――音が、聞こえた。
合奏だ。けれど、オーケストラなんて大層な代物じゃない。
よく聞けば、スピーカー越しの濁った音だ。
ジャカジャカと、いちいち小煩い。
でも、どうしてか私の耳はその音を自然と受け入れ、指が勝手にリズムを刻んでいる。
「みんなー、キラキラドキドキしてるーっ?」
次いで聞こえて来たのは、それまでの不思議な魅力に溢れた音たちの、その全てを台無しにしてしまう雑音だった。
ピアノは三歳、ヴァイオリンは四歳の頃から習っていた。
二つ上の姉の影響でチェロを始めたのが小学一年生の頃。
私の家は俗に音楽一家と呼ばれる構図をしている。
父はプロのヴァイオリ二スト。母はそこそこ有名なピアニスト。姉はイタリアのコンクールで優勝した際に誘われたとかで、来年からウィーンの音大へ進学する。
私以外の家族は皆が皆して何らかの形で音楽界に名を馳せてはいる。そこで私は仲間外れだ。
何もない。私には、何もない。
「ほえぇぇ……ピアノ、すっごく上手いんだね」
違う。何もなかった、だ。
彼女――ジュリと出会い、私には誰かに誇っても良い何かが生まれた。
「私とさ、音楽……やらない?」
差し出されたその手を拒まなかったのは、何かを手に入れたいと思ったからなのだろうか。それとも、その向こう側に見えたジュリの、希望に満ちたその笑顔を信じようと思ったからなのか。
ただ一つ確かなのは、彼女の手を取った瞬間から私の中の止まっていた時間が再び動き出したという事だった。
*
私が今よりももっと小さかった頃、どこかの森の中で見た満天の星空はすごくキレイで、今でも目をつぶればいつだってその時のことがまぶたの裏に蘇る。それに比べると、私の住んでいるこの町の夜はいつも寂しくて、物足りない。
あの森で見た満天がここにもちゃんと在るのに、目には見えない障害がそれを隠してしまっている。
そこで私は思う――きっとそれは私たちも同じなんだ、と。
一人一人が形や色の違う輝きを放っているのに、いろんな障害がそれを見えなくさせてしまっているんだ。社会や現実、そんな障害が私たちの輝きを隠している。
――音が、聞こえた。
昼休みにたまたま通りかかった音楽室の方から、ゆったりとした音色の旋律が聞こえてきた。
こういう、ちゃんとした音楽に関しては正直よく分からない私でも、このピアノの弾き手が相当の腕前である事だけは分かった。どうしても気になった私は、購買で勝ち取った焼きそばパンを咥えながら扉の小窓から音楽室の中を覗いて見た。
穏やかな気持ちになれる曲調とは裏腹に、見えて来た弾き手の表情は文字通りの無だった……いや。それどころか、どこか苦しさを必死に抑え込んでいるようにすら見える。
「はぁ……未練がましいね」
音が止むと、弾き手の子は小さく笑った。
それは多分、自分の演奏に満足して出た笑顔とかじゃない。
「ほえぇぇ……ピアノ、すっごく上手なんだね」
気付いた時には、既に私の手は扉を開いていた。
「だ、誰、ですか?」
「私はジュリ。櫛原朱里だよ」
キョトンとした顔は、私の言葉を聞いてからすぐに下を向いてしまった。
「クシハラさん……お世辞とかはヤメて下さい。私、下手くそですから――」
「そんな事ないっ……すごく、輝いてたよ」
考えるより先に言葉が飛び出ていた。
自分でも驚くくらいに大きな声だったから、目の前の子も驚き顔のまま静止している。
でも、
「嘘ですよ、そんなの……演奏してる私がこんな気持ちなのに、聞いた人が感動するなんて可笑しいじゃないですか」
その子は私の素直な気持ちを否定して来た。
自分が意地っ張りで負けず嫌いな性格なのは知ってた。
「アナタがどうだったかなんて関係ない……私は感動したのっ!」
でも、改めて考えるとこのタイミングで私がここまで食い下がるのは変だよね、ホント。
「そんなハズないって、言ってるじゃないですかっ!」
「そんな事あるって言ってるじゃんっ!」
完全に会話のドッヂボールになってしまった。
「どうしたら納得するのさ」
「私は自分の演奏が嫌いなんですよ……もう二度と弾かないって思っても、気付いたらこうして未練がましく弾いちゃってるんです。ヤメたいのに、苦しいのに、私は――」
その言葉で私は悟ったんだ。
この子が胸の引き出しに閉まったまま忘れている、本当の気持ちに。
「音楽、ホントはすごく好きなんじゃん」
その言葉を聞いた瞬間、その子の目に輝きが戻ってきたように感じた。
だから、
「私とさ、音楽……やらない?」
いろんな物に埋もれていた彼女という星をすくい上げようと、私は手を差し伸ばした。
これが私とユキとの出会いだった。