鬱蒼とした木々が途切れ、ぽっかりと開けた野原、土を覆う緑は太陽光を浴びて輝く。細い茎のさきで首を揺らしている花々は、小ぶりでも色鮮やかだった。四季に心があるとすればそれは微笑んでおり、風は撫でる者を歓迎して去っていくのだ。
緑の絨毯の上で、子供が跳ね回っていた。一頭の馬が草花を踏みしめて歩く。まるで
あの子はすっかりこの土地になじむだろう。老クレイサルは目を細め、考えた。根無し草の放浪者だった記憶はすぐに消えてなくなるに違いない。
そのスオルは、馬のバルバが下ろした大きな頭の辺りに身を寄せて、やおら手を伸ばして撫でた。お返しに頭を
老人はそれまでいた木陰からひだまりの中へ歩いて行った。口笛を吹くと、馬は即ぐに呼びかけに応じ、髪がぼさぼさの少年が尻餅をついたまま残された。
「いい場所だろう、ここは。俺たちしか知らない」
バルバの栗毛に包まれた逞しい首筋に触れながら、クレイサルは静かに言った。
朝、家を出てから斜面を上がり、下がり、マツやスギの林を抜けて、おおよそ道のない道のりを来た。この人里離れた山は、クレイサルとバルバの庭であった。長らく彼らだけで過ごしてきて、これからは少しばかり家族が加わる。
スオルは辺りを囲む木々の陰、眩しい空と彼方の山脈をぐるりと眺めて、その澄んだ目を老人に向けた。
「ここいらみんな、クレイサルのものなの?」
「だれの土地でもない。だが今は俺らのもんだ」
謎かけのような返答に小首を傾げたが、じきに忘れてしまった。草むらの間をしっぽの鮮やかな蜥蜴が走っていって、追いかけるのに忙しくなったからだ。
ふと目が覚めると、辺りはまだ暗かった。煤けた木の梁が薄暗がりのなかにぼんやりと見え、寝返りを打つと、光の球が頼りなげに浮遊していた。魔法の灯りだ。椅子に座る女の姿が、明かりの下にあった。
流れる時間を刻むようにめくられる、しっとりと重たい紙の音。そのうちに、彼の目は冴えてきた。
「まだ夜よ。起こしてしまった?」
女はそっと椅子を動かし、枕元に顔を寄せた。一緒についてきた光球を、少年が眩しそうにするので、片手で追いやる。
「なにを読んでるの?」
「これは………魔法使いの本。母さんのね」
俄然興味が湧いたようすの少年に、彼女は布を掛け直して横にさせた。
「いつか読み方を教えてあげる。お勉強の本だから、読んでもあまり面白いものじゃないよ」
けれども、期待するように透きとおった瞳が輝いていた。睡魔は彼方にとんでしまったらしい。
「じゃあね、おののけ山のお犬大将の話、してあげよう」
寝床の中から、口を尖らせた。
「そのはなし知ってるよ。それにねえちゃん、おはなし下手だもん」
「おや、言ってくれるね」
ひとつ睨まれて、掛け物に頭まで潜った。
そのまま時が過ぎた。彼は眠ったわけではなく、もう構ってくれないのだろうかと、布から目を覗かせた。
女は、まだ弟のほうを見ていた。いや、向こうの壁だろうか。それさえも透り抜けて、瞳は遥かを映していた。
「おねえちゃん………?」
「そうだ………こんな話はどうかな」
浮いていた視線が帰ってきても、不思議な表情は去らなかった。
悲しそうな、嬉しそうな。そうか、優しいんだ、彼は思った。
「魔王をたおす、女の人のはなし。私のは、ちょっと珍しいのよ。でも、すこし悲しいおはなしになるの」
「かなしいの?」
「ん、男の子には面白くないかもね」
姉はすこし意地悪そうに言った。
返答は真摯なものだった。
「ききたい。聞く」
「ある町にね、夫婦がいました」
それは物語によくあるように、ある、で始まった。そしてそれは、それまでよく聞かされた英雄譚ではなかった。
「男は、時計職人でした。女は、魔法使いでした。二人は概ね仲良しでしたが、喧嘩することもたびたびでした………」
「ねえ、トケイショクニってなに?」
すかさず入れられた質問に言葉をつまらせて、姉は苦笑した。
「ここだと、時間は影の具合ではかるよね。でも大きな町になると、時間が窮屈になって、細かい時間が大事になるの。職人はだから、秒まで示す精密な……ええと、とても細かい機械を作るの」
ほとんど了解できたところはなかったが、黙っていることにした。彼は広大な森を思うままに駆け回って育った子供だった。
物語りは続く。
「二人は、大きな町に住んでいたのです。沢山の人がいました。才能のある人や、名声のある人、なにより誇り高かったのでしょう、多くの人が戦いに出ました。夫婦は、男は手先の器用な人だけど、剣のような重いものを持って走るような体力はありませんでした。女のほうが、いろいろな魔法の使える、戦いに欲しい人でした。女は行きたくなかったのですが、共に戦ってくれるのを待っている人達がいました。だから、子供を男に任せて、旅立ちました。本当はお腹にも子供がいたのだけど、そのときは知りませんでした」
光球は相変わらず所在無げに浮いていた。それが位置を移すたびに、顔に落ちる陰影も揺らめく。
「女が決意したのも、もう戦のおわり頃でした。彼女はそれまで、逃げていたのです。それを悪く言う人もいました。でも結局、女は英雄と称えられました。妖精族に味方していて、いちばんに恐れられていたマモノを、女は封印してみせたのです」
考えながら喋っているせいか、語りは訥々としていた。
「それで、どうなったの?」
「……戦場から生還した女は、すぐには家族のもとへ帰れませんでした。一年たって赤ん坊を抱いて帰ってみると、待っていたのは両親から捨てられたと思い込んだ子供だけだった。男は女が旅立った後、新たな徴兵で戦場に駆り出されていたの。そして、帰ってこなかった」
「…かわいそう」
「そうね。生き残ったことを恨んだかもしれない。でもふたりの子供がいて、王様からのお誘いもあったのだけど、女は子供たちと一緒に暮らしたかったので、ずっとただの魔法使いでいたの。小さな家、三人だけで、庭に花を、育てながら…………」
「それで、しあわせに暮らしたんだね」
彼女は静かに微笑んだ。
短い命令の言葉が放たれると、光がはじけて消えた。
戻ってきた暗闇のむこうから声が届く。
「おやすみ。また明日ね、スオル」
良かったら続きも。よろしくおねがいします。