森に馬はいない。すくなくともこの森には。
しかし、スオルは馬を知っていた。バルバがいたからだ。野に出かけ、あそぶ日々。バルバの行くところに幼いスオルもついていった。スオルが何かに気をとられて勝手に歩き出せば、バルバが必ずついてきてくれた。
とても仲良しだった。スオルにとっては、自分とおなじくらい大事だった。
この辺りには家畜の墓をつくる習慣はない。けれどもスオルがあまりに泣くので、クレイサルとイーシアはお墓をつくった。夜中に小屋を抜け出したバルバが、冷たくなって横たわっていた場所に、三人で石を積んだ。初めにスオルを連れていった、秘密めいたあの小さな野原だった。
――バルバはなあ、若いときにうんと人間のために働いて、ようやっと、本当にお休みしたんだ。
クレイサルの言葉は、今でも覚えている。
馬がいなくなって、老人は出不精になった。大きくなった少年は、一人で出歩くようになった。森はもう、我が家の庭のようなものだ。
繰り返すが、森に馬はいない。
だから、バルバの霊に遭ったのかと、信じそうになった。
積もった腐葉土に蹄を埋めて、所在無げに立つ逞しい体。ぴんと尖った耳。大きく育った木と木のあいだに、とても懐かしい姿。
馬は神経質に足踏みした。近付きすぎたようだ。離れた倒木まで戻り、座って馬を眺める。
ぜんぜん違う馬だった。体色は濃いし、鼻筋に白い斑のある顔つきは気が強そうだ。それでも嬉しい気持ちは収まらなかった。まるで親友の親戚に邂逅したような、そんな感じだ。
見知らぬ馬は短くいなないた。すると背後から声を掛けられて、スオルはすこしばかり跳び上がった。
「だれだ。そこにいるのか」
その方向は崖になっていた。身を乗り出してみると、斜面に青年がへばりついて、目が合った。
思わず疑問が口をついて出た。
「なにしてんの」
「戻ろうとしているんだ」
とりあえず引き上げてやることにする。崖に張り出した木で体を支え、手を貸した。青年は、意外に重かった。鎧を着ていたのだ。兜がないことを除けば、谷を越えた先の町の守衛に劣らぬ装備だろう。
そういえば、と馬を見やる。革製の鞍と手綱が付いていた。乗り手がいると推測してしかるべきだった。バルバは連れであって、乗るものではなかったので、騎馬の存在をすっかり忘れていたのだ。
「助かった。村の者か? その、ついでに村の方向も教えてもらえないか」
なんでこの人は森に入ったのと思いながら、黙って最短距離を指で示す。
青年が頷いて、馬の鐙に足を引っ掛けた時だった。
ごうっ。樹上に黒い風が奔り抜けた。
枝葉の隙間に覗く空を、鳥の影が飛び去った。森の反対側に住んでいるそいつを、スオルは知っていた。なにしろあんなに巨大な鳥は他に見たことがない。鷹はねずみを空へ攫うが、同じことを成体の雄鹿にしでかしかねない大きさだ。だけど、今気付いたがあの鳥、足が十本か二十本くらいある。
同様に呆けていた青年が、急に表情を険しくした。
「なんてこった。おい、ここに乗れ。乗せてってやるから」
「は?」
「早く。あれが戻ってくるかもしれない」
「えっ、でもあれ、べつに大したことないっていうか」
「なに言ってるんだ。魔物だぞ!?」
青年の態度には焦りが浮かんでいた。とうとう物分りの悪い少年の腕を引っぱって、無理矢理馬上に押し上げる。おそらく年齢としては5年と離れていまいが、成長期という壁は高かった。相手の強引さにスオルは目を白黒させる。
青年は馬首を示された方角へ向けたが、森をまっすぐ行けるわけがなく。スオルは溜息をついて、歩きやすく無駄のない道順を教えた。
道沿いに転々と家屋が並んでいる。ものすごく広い道だ、とスオルは思う。なにしろ両腕を広げた大人二人分、踏み固められて草一本生えていない。もちろん、この道を逆に行けば辿り着くのが城下町で、そこの道路には敵うべくもない。一方このまま進むと村長宅だ。つまりこの道は、偉い道だということだ。
馬の背に揺られ着いた先は、案の定村一番のお屋敷。宿屋なんて洒落たものはないから、客人は村長の家に寝泊りするのだ。りっぱな玄関は、そのまま村の顔。そこにこれほど近寄ったのは初めてかもしれない。スオルには用のないところである。
驚いたことに、現在この村には馬5頭分の来訪者がいるようだ。スオルは子供らしく、非日常の気配に心が浮き立った。ただもっと驚いたのは、青年が馬を降りて、さっさと建物に入ってしまったことだった。
スオルは馬の背中に乗せられたまま、控え目に足を揺らす。降りられない。
「ごめんね、すぐに降りてやりたいんだけど。おまえの主人は、本当にそそっかしいね」
手をのばして撫でてやると、それの長い耳がぴくぴくと反応した。
地面が遠いが、木登りするときほどではない。問題は身を預けているのが古木ではなく、動物ということだが。降りるというよりずり落ちるといった風で、なんとか地に足をつけることができた。
少年の苦闘を見ていた者がいた。一息ついている少年の肩を叩き、振り向かせる。
「やあ。なにしてたんだい?」
スオルはまじまじと見つめ返した。知らない男だ。今日はよそ者に会う日らしい。
冷静に考えれば当然だが、この十年というもの姉弟以上のよそ者はないと言ってよかった。
「馬から、降りてたんだよ」
「ああ、そうだね。つまり、どうしてその馬に乗ったかということだ」
「どうしてって……」
その男は答えを促すように、片眉を上げた。
具合が悪い。たぶん、仲間の馬に見知らぬ人間が乗っていたので怪しんでいるのだ。どのようにとは、知ったことではないが。
腹が立ってきた。
すっと息を吸うと、背筋を伸ばす。
「なんでもない崖に落ちて、村の方向も分からないで、ひとりじゃ満足に帰れない迷子のお兄さんがいたから、送ってあげたのさ! 親切に! わざわざ玄関まで!」
勢いで屋敷の門を力一杯指差す。眼前の男の視線もつられて移り、きょとんとし、盛大に吹き出した。
「なるほど! そういうわけか。やけに早く帰ってきたと……くくっ、いや、すまない。にしてもマジでかっこつかねえ……、っひひ、いひひひひっ」
膝を叩き、身をよじって笑う気味の悪さに、毒気を抜かれたスオルは後退った。男が膝を叩くたびに金属鎧が音を立てる。鮮やかな青のマントなど、皺が寄ってしまっていた。
「騎士………なの?」
男は騎士という言葉に正気を取り戻したようだ。何事もなかったかのような爽やかさで返す。
「おお、そうだ。勅命でな。たいへんな任務なのだ」
「ふーん」
チョクメイの意味はわからなかったが、態度からして大したことではないのだろう、とスオルは判断した。
「まあいいや。もう行くからね。あのおっちょこちょいなお兄さんのことよろしく。一人で森に入んないようにって」
「おっとっと。ぼうず、もし森を案内できるんだったら、俺達を手伝ってくれないか。地理に明るい人間がいるとすごく助かる」
「それって、森に用があるってこと?」
「まあ……避けられないだろうな」
騎士は顎に手をやり、思慮深い様子だ。初見は胡乱なものであったが、落ち着けば重装備の格好は栄える。それに、馬だ。こんな機会は一生で二度もないかもしれない。となると、心は決まった。
行く行く、と挙手すると、そうかそうか、と騎士も嬉しそうだ。こうしてスオルは騎士達に同行することになった。
会話文の前後を今風に行空けしたりしていましたが、止めます。読みやすいかと思ったんですけど、書き起こしの時点でそうしてないので変な感じでした……自分がそう思うだけですが。pdfで作者の想定にもっとも近い形になるかと。
それにしても、「!?」が一文字にできないのが残念です。縦書き表示にすると違和感がどうにも。