正しい理論は常に実験によって確認される、というのは学問における公認の真理である
「…これも違う」
カシュッという音とともに器具を引っ込める。ギャラルホルンからの追っ手が確認されず、暫しの休憩時間が設けられたシンヤはイサリビにある医務室もといシンヤの私室であるものの解析をしていた。
デスクの上には、黒いカードが佇んでいる。
火星でビーチェと呼ばれる女性に手渡されたものだが、何一つとして解析が上手くいかない。早々力を込めたところで壊れるものではないことはわかっていたが、例えば折れば光るサイリウム、例えば振れば運動エネルギーを電力に還元するファラデーの法則を利用したレーザーポインタといったものがあるが、平面的なカードにそれらの機構を組み込むには多少無理がある。
「特定波長の光を当てるものだと思ったが、間違いだったかね?」
シンヤはイサリビにある機材を最大限利用して可能な実験を行った。現在進行形で行なっているのが異なる波長の光を当てる実験であった。光というのも結構な種類があり、可視光線を主に赤外線・紫外線・X線・γ線などを含め約1nmから1mmの波長がある。
旧時代の
最初は医療現場で用いられるX線で何か見えるのではと考え、そこから様々な光を当ててみようと実験を繰り返して今に至る。光の波長とそれを横に引き消した数は実に七十一。だが決して諦めることはなく、シンヤは機材を設定し直して七十二番目の光を当てる。
初めて、変化が、生まれた。
「!」
黒いカードの一点を透過してデスクを照らし、その円形状の光に文様が現れる。当てた部分からして何らかの絵の一部分のようだが、恐らくカード一枚に全体的に光を当てなければならないと思われる。
器具を調整して光量を減らす代わりに投射範囲を広げていく。そして光の投射方向を水平に移行し、黒いカードを介して部屋の壁に光が当たるように、絵が映るようにセッティングした。
そこには、死があった。
「……ドクトル・シューナベル?」
死、というのは適切ではない。だがシンヤが死と連想させるのも無理ないことだ。
壁に描かれた絵は、奇妙な面を被ったヒトの姿であった。
鴉のように長い嘴、目の部分に嵌め込まれたガラス球、昔の医師が被るような帽子ハットに外套ローブ。
間違いなく、旧時代に一世を風靡した黒死病の医師の姿だった。
「…〝
かつて、小さな島の海岸線にいた商人から始まり海沿いを伝い、当時百年と名を冠されるほどの戦争を一時的に止めるまでに至った病、黒死病。勢力的に拡大し止まることを知らず、複数の国を含む総人口の三分の一…数にして約二千五百万人を死に至らしめた病である。その力は一つの社会を崩壊させる結果を招いたと同時に、新たな文化を復興の礎とした人類の力を見せつけることにもなった。
風刺詩にある〝君は寓話と信じるだろう〟は時代が進む毎により現実味を増すものである。今や新時代となりナノマシンや遺伝子操作、挙げ句の果てにはクローン開発にまで着手しているとされる昨今、火星ならば兎も角、衛生面においては完璧な管理社会とされる地球で、黒死病程の伝染病が流行ることはないだろう。
四経済圏の何れかによる細菌兵器の性能実験も、秘密裏に行うにしても地球より火星で行っていることはシンヤの耳にも届いている。故CGSには最先端の医療機器はなかったが対症療法はできたし、そういった予告のない細菌兵器の性能実験が行われた暁には、強制的にアーブラルの医療機関が助力を求め後ろ髪を引き抜く勢いで駆り出された。回数を重ねるごとに段々致死率と感染速度が早く思えるのは、気のせいではないはずだ。
「問題は、何故彼女が私にこのカードを渡したか、だ。言いたいことは何だった? 伝えたいことは? この絵が意味するものは?」
阿頼耶識で、ではなく手動で車椅子のホイールを動かし、壁に映し出された絵を近くから、遠くから見る。
遠近により見方が変わって見えるギミックかと思われたが残念なことに、資料通りの絵であることは変わらなかった。となれば、このペスト医師に何らかの意味が込められているとシンヤは判断した。
ならば番号か?
試した光の種類は七十二。その数字はここ最近よく聞く三日月有するガンダムフレーム・バルバトスから悪魔の七十二柱を思い出すが、七十二番目は。
「廃棄孔アンドロマリウス伯爵」
だが、それは、ない。
何故なら七十二番目というのは
「…わからん」
そもそもペスト医師の被るペストマスクは、かつて旧時代の
「確か、嘴には」
嘴には、香辛料が詰められていた。
当時の香辛料といえば、現代となっては科学的に香りを再現することが可能な没薬、エゴノキ、アヘンチンキ、クローブ、ショウノウ、バームミント、アンガーグリス、そして。
「あとは、薔薇だったかな?」
現代こそ薔薇は噎せ返るほど産み出され、観賞用として花壇に植えるなりしているが、旧時代では後期になってから世界的に栽培されるようになった。
とはいえ、今の火星ではあまりお目にかかれないものである。種類は蔓薔薇と木薔薇、多くは枝に棘があり花の形も大輪・小輪・一重咲・八重咲・剣咲・平咲、色はメジャーな深紅から黄・白と多彩。新時代ともなると青や黒、果てには氷の薔薇も生み出せる、それだけ需要があるからこそ実現したのだろう。種類だけなら約200。色と組み合わせれば更に倍。
「…ゲーテかシューベルトか、それと
ルネサンスとは黒死病により生まれたと言っても良い文化運動の一種である。曰く、ルネサンスは黒死病による人口の減少により人間一人の価値が増えたことで生まれた天災による一つの文化だ。古代思想を理想としつつ、市民の現実的かつ世俗的感覚が、
ルネサンスには〝文芸復興〟と訳されることが多いが、旧時代のフランス語での正しい意味は〝再生〟だ。その言葉の通り、多くの人が死に、世界は腐敗し、未来への希望が消え行く中で再生の二文字の意味を込めて生まれたのがルネサンスだ。
仮に再生であったとして、何の再生なのか、それは過去か未来か現在か。
「ダメだ、絞り切れない」
今上がってる全てはミスリードかもしれない。
だが同時に全てが正解かもしれない。
一目見れば思いつく、だが正解である保証がない。答えを絞り込むファクタァが圧倒的に不足している。この謎解きは言わば、二つ目のヒントから一つ目の答えを得るようなものだ。そして最悪の場合その二つ目のヒントは三つ目のヒントが必要になる。
つまり、終わりが見えない。
「そんな筈は無い」
それは有り得ない。
シンヤは人の行動原理に答えがないことを知った。だがそれは
しかし今回の謎解きは、必ず答えのあるものだ。
ヒトの心ではない。
シュレディンガーの猫でもない。
悪魔の証明、でもない。
ならば、答えは必ずある。
「シンヤさーん」
「ん? その声はアトラかい、ちょっと待ってなさい」
「あ、はい…」
扉を開けなかったのは、恐らく作業中であることを察したからだ。以前旧CGSでアトラが無断でシンヤの私室に入ってきた時、火星の荒野で偶々見つけたはぐれの家畜である可愛らしい子豚をローストビーフにするべく加工していたところを見られ、以来トラウマになっているようだ。
幼い少女にグロテスクなトラウマを植え付けたことへの罪悪感はあるが、そもそも部屋へノックもなく名乗りながら意気揚々と入ることは行儀悪い。アトラに続き参番隊の年少組達も彼女を反面教師に、同じ轍を踏まないようにちゃんとノックして、名乗りを上げて許可を貰ってから入室するように心掛けている。良い習慣である、善き哉善き哉。
「お待たせ」
「シンヤさん寝てたんですか? 部屋最初から真っ暗でしたよ?」
「まぁ、そうだね。私にも偶には休みが必要だ」
「それ、消さなくていいの?」
「うん?」
扉を開けた際に、アトラと一緒にいたクーデリアは部屋が暗いことには気付いたが、実験で付けっ放しの光源は見えなかったらしい。観察眼に鋭い割に気付いても普段何も言わない三日月は気付いていたようだ。モグモグと火星ヤシを頬張る風体からは想像もできない洞察力である。
「うーん、大丈夫だよ。後でいつでも消せるからね。それより私に何か用かな?」
「は、はい。実は私と一緒に鉄華団の子供達に字を教えて欲しいのです。シンヤさんは鉄華団で医師として、そして会計士として職務に就いていたと聞きました」
「成る程、勉強だね? 旧CGSの頃は数の数え方と遊びくらいしか教えてなかったから、丁度いいかもしれないね」
「遊び、ですか?」
「青年組にはチェスや将棋、あとは賭け事としてトランプのイカサマ。年少組には…アトラは知ってるね?」
「はい! お手玉とか折り紙とか、あやとりとかですよね! コレ、あやとりを見て作ったんですよ! ホラ三日月!」
「ん? あ、あぁ、そうだったんだ。これからはアトラの匂いがするから、いつも安心する」
「アトラなりの贈り物で、お守りみたいなものだね。大切にするんだよ三日月」
「? わかってる」
果たして、シンヤの言葉の真意は伝わったのだろうか。
相変わらず思考の読めない表情のまま、三日月は僅かに首を傾げて間髪入れずに頷いた。
さて、勉強ともなれば鉄華団の団員達の勝手知ったるシンヤであれば教えることに忌避感はない。寧ろ、長い目で見て、将来を考えればまそろそろ本格的な勉強を行うことは間違いではない。ただ、過去に何度もその時期はあったが社長であるマルバや壱番組の大人組が頑なに妨害してきたこともあり、加えてどうせ教えるのであれば一回で多くの少年たちに教えた方が効率が良い、一人の指導者では教育が偏る等々が危惧され、着手できずにいたのである。
「お姫さん手ずから教えてくれるとは心強い」
「そんな…でも、まずは私がここでできることをしようと思うのです。そうすることで、前に進めるのではないかと」
「それはとても良い心掛けだと思うよ。何事もチャレンジすることが大切だ。そしてチャレンジするための勇気も、自分で培っていくものだ」
―――ここで、三日月の進言を聞き入れれば、多少未来は変わったかもしれない。
まるで家主のいない室内に付けっ放しの空気清浄機が電気代を貪るが如くの些事。
些事の、筈だった。
まさか、手渡された黒いカードに光を一定以上の時間浴び続けると、特殊な電磁波を発生させる機構が備え付けられているとは、思いもしなかった。
決して艦体やMS、エイハブ・リアクターに影響を与えるものではなく。
この昏く広大な宇宙から一筋の光明を差すが如く、現在座標を伝える発信機としての役割を果たすものだとは、思いもしなかった。
「阿頼耶識システムは、そもそも厄祭戦時にMSの能力を最大限に引き出すために最初の〝C〟が生み出した技術だ」
「最初の〝C〟?」
「厄祭戦を終わらせたのは、主にギャラルホルンの創始者である始祖アグニカ・カイエルの名が有名だが、彼には一人の友がいた。阿頼耶識システムを生み出した技術者、名をカウプラン・サルサミル。彼の名の頭文字から、〝C〟と名付けられている」
「ふぅん、友ねぇ。俺とお前みたいな間柄だったのかね。しかし、何故
「実は火星に向かうときに話した技術者夫婦、彼らはギャラルホルン公認の
「…彼らが、〝C〟の子孫だったとでも言うのか?」
「いや、〝C〟と呼称されたそれぞれに明確な家族関係はない、血の繋がりではなく驚異的な革新者達の総称とでも言えばいいのか。個人で世界単位の技術を数十年加速させる、何百年も続く戦争に終止符を打つ、盤石な社会構造を引っ繰り返す。どの歴史の教科書にも載るような出来事の裏に潜む、どの文献に残してはならない中心人物を指す」
「なるほどねぇ、しかし〝C〟とか言われても…ホラ、炭素の元素記号とかビタミンのアレとかしか思いつかないぞ…あぁそういうことか、だから〝C〟なのか。確かに知る人ぞ知る、
「言い得て妙だな。だが、〝C〟とはローマ字に於ける三番目の文字だ。数秘術において三とは左の峻厳、右の慈悲、中央の均衡という三柱のセフィロトを指し示し、そしてキリスト圏では父・子・聖霊の意味もあるが―――わたしとしては、
、
「どれもこれも、物騒な単語ばかりだ…」
「それほど、ギャラルホルンという一大組織において座視できない存在ということだ」