許されない。
ハイネセンやテルヌーゼンを筆頭として、塩を大量に購入してくれる惑星すなわち大人口を抱える中央諸星系の惑星はどれも広大な海を擁する惑星ばかりだ。
ペナルティメイトの業者が過度の高値を設定すれば、中央諸星系は塩を自給する体制に切り替えてしまうだろう。
そんなわけで、この惑星が自由惑星同盟の塩需要の9割を担うようになってから200年以上も過ぎているのというのに、売り上げは塩の採掘と出荷に関わるハードウェアを維持し、従事者およびその家族の生活環境を維持するに足る程度でしかない。
もちろん自治政府の税収も貧弱で、工業惑星化やテラフォーミングなど夢のまた夢。
そもそも自由惑星同盟ではこのような、プレートテクトニクスの停止から長い年月が過ぎた惑星でテラフォーミングを実施した事例そのものがない。
かつて銀河連邦の最盛期にはその事例がいくつかあったらしいが、今の同盟にとっては失われた技術だ。
もしかしたら、その技術は人類社会のどこにも残っていないかもしれない。
それに……彼は自宅の玄関前で足を止め、思った。
銀河連邦の最盛期にあったとされる事例でさえ、ペナルティメイトほどの悪条件が揃っていたものがあっただろうか?
現代の人類が扱いうるエネルギーを持ってすれば、両極の氷床を溶かすこと自体はたやすい。
ペナルティメイト自治政府の予算でも実施可能だ。
持続性融合弾を同盟軍から払い下げてもらい、両極に設置し起動するだけで良い。
全ての氷を溶かすに至るよりずっと早く、大気中に水蒸気が増大するだけで温室効果がこの星系の太陽から大きなエネルギーを捕らえ、融合弾の熱出力以上の働きをしてくれる。
そしてそれは、この惑星における最大の産業を消滅させることを意味する。
彼が生まれ育ったこの街が水没するよりも早く、全ての採掘プラントが今まで無縁だった「塩による腐食」によって稼動停止することだろう。
現在のところ塩の採掘地で稼動している機械類には、なんら腐食防止を施していない。
旧海底平原を覆う、湿度ほぼゼロの大気中では地表にどれだけ大量の塩があろうと、むき出しの鉄板さえも事実上は錆びない。
クロムどころか亜鉛さえ添加していない、スズめっきさえしていないもっとも安価な鋼材を多用して作り上げられているが現状では腐食と無縁だ。
より厳密に言えばそれらは全て表面が均一に錆びている。ごく薄い、顕微鏡でしか見えない薄い錆の皮膜によって表面が保護されている。
しかし大気中に水蒸気が加わったとき、すなわち塩素イオンが移動の自由を得たときにはこの前提が崩れる。
水蒸気と言う援軍を得た塩素イオンと酸素の連合軍は錆皮膜を破壊し鋼を食い荒らす。
極地で融合弾が稼動し、温室効果が有意に大気温度を上げるほど湿度が上がったとき、最初のあるいは数千万年ぶりの雨が旧海底平原に降るよりも早く、彼とその同僚はあらゆる設備と機材の腐食防止に追われることになる。
いや、それさえ無いかもしれない。
ペナルティメイトにテラフォーミングが施工されると決定した時点で中央諸星系は塩の調達先を切り替え始めるだろうから、彼と彼の同僚たちはその時点で失業するかもしれない。
そしてテラフォーミングの結果として出来上がる「海を持つ惑星」の姿は……「植物が生育できるような温暖な陸地がない」惑星だ。
そうならないように適量の氷だけを溶かす技術、温室効果を制御し低緯度域に安定した陸地が残る程度だけ氷を溶かす技術は現代には伝わっていない。
現代のテラフォーミング技術で改造を施した後のペナルティメイトは「日当たりが良い範囲は全て海」と言う惑星になってしまう。
両極にしか陸地の無い惑星、農業や居住の適地と言える場所が極めて限られた惑星だ。
そして海の復活によりプレートテクトニクスが再起動し、頻繁に大地震に見舞われる惑星になってしまうことも約束されている。
玄関に入り、ドアを閉めると彼は数秒間だけ足を止め、着衣のままエアシャワーを浴びスキャンを受けた。
誰も出迎えるものは無いが、ホームコンピューターが屋内を快適な湿度と温度に保ってくれている。
彼にとって、家族を持つと言う贅沢はまだ数年先まで望めない。
その代わりにホームコンピューターが彼の体に対するスキャンと診察の結果を表示した。
前日よりも、前週よりも少しだけ過労や塩粉塵による内臓疾患が緩和されていると言う結果に彼は満足し、居室へと足を進めた。
このところ、彼の健康状態は少しずつ改善されている。
たぶんこの街で暮らす全ての人々が同様だろう。
ふと、その中の1人の姿が思い浮かぶ。
もし。
もしも今のペースで仕事と体調の両方が改善されて行くのなら、それが続くのならば、ひょっとしたら彼は来年にも家族を持つことができるかもしれない。
居室に腰を落ち着け、彼は考え事を再開した。
明日の仕事に直接関係の無いことを考えると言う贅沢は、楽しめるときに楽しむべきだ。
人類が地球を離れてから千年以上を経てはいても、なお地球の呪縛は続いている。
千年以上に渡る遺伝子工学の成果を持ってしても、一年で最も暖かい月の平均気温が摂氏10度に届かない場所では地球原産の樹木は生育しない。
そういえば「摂氏」も地球の呪縛のひとつだ。
そしてテラフォーミング後のペナルティメイトはまさにそのような陸地しか持たない惑星になる。
北極大陸と南極大陸以外に陸地が無い惑星だ。
そしてもうひとつの地球の呪縛がテラフォーミング後のペナルティメイトを支配する。
陸上に植物群落が繁茂し、有機物を安定して海に供給する場合のみ、海は豊かな恵みを人類に与える。
これも、人類が地球を旅立ってから千年以上続けてきた努力によっても超えられない呪縛だ。
そしてテラフォーミング後のペナルティメイトの陸地には植物群落が望めない。
これによりテラフォーミング後のペナルティメイトは「広大な海を持ちながら、新たな主産業として漁業を営むことは出来ない」ことが約束されている。
氷を剥がした後の極地によほど高価値の鉱脈でも見つからない限り、テラフォーミング後のペナルティメイトは今よりも貧しい惑星になってしまう。
今、この惑星に存在するほぼ唯一のレジャーだけがテラフォーミング後のペナルティメイトに残される産業となるだろう。
両極の寒冷な湖には地球原産の魚類が各種の水中動植物や微生物と共に細々と息づいている。
テラフォーミング後のペナルティメイトに見込める産業は、今のところそれくらいしかない。
広大な海を持っていながら、両大陸に点在する湖の貧相なバイオマスしか収入のアテが無い惑星、それがテラフォーミング後のペナルティメイトだ。
もちろんそれらの湖は中央諸星系にとってあまり魅力的な存在とは言えない。
なにしろ中央諸星系は海を持つ惑星を擁するものばかりだ。
人類が到達する前から海を持っている惑星もあれば、干からびる直前の海を復活させた惑星もあり、新規に海を作った惑星もあって多彩だが、共通している事実がある。
中央諸星系が擁する惑星の海はどれも豊かだと言う事実だ。
たとえばハイネセン市民が休日にフィッシングを楽しもうとするなら、宇宙船のチケットを買う必要はない。
惑星ハイネセンの海へ出かければ、ペナルティメイトの湖では望めないような大物も狙える。
食味も多彩だ。
何しろ、ペナルティメイトの寒冷な湖に住んでいる魚類と言えばトラウトやワカサギの類ばかりなのだ。
どれも美味だと評されてはいるが、それだけを目的として長期休暇を費やすものはまずあるまい。
テラフォーミング後の収入源として見込めるのは、今と同じくタナトス星域の諸惑星市民が週末に訪れる程度だろう。
ペナルティメイトはタナトス星域において唯一、海を持ったことがある惑星だ。
その地位だけは何があっても揺るがない。
最後に、この惑星それ自体の呪縛がある。
海を復活させ、プレートテクトニクス再起動に伴う大地震の繰り返しに耐え、あるいは適切な土木工事を慎重に辛抱強く続けて無数の小地震として緩和し続けても、その後数千万年は両大陸は極圏にあり続ける。
つまり極地に氷を積み上げる作用も復活し、数千万年に渡って続く。
これに打ち勝つレベルの温室効果あるいは直接の熱供給を維持しつづける必要がある……数千万年に渡って。
それにはいくらか無理があるから、海からどちらかの極地まで十分な断面積の水路を繋げる必要があるとされる。
これに伴って排出される大量の土砂を用いれば、暮らしやすい緯度帯で埋め立て工事を実施して大きな陸地を作れるとは言う。
それに必要な土木工事の必要リソースの見積もりさえ存在している。彼が産まれるよりずっと前に見積もられたものだ。
ペナルティメイト自治政府の予算では用意できない数字がそこには並んでいる。
もし実施するとしたら数百年規模の長期事業として超長期の惑星債を発行するしか無さそうだが、そんな金融商品が売れると考えた星系首相はこれまで1人もいない。
これらの困難が共有認識となっているからこそ、この惑星は「ペナルティメイト」=最後から二番目だと呼ばれるのだ。
彼は瞼が重くなってきたことに気付き、ソファから立ち上がった。
夕食はすでに自動キッチンに用意されている。
食べ終えたら入浴して、寝てしまおう。
明日も朝からプラント整備だ。今夜は貨物シャトルが飛ばないと聞いているから、夜中に轟音が響くこともなく熟睡できるだろう。
惑星ペナルティメイトは原作にもOVAにも出てこない、本作品のストーリー上の都合で創作した惑星です。
北緯55度線と言うのは地球上の身近な場所で言うと、樺太島の南北分割線がそれです。
北樺太が農業の適地とは言い難いことは皆さんご存知と思います。