ゆっくり進んでいきます。
これからしばらく甘さで死にそうになるかもしれません。
……シェリランが幸せだったらいいのだ!
喉が渇く。
本能が求める何かが訴える。
手を伸ばせ、受け入れろ、渇きを満たせ。
その衝動を体の奥底に封じ込める。
そうしなければ自分の一番欲しいものは手に入らない。
ずっと、そうやって生きてきた。
#8
ランカは自分の安いアパートとは似ても似つかない立派な天井を見つめていた。
目覚めは良い方だったが、抑制剤を増量したせいか、この頃は体を重く感じることも多い。
ゆっくりと体を起こし布団を畳む。それから縁側へと出て全身に太陽の光を浴びた。
ランカの心とはまるで正反対の晴天がそこには広がっていた。
歌いたい、と叫ぶ心を押しとどめ目を閉じる。瞼に浮かぶのは昔から変わらない眩しい人だ。
シェリルの名前を呼びそうになって慌てて瞼を開ける。ドキンと心臓が一つ跳ねた。
アルトの家に居候させてもらうようになって3週間が過ぎた。
ランカが襲われたことは伏せられているものの、ほとぼりが冷めるまで休養期間ということになっている。
広い和室には布団以外にランカの私物がほんの少しだけ置かれていた。
それ以外にシェリルから毎回手渡されるお土産やプレゼントが私物とは別に陳列されていた。
休養中のランカと違いシェリルは「銀河の歌姫」として多くの仕事をこなしている。
たまにしか会うことはできないが、そのたびにランカのことを気遣って色々なものを持ってきてくれる。
満面の笑顔で機嫌よく持ってきてくれたり、照れくさそうに渡してくれたり、画面の向こうでは知ることのできなかった表情をランカはたくさん知ることができた。
そう思うだけで、どこか心がむず痒くなる。
ただ、本当にこんなことを思ってしまうのが申し訳ないとランカは思っているのだが――少しだけ、落ち着かなくなる。
それが何かランカにはまだわからなかった。わかりたくないと思ってしまっていた。
「おはよう、ランカ。調子はどうだ?」
「おはよう、アルトくん。うん、大分、いいみたい」
縁側にぼうっと立っていたランカに声がかけられる。
ランカに声をかける人など、この家では決まっていた。
ゆっくりと目を開けて声のした方へ顔を向ければ、相変わらず涼やかな顔が立っていた。
「フェロモンが落ち着けば、また歌えるようになるらしいからな。もう少しだ」
アルトの言葉にランカは苦笑した。
シェリルの幼馴染として紹介されたこの人は不器用だが優しい。
同じΩとして勉強になることも教えてくれる。
ランカとは違い、自分のセカンドバースをしっかりと受け入れ生活しているアルトは眩しかった。
「こんなに不安定なのは初めてだから……はやく、元の生活に戻りたいな」
あの事件後、ランカのフェロモンは不安定極まりない状態だった。
歌う歌わないに関わらず、多くなったり、少なくなったりと安定しない。
歌えば多くなることだけはっきりしていたので、しばらくは歌うことができない。
それが何よりの苦痛だった。
胸の奥にざわざわとした何かがここしばらくずっと蹲っている。
その不明の何かを解消するためにも、自分の気持ちを音にして歌うことが一番いいとランカは知っていた。
不快とまではいかない。
ただ、落ち着かない何かがランカの意識をはやし立てる。
「ランカも歌うことが大好きなんだな」
「歌ってる時が一番落ち着くし、楽しいから」
物心からいた施設での監獄のような環境も歌が歌えるなら我慢できた。
歌えなくても、シェリルの音楽を聴ければ苦しさを忘れられた。
歌と音楽はランカの人生で切り離せないものに違いなかった。
「そうか」
「でも、今はもう一つ楽しいことがあるの」
ずっとそうやって生きていくと思っていた。
歌を歌って、聞いて、Ωという性を抑制して、そうやって生きていくのだと。
だが本物の歌姫と出会って、一緒に働けるようになって、ランカは気づいてしまった。
歌を作る楽しさと歌を聴いてもらえる喜びを知ってしまった。
「シェリルさんみたいに、歌を作ったりしてみたいなって」
「あいつみたいに?」
「シェリルさんって凄いんだよ!」
ランカの赤い瞳がまるで宝石のように光を放つ。
常に感情豊かな少女ではあるが、シェリルのことになると特段様子が違う。
感情に合わせて上下する緑の髪はいっそ鮮やかにアルトの目には映った。
シェリルのことを話す時、ランカは一番輝いている。
初対面だったシェリルのライブの時からアルトはそれを感じていた。
(ただ、ランカがそれを自覚していないのが問題か)
シェリルが運命の番を見つけたと聞いた時、ランカのような反応をしていたのをアルトは見ていた。
その類似性からしてランカがシェリルを特別に好いていることはわかる。
だが、この幼いΩの女の子はまだその感情が憧れなのか、何なのかわかっていない。
否応なくヒート前からΩという性と向かい合わなければならなかったアルトとは全く違う。
セカンドバース関係なしに人を好きになれることは、この世の中では酷く貴重なことに思えた。
それが少しだけ羨ましい気もしたが、今はただ幼馴染が不憫でならなかった。
「お前ら、本当に似た者同士だな」
「ええっ? 私とシェリルさんは全然違うよ」
「いや、その”歌が全て”ってところがそっくりだ」
驚きに目を見開くランカの顔をアルトは苦笑しながら見つめた。
ランカがアルトの家に滞在するようになってからしばらく経つ。
その間、ランカとシェリルのやり取りをアルトは傍で見てきた。
互いが互いを大切にしすぎて、いっそもどかしい。
「私ね、シェリルさんの歌が大好きなの」
ランカは小さく微笑んだ。
シェリルの幼馴染であるアルトにこういうことを言うのは少し恥ずかしい。
だがシェリルが仕事でおらず、彼女の話をできる相手が限られたこの場では想いが零れてしまっても仕方ないだろう。
小さく息を吸って、吐いて、ランカは真っすぐ前を見つめた。
「力強くて、ドキドキして、聞いてるだけで元気になれる。だけど……」
シェリルの歌はいつ聞いても特別だった。
輝く才能が溢れていて、どんな時でもランカの一番明るい場所にあったのだ。
その理由を考えたことなどない。ただずっとシェリルの歌を聴いていて、ランカには伝わる感情があった。
「いつもどこか寂しくて、隣に誰かいて欲しいって探してて。私と似てるかも、なんて思っちゃったの」
ランカがシェリルの歌に惹かれた理由。
それは綺麗な歌声であったり、力強いメロディだったり、きらめく歌詞だったり、そういうものだ。
その中でも一等を上げるとすれば、力強く歌っているはずの彼女から垣間見える、何かを求める寂しさだった。
小さい頃はそこまで明確に感じ取っていたわけではない。
シェリルの歌っている姿を見ていると、どこかもの悲しさを感じ、それが苛立ちだったり、輝きだったりに変換されているのがシェリル・ノームという歌姫のように見えた。
それが何の因果か、ランカはシェリルと出会ってしまった。実際に言葉を交わし、姿を見た。
ランカから見たシェリルはやはり一番輝いていて、それでいて誰も隣に立てない存在だった。
幼馴染であるアルトであっても隣に立っているわけではない。
(こりゃ、びっくりだな)
ランカの言葉を聞いて、アルトは肩をすくめるしかできなかった。
仕事柄よく手入れをしている髪の毛を指で触る。するりとした感触が逃げていった。
彼女はまだ気づいていないようだが、その理解は幼馴染のアルトからしてもほとんど”当たり”だった。
シェリルとアルトが知り合ったのはお互いが10になろうと言うときだっただろうか。
αとΩお違いはあれど同じ芸の世界に身を置く同士、存在は知っていた。
初めて会ったその日からシェリルはいつだってシェリルだった。
姿形が変わっても、大人っぽく成長しても、その中身は子供の頃から変わっていない。
――寂しがり屋で意地っ張りで、そのくせ誰かを探している。
アルトが何年もの月日をかけてたどり着いた幼馴染の性格にランカは歌だけで気づけたというのだ。
「ほんっとに、シェリルが好きなんだな」
「うん、大好き!」
ニッコリと笑う顔はまるで向日葵の花が咲いたようだ。
シェリルが見ていたら、また嫉妬されてしまう。
無邪気に笑顔を振りまくヒート前の少女にアルトは苦笑した。
シェリルは意地っ張りだ。自分だけランカに惚れたなど絶対に認めようとはしない。
しかし彼女に近しい人には甲斐甲斐しい様子からランカに惚れていることは丸わかりなのだ。
この二人の距離が縮まるのがいつになるのか、天才と言われたアルトにも皆目見当がつかなかった。
*
「ランカちゃん!」
「シェリルさん!」
聞こえてきた声にランカは光速で振り向いた。
3mもない、その距離にずっと頭を占めていた人がいる。
それだけで嬉しくて、ランカは胸を弾ませた。ドキドキが、頭と体を満たし、一杯にする。
シェリルを前にするとそわそわしてしまう。
憧れだったり、緊張だったり、好意だったり、色々なものが混ざったそれにランカは落ち着かなくなってしまうのだ。
(ああ、シェリルさんだ)
ふわりと漂うフレグランスは彼女がお気に入りのものだ。
鼻のいいランカはこの匂いを一際気に入っていた。
シェリルがこれをつけるときは大抵仕事が入っていないときだ。
ゆるりと頬が緩む。するとそれに気づいたシェリルがランカの頬を無造作に引っ張った。
強く、それでいて優しい指使い。
「なんて緩んだ顔してるのよ、そんなに嬉しい?」
「はい、うれしいですよ!」
即答したランカに、シェリルは面食らったように表情を固まらせた。
そんなに素直に認められるとは思っていなかったのだ。
自分とは正反対の性格を持つ運命の人に、シェリルはたまに太刀打ちできない。
「そ、そう、ありがとう」
目を泳がせながら言葉を紡ぐシェリルをランカはひたすらに見つめていた。
シェリルが触る場所がじんわりと暖かい。
伝わってくる温もりが心地よくて、幸せな気分になる。
ちょっとした指先の動きでさえ今のランカなら感じ取ることができるだろう。
「シェリルさんの手って魔法の手ですね」
「え?」
「歌詞も書けるし――こうやって触ってもらえるだけで嬉しくなっちゃいます」
ぼっと火がついたように赤くなるシェリルの顔をランカが愛おしいと思い始めるまで、あと少し。
運命の時は確かに近づいてきているのだ。
end