―――出血点の止血開始
腸管破裂部確認
腸鉗子 汚染遮断
弾道調査開始
腸管口径切離
鑷子 ガーゼ…ガーゼガーゼガーゼ
血糖値上昇確認 リンゲル追加
吻合部確認
縫合、完了。手術終、了―――
意識が浮上する。
人工呼吸器の装着確認。
羊水の記憶。原点回帰。
揺蕩う景色、水音、清潔な部屋。
血圧低下、輸血確認、正常値まであと―――
目覚めると同時に、シンヤは周囲の状況収集に取り掛かっていた。傷に関しては、意識が落ちる寸前で縫合までは行っていたことを覚えていたため優先順位は低い。それよりも気絶後に己が何処に運ばれ、誰の治療を受けているかが問題であった。
「早いお目覚めだな、気分はどうだ?」
「…上々ですかね」
目覚めて最初の会話が
声を満足に出せる状況でないから、心の声で叫ぼう。
――お目覚めは女性レディの微笑みが好ましかった。
「この状況でとても下らないことを考えてやしないか?」
「いいえ? 微塵も」
「…何故か信用できないんだがそれは」
「ソイツを信用するな、名瀬」
メディカルルームに別の声が響いた。勿論その声には聞き覚えがない――だが、シンヤには一つの確信があった。
この声の主は、己を撃った女であると。
ポットの中でゆっくりと首を傾けると、溶液とガラス越しに名瀬と女の姿を瞳の中に捉えた。
おそらく背中までの長い赤髪。背丈は名瀬の肩ほど、シンヤより拳一つ分小さく思える。先ほどまではフルフェイスのヘルメットをしていたせいで顔は分からなかったが――碧色の鋭い眼光が覗く右目と、額から頬にかけて走る火傷により白く染まった左目と目が合う。頬を一文字に裂く火傷は頬肉を根刮ぎ抉り取られており、左顔面には歯肉と顎関節と筋繊維が剥き出しになっていた。
凄惨。その一言に尽きる。
現代ではその程度の怪我であれば、人工皮膚等による整形手術で外見だけならどうにでもなる筈だが、そのままにしておいているのは何か理由があるのだろうか。
「人の顔をじろじろ見るな、穢らわしい」
「それはそれは、申し訳ない。ところで鉄華団とはどうなりましたか?」
「ああ、それについて細かいところは追い追い話すとして、一応話はついた。餓鬼相手だと油断していた俺がまんまと引っかかりあえなく惨敗。歳星までの案内と親父への橋渡し、あと序でに物品の買取手探しを請け負うことで手打ちになったよ」
「――よかった」
ほっと一息ついた。その呼気が気泡となって医療用ポットの中をふわふわと漂う。その様子に、名瀬は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「…なぁ、お前ならもっと円滑に交渉することもできたんじゃないのか? そんな銃弾喰らうまでもなくよ」
「結果論ですね。銃弾を受け瀕死になったという現実がある以上、どんな過程を辿ったとしても訪れた結末は変わらない。仮に銃弾を受ける人間がいたとして、それが私か、はたまた別の人間であったかの違いですよ。それに」
「ソイツに何を言っても無駄だ、本艦内で唯一人を殺すことができた私と鉢合わせさせたのも、恐らくこの男の策だ」
「…アツコ」
でなければ、その体で撃たれて平気な顔はしないだろう? アツコと呼ばれた女は憎悪を含ませた言葉を投げ掛ける。ポットの中で、シンヤはコポコポと気泡を吐き出しながら、その感情が向けられる意味を理解した。
「紹介が遅れたな、コイツはアツコ・アルカ。便宜上俺の養女ってことになってる」
「成程、把握しました。ところで話は変わりますが、MRIでも撮ったんですか。本人に無断で」
「いや、俺は止めようとしたんだがな?」
「どちらにせよ医療用ポットに入れて治療を受けさせるならば
「手術する羽目になったお前が原因が言うなよ。お陰でこっちはコイツの治療しなきゃならねぇんだぞ! 女以外は御免だったんだぜ俺は」
「何故だ? 向こうは向こうで死ぬ気でこの艦に攻め入ったんだろう? ならば一人くらい死んだところで文句はあるまい」
「アツコ、俺はそう言うことを言いたいんじゃねぇ」
「…喧嘩は他所でやって下さいよ」
医療用ポットの中でシンヤが呆れる。アツコは色が残る碧色の瞳を此れでもかというほど凄ませて名瀬を睨みつけ、シッシと犬を追い払うように手を振って退室を促した。名瀬は深く溜息をつき、鉄華団の連中に連絡してくると言い帽子の鍔を指先でなぞりながら退室した。
回転椅子に座っていたアツコがくるりと回り、デスクからカルテを取り出して横たわるシンヤを睨む。
「
手にしたカルテにはシンヤの内臓をMRIによって撮影された画像があった。裏表が分からなければ判断しようがない画像ではあるが、確かに心臓は右側に配置され、肺も本来であれば右に三葉、左に二葉あるはずだが逆転している。
内臓逆位症――心臓のみであれば先天性心疾患として右心症が発現している筈だが、シンヤの場合は一部分が左右逆になっている訳ではなく内臓の全てが逆位相になっておりいわゆる全内臓逆位症に該当する。人間が火星など他惑星へ進出する以前の旧時代では十万人に一人の確率で発現する特異体質であるが、人間の惑星進出やナノマシン・医療・遺伝子操作技術の進歩が相俟って更に確率は低くなっており、現代ではその特異体質は絶滅危惧に相当する。というのも、こんにち内臓逆位の患者を対応している医療機関は数少なく、事故や病に侵された患者の受け入れは困難で最悪盥廻しにされている間に息を引き取るというケースが多い。
だが、なにも内臓逆位症の人間を治療できる人間がいない訳ではない。その解決策は先に行った鏡による左右反転である。
「内臓逆位であるならば心臓は右寄りなのだから左胸に銃弾を浴びたところで致命傷は免れる。おまけに鏡に映った内臓は逆位が反転して正位置になっているから自ら手術をし易いと。貴様の瞳は旧時代の
「さて、どうなんでしょうね?」
「余り驕るなよ
アツコの言葉に、シンヤの表情が凍り付いた。
「…では貴女は、パウラですか」
「ほう、貴様もあの屑の話は聞いたのか」
「…ええ、女の子ならパウラ、男の子ならフリッツ…」
「その通り、奴が自分の子に名前をつけるとしたら、どうするか」
シンヤ・ギーベンラートは、実のところ正しい名前ではない。欠けた名を口にしていない。
正確には、フリッツ・
アツコ・アルカは、実のところ正しい名前ではない。アミダの養子になる前の名前がある。
正確には、パウラ・
いや、より正しくはパウラ・A・ギーベンラートが本来の彼女の名前である。
フリッツ・S・ギーベンラートとパウラ・A・ギーベンラート。
この日この時この場所で、同じ名を持つ者同士が出会うに至るわけだが。
残念なことに、そこまでロマンチックな邂逅には至らなかった。
シンヤにとっては、やっと兄弟(姉妹?)らしき人物に出会ったな、と思う程度であり。パウラにとっては、何だこいつ気持ち悪い。診てるだけで吐き気がする、と極力シンヤを視界に入れまいと瞼を極限まで下ろしながら、しかし相手が患者である以上注意深く容態を観察する。
「だが、内臓逆位まで知っているなら当然その動かない両足の具合も理解しているんだな? 少なくとも、その両足はその首に施術された阿頼耶識のせいだけではない」
「………」
「言い逃れは赦さん。騙しも誤魔化しも私には効かん。悪いことは言わない、すぐに
「…まだ」
コポリとマスクの中で気泡を生みながら、一瞬逡巡して答える。
「まだ、その時じゃない」
「それが、全身に回っていたとしてもか? 悪いことは言わない、とは動けない両足のことではない、その膝にドス黒く溜まっている
骨肉腫、とは。
いわゆる骨にできる癌のことである。
旧時代は癌に悩まされる時代といっても過言ではないナノテクノロジー黎明期であり、現代のナノマシンによる腫瘍の除去技術が確立していない頃は須らく悪性腫瘍であり、放射線による治療はほぼ無意味であった。治療方法は外科的手術による摘出及び切断しかなかった。
現代は初期であれば、高価なナノマシンを投与することで腫瘍そのものを全身から排除する手法が確立しているが、未だその治療は地球でのみ受けることができる。
放置しておけば、血流によっては肺への転移の危険性がある。
「それでも、斬るタイミングは、なんとなく
「ほお、その心得は?」
「いきなり足が物理的に無くなっては、足並み崩す人もいるので。急増の組織というのは強く、脆い。解っている人からすれば、薄氷を渡る心地と言ったところですね」
「戯言だな、だが理に適っている」
そう言って、納得したように何度も頷きながら、アツコは手にしたカルテを仕舞っておもむろに羽織った白衣の懐から黒光りする銃を取り出し、医療用ポットの丁度、シンヤの頭部に当たる位置に添える。
「あ、あの、心なしか銃をこちらに向けてる気がするんですが」
「理に適っている。言い分も納得できる。だが私という女の手で治療して救えないのであれば、治療を拒否して死ぬというのであれば、手ずからその命を絶ってやるのがせめてもの慈悲だとは思わないか?」
普通は思わない。
だが、アツコもシンヤも普通や一般、所謂大衆向けの、多数派の考えを持ち合わせていない。無論、シンヤはアツコほど医療行為に対して其処まで情熱を持っているわけではない。だがその情熱は理解ができる。
アツコは、自ら診た患者が死ぬことが許容できない。死ぬと解っていればそんな患者など診ようとも思わない、死への忌避感云々というレベルではなく自らのプライドに懸けて患者を救いたい――否、救うべきだという使命感に駆られているのだ。
勿論、自ら医者である限り患者の意思を尊重するのが大原則である。中途半端に医者としての使命を全うしているだけに、狂っているようにしか見えない。
しかし、相手も
ただ、生命の危機だけは感じていた。
「怖いか?」
「―――え」
「貴様は死ぬのが怖いか? 恐ろしいか? 生きたいか? それとも――」
死にたいのか?
そう聞かれて、はいそうですとも、いいえ違いますとも答えることはできなかった。
実際のところ、CGSも鉄華団もシンヤからすれば名前を変えたに過ぎず、体感でまだ延長し地続きした組織としか思えなかった。前でも後でも、シンヤがやる仕事の内容に変わりはなく、頭が変わったことや団員の総入れ替えがあったこと程度であれば些末な問題でしかなかった。
であるならば。
シンヤは、何故生きているのか?
いいやそれよりも。
アツコはシンヤを見ていない。シンヤを通してその奥にいる誰かを見て、問うている。
一体、誰を。
「アツコ、アンタ何やってる」
何か重要な、核心に近い部分に触れようとした矢先、医療用ポット越しにアツコが床を舐めさせられていた。いや、この表現は些か語弊がある。
正確には、メディカルルームに侵入した白髪の女性が背後から襲い掛かり、銃を持つアツコの右手と頭を掴みうつ伏せ気味に床に叩きつけていた。
「ほう、気取られず私を組み伏せるとは中々だなアジー」
「アンタこそ私如きの奇襲に反応できないなんて珍しいじゃないか。其処までコイツを殺したいのか? アツコ」
「貴様が知ったことではないな」
「なるほど、道理だ」
刹那、組み伏せられたいたアツコが拘束されている腕とは反対側の左腕を、まるで肩甲骨というものが存在しないのかと疑うほど後ろに回り、白髪の女性――アジーと呼ばれた女の頭に伸びる。しかし、先に頭を抑えていたアジーの腕がアツコの首に掛かり頸動脈を締め上げる。喉を潰しかねない圧力に一瞬怯むも、
「舐――めるなァ!」
全身を使い発条バネのように床からアジーを跳ね除けようと力を入れる。だがそれよりも早く―――
『アーツーコー覚悟ォオオオオオオ!!』
「な――グボぉ!?」
メディカルルームの扉から文字通り跳んできた、恐らくこのハンマーヘッドの乗組員であろう女性達が束になってアツコの真上に躍り出る。それにいち早く気付いたアジーは血相を変えてアツコの拘束を解き即座に真横に跳び這々の体で女性達から逃れる。アジーの拘束が解かれたとはいえ、思いがけない奇襲にアツコが反応するよりも早く、女性達が束になってアツコに次々とのし掛かった。正に圧殺と呼ぶに相応しい攻撃に、さしものアツコもノックアウトされたのか、腹這いにのし掛かる女性達の山の下で捲れた白衣の袖から伸びる腕が小さく痙攣してやがてぐったりと動けなくなった。
「ハイハーイ、アツコちゃんいい子でちゅねー」
「あぁーぐったりしてる! 可愛いねぇちょっとおやすみしてようか! あ、起きる? 起きちゃう? じゃあもう一回ポコンと頭打っちゃおうか!」
「全くただでさえ男がポット使ってるだけでもイヤなのに、脳漿ブチ撒けて更に汚くしないでよねー」
「どうもお騒がせしましたーゆっくり休んでねー」
気絶したアツコをロープで縛り上げながら、女の衆が退室していく。その後ろ姿をポット越しに眺めたシンヤと、メディカルルームの扉前で立ち竦んでいた鉄華団の男の衆がドン引きしていた。その様子を見た、メディカルルームに残っていたアジーが照れ臭そうに頬を掻く。
「み、見苦しいところを見せて悪かったな」
『いヽえ、まったく』
見苦しいどころか、誤魔化すのも苦しい場面だった。