十人に聞けば、8人は国に二つとない立派な町だと答えるだろう。ひとりぐらいは意地を張って、もっと大きな町を見たことがあると言うかもしれない。だがそれも、中心の丘に鎮座する白い屋敷の威容を否定することはできまい。
その瀟洒な石造りの部屋で、男は午後の酒を愉しんでいた。部屋は小さくなく、かといって広すぎない。一角は壁がなく手摺が付けられており、丘の裾にかけて広がる彼の町を眺望できた。
そうだ、彼の町だ。男は平原の町シシラスを代々支配する、首家の者なのだ。
男が首長の座を継いだのは戦争の真っ最中であった。威信と栄誉と人命にかけて異形のモノから町を守らねばならなかった。
守り抜いた事実は生き残った者の自信となり、男の誇りであった。だが、戦いを栄光の場と考えたことはついぞなかった。つまり臆病者と誹られようとなんだろうと、辺境に居残っている魔物を完璧に排除するための労力を割くつもりはない。
奴らの中でも最もおそるべき魔霊どもは、すっかり大人しくなっていた。戦争前の様に。そもそも、歯が立たないほど強いから本丸の魔王を崩すなどという暴挙に出たのだ。蜂の巣を叩くような真似など愚かに過ぎる。
そら、見るがいい、と男は杯を掲げた。金属装飾とガラス細工を組み合わせた独特の工芸品だ。透明なグラスに、暮れゆく町が映り込んでいる。街路にそって揃い、ときに向かい合う家々。夕陽に照らされた壁は、隣家の影に切り抜かれている。町並みの合間からぬっと立つ尖塔は、日没の鐘を鳴らす。そこには復興に力を尽くした成果があった。
彼の誇る町の風景に、異質なものが入りこんだ。ほんの一瞬であったので、正体が掴めぬまま、ぼんやりと酒に口をつける。
杯が床に落ち、美麗なガラス工芸品が破片となった。男は椅子を蹴立てて駆けたが、遅すぎた。跳び付かれた勢いでもんどりうつ。闖入者はひどく小柄で組み付かれたまま立ち上がるも、喉を掴んだ手はびくともしなかった。
狂乱に陥りかけた男の、視界を巨大な目が占拠した。金の縁取りのある、真っ暗な円盤。
囁きが耳を覆う。
「お前騒ぐ、だれか来る、お前の首落ちる……」
言われずとも、射竦められた男には叶わないことだったろう。目を逸らすこともできず、魚のように口を開閉させた。
ふとそれの気が逸れて,男は瞬きした。視界は元通りになったが、悪夢は形を変えただけのようだった。
巨大なとかげが欄干を越え、ひょいと乗り込んできた。四本足でぺたぺた、ではなく二本の足で跨いで。
「ま、ま、マモノ! いったいどうやって………」
「今見ていただろうに。さて、シシラスの首長よ、我々も訊きたいことがあるのだ」
猫背の魔物は、外見からは人間らしいところが一片もない。しかし流暢に言葉を喋ってみせた。さらには割れた杯を拾い、審美眼でもあるような手付きでひっくり返している。
男は、首を掴まれたままだった。後頭部の感触からしてあごを乗せられているようなのだが。例の目玉がどんな姿勢なのか、まったく不気味だった。
ガラス片を卓に戻し、とかげは続けた。
「どうこうするつもりはない。貴様も、この人間の町も。我々の望みは、ただ一つだけ。我らが主の封印はどこにある?」
首長の頬は強張り、拳は固く握りしめられた。
終戦のきっかけとなった大魔術は、ほぼその存在だけが知られている。どんな形なのか、どこにあるのか、いかなる強力な番人がいるのか。未だ二十年足らずのことだというのに、ありとあらゆる伝説が巷にあふれた。
動揺はしているが、男の態度はまだ、根も葉もない噂で問い詰められて困惑している程度だった。だが爬虫類の指を向けられ放たれる言葉に、うわべの装いは剥がれていく。
「魔女の警告を、守らなかったようだな」
言いながらとかげは首を傾げた。聞き分けのない子供にするような、そんな仕草だ。
「知られてはならない戒めだった。知っていてはいけない約束だった。実際、随分と手こずらされたぞ。封印の施術者たち自身、きれいさっぱり忘れているんだからな。調べようがない。一方、お前たちは『忘却』の処置を受けなかった。保険のつもりだったのか? ………愚かだな」
首長はわななき、反論した。
「そんな与太話、どこで仕入れてきたのだ」
「ハハハ。与太か。まったく阿呆らしい経緯よ。血眼になっていた自分たちが情けなくなるような………。あやつは人間としては最低だろうが、外交手腕は一流かもしれんな。ふむ。いや、取引上手であるより前に人であれとは思うがな」
一体誰が。封印を支援した首長たち、各都市の有力者の誰かだ。裏切った。取引した? 自ら個人の望みと、人間種族が勝ち得た成果をか。異形のモノらが主と奉る存在を封じ、戦意を失わせるために、いったいどれだけの犠牲を払ったことか。
怒りと驚愕に蒼ざめる男に、魔霊は至極穏やかに言い渡した。
「それで、お前はどうする? 脅迫と呼ぶか、取引と呼ぶかは、そちらの自由だが」
緩やかな坂を上がっていくと、足元が黒い土から砂利っぽくなる。水場から遠く、毎朝森に降りていって水汲みをしなくてはならない。姉の魔法でなんとかしてもらえばいいと言い張ったことがあったが、そんなに大した仕事じゃないと、そのまま手を引かれて水を汲みに行った。桶を抱えてえっちらおっちら、戻っていくと、森が途切れて、広い空と野っ原の境界に、小屋のような家がぽつんとある。
「山! 川!」
今では日課にもすっかり慣れて、両手に水桶を提げて、一人でも行くようになった。そんなときは、戸が開けられないので、こうして合言葉を叫ぶのだ。
「みずうみ」
出迎えたのは姉のイーシアだった。そこで彼女は、ひどく期待はずれだという顔をしている弟を発見する。合言葉が正しくなかったのだ。
「えー」
「えーって、おまえ、川まで自分で言ってしまったじゃないか」
「あっ、そうか」
スオルはむずかしい話を理解してのけた爽快感を味わったが、姉はそうでもなかったらしい。
入ると、中央に一段掘り下げて石を敷いた簡単な炉がある。クレイサルが火の側に胡坐をかき、灰に埋めた芋の面倒を見ていた。
部屋の一角ではイーシアが塩漬けの魚を出す用意をしていた。作業台の隅に混ぜ合わせたサラダがあったので、三人分の木皿に盛り分けておく。そして薬缶に水を入れて火にかけると、クレイサルの隣に腰を下ろした。
老人は目を瞑り、ほとんど眠っているように。少年は待ち遠しそうに。
赤く輝く薪が時折爆ぜる。
やがてサラダの皿にアンチョビを加えたものをイーシアが運んでくる。スオルは歓声を上げ、クレイサルはひかき棒で芋をかき出した。ささやかな朝餉がはじまる。
「どういうことだ」
重い両開きの扉を開け放つと、剥き出しの石床、石壁が現れる。もちろん天井も石だ。玄室のような一部屋は、壮麗な屋敷の中で場違いだった。だがそこは、本来人の目に触れぬ場所。墓所の地下部のように、立ち入るはおろか、意識する必要もない。
扉を開けさせた兵士達は訝しげに覗き込んでいた。このような部屋が屋敷にあるなど知らなかったからだ。それに彼らの主人を驚愕させるようなものは、無愛想な地下室のどこにもない。
首長は奥へ進み、振り返りもせず手招きした。
「明かりを」
兵士が一人松明を持って続く。照らされた壁には、なんと紙切れが小刀で貼り付けてあった。
ちょめちょめ盗賊団 参上!
首長は乱暴に紙片を剥ぎ取った。力一杯握りしめて、くしゃくしゃにした。割れ物の包装に使うような、粗悪な紙だ。ついでに加えれば、字も汚い。
「くそっ、なんだこれは!?」
八つ当たりに声を荒げた時だった。轟くような唸り声が狭い石室を、人間たちの体を震わせた。
どこにもいない。だが、そこにいる。誰にも気付かれずに侵入して、自分を脅した魔霊たちのことを、いまさらながらに首長は思い出した。
これは私のせいではない。与り知らぬことだ!
辛くも首長が叫んで醜態を晒す前に、闇の囁きが聞こえた。
「まったく貴様らには、いつも、いつも………驚かされる」
空気が動いて吹きぬける。地下に人間たちを押し込めたまま、扉は音をたてて閉まった。