朝が来た。
昨日までとはまるで違う朝。
部屋の中はまるで甘ったるい匂いがそこかしこに残っていて。
それでも少しも不快ではない。
なぜなら、ついにずっと探していたものを見つけたからだった。
#10
しっかりとランカが意識を取り戻したのは、熱に意識を奪われてから一日と少し経ってからだった。
大分聞き慣れてきた朝の喧騒がランカの耳を打った。
立派な日本庭園を持つアルトの家では、毎朝鳥たちがランカを起こしてから人が動き出す。
「ん……」
今日はいつもよりずっと日が高いのに、とても静かだった。
その違和感に、幸せにまどろんでいた意識が浮上する。
すごく柔らかくて、安心できる何かがランカをぎゅっと包み込んでくれたいる。
緩やかに頬を寄せつつ、伝わってくる体温を感じた。
「……ん?」
大きく息を吸い込めば大好きな匂いがランカの鼻腔いっぱいに広がる。
これは、間違えるわけもないシェリルの匂いだ。
朝から彼女のことを感じられるなんて幸せ、とランカは夢心地のまま瞳を開いて。
そのまま、一瞬、停止した。
「シェリル、さん」
かすれた声がこぼれ落ちた。
ランカの布団にかろうじて収まっているのは銀河の歌姫その人である。
まるで、子供のような幼い顔で、ランカを腕に包み込んでぐっすり眠っている。
美しい人は寝顔まで美しい。
ランカは画面越しでも見たことが事がないくらい近くにある彼女の顔をしばらく呆けたように見つめてしまった。
きめ細やかな肌に、すっと通った鼻筋。
今は隠されている瞼の向こう側にはまるで空のような深い青が隠されている。
それを祝福するようにピンクブロンドの髪が顔を囲み、ランカの緑の髪との色の違いをはっきりとさせた。
「なん……っ!」
見とれていたランカの脳裏に昨日の記憶がよみがえる。
ボヒュンと音がしそうな勢いで自分の顔に熱が上がっていくのをランカは感じた。
昨日、ランカはヒートを迎えた。
それからはずっと夢の中を歩いているような心地だったが、シェリルが現れてからのことは覚えている。
ヒート状態に入ったΩは記憶が薄いと言われる。だからこそ、襲った誘ったの争いになる。
しかし、ランカは思いの外はっきりとシェリルとのことを覚えていた。
それが運命の番だからなのかは神のみぞ知ることだった。
「シェリルさん」
まだ、声を出すには辛い。
意識をしてみれば全身のあちこちに感じたことがない倦怠感があった。
何よりランカは覚えている。
シェリルが自分のうなじを噛んだことを。
そして、それがセカンドバースとずっと戦っていたシェリルにとってどういう意味を持っているかを考えてしまった。
「ランカちゃんは、朝から忙しいのね」
腕の中に包み込まれるような距離は変わらない。
目の前で先程まで隠れていたサファイアの瞳が輝きだして、ランカは顔に熱がこもる。
昨日はこの青がひどく熱に浮かされて自分を見ていたのを知っている。
今優しく抱きとめてくれた腕が、どれだけ力強く動いたかも知っている。
その上で優しかったのだから、ランカとしてはたまらない。
――歌うことを最上としているランカでさえ、ずっと夜のまま留まってしまいたかった。
そう、思えてしまうくらいの幸福感が番になった後の交わりにはあった。
「お、おはよう……ござい、ます」
「ええ、おはよう。思ったより元気そうで安心したわ」
甘く響く声が麗しい。
自分の耳元で響く声に酔いしれてしまいそうだった。
昨夜の近さを覚えているのに、覚えているからこそ、ランカは目の前で輝く星にクラクラとした。
星の輝きは遠くで見ていればキラキラと煌くだけだが、身近で見ると当てられてしまう。
「シェリルさんが、優しいから」
「あら、過分な褒め言葉ね」
どうにか絞り出した一言は、そんな可愛くもなんともない言葉になってしまった。
セカンドバースの、更に言えば、αの発情の怖さをよく知るランカにとって、発情していても優しいということは凄いことだ。
本能の熱に浮かされた状態でも、シェリルはランカに優しかった。
それは痛みが少しもない身体が証明している。
少し顔を上げれば、昨日とはまた違う、変わらず麗しい顔がランカを見つめ続けている。
それだけでフラッシュバックのように様々なこと思い出してしまって。
嬉しさと恥ずかしさが交互に襲い、その終局点でランカはいらない事実にも気づいてしまった。
――セカンドバースと戦っていたシェリルはランカを番にしたことで、セカンドバースに負けてことになってしまうのではないか。
少なくとも、世間はそう思ってしまうのではないか。
銀河が注目する歌姫だ。あらゆる批判が集まることは目に見えていた。
「でも、良かったんですか?」
「……ん?」
大きく吸って、吐いて、どうにかランカは言葉を紡いだ。
ランカは自分自身の性を知っている。セカンドバースを理解している。
その中でも非常に強力なΩとして、長年扱われていたのだから。
「わたしが、番で」
言った瞬間に泣きそうになった。
シェリルの番になれたことは死ぬほど嬉しい。
何より、ファーストヒートを迎えた瞬間、頭の中は彼女のことしか思い描かなくなった。
全てがシェリルで、シェリルが全てだった。
彼女の艶やかな唇が首筋をなぞり、噛まれた瞬間にランカはなくしていたもの全てを手に入れたのだ。
「嫌だったの?」
「違いますっ、そんなことは絶対にないです」
ランカの言葉にシェリルは少しだけ目を細めた。
不機嫌さで隠そうとしても、その下に見えるのは、ランカがたまに感じていた孤独だ。
――寂しい人。いつだかアルトにもそう話したことがある。
シェリルはその内側に人知れない寂しさを持っている人間なのだ。
番を手に入れたことで、それが満たされたかは彼女にしかわからない。
ランカは少しでも寂しさを満たせる存在であればよかった。
「……でも」
シェリルのセカンドバースの受け止め方を知っている。
そんなシェリルが自ら番を作るなんて、ランカには信じられなかった。
自分の、人より強いフェロモンが彼女に無理を強いたのではないかと怖くなってしまう。
それはきっと何よりも罪深いことだ。
一度そう思ってしまうと、考えが止まらなくなり、思わず目を伏せる。
「ねぇ、ランカちゃん」
「はい」
そんなランカの耳に優しい声が降ってくる。
少しだけ色を濃くした緑の髪を柔らかな指先が通り抜け、その仕草一つでも愛されているのが伝わる。
心はこれ以上無いほど喜び、高ぶっているのに、シェリルを傷つけたかもしれないと思うだけで怖くなる。
シェリルの全てに憧れていた。
シェリルの生き方が好きだった。
セカンドバースと戦う背中を追いかけていた。
人生の目標にしていた人を、くだらぬ横道に連れ込んでしまったのかもしれない。
「シェリル・ノームは流されて番を作る人間?」
「そんなこと、ないです」
シェリルの言葉にランカは小さく、それでもしっかりとか否定した。
ランカの知るシェリル・ノームは、何よりも誰よりも自分で選ぶことを大切にしていた。
プロデュースも自分の納得いくまで拘る。
自分の歌が一番良く見える魅せ方を彼女はずっと追い求めていた。
それがランカの知る『シェリル』で、だからこそ、たまに見え隠れする寂しさが酷く気になったのだ。
「そうよね。アタシはシェリルよ……自分の運命は自分で切り開くもの」
「いつも、そう言ってきた」と呟くようにシェリルが口にする。
そこに含まれた感情に思わずランカは顔を上げた。
シミひとつない抜けるような美しい肩やデコルテに、輝くような金糸が舞う。
シェリルだった。ランカが研究所の中から、ずっと焦がれていた『シェリル・ノーム』がそこにはいた。
「アタシは、アタシが欲しいものを手に入れる」
真っ直ぐにランカを見下ろす視線は、まるで女神のようだった。
きっと神様から天啓を受けた人間はこうなるのだろう。
動けない。離せない。
こんなにも魅力的な人間がいるなんて信じられない。
それでもシェリルは人間で、だからこそランカは思わずその頬に手を伸ばしてしまう。
「そんなアタシでも、ランカちゃんだけは不安だった」
「え?」
そっとなぞった頬の下は濡れていなかった。
ランカにはまるでそこを透明な雫が通ったように見えた。
僅かに弱くなった声音に、顔を少しだけ近づける。
シェリルが困ったように笑った。そっと手が重ねられて、指先に彼女の唇が触れる。
「だって、アタシは見た瞬間、聞いた瞬間にわかったもの」
「そうなん、ですか?」
ランカとシェリルがきちんと対面したのは事務所が最初だ。
もちろん、それまでも画面越しであればランカ穴を開けられるほどシェリルの顔を見ている。
生で見たのはライブの時が初めてで、ライブも生のシェリルもドキドキした。
勢いで出たオーディションに受かって、事務所で会った時だって、いつでもランカはドキドキしていた。
シェリルと会うだけで幸せだったし、歌を一緒に歌えるかと思うとワクワクどころの話ではなかった。
つまり、ランカはシェリルと一緒であればいつでも驚くほど幸せだったのだ。
それが運命などと考える前に、本能が理解してしまっていた。
残念なことに、ランカ自身はそれを今でも理解してはいないが。
「ええ、悔しくて……でも、嬉しくて」
ぎゅっと繋がった手から体温が移り始める。
負けず嫌いのシェリルらしい言い方に、ランカは表情が緩むのを感じた。
自分が何を言っているか理解し始めたシェリルの頬が少しずつ赤く染まり、青い瞳が左右に泳ぎ出す。
それから観念したかのように、ランカにとって一番嬉しい言葉をくれた。
「あなたの歌は、誰よりも心地いい」
「それはわたしのセリフです!」
勢い余ってシェリルの胸に飛び込むような形になった。
シェリルの歌が誰よりも好きだった。
いつか隣で歌いたいと、思い始めたのは事務所で出会ってからだった。
それでもシェリルが特別なことに少しも変化はない。
「ね、アタシはきちんと選んだわ。あなたはアタシを選んでくれる?」
ぎゅっと包み込まれる腕の暖かさが幸せだった。
シェリルの腕の中から見上げた瞳は今まで見た中で一番彼女に近寄れた。
その瞳に弱さを見た。孤独を見た。
ランカはシェリルの歌の奥底に流れていた寂しさの塊を感じた。
「もちろん……わたしで良ければ」
「ランカちゃんが良いのよ。って、もう番にしちゃったから、離さないけどね」
ふんわりと微笑むシェリルを忘れることはない。
きっとこれから先も、ランカはずっとこの瞬間を覚えているだろう。
彼女の強さも優しさも。
彼女の弱さも寂しさも。
何もかも見せてくれたことが、ランカにとってこれ以上無いほど嬉しかったのだから。
end