イライラした。
このくそったれな世界を壊したくなった。
そういう衝動は昔からあったけれど。
この時ほど、ひどい感情はシェリルにしても初めてだった。
#6
シェリルが異変に気付いたのは気晴らしに買い物に出ていたときだった。
ふと目について服を手に取って、ランカの事を頭に思い浮かべていた。
ランカはシェリルの期待通り、真摯に歌うことに向かい合っている。
レッスンにシェリルが顔を出すとまるで犬のように喜んで、それが可愛らしかった。
そんな彼女をシェリルはわかりやすく溺愛していた。
グレイスも呆れる溺愛っぷりだが、気にはならない。
こうやって買い物でさえランカの顔が浮かぶのは流石に重症だと自分でも思っていた。
――シェリルさん。
彼女の声が自分を呼ぶたび、胸の奥がじんとする。
今思い出すだけで、その現象は起きて、シェリルは一人頬を緩めた。
「あら?」
今日もこの後、事務所に顔を出してランカのレッスンを見る予定だった。
彼女の側にいると曲作りも捗る。
今まで部屋にこもってばかりだったシェリルの変わりように、会社のスタッフも驚いていた。
シェリルは漂ってきた匂いに嗅覚を集中させる。
甘い匂いだった。その匂いをシェリルは知っていた。
ランカと出会って初めて感じるようになった匂いだった。
「グレイス?甘い匂いがしない?」
「いいえ、特に何も変わっていないわよ」
確認の意味も含めて、シェリルはグレイスに尋ねる。
彼女はβだ。インプラントで身体能力が鍛えられているとはいえ、第二の性は越えられない。
βに感じ取れなくて、αに感じ取れるもの。
それはΩのフェロモン以外ありえない。
シェリルはランカ以外のフェロモンに気づいたことはなかった。
「いやな予感がするわ。しかも、とびきり」
シェリルは手に持っていた可愛らしいワンピースをラックに戻す。
知らず慌てていたようで、いつもに比べて大きめの音が出た。
足早に車に戻ろうとすればグレイスが後をついてくる。
「どうしたの?」
「嫌な予感がするから、私の言う方に車を走らせてくれる?」
説明するのも面倒くさくて、シェリルは自分の要望だけを伝えた。
普通なら怒りそうな要求だが、気まぐれな銀河の歌姫はこういうわがままをよくマネージャーに伝えていた。
またか、と小さくため息をついたグレイスは何も言わず運転席へ座った。
シェリルは小さく窓を開けた状態で指示を出す。
甘い匂いは消えることなく、はっきりとシェリルに届いていた。
――いくらなんでも、甘すぎじゃない?
アルトから聞いていた話ではある。
自分が発情するフェロモンは甘く感じると。
また番になった二人の間ではフェロモンが届きやすい、効きやすいとも言われている。
ランカが現れて、シェリルはもう一度セカンドバースについて調べた。
今まで自分とは関係ないと思っていた、ヒートや番のところまで細かく確認した。
「番でもなければ、距離もあるって言うのにね……」
Ωのフェロモンは番がいないと無差別に効く。
周囲のαは自然とΩの周りに集められるのだ。
しかし、それにしたって屋内の限られた空間の話である。
こんな人の多い、屋外でもはっきりと届くフェロモンなんてどの論文にも載っていなかった。
わずかな隙間からでも、今のシェリルにとっては十分な情報だった。
運転しているグレイスに指示を出して町中を走る。
段々と人気のない路地裏の方へと走り出し、シェリルの表情は険しさを増す。
「ねぇ、グレイス。抑制剤って、あったかしら?」
段々濃くなる匂いに、ぐつぐつと沸騰しそうになる頭を押さえる。
――これはヒートじゃない。
なんでそう思うかシェリルにはわからなかったが、本能的に違うと思った。
――これは怒りだ。
自分のものが取られそうになるときの怒り。
攻撃性に溢れた衝動。
きっと、この匂いの先にいるのはランカで、その側には自分以外のαがいる。
そう考えただけで、嫉妬に狂いそうになる。
「どっち用もあるわよ」
「じゃ、一番強いのくれる?」
「……使うの?」
「私にじゃないわよ……たぶん」
ヒートになったことはない。どうなるかはわからない。
もし自分まで発情してしまったとしても、グレイスが上手いことまとめてくれる。
シェリルの目標は、ランカを確保することだけだった。
*
――神様に感謝したことなんてない。
この容姿になったことも、歌で生きていけるということも、奇跡的なことだとはわかっている。
それでもシェリルは自分の道を切り開いてきたのは自分だと言う自負があった。
シェリルにとって神は上から見つめているだけの存在だった。
そんな存在に今日、初めてラブコールをかけていいと思った。
ランカに自分以外のαが触れるのを防いでくれて。
彼女の危機に自分を間に合わせてくれて。
初めて「神様、ありがとうございます」と素直に言えそうな気がした。
「ランカちゃん……!」
甘い匂いが漂う路地裏。
車から急いで降りて、ランカの元へと走る。
シェリルの目にランカが襲われているところは見えていない。
見えていなくても、匂いだけで十分だった。
「これは……あの子、普通のΩじゃないわね」
シェリルと同じように、車から降りたグレイスが眉を顰める。
βであるグレイスにフェロモンは効かない。
しかし、インプラントによりフェロモンを簡易的に測ることができるグレイスにはその空間の異常さが分かった。
シェリルはグレイスから手渡されていた抑制剤を手にただ走った。
ヒールの地面をたたく音が甲高く響く。
どうしてやろうか、ぐつぐつとした何かがシェリルの中を掻きまわしている。
セカンドバースに関係なく、暴行は犯罪だ。
抑制剤を頭から浴びせて、動けなくなったところを警察に引き渡すのはたやすい。
しかし、ランカの立場がそれを危うくさせる。
新人の歌手で、Ω。
スキャンダルがつくには、まだ弱すぎた。
「どうでも、いいわ」
αとかΩとか。
新人アーティストとスキャンダルとか。
今のシェリルには、全てが二の次だった。
大事なのはランカが無事か。それだけだ。
路地裏を曲がる。
普段のシェリルだったら、絶対に入り込まない通り。
きっと、ランカだって普段であれば足を踏み入れないだろう場所だ。
そこにいる、と明確にシェリルにはわかった。
「ナニ、してくれてるのかしら?」
道に倒れているランカに覆いかぶさるように男がのろうとしていた。
Ωの反射なのか、ランカは自然と首筋を守っている。
その表情にあるのは、強い嫌悪だけだ。
ぶちんと、自分のどこかが切れる音がした。
触るなと叫ばなかったのは、一欠けらだけ残った「ランカの前で無様な恰好はできない」という矜持があったからだ。
でなければ、きっと、とんでもないことをシェリルはしていた。
男にぶつけるような勢いで抑制剤を叩きつける。
すぐさま白煙が立ち込め、シェリルは少し気分が下がる。
発情していない自分でさえこの嫌悪感だ。
無理やり抑制させられるこの男の負担は考えるまでもない。
「逃げるわよ」
男に触るのも嫌で、避けるようにしてランカの手を取った。
一瞬びくりと怯えた表情をしたランカだったが、シェリルだと分かれば表情を緩めた。
紅い瞳が安堵ににじむ。
緑の髪が柔らかく跳ねる。
その全てが、シェリルには輝いて見えた。
じん、と握った手のひらが熱くなる。
そこから一瞬にして体全体に熱が伝わった。
きっと今の自分の頬は赤い。鏡を見なくてもわかる。
――抑制剤があってよかった。
きっと、今の状態は発情に近い。
いや、もしかしたら発情しているのかもしれない。
それが抑制剤でうやむやになっているだけで、シェリルは今初めてのヒートを迎えている可能性があった。
強い本能が理性を覆い隠そうとする。
それでも手の中にある子を襲ってしまおうとは思えなかった。
――私はシェリルよ。
相手の感情を考えずに襲うなんて格好悪いことはできない。
何より運命の番を傷つけたくない。
辛くて仕方ないが、シェリルはランカを大切にしたかった。
グレイスの待つ車へと走り、ランカを押し込めるようにして後部座席に入れた。
肩越しに後ろを振り向けば、まだ白い煙があたりを覆っている。
彼の処理はグレイスに任せるのが一番だろう。
車の扉を閉める。
抑制剤の残り香が少しだけ苦かった。
「はやく、出して」
声が震えていない自信はなかった。
初めての濃いフェロモンに、かき消すような抑制剤。
この二つはシェリルにしても初めての体験だったし、体への負担は無視できない。
何より、隣にいるランカの存在がいつ発情状態へと自分を導くかシェリルにもわからなかった。
ただ、ひたすらに前を見つめる。横を向いてはならないとシェリルは自分に言い聞かせた。
路地裏を抜けて、会社に着くまでの我慢だ。
ランカの状態を確認するように、何個か言葉を交わす。
念のための確認だったが、触られていないことにシェリルは安堵した。
さっき見た限りでは大きな傷や、服装の乱れもない。
だがランカの体が小刻みに震えていることは隠しようがなかった。
「あなたが無事なら、それでいいわ」
隣を見ずにコートをかけることが難しいと、シェリルはこの時初めて知った。
#6 end
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