ゴールデンウィーク最後の日。
その日俺は、各教科の先生たちからのゴールデンウィーク祝いという
特別頭が良いわけでもなければ悪いわけでもないという、実に形容しがたい中途半端な頭脳なため問題の解答には時間を要する。だが、ゴールデンウィーク初日から少しずつ手を付けていった
そして、
「終わったあああぁぁぁ!」
と叫ぶと同時に勢いよく椅子を倒し立ち上がる。
「完膚なきまでに叩きのめしてやったぜ! これにてミッション完了! 俺の心は無法地帯! 今の俺なら邪魔する奴は指先一つでダウンさせられるぜヒャッハー!」
モヒカン頭のお兄さんたちよろしく、アホ面を
すると突如ノックもなしにガチャリ、と部屋のドアが開く。止まって顔を向けるとそこには、腰まである黒髪と泣きボクロが印象的な鉄拳制裁の母こと、
「志恩さーん、あんまりうるさくするとお母さんの百裂拳で汚物を消毒するわよ~?」
「……あっ、うるさくしてすみません、自重します……。でも、どうか息子のことを汚物と呼ばないでください……よろしくお願いします」
「夕飯は七時だから、そのときにまた声を掛けるわね汚物~」
「あっ、はい……」
母さんは言うだけ言って、来たときと同じ唐突さでガチャリ、とドアを閉めていった。
すみません、汚物ですみません、貴女の息子が汚物で本当にすみません……。
ブー、ブー、ブー。
「ん?」
実の母親に汚物扱いされ虚しさに心を弱めていると、机の上で振動しているスマホに気付く。等間隔でバイブレーションし電話が来たことを
「もしもし」
『あっ、おにいちゃん? みちるだよ! あのねあのねぇ、みちる、いますっごくこまってるのぉ』
ピッ、と通話を切る。
身体をほぐすために大きく伸びをすると、壁に張り付けてある時計が目に入った。見ると短針はすでに五の文字を回っている。
飯の時間まで暇だし、ゲームでもやろっかな~。
ブー、ブー、ブー。
「……」
再度振動を始めるスマホ。誰からの電話なのか予想はついているが、念のためにディスプレイを見ると、やはりというかやっぱりというか、それは美知留だった。
なんやねんコイツ。
出たくはない。出たくはないが、ほっといたらほっといたで後がめんどくさいことになるのは必須。顔をしかめ、先程よりも遅い動作で操作し電話に出た。
「……もしもし」
『ひだまり荘で待ってます、きっと見に来てくださいね』
「お断りします」
ピッ、と通話を切りスマホをベッドに放り投げる。
さーて、なんのゲームやろっかな~。久々に『メタルギア〇リッド』なんか良いな。
ブー、ブー、ブー。
「……」
ゲームの用意をしていると、布団に埋もれた少し籠り気味なバイブレーションの音がベットの方から聞こえてくる。そのまま無視しているとスマホは止まり、六畳の部屋に静寂が訪れる。
「
ブー、ブー、ブー。
「嫌だな~~~出たくないな~~~~~」
長い溜息を吐き観念して電話に出る。
「…………もしもし」
『こちらミチール。シオン応答せよ。今からそちらへと潜入する。なーに、これも傭兵として当然の』
「国へ帰るんだな。お前にも家族がいるだろう」
ピッ、と通話を切りスマホの電源を落とす。ついでに部屋の鍵も閉める。
『メタルギアソ〇ッド』は止めよう。なんかもっと陽気なのにしよう。配水管に入る赤帽のおっさんのやつとか。
そうと決まれば善は急げとばかりに速攻で準備する。
だって嫌な予感がするんだもん。宿題を終わらせたご褒美だもん。俺はゲームをするんだもん!
準備を終え残りはスイッチを押すのみとなったが、嫌な予感が拭えないのでドアに耳を当てしばらく待つ。
「美知留が上がってくる気配は……ない!」
なにせ家が隣同士だ。長い付き合いなだけあってお互いの部屋の構造を把握しきっている。俺の部屋までの往来を簡単にやり遂げる美知留を警戒しないだなんて、そんなヘマをするわけがない。
来る気配がない、これなら大丈夫だと嬉々としてゲームのスイッチを入れようとした瞬間、
ズザンッ!
「ファッ!?」
ベランダからなにかが落ちてきたような大きな物音がする。
まさか……!
急いで立ち上がりカーテンと窓をほぼ同時に開けるとそこには、スニーキングスーツを身にまとう現在十五歳の現役女子高校生、コスプレ大好きっ娘の戸村美知留がそこで構えていた。
「こちらミチール、潜入に成功した。待たせたな!」
「お前なにやっちゃってるの!? そっちのベランダから飛んで来ただろ!」
「見て見て~、このコスなかなかの出来栄えでしょう? こういうときのために作っといて正解だったわぁ~」
「そんなこと訊いてないから! 馬鹿じゃないのお前!」
「だって、どうせそっちから行ったって部屋の鍵閉めてるんでしょう?」
「そうだけどさ! 大正解だけどさ! 小学のころに俺がそっちのベランダに飛んで移動しようとしたときに足を踏み外して落っこちて怪我して以来、ベランダからは飛んで行き来しないっていう俺たちの中での暗黙の了解があっただろうが!」
「知らんな!」
「帰れ、帰れよ! 国へ帰るんだな! ソニックブーム! ソニックブーム!」
「ヤベー待ちガイルだ! 待ちガイルが部屋の隅でハメガイルやってる!」
「ソニックブーム! ソニックブーム! 上坂カワイイ!」
「そのネタはコア過ぎてわかりにくいよしーちゃん。本人だって、そんなことは言ってないって言ってたじゃん」
「でもわかってくれるお前が好きだよ」
あーだこーだと大声を飛ばし騒いでいると、またもやノックなしに唐突にガチャリ、と部屋のドアが開かれる。見ると優しげな顔で破滅のオーラをまとう死神が、拳をバキバキ鳴らして近付いてくる。その光景を目にした俺は血の気が一気に引いていき死を覚悟した。
「志恩さ~ん、ちょっとうるさいわよ。あんまりうるさいとお母さんの昇竜拳が火を吹く……あら?」
「あっ、おばさんこんばんは! お邪魔してまーす」
「あらあら美知留ちゃんこんばんは。それ、新しいコスなの? よくできてるわね~。」
「わぁ、ありがとうございます嬉しいですぅ! おばさんは優しいな~、しーちゃんは褒めてくれないのにぃ」
「あらそうなの? ごめんなさいねウチの汚物が全然気が利かなくて~。ほらあなたもなにか言ってあげて……あら、この子どうしたの? 部屋の隅で丸くなって震えちゃって」
「たぶんですが、おばさんのことを見て生存本能が開花して身を守ってるんだと思います」
「情けない……。男の子なら迫りくる右ストレートに反応してクロスカウンターをするくらいの気概を見せないでどうするの」
「いや~、しーちゃんじゃなくてもそれは難しいかと」
「そうかしら? あっ、ごめんなさいね話し込んじゃって。それじゃあ美知留ちゃん、ゆっくりしていってね」
「はい! ありがとうございま~す。……ほらしーちゃん、もうおばさん行ったから大丈夫だよ。起き上がって、ね?」
「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ」
「いや超逃げてるし」
産まれたての小鹿のように震えて立ち上がれない俺を、美知留が声を掛け立ち上がらせてくれる。その美知留の介護による温もりに触れ俺の涙腺が崩壊し、さっきから視界がぼんやりしてやばい。だんだんと美知留が美化されていく。俺の中で今日の美知留ちゃん株はストップ高です!
「美知留ありがと……。お前がこんなに優しかったなんて俺、初めて知ったよ」
「もう十五年の付き合いなのに初めて知ったんだ……。ふっ。見返りを求めるような幼い愛なんてもうとっくに卒業してるのよ」
「イケメン抱いて!」
「お前も、お前の夢も、俺が守る!」
「超濡れるぅ、ガバ濡れぇ!」
「昨日までの君は何者でもなかった。伝説は今、ここから始まる」
「どんだけ『マク〇スF』推してんだよ好き過ぎだろお前」
「昨日ニコ〇コ動画で一挙放送やってたもんだからつい」
「あるよねそういうこと」
ごめんストップ高とか嘘。やっぱいつもどおりだったわ。
震えが治まらない俺は、話を聞くためにも心を落ち着かせるようと椅子に腰掛け、美知留は俺の許可なくベットに座った。まあこれもいつものことだから別にいいけど。
「それでなんの用だよ。わざわざ暗黙の了解を破ってまで来るだなんて」
「うぅ、しーちゃん。あたし……あたし……っ!」
「お、おう」
なんだか思ってたよりも不穏な空気を漂わせ深刻そうな顔で
こんなんでも兄妹のように育った仲だ。美知留に本当になにかあったというのなら、助けてやらないわけにはいかない。
固唾を呑んで二の句を静かに待っていると、重い沈黙を裂き美知留が言葉を
「この連休中に完成させようと思ってた衣装が終わらなくて困ってるのぉ」
「お帰りになって、どうぞ」
「ねえしーちゃんホントに困ってるのぉー! 助けてよぉー!」
「うるせー! この世の終わりみたいな雰囲気出して黙って聞いてれば、ただの自業自得じゃねぇか! そこまでして作らなきゃ駄目なのか? イベントとかあったけ?」
「ううん違うよ、ただ作りたいだけ。だって折角の連休だよ。コスしなくてどうするの?」
「いや、宿題やれよ」
俺の返答にスッ、と視線を外される。
「……おい、顔を背けるな。宿題はやったんだろうな」
「しょうがないじゃん忙しかったんだから!」
「お前さっき一挙放送見てたって言ったよな」
「言ってないよ」
「ガバ濡れした俺の気持ちを返して」
「だって折角の連休だよ。バイトしなくてどうするの?」
「宿題やって、どうぞ」
「しーちゃーん、見捨てないでぇ!」
眼尻に涙を溜めて叫ぶ美知留。逃がさないようにか俺の足にしがみついてくる。
「今完成させないと遠足用に来ていく衣装とか、その後には夏コミ用の衣装が控えてるし他にもイベントいっぱいで手を付けられなくなっちゃうの!」
「知らんな!」
「うわあああぁぁぁんネタパクられたあああぁぁぁ!」
「気にするとこそこ?」
ついに泣き出し俺の身体を揺さぶってくる。普段は見せない、近しい人だけに見せる弱気な態度に、ガクガクと揺らされながら俺は考える。どうすっかなこれ。
いやどうすっかなじゃねぇだろ志恩。悩んでる時点でもう駄目だろこれ。
さっさと切り捨てればいいものを。こんな美知留をほっといたらきっと後悔や罪悪感でなにをやっても面白くなくなる。一日中そればかり考えることになるぞ俺。
答えはもう出ていたか。
めんどくさい心情を思いっきり態度に出し盛大に溜息を吐く。それにビクリ、と肩を震わせ落ち込んでる美知留に一言。
「……手伝ってやる」
「うぅ……そうだよね。しょうがないか、無理言ってごめんね。徹夜すればなんとか今日中に……え?」
聞き取れなかったのか、それとも理解できなかったのか。マヌケな面で見つめてくる美知留にもう一度同じことを言う。
「手伝ってやるって言ったの。たくっ」
「……宿題」
「宿題も見せてやるから! だからさっさと準備しろよ、もぅ」
「しーちゃん……! ありがとー!」
「ちょっ!?」
大胆にも遠慮なしに抱きついてくる。勢い余って椅子が倒れそうになるものの机を掴んで体勢を保った。
小さいときから、それこそ物心がつくころから嬉しいことがあると抱きついてくる癖は変わってないのな。あのころとは違ってもう高校生なんだぞ。そろそろ落ち着きを覚えられないのかなコイツは。
ていうかこのスニーキングスーツの布地薄くない? それともまた美知留が太ったの? なんだか柔らかい感触がするんですがっ!
「ありがとーしーちゃん! この気持ち、身体じゃ表せないよ!」
「表してるよ!? めっちゃ表してるから!」
「神さま仏さま志恩さま~!」
「わかった、わかったから早く離れて! あっ、駄目、駄目なのぉ、僕の男の子の部分が反応しちゃうのおおおぉ!」
顔がさっきから熱い。たぶんだが自分で予想しているよりも顔が赤くなってると思う。美知留の顔は隣にあるので、こんな顔を見られてないのが不幸中の幸いか。
ひとしきり抱きしめ満足したのか美知留は離れ、嬉しそうに「にしし」と笑った後、ベランダの方へと歩いていく。
「んじゃあちょーっち待っててね。今準備してくるから~。よっこいしょ」
「待てベランダから行くな、俺の靴を貸してやるから外から行け!」
◇
「じゃじゃ~ん! どう、可愛い? 可愛いでしょ? 可愛いって言っちゃいなよ~。ホリホリ」
「はいはい可愛い可愛い」
「ついでにシャワーも浴びてきた。ぶい!」
「いやその情報はいらない。てか、なんでパジャマなの?」
「外に行く用事ないし、どーせしーちゃんの部屋だし。しーちゃんだって家から出なければ寝巻で過ごすでしょ?」
「いやまぁ、そうだけどさ……」
約一時間ほど風呂に入ったりゲームをしたりして待っていると、パジャマ姿の美知留が荷物を持って部屋に入ってきた。
その恰好がなんというか……。柄物のシャツにカーディガンのようなものを羽織ってるものの、ヘソはチラ見えだし、谷間は見えるし、ホットパンツみたいなズボンで生足見え放題だし。
中学のころはここまで露出の高いものじゃなかったような。やっぱり色気づく年頃ってことか?
「まぁいいや。んじゃあ始めるぞ~」
「オッケー。頑張るぞ~、おー!」
部屋の真ん中に折り畳み式の小さいテーブルを出し、そこに美知留が持ってきた衣装や素材たちを置いていく。学校でも使っている裁縫セットも引っ張り出した。
準備しながら話を聞くと、どうやら『不思議の国のアリス』の衣装を自分なりにアレンジも加えて作っているらしい。小物系は先に完成させたものの、肝心のアリスの衣装が手付かず状態だとか。
美知留のコスプレに対する情熱はかなりのものだ。ちゃんとこだわりを持って衣装を制作している。そうでなければコスプレするだけなら衣装を買えばいいだけの話で、わざわざ自作する必要はないもんな。
宿題を忘れたり、遅刻したり、授業中に居眠りをしたりと意外にもだらしないこの幼馴染はなかなかどうして、衣装作りやロケーションなど趣味のことに関しては細部にまで事に当たる。それだけコイツはこの趣味が好きなのだ。前に「コスって言うのはさ……生き様なんだよね」とか悟ったような顔でアイス食いながら訳わからんこと言ってたし。
そんな美知留を知っているからこそ、俺はなにがあっても美知留のコスに対する想いを
「……ん? どしたのしーちゃん、あたしの顔になんかついてる?」
「鼻」
「もう! 早く終わらせてこっち手伝って!」
「へいへーい」
まっ、そんなこと絶対口にはしないんだけどね、恥ずかしいから。
作業を進め集中しているとコンコン、とドアが叩かれる。俺が返事をすると開かれ、母さんが入ってきた。
「どう、やってる~?」
「母さんさ、美知留がいるときだけじゃなくて、常にノックしてくれません? 男女差別もいいとこだろ」
「もうこの子ったら。大丈夫よ、ちゃんとアレのときは察して入らないようにしてるから」
「…………あ、あの、アレというのはアレのことでしょうか。ちょっと今聞き捨てならないことが」
「美知留ちゃ~ん、良かったらなんだけど」
「ねえちょっと待って! 今かなり重要な話してるでしょ!? アレっていうのはアレのことなの!? アレのことなんですかぁ!?」
「志恩さん、今すぐ黙らないと前歯が一本欠けるわよ?」
「はい黙ります!」
アレの話なんてなかった、いいね?
「美知留ちゃん、良かったらなんだけどご飯食べてく?」
「えっ、良いんですか?」
「もちろんよ~。作業しながら食べられるように、サンドイッチにでもして部屋に持ってくるわね」
「わぁ、ありがとうございます~! あっ、ママに電話しないと」
「大丈夫よ~さっき電話したから。『美知留ちゃん、ウチの息子が貰うけど良いよね?』って聞いたら『オッケー』って」
「それ違う話だよね!? 全然違う話だよね!?」
「あっ、『ご飯もウチで食べさせてもいい?』って聞いたら『オッケー』って」
「ついでみたいに言うなそっちがメインだろうが!」
「志恩さん」
「はい黙ります!」
「あはは、相変わらずおばさんはおちゃめな人ですよね~」
「そうかしら~。あとね、良かったらおばさんじゃなくてお義母さんって呼んでいいのよ?」
「お母さん、ですか? えっとぉ、良いんですか?」
「良いのよ~。だって、娘みたいなものですもの。うふふ」
「わーい!」
どうしようかこれ。色々とツッコむべき? ツッコむべきなの?
悩んでいると母さんは座り、興味深げにまだ作りかけの衣装と設定図を手にする。
「可愛い色使いね~。これはなんのコスプレなのかしら?」
「これは『不思議の国のアリス』のアリスの衣装です。かな~りアレンジを加えてますが」
「そうなの~。これを美知留ちゃんが着るのね~。可愛い美知留ちゃんを可愛い衣装で着飾るなんて、もう最強よね~。周りの男の子たちは黙ってないわよ~」
「えぇ!? 可愛いだなんてそんなそんなぁ、えへへ!」
「可愛いわよ~。これを着ていったらきっと学校でもモテモテね」
「いや~モテモテだなんてぇ。それに~、別にモテなくていいというか~、一人で十分というか~そのぉ~……ね?」
「……いや、なんで俺にフるんだよ。反応できないだろうが」
「「はぁ……」」
俺がそう言うと、まるで合図でも決めていたかのように二人が溜息を吐く。母さんに至っては頭が痛いのか額を手で支えている。
え、なに、どゆこと? もしかしてなんかのネタだった? 俺ボケを殺しちゃったわけ?
「まぁこの子のことはいいでしょう。それにしても学校とか懐かしいわ~。お母さんも若いころはそりゃあもうモテたのよ~。迫ってくる思春期の男の子たちをちぎってはハメ、ちぎってはハメ」
「ハメるとか言うな投げると言え」
「たくさん経験したわぁ」
「格闘技の話だよね?」
「皆お母さんの前に
「父さんから聞いたんだけど、リアル『俺の屍を超えてゆけ』状態だったんでしょ?」
「お母さんの魅力に吐血する人も後を絶たなかったわ~」
「魅力とかワロス。無茶すんなババアひでぶっ!」
ズドン、という鈍い音と共に脇腹に痛みが炸裂する。母の鉄拳制裁により身体はわずかに浮き、痛みは奥へと走って反対側まで衝撃となって突き抜けていく。そのまま横に倒れよだれをまき散らしながら、腹を抱えもがき苦んだ。
ヤベ殴られたいてぇ! なにかが
「お母さんに向かってババアだなんて……。イケナイ子ね」
と柔和な笑みに影を差して見下してくる死神。
「……元全国高等学校空手道選抜大会優勝経験者の母上様……いまだ老い知らずのお美しい母上様……どうかその鉄拳で殴ってこないでください……息子は死んでしまいます……」
「そんな
「ウゾダドンドコドーン……」
「それじゃ、あ母さんは夕飯作ってくるわね~。美知留ちゃん、この子をよろしくね」
「はぁい、おまかせです~。ほらしーちゃん早く座って、まだまだ作業はこれからなんだから」
「……あの、少しは、心配、してくれません、かね」
「はいはい、文句は終わってからね~今は口より手を動かして頂戴ね、っと」
もうやだ、なんなのこの母親と幼馴染は……。
それからは食事をしたり休憩を挟みながらも作業は順調に進み、面倒なフリル付けやらボタン付けやらをこなしていった。中学のころから衣装制作の手伝いを強制させられ慣れていることもあり、細々としたことにも戸惑うことなく縫い付けていく。
「ん、そっちは一つ進んだかな?」
「おう」
「よし、それなら次は、こっちのこれで」
「あいよ」
言葉数が少なくても意図することがわかるくらいには、美知留の指示に迷うことなく早々に従う。自分でこんなこと思うのもなんだが、巻き込まれることへの順応ぶりが板に付き過ぎだろ俺。
「んふふ」
「ん、なに?」
「ううん別に~。ただ、しーちゃんってあたしの言うことに従い過ぎっていうか、順応ハンパないよね~」
「お前が言うなや」
ていうか同じこと考えるなや。
時計を見るとちょうど十一時。俺を含めたオタクの皆様方は本気を出す時間帯だが、それはアニメやゲームなどの娯楽を堪能するための時間に限った話だ。作業をしながらだと睡魔が
「なぁ美知留。この調子なら俺一人でも最終工程までやれるから、お前は宿題やっちゃえよ」
「えっ、でも」
「衣装も大事だけど宿題だって大事だろ? 最後の仕上げと確認はお前と一緒にやるからさ、少しでもいいから進めとけって」
「しーちゃん……。うん、りょーかいであります隊長! えへへ、だからしーちゃん好きなんだよねぇ~。もう、しーちゃんだーい好き」
「はいはい俺も好きだよ」
「隊長、心が籠ってないであります!」
「宿題をやれであります」
「サー! イエスサー!」
夜遅くの狭い部屋に男と女が面と向かって好きだとか言ってるのに、これっぽっちも色気を感じないのはなんでなのかな。
昔と比べて美知留は随分と可愛くなった。というか女っぽくなった。出るところは出たし、引っ込むところは引っ込んだし、なによりも雰囲気が変わった。その雰囲気ってのは上手く形容できないけども、例を一つ挙げるなら、ちょっとした仕草に見ていてドキッとすることが多くなった。まぁそれだけなんだけどさ、あとは大して変わってないし。
よく笑うし、明るいし、前向きだし、おちゃめだし、楽天家の超絶ポジティブだし。もちろん悪いところだって変わらずで、勉強に関する集中力のなさは自他ともに認めるほど。だからほうっておくと、
「つんつん、つーん」
「あの痛いんで手をシャーペンで突っついてこないでくれません?」
「つーん」
「指なら良いって問題じゃない」
ほらこうなる。
一息入れるために休んでいるところをなぜ邪魔してくるのか。
無視を決め込んでも、なおも突っついてくるので仕返しにと指でやり返す。そのうち人差し指で剣のように
「いい加減にせぇよ! その指男子高校生のなんてことない平均握力で潰してやらぁ!」
「しーちゃん卑怯! それは痛いであります!」
「うるせー! 俺がルールだ、新世界の神だ!」
「粉バナナ! 粉バナナなの!?」
「松岡〇丞だ!」
「チートや! ビーターなの!?」
「俺だって、パンツのマンガ書いてアシスタントさんや編集者さんみたいな美少女たちに囲まれたいよ!」
「そっちだったかー」
結局はこんなふうにふざけてしまう俺たちだが、こんなのは今に始まったことじゃない。肩がぶつかればぶつかり返して最終的に押し合いになるし、気に食わないことがあれば頭を叩くし、泣きそうになったらすぐに「ごめん」と謝る。幼馴染なんてそんなもんだと思う。
勝敗のない手のつぶし合いはやっぱり勝敗が付かず、無駄な労力を増やすだけに終わる。「ぜーはー」と肩を揺らす俺たちはお互いに息を整え、視線で平和条約に合意し和解した。でもなぜだか手は離さない。ていうか離してくれない。
黙っていると、美知留が人差し指の先で俺の人差し指の先を撫でてくるのでやり返す。親指で手の甲を撫でてくるのでやり返す。なんだかくすぐったい気持ちを
「……」
「……」
な、なにをやってるんだ俺たちは。あれか、深夜テンションってやつか?
美知留は手を見てニヤついているし、喋ってくれないしで、これ一体どういう状況なんだ?
駄目だこの空気耐えられない。話題を変えよう。
「お、おも、お前さ」
「なにどもってるの?」
「そういうのは思ってても口にするんじゃないよ、恥ずかしいでしょうが! お前なんでサイドテール作ってるんだよ」
「えっ? なんでって、駄目?」
「いや駄目じゃないけど、シャワー浴びたんだろ? 髪結んじゃったら跡になっちゃうじゃん」
「あっ、うん……」
「……なんだよ」
言いにくいことを言った覚えはないつもりだけど。
顔を伏せる美知留は、繋がってる手とは反対の手で頬を掻きながら上目使いで答える。
「……この髪型が可愛いってしーちゃんが言ってくれたから。可愛い方が良いでしょ?」
「っ!」
心臓が跳ねる。ドキッとするのとは違う、上手く言えないがそんな浅い跳ね方じゃない。一瞬頭が真っ白になるような衝撃のようにも思える強い感覚に、瞬時に頭に血が昇り顔が熱くなる。
なんだかクラクラしてきた。実は熱でもあるんじゃないかと勘違いしてしまうほど、自分という存在について曖昧になってきた気さへする。呼吸の仕方ってこんなんだったっけ? 俺っていつもどうだった?
いろいろとよくわからなくなってきた。それでも、いまだ繋ぎ合っている手から脈動を感じ、脈の唸りが速まっていることはわかる。それは自分のものなのか、それとも……。
沈黙が辺りを呑み込み、心臓の音だけが確かとなった世界で俺と美知留は静かに見つめ合っている。
なんで視線を逸らしてくれないんだよ。そしてなんで俺は逸らせないんだ。
手を離そうと
こんなに顔が熱いのも息苦しさを感じるのも、きっとさっき暴れたから、その反動が今になって来たんだと思う。そうじゃなきゃ美知留がこんなに赤い顔をしてる説明がつかない。どうしてそんな照れくさそうな顔で俺を見てくるんだ。そしてやっぱりこれは今どういう状況なんだよ。わかる奴がいたら今すぐここに来い、そして俺に説明しろ!
小さくて小さすぎるテーブルという名の障害物は障害物としての役割を全く果たせず、だんだんと美知留が近付いてきて……。
……ハッ!
第三者の視線を感じ我に返る。視線を感じる方角に首を動かすとドアが少しだけ開かれている。そこには。
わずかな隙間から柔和な笑顔でこの状況を見ている母の顔。
「きゃあああああああぁぁぁぁぁぁ!」
深夜の有坂家に甲高い悲鳴が響き渡る。
俺の悲鳴なんですけどね。
母の存在に気付いた俺たちはパッと手を離し後ろに隠す。距離も少しだけ取る。この行動になんの意味があるかはわからないけども、なぜだかしなきゃいけない気がしてならなかった。
「チッ」
今あの母親舌打ちしなかったか?
何事もなかったかのように部屋に入ってきた母さんは、わざとらしくお盆を見せ俺たちに
「頑張ってる二人に夜食をと思って持って来たんだけどもなんだかラブコメってて邪魔しちゃ悪いかなと思ってとりあえず様子を見てたってだけでまさかあんなことになってるだなんて予想外というかチャンス到来というかいやもうホント偶然で奇跡的に偶発的に見ちゃったってだけでたまたまなのよ~」
とか言ってきちゃう職業主婦兼母親、有坂雫今年三十八歳。よくも白々しくそんな嘘が言えるなこの親は。
「おほほ」と口元を手で隠し笑い、テーブルに夜食を置き俺へと手招きする。
「志恩さん、ちょっとこっちに」
「なに?」
「いいからこっち来なさい」
いろんな意味で空気を
「なに、なんか用?」
「……志恩さん、貴方ももう一五歳ね」
「いきなり語り出したな……。はぁ、そうですが」
「思えば、お母さんとお父さんが出会ったのが十五のときだったわ。とある晴れた日、不良たちに絡まれているお父さんをお母さんが
「立場逆じゃね?」
「それでいろいろあってお母さんたちは付き合うことになったんだけども、なにせ今までそういった色恋に恵まれなかったものだから、そういうことにも奥手だったのよ」
「はぁ……?」
「でも最近の子ってそういうのが早いって聞くじゃない? 別にそのこと自体は悪いとは言わないけども、でもそれならそれで、もう少しいろんなことに気を配るべきだと思うの。自分の環境しかり、相手の都合しかり、将来しかり。それってとても大切なことだと思う。お母さんだって
「訊いてません」
「懐かしいわ~。新婚旅行で北海道に行ったんだけどね、そこで野生のヒグマに遭遇しちゃったもんだからお父さんが腰を抜かしちゃったの。でもお母さんは『この人を助けられるのは私しかいない!』と思ってクマに戦いを」
「その話、長くなります?」
「……そうね、本題はそこじゃなかったわ。つまりお母さんが言いたいのは、そういうことになっても良いけどちゃんと相手のことを考えてほしいってこと。無責任なことをしちゃ駄目」
「……あの、さっきから『そういうこと』って言ってるけどもなんのことなの? 話がさっぱり見えないんだが」
「志恩さん」
俺の右手を取りなにかを握らせる。両手でしっかりと握らせ渡し、真摯な瞳で告げてきた。
「貴方にこれを渡しておきます。いつでもちゃんと持っておきなさいね」
「お、おう」
なんだろうか。特に
それは薄いタイプと書かれているコンドー○箱だった。
「さっきコンビニで買ってきたの。大事に使いなさいね?」
「アンタなにやっちゃってんの!?」
「だって必要でしょう? 貴方童貞なんだからこういうのわからないと思って」
「どどど童貞ちゃうわ! 童貞だけど! いやそうじゃなくて!」
「次からは自分で買ってね?」
「まだこれに世話になるつもりはないわ!」
「まだ?」
「世話になるつもりはないわ!」
「えっ……常に本番なの? お母さん的には、そういうのはせめて高校を卒業してからに」
「帰れ、帰れよ、国に帰れえええぇぇぇ! ソニックブーム! ソニックブーム! ソニックブーーーム!」
「なにやってるのかしらこの子は……」
「育て方を間違えたかしらみたいな目で見てくんなよ! アンタの息子だろうがぁ! ええい、もう!」
「えっ、あっ、ちょっと、志恩さん?」
色ボケ母さんの手を無理矢理引き部屋まで戻る。部屋で宿題をやって待ってた美知留と合流し、母さんを座らせた。
「しーちゃんおかえり~、お母さんいらっしゃいませ~。えーっと、これはどういう状況ですかなー?」
「母さんが暇だから手伝いたいんだってさ。だから連れてきた」
「志恩さん?」
「えっ、ホントですか! それはとても助かりますぅ!」
「あ、あれ、美知留ちゃん?」
「んじゃ母さんは衣装の方頼むわ、俺は美知留の宿題手伝うから。残りの部分を設定図とおりにやってくれればいいから」
「え!? いやでもほら、お母さんがいない方が二人にとってはいろいろと都合が良いんじゃないかしら?」
「そんなことないですよぉ。お母さんがいてくれたら百人力ですよ!」
「だってさ。人手は多い方が良いし、俺も早く終わらせて寝たいから手伝ってくれ」
「あ、あれ~~~?」
こんなはずじゃなかったのか首を傾げ困り顔で俺たちを見てくる。しかしそれはわずかなものでしかなく、すぐにいつもの柔和な笑みへと戻っていった。
「んふふ。人には人のペースがあるものね。焦らず慌てず進めばいいもの、とりあえず良しとしましょう」
そんな訳のわからないことを言いながらも、流石母親をやってるだけあってか乱れることない
「ほらほら手が止まってるわよ。早く宿題を終わらせちゃいなさい」
「そうだな。俺も手伝って書き写してやるからさっさと終わらせるぞ美知留」
「あいあいさー! もう夜も遅いしね、あんまりふざけたことしちゃ駄目だよしーちゃん?」
「お前が言うなや引っ叩くぞ!」
母さんを交え三人で狭い部屋にこもり作業を再開する。さっきまでの理解不能な空気はとっくに姿を消し、なんてことない日常にただいまをした。この光景を目の当たりにし、緊張の糸が切れたこともあり一人誰にも知られることなく胸をなで下ろす。
でもどうしても気掛かりになっていることがある。
あれは、あの美知留は一体なんだったのか。どうしてあんな顔をしていたのか。その謎がいまだに頭の隅から離れずこびりついている。俺はあれに、どう接すれば良かったのか。
でも、まあ、うん。まぁいいだろ。
そういう気の迷いなんだろう。まだ短い人生だけども、そういうこともあるんだと思う。そう思うことにした。
◇
「なんか痛いし重い」
翌朝。
痛みと重みによる息苦しさを感じ、そんな第一声を呟いて俺は目を覚ます。顔を動かすと、俺の頬に正拳突きをめり込ませて寝ている母さんと、俺の腹を枕のようにしてうつ伏せで寝ている美知留が視界に入った。
どんな寝相してるんだよコイツらは……。
投げ捨てるように二人をどかす。見渡すと積み上げられている宿題と完成されてる衣装が机の上に置かれていた。どうやら無事完成したと同時に力尽きてみんなして床で眠ってしまったらしい。安堵の気持ちの表れか、いつもよりも大きなあくびをしてゴールデンウィーク明けの新鮮な朝を迎えた。
……なんだかいつもの朝よりも空が明るい気がするな。気のせいか?
カーテンの隙間から差す光の強さにそんなことを思い、寝惚けた頭をなんとか回転させスマホを手探りで見つけ出す。ボタンを押しディスプレイに表示されている時刻を確認すると。
《5月8日(月) 9:15》
「一限目始まってるじゃーん!」
すぐさま二人を揺らし起こす。
「おい美知留起きろ! 学校だぞおい美知、いやそれよりも、母さん起きろ! おいアンタ仕事は!?」
「う~ん……ゴールデンウィーク延長しま~す……」
「できるかよ! カラオケじゃないんだから!」
「じゃあ今日はお休みしま~すむにゃむにゃ……」
「この駄目親がぁ! この駄目親にしてこの駄目息子ありかよ、どうしようもねぇなこの家系は! おい美知留起きろ学校始まってんぞ!」
「う~ん……もう
「そりぁあね!? フルコースだからね!? 寝惚けてないで起きろ、ちょい、美知留、おい、美知留ううううぅぅぅ!」
その後、二時限目の体育の時間に遅刻しながらも間に合い、体育教諭に罰として機材の片付けを命じられる羽目となった。
ちなみにコン〇ームはちゃんと毎日持ってるそうです。