数十分前に年は明け、二年参りも済ませた。小町の合格祈願のお守りも買った。
あとは、折本と二人きりの状況から逃げ出す、もとい帰るのみ。
が、どうやら俺の新年は、
折本が境内の露店で色々と物色するのを見て、おかしいとは思ったのだが。いやおかしいと思ったのなら止めれば良かったのだろう。
気がつけば、折本の両手には露店で買い漁った品々が幾つもあった。
「これ、あっちに公園あるから、そこで食べようよ。年越しパーティーだぜぃ」
「もう年は越してるんだよなぁ」
「ほんとだ、ウケる」
まったくもって、全然ウケない話である。
拒否を許されず、露店で買った品々をほれっと預けられた俺は、無駄にテンションを上げる折本にマフラーを引っ張られ、逃亡も叶わないままに、神社の南にある公園へと引き摺られてきた。
暗い園内へ入ると、さすがに寒々しい芝生の広場に人影は見えない。その代わり、夜空の星がよく見えた。
外灯が作り出す影は、広い芝生の真ん中にぽつんと置かれた蒸気機関車のものだけだ。
普段は子どもたちの遊び場となっているのだろうが、無人のそれは過去の遺物を見ているようで寂しさを感じる。
折本は、その蒸気機関車へ向かって芝生の上を歩いてゆく。仕方なく後を付いていくと、暗闇の中に蒸気機関車の全容が浮かび上がった。
「うおっ、かっけぇ……」
黒いその鉄の塊は、そこはかとなく男のロマンを彷彿とさせる。
つまり、胸が躍るのだ。震えるほどヒートするのだッ。
「ひひっ、やっぱり比企谷も男の子だねぇ」
「んだよ」
「だって、目がキラキラしてるもん」
「バカ言え、この腐った目が簡単に光を取り戻せるかよ」
俺は自身の目が嫌いではない。この目で様々なものを見て、今の俺は形成されたのだ。
つまり、この目は俺にとってアイギスの盾に等しい。この盾によって俺は、自分にとっての害悪や危険を察知し、生きてきた。
この盾によって、俺は俺を保てたのだ。
その盾を通して、蒸気機関車と折本かおりを見る。
過去に活躍した車両と、過去に心を惹かれた相手。
どちらも所詮は過去の遺物、ではある。
蒸気機関車にあっては、電車に取って代わられて、今では子どもの遊び場と化してしまった。
現代では無用の長物だ。格好良いけど。すげぇ格好良いけどっ。
だって、この鉄の塊が煙を吐き上げながらでっかい鉄輪を回して走るんだぜ。
「……やっぱり、キラキラしてる」
「お前、ちょ、近い……」
回り込んで覗き込む、折本の笑顔が眼前に迫る。
近い近い。誰かさんに叱られるぞ。
「あの、さ」
どうやら折本は、話があって此処に連れて来たようである。大方、玉縄と付き合うことになったとか、そんな話だろうけど。
なら聞くか──友達としての最後の務めだ。
機関車の脇に腰掛ける折本から1メートルほど離れて座る。これが、現在の折本と俺の距離。いや、もっと離れても良いくらいだ。
「あの、これ……遅くなったけど」
トートバッグの中から折本が取り出したのは、綺麗にラッピングされた袋。
「本当は、クリスマスに間に合わせたかったんだけど……」
袋を差し出す折本の視線は、中空を漂っている。何だろう。何か背後霊的なモノが見えたりするのか。無いな。
「ねえ、開けてみて」
開けてみると、毛糸の……マフラーか?
「へへ、初めて手編みに挑戦してみました〜」
よく見ると、折本が今首に巻いているマフラーと同じような毛糸が使われている。
「大変だったんだよー、ほらあたしって細かいの苦手だし、ガサツじゃん?」
自分をよく分かってるな、こいつ。とはいえ、それが悪い訳では無い。そのガサツさに救われたと思えることもあった。絶対に言わないけれど。
「だから、こういうちまちました作業って苦手なんだよねー、だから練習として……」
「……本番に備えて、自分用と俺の分で練習したって訳だな」
目の前にあるマフラーは、つまり習作なのだろう。そしてその成果である完成品は、とっくに玉縄の襟元に巻かれているに違いない。
くそ、今度見かけたら引っ張って締め上げてやろうか。
「……え? 練習ってどういう」
「玉縄、だろ?」
きょとんとした目で俺を見る折本は、その小首を傾げる。
そして、何かを悟ったかの様に笑いを堪えた。
「ううん、違うよ」
「は?」
今度は俺がきょとんとさせられた。
「なんであたしが玉縄くんのマフラーまで編まなきゃいけないのよ。こんな面倒なこと、三回もやってられないし」
「は?」
え。え。どういうことだ。言ってる意味が分からん。
「だーかーらぁ」
俺の膝に置かれた手編みのマフラーを奪った折本は、それを俺の首に回す。
「あたしが編みたかったのは、比企谷のマフラーなのっ」
──はぁあああ?
いやいやいやいや。
おかしいだろ。
だって。折本は玉縄と付き合っていて、それなのに俺のマフラーを編みたかったなどという虚言を……え?
「あー、比企谷、まさか勘違いしてる?」
何を。何を勘違いしていると云うのだ。ディスティニーランドで玉縄は告白して、それで、え?
「あんな面倒くさい奴と付き合うはず無いじゃん。ウケる。初ウケだよ」
何だよ初ウケって。海老名さんが鮮血に染まりそうな語感なんだけど。てかさっきウケるとか言ってなかったか?
てか──え?
「玉縄くんには断ったよ。他に好きな人がいるから、って」
あー、そういう落ちか。
つまり相手は玉縄ではなく、他の誰かだった訳だ。
ふっ、糠よろこびしなくて良かったぜ。
「あたしの好きな人、知りたい?」
「いや別に……」
「第一ヒントはね、あたしに告白してくれた人」
知りたくないって。知っても仕方ないし。つーかやっぱり玉縄じゃねぇのかよ。
「第二ヒントはね、今わたしが編んだマフラーを巻いてる人」
──っ。
ちょっと期待しちまった。だが違う。俺は折本のマフラーを巻いていない。かけているだけだ。
つまり。
折本のマフラーを巻いているのは、折本だけ。
──そういうことか。
こいつ、どんだけ自分が好きなんだよ。
って、それはさすがに無理がある、よなぁ。
「最後のヒントはね、あたしが巻いてるマフラーにある、イニシャルの……ひと」
確か、折本のマフラーにあったアルファベットは、T。
やっぱり玉縄……いや、戸塚か?
許さん。幾ら折本でも、それだけは許さんぞ。
「ほら、この人だよ」
折本の首からマフラーが外され、俺の眼前で広げられ……は?
そこにあった文字は、Tではなく、H……?
あ。隠れていたところにもう一本あったのね。
じゃあ、葉山か?
「なんで葉山くんが出てくるのよ」
おっと、声に出てたか。危ない危ない。
「もうっ、ホントに最後のヒント」
折本は露店で買ったたこ焼きを開け、そのひとつに楊枝を刺し、それを俺の目の前に、え。
「はい、あーん」
「な、なんだそれ」
なんだこのいきなりの羞恥プレイは。新手のイジメか。
だが、たこ焼きを差し出す折本の顔があまりにも真剣に見えて、思わず目を背ける。
ちくしょう、今年は暖冬だな。顔が熱いぜ。
「正解は、今、あたしの目の前で赤くなってる、ひと」
え。
きょろきょろと周囲を見回してみる。うん、誰もいない。幽霊らしき存在も感じない。てか元々感じられない。
ということは。
「え、もしかして」
「うん」
「まさか」
「うん」
「万が一違ったら恥ずかしいけど」
「うん」
「……いや、やっぱ違うだろ。そんなの勘違いに決まって──むぐっ!?」
目の前に差し出されたたこ焼きを、突然口の中に突っ込まれる。あ、美味い。
「しつこいっ。あと長いっ!」
折本は俺の口内から楊枝を引き抜き、それを膝の上のたこ焼きに突き立て、そのまま自分の口へと運ぶ。
「──ん。ちょっとだけ比企谷の味がする」
俺の脳の処理能力は、そこで限界に達した。
あーもう、なんなんだ……あ、あれ……急に眠く……
──ん、寒い。
身震いして瞼を開けると、夜の芝生が目に入ってきた。
いつの間に眠ってしまったのか。
まさか、あの甘酒で酔っ払った……のか?
微睡みの中、髪に触れる感触があった。というか撫でられている真っ最中らしい。
心地好い。
「せっかく告白しようと決心してたのに、寝ちゃうなんて。全然ウケないんだけど」
天の方から、ぼやく声が聞こえる。
「寝不足だったのかな。急に呼び出したりして、悪いことしちゃった、かなぁ」
誰にともなく呟く声音が、耳にくすぐったい。
「ホント、よく寝てるし」
次第に意識がはっきりしてくる。今のは折本の声、だな。あれ、髪の中を柔らかい指が通り抜けた。
これってもしかして。
ひ、ひ、ひざ、まく……ら?
幸いにも、俺の視界に下りもの顔は見えない。動かなければ、起きていることも気づかれまい。
顔を動かさずに、視線だけを走査させる。デニムっぽい生地が見えた。
少しだけ身じろぎしてみる。下になっている頬や耳は、柔らかい物の上に乗っているっぽい。
つまり、総合して考えた結果、やはり膝枕だった。
やばい。とりあえず起きなければ。その後は土下座でおK──再び、髪を撫でられた。
超心地好い。ともすればまた眠ってしまいそうだ。
瞼を閉じかけた時、折本が身じろぎをする。
「キス、したら……どう、する?」
眠っている俺への問いかけだろうか。否、独り言なのだろう。なら俺は、寝たふりを続けるしかない。
「キスしたら、少し先へ進める、のかな」
吐息のような呟きは、囁きとなって俺の鼓膜を揺さぶる。
鼓動が早くなっていくのが分かる。
「しちゃおう……かな」
やめろ。
やめろ。
やめ──あ。
頬に、柔らかな熱が触れる。
鼻先をくすぐるのは、折本の髪と、その香り。
「ふぅ、やっぱりこれが精一杯かな、今は」
髪の香りが遠ざかる。そして、再び頭を撫でられる感触が訪れた。
* * *
夜明け前、なのだろうか。
俺と折本は、どれくらい蒸気機関車の上で寄り添っているのだろう。
言葉は少なく、風は冷たい。
だが、数時間前には空いていた二人の距離は接近し、その真ん中では手を繋いでいる。
それだけで、たったそれだけで、暖かい。
結論から言うと、折本は俺の事を好きだった。
こんなことを自分で云うのは果てしなく恥ずかしいのだが、何度質問しても、何度否定しても、折本は俺を好きだと言ってくれた。
挙げ句の果てには、「じゃあ証拠見せる」とか言い出して、目を閉じて、く、口唇を、突き出してきた。
もうどうしたら良いか分からなかった。軽々しく踏み込める領域では無かった。
だから、逃げた。逃げて、手を繋いだ。
折本はぽかんとしていたが、今の俺にはこれが精一杯だ。
「ま、比企谷らしい、かな」
にししっと笑う折本に救われた気分になったのは、恥ずかしいから絶対に言わない。
それから俺たちは、手を繋いだまま、肩を寄せ合っていた。
いつの間にか、折本の頭が俺の肩に触れていた。微かな寝息が聞こえる。
ふと、折本が身震いをした。
恐る恐る、持参したマフラーを折本の膝に掛ける。これでちょっとはマシだろう。
「──まだ寒い」
寝言なのか起きているのか。曖昧な折本の声に動揺する。
これ以上どうしろってんだ。自慢じゃないが俺は女子への耐性は皆無、触れ合っているだけで限界だ。
そんな思考をあざ笑うように、折本は身を捩ってさらに接近してくる。
今まで見たアニメ、映画、小説その他で得た知識を総動員した結果、逆上せ切った脳内にひとつの解が浮かんだ。
腕を抜き、そろりと折本の肩に手を回す。触れるか触れないか、紙一重の触覚。
いいのかな、このまま肩を抱いても。
意を決して、手のひらを折本の肩に軟着陸させる。ひくんっ、と折本の肩が震えた。
「ひひっ……正解っ」
──やっぱりこいつ起きてやがった。
気を良くしたのか、折本の頭が更に近づいてきて、ついには俺の頬に接触した。
やば、すっげぇ良い匂い。くんかくんかしたい。
「長かったなぁ。比企谷に触れるまで」
「あん?」
風が、冬の寂しい芝生を撫でていく。身震いをひとつ、折本が更に身を寄せる。
「ひひひっ、比企谷の心臓の音、すごいね。ウケる」
「いや心臓に面白い要素なんて無いから」
「あたしの心臓も、すごいんだよ」
「ほーん」
冷静を装って、かろうじて吐いた返事は、情けない程か細かった。
それを聞いた折本はまた笑う。
「ね、確かめて、みる?」
「──は?」
「あたしの……心臓」
「出来るかよっ」
あのなぁ、心臓って何処にあるか知ってるか?
む、胸だぞ、胸。
そんなの確かめようが無いだろうがこのビッチめ。
それに、まだ正式に告白して受け入れてもらった訳じゃないし。
「比企谷ぁ」
聞いた事のない、甘い声。
「あたしね」
その声が、熱が。乾いた冬の空気を伝播する。
「比企谷が思ってるよりも、比企谷のこと……好きだからね」