日下部春明の朝は早い。いや、普段は早くなかった。割とギリギリまで自宅でゆっくりして、学校へ着く直前に走ったりする日があるぐらいには学校へ行くのが遅い。
けれども週が始まった月曜日、小鳥遊家から御暇して半日も経たない内にまた呼び鈴を鳴らしていた。
呼び鈴を一回鳴らせば、すぐに小父さんがドアを開いてくれた。おはようございます、と挨拶をして玄関横の階段をとんとんと登って行く。目標の場所は二回のとある部屋。
「あ、おはようございます」
「あれ、おはようひまりさん」
目標の部屋の前で、ドアによりかかって番人のように立っていたのは小鳥遊ひまりだった。
体重を預けていたドアから背を離し、春明を一瞥した彼女はドアを開けて向き直る。
「姉を、よろしくお願いします」
なんてことはない、ひまりは番人などではなく、春明の仲間だったのだ。今から入る部屋の主、その双子の妹であるにもかかわらず、ひまりは部屋唯一の出入り口の守りを放棄した。
春明の足が止まる。
「入らないんですか?」
「いやどうにもね」
「今更ですよ、昨日と同じようなものですから」
春明の視界にはドアの向こうから見える部屋があった。机の上に並んだ漫画、その横にある可愛い吸血鬼らしきぬいぐるみ。真っ白な壁と部屋の窓はピンク色のカーテン、そして床は緑のカーペットが敷かれていて、思ったよりは片づけられていた。
昨日は本人にアポを取らずの来訪だったため、確かにそれと同じと言われれば確かだ。覚悟を決めて一歩。良い、匂いがした。
「ほら起きろ、朝だぞ」
目的の位置まで数歩。すっと屈んで、遠慮気味に手を伸ばして肩に振れ、そのまま左右に揺らす。
彼女は安心しきった顔で、すぅすぅと規則正しい寝息をしていたが、それによって眉間に小さな皺が浮かぶ。
「もぉあさぁ……?」
「そうそう、早く起きないと学校遅刻するぞ」
「だぁいじょーぶだいじょーぶぅ……」
起きる気配がない。え? まじ? と顔を向けてみればいつもの事とひまりが首を横に振った。まじだ。
「ほら、起きてひかり、お前が起きないと俺も遅刻しちゃう」
「ひまりはけっきょくわたしおいてっちゃうじゃ~ん……」
朝に弱いことは聞いていた。それでも、自分とひまりを間違えたことに春明はほとほと呆れる。
「誰がひまりだよ、ほら起きろ!」
「きょうは……ゆらすんだねぇ……あと、こえ、ひくい……」
ぐらぐらと、より強く揺らせばようやく彼女──小鳥遊ひかりがやっと起き上がる。
それでも眼はほぼ閉じられていて、ここで起きたかと油断すればあっという間に夢の世界へ戻るのは明らか。仕方ないのでしっかりと声を張って伝えるのだった。
「俺はひまりじゃなくて春明だよ、ほら、一緒に学校行くぞ!」
「んぅ~~~~?」
ごしごしごしと目を擦り、とろんとした声色で疑問を浮かべたひかりの、視界があるのかないのかわからない目が、こちらに向いた途端、ふらふらと揺れていた身体がぴたっと止まる。
徐々に開かれた目はやがてくわっと見開かれ、広がる光景を受け入れられないというか、驚愕で思考が止まっていることがありありと読み取れた。
「……はるあき?」
「おう」
「おはよ~」
「うん、おはよう」
「…………」
「…………」
後ろから小さく笑いを堪える音が聞こえてくる。面白くて面白くて仕方がないようだ。
朝の大事な挨拶から数秒、奇妙な静寂が春明とひかりの間を通り過ぎ、
「な、なんではるあきがいるのおおおお!!」
「いやだってお前が朝おぎっ!」
薄暗い部屋に走る絶叫。布団を掻き抱いて、後ずさってヘッドボードにぶつかる。
何故ここにいるのか、その謎に答えんと口を開いた瞬間、春明の視界に広がったのは白色。
混乱極まった小鳥遊ひかり、手元にあった白い枕を思わず投げてしまった故の悲しい事故。
枕が直撃する音とそれを見て余計に笑うひまりの声、それはどちらも軽かった。
──────
「んふ……!」
「あの、ひまりさんいつまで笑ってるんですかね?」
「ご、ごめんなさい、でも……!」
いつもと変わらぬ通学路、坂道を登りながら、転落防止柵の向こう側に見える木々と街、そして同じ制服を着た高校生もほぼ毎日見るソレだ。
けれど横を見ればいつもとは違う風景になる。昨日まではあんなに焼けていた肌もすっかり元通り、けれど顔だけは恐らく怒りで赤いままひかりと、朝のあれから食事を経て今に至ってまで、ツボに入ったのかちょくちょく思い出し笑いをしているひまりさん。
こっちは朝食の時はパンを落としかけ、ひかりの髪をセットする時には手元を狂わせてひかりの悲鳴があがり、ちょっとした段差に足を取られて転びかけ、もう支障がでまくってる有様だった。
「でも、酷くなーい? 乙女の寝顔を盗み見るなんて!」
それはそれとして、ひかりの方は常に機嫌が悪かった。
いつも通りのはずだった朝、眠気が良い感じに心地よさを与える中、信頼しきった妹に髪をセットしてもらうのは毎朝の楽しみだったのに。
今日に限ってはいないはずの彼氏である自分が目覚まし役をしていて、それに思いっきり枕をぶつけた結果、朝の至福のひと時は髪を変な方向に引っ張られて毛根への一撃と化す。
ちなみに俺はと言えば、顔面にダメージを負ったものの、永久保存レベルと言っても大言でないひかりの寝ている顔を拝み、小父さんと小母さんからありがとうと言われて割と得しかしていなかった。
「いやでもひかりが朝は弱いって聞いたから」
「う……でも、なんか一言くらいさぁ~~」
そんなものはない。いや、俺は悪くない。
「だって、ひまりさんが」
「お姉ちゃんは一度くらい朝にちゃんと起きなかったらどうなるか分かった方がいいのよ。勉強になったでしょ?」
「う、ぐ……」
「私は前々から朝はちゃんと起きてって言ったのに、自業自得よ」
言葉が重い。長年ひかりの寝起きの悪さに付き合ってきたからこそ言えるのだろう。優等生である彼女が遅刻しかけたことは一度や二度ではすまない事も、本人から良く聞いている。
前日、帰る前にこっそりと話した彼女は「言ってやらせて、それでも変わらないなら仕方ないです。日下部さんがいてくれて助かりました」と。俺もそんなことで存在を有難がられるとはまったく新鮮な体験だった。
「うぐぅ……」
「ぐうの音もでないとはまさにこのことだなぁ」
「ぐうとは言ってますけどね、久々にお姉ちゃんに対してスッとなりました」
この妹、本当に容赦がない。
「朝ちゃんと起きれば、日下部さんに寝顔を見られる事も、私に見捨てられる事もないじゃない」
「むむむむ……明日から、ガンバリマス……」
うんうんと唸って、やがて受け入れたらしい。明日から、出来るかどうかはまた別として頑張ろうとするのは大事なことだ。彼氏として、手伝えることは手伝わなければならないと使命感が湧く。
「じゃあ俺も出来るだけ朝迎えに行くか」
「え゛」
「あ、いいですねー」
「で、でも朝ごはんとかどうするのっ」
「早めに食うか、ま、道すがらで食ってもいいよなって」
これくらい、ひかりの頑張りに比べればなんてことはない些事である。
「うん、頑張る……」
今度はがっくしと肩を落とす。一日二日で出来る事でないのはひかり自身がわかっているのだろう。もうあと何度か寝起きを見られることに諦めがついたのかもしれない。
「それはそれとして、昨日も思ったけど小父さんと小母さんは本当に料理が上手いよね」
「えぇ、もうずっと私達のご飯作ってくれてますから」
「二人はどうなの? ご飯とか」
「私は趣味の範囲になりますけど」
「ひまりさんは流石だね」
ひまりさんは本当に隙がないなと思う。当たり前のことだと言い切った彼女は、ひかりに関する事以外で弱点はまったく見当たらないし、想像が付かない。うーん、すごい。
「はいはーい! 私も出来るよー! えっへん!」
「さいですか」
「反応うっす!?」
「え? 本当? マジ?」
「私だって料理くらいするよ!」
「日下部さん、姉は本当に料理が上手なんですよ」
「え、えぇ……?」
こんな、朝も起きられず忘れ物もしょっちゅうして落ち着きがなく、挙句の果てには時間のかかる髪型を自分でなく妹にやってもらうこの駄目の烙印を全身に押される、ひかりが、料理を作れる……?
「ふっふーん、吸血鬼として当たり前のことなんでっす!」
「吸血鬼は料理が上手くないといけない決まりでもあるの……?」
ひかり曰く、正体を隠していた昔の吸血鬼は、自分の城に客人を招いてそれから血を得ていたという。その客人を歓待するには吸血鬼にも一定の料理スキルや接待スキルは必要なのだと。
それを聞いた俺は思った。
「それ、漫画で読んだわ」
「よ、読んでたんだぁ~~……」
そりゃあ、吸血鬼を題材にした漫画である。つい最近読んだこともあってはっきりと覚えていた。ちょっとしたことですぐ死ぬ吸血鬼と、強いのか強くないのかよくわかんない吸血鬼ハンターのでこぼこコンビを描く漫画で、中々面白かった。
ま、その内容をドヤ顔で語るひかりは見てて中々愉快だった。
「そ・れ・にー! パパとママからみっちり教えて貰ったし!」
「お姉ちゃん、一気に上達したんです。私より料理の腕は上ですよ」
「へえーじゃあ、ひかりが起きれるようになったら朝ごはんは持って行かなくてもいいかなぁ」
「私が作ること決定してる!?」
「それを待たなくても、私達は時々ご飯作りますよ? 本当に時々ですけど」
「料理のやり方を知ってても作らないとどんどん忘れちゃうからって!」
なるほど、確かにそれは言えている。大分前に飽きたゲームを久しぶりにやると、勝手がわからず失敗したりとかで経験がある。すぐに感覚を思い出して昔の通りに操作できるようになる。が、料理でそれが起こると主にそれを食べる人が現実で被害を被るから笑えない。
「ひかりの手料理、食べたいなぁ……」
彼女の手料理とは、即ち男子の憧れである。
「気、気が向いたら、ね」
「そりゃまた」
ううむ、ひかりにとって手料理は簡単に振る舞う程軽くはない、ということか。
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