スオルは駆けていた。全力全霊、力のかぎり、駆けていた。
柔らかい茂みを跳び、行く手をにょっきり遮る樹木を避け、跳ねるように転がるように進む様は、まさに森の子である。しかし、走るのは最終手段だ。人間は走るのが下手で、もし他の森の動物と競争したら、あっという間に負けてしまう。競争することにならないように、人間は準備していくのだ。スオルだって準備はしてきたが、ただ今回は、それは役立ちそうになかった。
ぱっととび出して、とうとう躓いてしまった。
「うぎゃあ!」
蹴転がしたのはおかしなイタチだった。体が細くて、皮膚は硬そうで、爬虫類かもしれない。そいつは腹を仰向けてじたばたしていた。天地を取り戻すそれの奮闘を、呆然自失と見ていたスオルは、我に返り膝をついたままずるずると木の洞に入った。樹木の大きさに比例して空間は広い。壁の窪みそのもののように、スオルは息をひそめ身を縮めた。僕は木だ、僕は木だ、とか思いながら。イタチもどきも、いつのまにやらすぐ隣でじっと壁になった。
やがて、そいつが現れた。立ち上がった熊よりも大きく、牡鹿のように悠然と、一人と一匹の隠れている樹木越しに影が地面に落ちた。高く掲げた頭、首に、胴体と続いて、長いしっぽ。やがて怪獣の足音が小さくなり、去った。スオルははいつくばって耳を澄ませていたが、ふと横ではイタチもどきも地面に耳をあてていた。
「ああ、びっくりしたよ、本当に」
体を起こすと、
「岩山を登ったら、ばったりだもの。最近、変なの多いよなあ………おまえもだよ」
すると、フンフンと鼻息を荒くしながら、胸を張ってそいつは答えた。
「ナマエハ、マダ、ナイ!」
「そうかい」
土を払うと、スオルは歩き出した。これ以上おかしなことが起きませんようにと願いながら。
そこは暗くて狭くて、鼻を刺すような獣のにおいや草花の香りで満ちていた。さっきまで揺れたり軋んだりしていたのだが、物達はおとなしく、静かに置かれている。そこへ閉ざしていた分厚い布がめくられて、昼の光が一筋、入ってきた。
暗がりからも鏡が一閃、光って応えた。
「……今朝んときゃ、何ともなかったんだよな?」
「何とモなかった」
「だけどいまは?」
「………割れてル」
「ううう、そうじゃない! ヒビが入っただけだ………」
ごそごそ、がたがたと物音がつづいた。ようやく落ち着いてしずかになると、また毛皮や薬草のにおいが戻ってきて、むんわりと籠もった。
「で、どうなんだ?」
「ドウって?」
「ヤバそうかってことだよ」
「なにを今更………最初っからヤバヤバだったじゃンかー!」
ぱたぱたと暴れた後、むぎゅと潰された。
「わかりやすい形としちゃあ、あのばけもん鳥だな。だけど騎士連中も、意図が不透明だ。なんか、睨まれてる気がするんだよなあ………」
「心当たりがありまくるものネ」
「とりあえず、みつかんないようにしろよ、お前」
「………。ウン」
「姉さーん! 姉さーん! おねーさーん」
クレイサルは普段どおり日の当たる一隅であぐらをかいていた。そこへ、孫のような少年がぴょこぴょこ跳んで来た。落ち着きのないのはいつものことで、慌てた様子でもなかった。姉と同じで、慌ててもそんな風には見えないのだ。
「村の方で助けが必要らしくて、呼ばれてったぞ」
「えー?」
スオルは心底おどろいた。まるで自分の予感を裏付けているようではないか。彼女は滅多に村に降りていかないのだ。クレイサルは噛んでいた植物を口から離して、少年の足下を示した。
「ところでおまえ、なんだそれは」
なんとなく片足を持ち上げて見たスオルは、その姿勢で飛び上がった。そこにはイタチもどきが、当然のような顔をして居た。
「おい、どこへ行くんだ」
「これ、捨ててくる」
「わしの腰のくすりは?」
「取ってこれなかった!」
少年はあっという間に森に消えていった。
「明日でいいぞ! その辺で帰って来い!」
なんとなく不安に襲われて、クレイサルはつけくわえたのだった。