血豆が潰れて手が痛かった。
冷たい水は染みるし、槍を握るだけでも痛くてとても振るう気力が起きない。
でも、やらなければ空腹が満たされることはない。そう思い、フェーデは槍を持ち上げた。
鬱蒼とした森、天には日が真上に位置するというのに此処だけは日の祝福がないように暗かった。
探るような足運びで森の奥へと進む。耳をすませると少し奥で肉を貪る音が聞こえる。それを無視し、さらなる奥へ。また耳をすませると獣の絶叫が聞こえる。それも無視してさらなる奥へ。
ここは魔境、人ならざる者が住み着く獣の楽園。平野に住む獣とは違い、みな何かしらの力を宿し、それ単体で人間の大人達数人がかりでやっと狩れる程の膂力がある。
その魔境に身を置き、早一年。この食物連鎖の中で組み伏せられることなくフェーデは生きてきた。
背中に剣、両手には槍を持ち息を潜めて森を進む。時折溢れる日の光が目を細くするが決して閉じることはない。瞬きは極力避けている、いや避けたい。少しでも気を緩めれば淘汰される運命だと理解している。震える心に火を灯し、前へ前へと突き進む。
「っ!!」
突如影が顔を過ぎった。フェーデは駆け出し、近くにあった木の陰へと隠れたが、その木の幹が中腹が真っ二つに割れた。
「ふざ、けるな…!」
それは冷風と同時に現れた。爆ぜる土と砕け散る木の破片。その隙間から見える敵の正体は───狼。
灰雪色の肉体に生える毛皮は針金の束のようだ、口から見える牙は剣山だ。爪は鎌で、尾は鞭のよう。
ただの狼であるはずなのに、そいつは魔獣だ。こんな連中が蔓延る山嶺こそが
「しぁっ!!」
槍を突き、心臓を狙う。しかし、いとも容易く避けられた。
狼の瞳はこちらを値踏みするように見ている。フェーデのその槍さばきを見て、ふ、と嘲笑ったかのように鼻を鳴らした。
槍を持ち直し、再び狼と向き直す。次は横へと移動し、横腹へと狙おうとしたのだが。
「───がはっ!?」
真正面から殴られつけられるような衝撃。体が跳ね飛び、木を数本折ってからようやく地面へと転がる。
激痛に悶え苦しみ、顔を上げた瞬間、横へと転がる。わずか数秒悶え苦しんでいた場所が
それは狼の疾走、突進による余波。あの魔獣となり得る獣はそれだけで地面を削ったのだ。
「…っ!!」
フェーデは撤退を選ぶ。
あれに勝てるわけがない。自分を弾き飛ばしたアレは
駆け出すと同時に森の中へ飛び込む。視界はより狭まり、見えづらくなるがそうは言ってられない。とにかく早く移動することに念を入れる。
後方から感じる敵意にフェーデは一度たりとも見逃さない、あの感覚を失った瞬間自分は死んでしまうと理解しているから。
「らぁ!!!」
森を抜け出し、すぐそこに見えた崖に躊躇いなく飛び込んだ。だがフェーデは知っている。そこほど安全な場所はない。
崖から飛び降りる寸前、首を回し、後ろへ振り向く。
すぐそこに、狼の牙が見えた。
『…それで、なんとか首を逸らして致命傷は免れたのですね』
「…ああ」
蒼い炎に囲まれた山頂の屋敷、その屋敷の再奥にある部屋には美しい女が眠っていた。魔銀の鎧に身を包み、死んだように眠っているが魔術によりその意識のみを周りに伝えている。
その女の名はブリュンヒルデ。眠れる戦乙女は帰ってきた少年にことの詳細を聞いていた。
フェーデの側頭部は皮が剥がれたように傷ついていた。わずかな傷跡だが、血が溢れて顔半分を真っ赤に染めていた。
『治癒のルーンは』
「教わった通りかけた。血は止まったから水で洗い流した」
頭に包帯を巻くフェーデ。そのフェーデは若干俯き、ブリュンヒルデに顔を背けていた。
『…フェーデ、恥じる必要はありません。あなたはまだ幼子。本来ならば親に庇護される存在なのです』
「そんな言い訳通じるわけない」
擁護も跳ね除けた。それに対しブリュンヒルデは彼に聞こえないぐらいのため息をついた。
『フェーデ』
「・・・・・」
『フェーデ』
「………なんだ」
『弱きことは恥ではありません』
「っ」
負けて悔しかった。負け続けで悔しかった。未だに勝てずにいることがとても悔しかった。
下唇を噛み締め、零れ落ちそうになる涙をフェーデは堪えた。
『誰もが最初から強者ではありません。皆、最初は弱く脆い者。時と共に経験を糧とし、皆弱さを克服するのです。あなたの環境はとても良きものとはいえません。ですが、あなたは生きて帰りました。この魔境で、食物連鎖に飲まれることなく生還しました』
この魔境に身を置き、彼は未だに敗者であった。どの獣よりも弱者であり、勝ったことなどない。食事は木の実や魚であり、肉を食らったことなど未だない。
飢えているし、勝てない無力感が彼の心を押し殺していく。孤独で、冷たい森はとても少年が生きていくには過酷すぎる。
『だから、私は嬉しいです。あなたがこうしてまた私の前に来てくれることが』
「……!」
でも、少年には戦乙女がいた。眠り続けているが、死人のように冷たいが、少年にとっては唯一無二の帰る場所が。
『フェーデ。智慧を求めれば授けましょう。力を求めるならば導きましょう。居場所ならば、既にここにあります。だから、帰って来てください。悔しさや痛みならここで幾らでも吐き出してもよいのです。幾らでも、何度でも。そうやって…強くなりましょう。あなたはまだ、あきらめるつもりはないのでしょう?』
「………あぁ」
フェーデは立ち上がった。目元に溜まっていた涙は拭って落とした。少しだけ目元が赤いのをブリュンヒルデは見て見ぬ振りをした。
「鍛錬、してくる」
『ええ、いってらっしゃい』
それだけ言い残し、フェーデは部屋を出た。その背中をブリュンヒルデは見送った。眠り続けるこの身ではそれしかできないが、きっと彼は今よりも強くなって再びこの部屋へと現れるだろう。弱音を一切吐かず、でも何処か無理をしているのが分かってしまうあの少年を、彼女は眠りにつきながら待つことにした。
『不器用な子』
未来の英雄の成長に微笑ましく思いながら。
○ ○ ○ ○ ○
「……夢か」
パチパチと薪が弾ける音と温もりで目が覚めた。辺りは夜、闇が大地と空を覆い、太陽が身を隠す時間帯。月も厚い雲に覆われてしまい、姿を見せず漆黒が世界を塗りつぶしていた。
巨人の討伐に参加すると決め、二日が経っていた。一度ヒンダルフィアルに戻りブリュンヒルデに暫く山を離れる事を告げた。ブリュンヒルデは反対こそしなかったが再考してほしいということを言葉の節々に込めていた。だが、それでもフェーデが行く事を決めていると言うと、無事帰ってくることを祈ってくれた。
ヒンダルフィアルを出て、徒歩にてライン川の上流へと向かって行く。
馬という移動手段もあったが、ヒンダルフィアルで普通の馬など飼育すれば一日で獣達に食われる自信があるのでフェーデは馬の一頭も持っていない(もっとも馬より早く走れるため必要ないと思っていた)
自分が着いた頃に巨人が討伐されていたら元の子もない、そう思うと馬の一頭でも持っておけばよかったと今更ながらフェーデは思っていた。
「早くて、あと三日か」
距離を考えればあと三日ほどで例の砦へと辿り着く。無駄足にならなければいいと考えながら、フェーデは焚き火に新たな木の枝を放り込んだ。
木が火の粉を巻き上げながらも、闇の中を照らす光を見つめながら再び瞳を閉じようとした。
耳がこちらへ駆けてくる音を聞きつけ、すぐに目を開かせた。
側へ置いていた槍を手に取り、立ち上がる。光源が焚き火だけという状況にフェーデの心は乱れることはない。幼き頃ならまだしも、あの頃よりも幾千と積み重ねた経験は恐怖に怯えることなどなくなったのだから。
「───シッ!!」
闇の中から飛び込んでくる敵に、一閃。
一太刀で飛び込んで来た、狼は両断された骸となって地面へ勢いよく転がって行く。
「…よりによって狼か」
聞こえてくる足音は集団だ。短く、疾い足音は四足歩行のそれだ。集団で狩りを行う事に長けている獣達に囲まれたとすぐに理解した。
焚き火という本能的な恐怖がすぐそこにあるというのに仕掛けてくるその度胸にフェーデは覚えがある。
「ヒンダルフィアルからの
魔境より産まれ、魔境を出た外れ者。強き者が生き延び、弱き者が食われる社会構造から抜け出し、新境地を目指す獣達を彼は外れと呼んでいた。その言葉に裏はない。蔑みや見下しなどではなく、単純に行動特徴を便宜上にそう呼んでいたのだが。…心なしか獣達の殺気が高まったような気がした。獣に人の言葉を理解するなど…いや、あの魔境の出ならあり得るかもと囲まれている状況だというのにフェーデは的外れなことを考えていた。
「他の奴らと出くわす前に自分と当たったことが幸いか、不幸か」
「ガアッ!!!」
「…迷惑で、困るな」
同時に攻めてくる二匹を一つは槍で、もう一つは足で対処した。大口に槍を捻じ込み、踵を落とすことで鼻を潰す。どちらも怯んだ隙に急所へと素早く突きこみ、さらに追い込もうとする多数を同時に相手する。
縦横無尽、明らかに獣とは思えぬ統率された動きに調教師がいるのではないかと勘ぐってしまう、常人なら。だが魔境の山を生き延びたフェーデにとってこれぐらい序の口に過ぎず。単純作業のように淡々と迫りくる牙と爪を掻い潜り、一撃をもって絶命させていく。
「本当に、困るな!」
「キャンッッッ!?」
槍の石突きを狼の背中に叩き込み、背骨が折れる音を確認すると背後から来た次の狼を片腕で首を掴み、勢いよく回して首を叩き折った。
狼の大口から漏れた断末魔が闇に響き、感じていた気配が揺らぐ。今殺した狼がリーダー格だったのか、傘下である獣の群はたじろいでいる。
このまま去ってくれると楽、と思っていたが動揺はすぐ収まり、こちらへの殺気が高まってきた。多くの仲間が死んだことが彼らの闘志に火を付けてしまったのだろう。
「ちっ」
舌打ちして、穂先を闇へと向ける。焚き火の明かりが獣達の瞳に吸い込まれ、無数の双点が闇に浮かぶ。全て捌ききるのに骨が折れることを覚悟し、こちらから彼らの領域に入ろうとした時。
新たにこちらへと駆けてくる音源がある事に気付く。
狼の足音とは異なり、軽快で重厚な響き。大地を弾むような疾走は素早くこちらへと向かって来ている。前の連中とは違い、敵意など一切ない。
狼達もそれに気づき、幾らかの数匹が新たな侵入者へと向かったが───その結末は全て、骸となって闇から飛び出した。
血と土が弾け飛ぶ最中、
その正体は───駿馬に跨る戦士だった。
一目見ただけで、フェーデはそいつが戦士だということを感づいた。
それは本能だったのかもしれない。駿馬の肌からは凡百とは思えない覇気を纏っていた、瞳には知性、吐息は豪胆、蹄から発せられるその音は剣の刃の如く鋭い。
その駿馬に跨る男は───英雄、だと思った。
フェーデは英雄になど出会ったことがない。寝物語で聞く、古今無双のあり得ざる人でなしになど見たことがない。でも、そいつを見た瞬間、ああ、こいつがそうなのだろうと胸に収まるような納得が訪れた。
冷たさと重厚さ、肉体そのものが鋼で、纏う神秘は火山の如き灼熱。
手に持たれた
「問わせてもらおう」
その男は聞いて来た。
「当方の手は必要か?」
狼達を牽制するように唸る駿馬と尋常ならざる魔剣を持つ英雄はこちらを気遣った。
「…迷惑ではないが、困ってはいる。正直助かる」
「そうか。ならば当方は助太刀させてもらおう」
馬から降りて、英雄は剣を構える。その姿だけで目が惹かれる。一つの芸術として完成された動き。一つの窮極に達したその動きに、フェーデは不覚にも見惚れてしまった。
「どうした?」
「いや……場違いなことなことを考えただけだ。気にしないでくれ」
フェーデは槍を構えなおし、一歩前へ出た。
「厄介だが全員ここで潰す。これほどの数、他に被害が出るかもしれない」
「肯定だ。無辜なる民の血を流させるわけにはいかない」
英雄も剣を構え、闇へと鋒を向ける。闇の奥に潜む狼達がたじろぐ。だがそれが致命的だった。
「「ふっ!!」」
英雄とフェーデが同時に闇へと飛び込んだ。
一歩先に何も分からない、障害物が邪魔をするかもしれないという未明の領域だというのに暗き奥底からは血に濡れた音が響く。風を切り、肉が爆ぜ、悲鳴が溢れる。一方的な蹂躙が見えない場所で繰り広げられている。絶対的な自然の摂理がそこで行われている。厳しい、だが絶望的ではなかった。
「終わったか?」
「問題ない」
消えかけになった焚き火、其処に新たに薪が放り投げられる。暗闇に再び灯った光が映し出すのは二人の男と駿馬。それ以外は全て、狼だった骸だけ。
「強いな」
「貴公こそ。比類無きほどに鋭敏な槍捌き、感服した」
「あの闇でよく見えたもんだ」
「貴公もだろう」
焚き火近くにフェーデが腰掛けると、英雄も腰を下ろす。
「夜は深い。急ぎでなければ休んでいけ」
「お言葉に甘えさせてもらおう」
煌煌と燃える焚き火を中心に囲うように座る二人。しばらくの間、二人は何も話さなかった。その沈黙が嫌というわけではなかったが、あまりにも無味だった為フェーデは声をかけた。
「フェーデだ」
「ん?」
「自分の名はフェーデだ。とある山から降りて来たフェーデだ」
「そうか」
「当方の名は───シグルドだ」
「ヒーアルプレクから来た、シグルドだ」
偶然か、必然か。
二人の出会いはこうして迎えられた。
やがて、戦乙女の嘆きを以って終わるこの叙事詩の始まりは小さな焚き火の囲いからだった。
厚い雲は払いのけられた満天の星空の頂点には、満月が浮かんでいた。