「とうっ!」
「あっ」
帰り道の自販機の前、ガゴンと120円と引き換えに缶が落ちてくる。その様子を春明とひかりは揃って眺め、缶を取り出すこともなくお互いを目で牽制し合う。
ほら取れよ、と春明は顎で取り出し口を示すものの、ひかりはそれに従わず遂には両手を挙げて威嚇を始めていた。
ピリピリとした空気が二人の間を漂う。一触即発、爆発寸前。タダならない空気。
「……押したのはひかりだよなあ?」
「大丈夫、これ私からの奢りだから!」
「タダになるからって許されることじゃ、な、い、ぞ!」
「いたたたた! 肩を強く掴むのは駄目ぇ!」
正面からひかりの両肩に優しく手を置き、親指をシャツ越しにひかりの肌へぐいと押し込める。次いでタオルを絞るように手に力を籠めれば、ひかりは悲鳴と共に春明の腕を降参とばかりに叩く。
「で、これどうするよ」
「あ、ブラックだったんだー」
掴んでいた手はそのままに、力を弛めて春明は取り出し口へと視線を落とす。そこにはほとんど黒に塗られたスチールの入れ物が一つ、企業のロゴと白で塗られた『BLACK』の文字が、まだかと言わんばかりにこちらを向いていた。
つまり缶コーヒーで、その中でも甘さの欠片もないブラックコーヒーだった。春明は微糖までは飲めても、無糖となれば流石に飲めない。ひかりもこの様子では同じだろう。
「ひかりぃ……まさかお前」
「うん、見ないで適当に押しちゃった。て、てへっ――いだだごーめーん!」
判決、有罪。テヘペロと可愛い動作をされても、許す許さないの判断に影響はない。
ぐりぐりと肩を優しく揉んであげれば先ほどの光景が再び繰り返される。十秒ほど続ければ春明も気が済んで、放置されたままの缶を乱暴に取り、片手でお手玉の様に遊ぶ。
「はぁ……タダになるならしょうがない」
「飲めるの?」
「まあ、高校生にもなればブラックくらい飲めるだろ」
もちろん、嘘である。高校生になって三か月、進学してからは飲めるどころかチャレンジすら今日が初めてという有様。
缶コーヒーの蓋に指をかけ小気味良い音と共にそれを引き起こす。密閉されていた缶が開き、真っ黒い中身が小さな出口から顔を覗かせていて、春明は口を付けて少しだけ流し込む。
濃い味が一瞬で口に広がり、容赦ない苦みが舌を蹂躙する。春明は我慢できず、「にげぇ」と顔を顰め、缶を凝視。やっぱり無理なものは無理だった。
「ぷっ」
「元の原因はひかりなんだけど」
はるあきの こうげき!
ひかりは ひらりと みをかわした!
春明の舌打ちが流れる。三度目になれば手を伸ばした時点で警戒して一歩後ろに飛んで避けられてしまう。へらへらと余裕そうに笑うひかりの姿に、知らず知らず缶を持つ手に力が入る。
「飲め」
「え゛」
「そう遠慮するな、元はひかりのお金で買ったものだし」
「いやー……私はほら、飲めないから、あはは、全部春明が飲んで!」
全力で遠慮するひかりに春明も全力で勧める。良く言えば仲間に、悪く言えば道連れに。中身を零さない程度に缶を押し付けてしつこく。
「そ、そもそも! 春明が口付けてるじゃん! 間接キスになっちゃうよ!?」
「……言われてみればそうだな」
言われてみて気付く。確かにこれは間接キスに値することだ。
が、それは関係ない。そもそも間接キスなど気にする間柄ではないはずだ。何せ恋人である。まだ経験はないが、間接どころか直接キスをする時がいつか来る。なのに間接ぐらいで動揺してはその時どのような取り乱しをするかわかったものではない。
いつ直接するかの見通しは不明だが。こういうのは雰囲気が重要で……そこまで考えて思考がズレていることに気付く。とりあえず今は、如何にこのコーヒーを飲ませるか。
「でもほら、間接キスくらいどうってことないでしょ」
「あ、あ~る~よ~! え? なんで? なんで冷静なの!?」
「だって間接だぞ?」
両手を身体の前で握り、羞恥に耐えているひかりに対して春明はコーヒーを差し出したまま。
「う~~ん、そもそもコーヒーって私と相性悪いんだよねぇ」
「え?」
「なんか、成分がどーの、とか? だからコーヒー牛乳とかはまだ平気なんだけど、コーヒーまんまで飲むのはオススメしないって昔言われたの」
「あー、体質かぁ……じゃあしょうがないなぁ」
大分要領を得ない言葉だったが、事情が事情ならば春明も素直にコーヒーを飲ませようとも思わない。というか、それならそう言えと春明は言いたかった。コーヒーの苦さで顔を歪ませるひかりが見れないのは残念ではあるが。
「ココアとかは平気なの?」
「え? 大丈夫だけど」
「はいどーん」
屈んで床へ缶を置き、ちゃりんちゃりんとコインを三枚、自販機へと流し込んで冷たいココアのボタンを一突き。ひかりが制止する間さえなく、「ちょっと待って」と言う頃には鈍い音と共にココアが吐き出されていた。
「俺だけ飲んでるってのもあれだし、ほれ」
「そんな気を遣わなくても」
「気遣いとかじゃなくて、俺が心置きなくコーヒー飲むためだと思え、いやマジで」
「何それ~! ……じゃ、もらおっかな」
軽い動作で投げた缶が、目の前にいるひかりの手に落ちる。軽快な音の後にひかりがココアを飲む。「おーいしー!」と笑顔の横で、春明は一口一口ゆっくりと飲み進める。
苦い、その一言に尽きた。とにかく口に残る。匂いと苦みが口内でとにかく攻撃されていて、もう顔は歪みっぱなしだ。
「そんな無理して飲まなくても……」
「買ってもらったものだし、勿体ないだろ」
120円、されど120円。出されたものはきちんと全部食べるべし、飲食物のお残しはいけませんと両親に口酸っぱく言われてきた。お金を払って買ったものならそれは尚更。約200mlの小さな缶ならばちょっと我慢すれば飲み切ることは不可能ではない。
ちょっとした会話をしながらちまちまと飲み続けてしばらく、もう飲み終わったのかひかりは両手に缶を持ったまま、春明をちらちらと見ていた。
コーヒーも残り少し、やっとこの強敵に勝利を収める時が来たのだと感慨深くなる。味も密度も濃いひと時の終わりが目前ともなれば、たまには良いものだとすら思える。
「……飲み終わった?」
「あと一口ぐらい」
「貸して」
ひかりは右手にココアを持ち、左手が開かれていて早く缶をよこせと言わんばかりにぐいぐいと動いていた。
しかしさっきの話では身体に良くなさそうという話だったし、間接が云々で渋っていたがどんな心変わりをしたのだろうか。何を考えているのかわからず、素直に渡していいものかと悩んで中々渡せない。
「別にちょっとだけなら問題ないし! だからほら! 早く!」
「いやでも」
「い~い~か~ら~!」
「ちょ、あぶねぇ!」
まるで先ほどとは立場が逆で、春明が渋っているとひったくるように春明から缶を奪い、代わりにココアを押し付けられてしまった。
そこまでは勢いがあったが、春明から奪ってすぐに缶を見たままひかりは動かない。何かと戦っているかのように一心に缶を見つめたままで、その様子を見ていると視線に気付いたのか肉食動物のような唸り声で牽制されてしまった。
こうなるとあまり刺激すると反応が怖い。とりあえずのところ、手元にあるココアをどうにかしよう。
「じゃあこれはもらっとくね」
「……! っ!」
押し付けられた缶を改めて確認してみれば、中身はちょっと以上に残っていて、口直しには丁度良さそうな量が入っていた。これを見越して残してくれていたのなら、ありがたいことだ。
温くなったココアは冷たい時に比べればやはり味は落ちる、しかしひかりの飲みかけだと思うと、未開封の冷たいココアより貴重な物。一気に呷れば、身体にちょっとした熱さを残して春明の喉へと落ちた。
飲んだ瞬間、横で面白いように表情を変えたひかりがいたのは突っ込まないことにする。多分、突っ込んだら滅茶苦茶叩かれる。
「春明、ちょっと顔赤いじゃん」
「……夏だからな、暑いんだよ」
痛いところを突かれて思わずぶっきらぼうに答える。これが冬であったなら、夕日のせいだなんて言い訳も出来たかもしれないのに、夏が間近の今では確かに傾きつつあるものの、照れ隠しの原因にするには空色のままだった。
言い訳をすれば友達との間接キスはどうでも良いのは本当。ただ、好きな人との間接キスはどうしても意識するところがあった。それだけの話。
また一つ勉強になったなぁと春明は思った。
「……~~んっ」
ニヤニヤと笑みを浮かべて肩を突いてきたひかりも、それからすぐにコーヒーを呷る。
そして表情を崩して心からの感想が一つ。
「にっがぁ~~い!!」
「知ってた」
予想していて、回避不可能な結末だった。コーヒーとはまた違った苦笑いを抑えきれない。
しかしこれでお残しもなく無事討伐完了だ。強敵だったが二人でかかればどうとでもなる。コーヒーの80%ぐらいは春明一人の手によるものだったが、最後の一口はひかりだった訳で。
「飲み終わったしさっさと行くか」
「いつも悪いねー春明さんや」
「俺がやりたいことだし、気にする必要などありませんよひかりさん」
ちょっとした小芝居しつつ、自販機横のゴミ箱へ缶を捨て、向かい合っていた二人は並んで歩みを進める。
今日はいつものお手伝いをする日だった。ひかりの両親には既に一段階進んだことはバレていて、それ以降春明を見る目が若干温かくなったのは別の話。
あとは、ひかりのいないところで、父の浩二と妹のひまりから「朝起こしに来てはどうか」と割と本気の表情で提案を受けていたり。寝起きが酷い姉と言えど、流石に朝に彼氏から声をかけられれば一瞬で起きるだろうとは妹の談。春明はひかりに同情しつつ、面白そうですねとノリノリでその提案を受けた。近い日に決行予定だ。
「な~んか変な事考えてない?」
「いやちょっとコーヒーの味を思い出しただけだから」
「ふ~ん……私、ブラックは二度と飲まない……」
「俺も自分からは飲まないよ……」
コーヒーは苦くて辛かったが、二人の空間は甘さしかなかった、かもしれない。