∞ - Kado: the Respective Answers -   作:沖黍州

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1.翻訳

 茹だる様な暑さ、という表現が、まさしく正しいと思った。

 やる気が出ない。全部この故障したエアコンのせいだ。

 遠淵(えんえん)社の空調が壊れていると知ったのは、新宿駅を出た時だった。出社した部下からの第一報がエアコンの故障とは、この付白(つきしろ)の労働効率を大幅に下げようとするエイリアンの仕業に違いない。午前中はまるで仕事にならなかった。

「はぁ……アイスでも買ってこよ」

 これでも管理職という手前、部下の前でだらしなく働くわけにはいかない。昼休みで思いっきり休み、なんとかやる気を出すために、コンビニへ向かう。

 ()い。

  ヒートアイランドの真っ最中の東京は、まるで油を垂らした鉄板のように湯気を町中に立ち込めさせていた。

 社内に戻ろうかな。そう思いかけたけれども、コンビニはクーラーが効いているはずだと思い直した。

「ひぇ…………なんでこんなに暑っついのー」

 朝一で頼んだエアコンの修理は、業者によってスピーディーに進んでいるらしい。昼休み中にはどうやら直る見通しとのことだ。でも、エアコンの通気口は第一翻訳部の入り口付近にあり、仕事場の奥に鎮座する部長席まで冷気が充満するのは、三十分くらい後なのだ。

 誰も見てないし、と思い、胸元のボタンを一つ外す。鞄からエイトフォーを取り出して、服の中に一吹き。

 爽やかなミントの香りとともに、エイトフォーの窒素ガスが身体を冷やしてくれる。たまんない。

「部長。何やってるんですか」

 誰も見ていないはずだったのだけれど。

 見られていたらしい。

 振り返ると、毎日のように顔を合わせている期待のホープがそこにいた。

 その少女、理桜(りざくら)は、我が社、遠淵社の第一翻訳部――海外、主に英語圏と中国語圏の書籍を日本語に翻訳する作業を司る部署――の新人である。私が直々に第一翻訳部に連れてきたのだ。間違いなく優秀で可愛くて将来性のある、今(私の中だけかもしれないけれど)話題急上昇のキャラクター。

「むむ……編集歴二四年のキャリア、この付白(つきしろ)誌作子(しづこ)に問うか、理桜よ」

「部長、またそれですか。一応突っ込みます。年が合わないですよ。大卒で入社なら四十六歳です、おばさんですよ、おばさん。まだ、お姉さんでいたくないですか? 変なキャラ付けいらないですよ……いい歳して恥ずかしくないんですか。何歳なんです?」

 新人に「はぁ」、とため息をつかれた。死にたい。

 実際、三十代に突入した自分が悲しいのもある。そろそろ所帯持ちたい。結婚したい。

 部長を適度にあしらうことができる、この目の前のきゃぴきゃぴの新人が羨ましかった。この子の母親じゃないけれど、理桜ちゃんは間違いなく数年以内に結婚する。そして寿退社するんだ。寿退社は幸せな夢だし認めるけれども、それまでは絶対に私の野望に付き合わせるんだから。

「付白さんは永遠に十八歳だから」

「余計痛くなるだけだから止めてください。フォローに苦しみます」

「ぐはっ」

 軽口を投げ合えるくらい、私の第一翻訳部はみんな仲がいい。はず。その理由は、遠淵社が団塊の世代が一斉退社した後の再編成企業という点にある。理系の学術図書の出版を扱っていた遠淵社を、現在の社長が買い取り、ライトノベルやSF、ミステリーも手掛ける出版社として再生させた。この会社は新体制になってから歴史が浅いし、中にいる人間がとにかく若い。四十代、五十代が珍しいくらいのこの会社は、挑戦が挑戦を呼ぶ好循環の真っただ中にある。

 そんな特例的企業だから、私も特例的に働いている。部長の肩書があるけれども、私は一方で一人の現場職員として日々奮闘中だ。翻訳部に移ってからは海外出張を経ながらいく人かの海外作家とコネクションを持ち、インタビューは直々に伺っている。長年のキャリアであった編集の仕事でつながっている作家とも、定期的に連絡を取り合っている――一流出版会社の深奥社から、未来のありそうな(さっか)は全部遠淵社(こちら)に移した。労働者の一人のように働く私の姿勢は労働組合的にはやや問題に映るらしいが、職員が問題視していないため、今のところお咎めなしである。

「理桜ちゃんはお昼?」

「いえ。アイスコーヒーを買おうかと」

「いいね! 今日ほんと暑いもんね」

 奢ってあげようと思ったけれど、それこそ労組的にヤバいのかな、と思いなおす。

 つくづく、私は管理職向きじゃない人間だなぁ、と思ってしまう。

「弁当、偉いなぁ。一人暮らし、大変じゃない?」

「まぁ……」

「新卒のとき、ほんの少しだけ弁当やってたけどなぁ……」

 新卒という甘美な響き。全速力で駆け抜けたあの時期が懐かしい。

 本を追い求めて、本を創った。編集とは、作家やデザイナーという自分の手が届かない領域に、何かを創ってもらうという外注作業だけれども、だからこそ編集者の個性が現れると今でも考えている。

 その個性を今の部長という職種でも活かせているか、少し悩ましい。

「部長が弁当ですか」

 理桜ちゃんがふふ、と笑った気がした。可愛い。

「理桜ちゃん、それはちょっと失礼なんじゃない」

「あ、ごめんなさい」

「冗談」

 地雷を踏んだかと慌てたような表情をした理桜ちゃんに、こっちも笑みが零れる。

 小動物みたいな可愛さだ。黒色のスーツ姿が、可愛さを引き立てている。

 昔、私も「リスみたいな女の子」と深奥社の先輩に言われたことがあった。いい思い出だ。それは温泉のように浸っていたいくらい、甘美な思い出だ。

 この子と初めて出逢ったのは、一年と二か月くらい前の採用試験のときだ。部長クラスが同席する三次面接で、この宝をなんとしても手に入れなくてはと思ったことを覚えている。

 いかに作家を見つけ、一緒に歩んでいくか。私の野望を達成するためには、作家を見つけるだけではだめなのだ。二人三脚で向かっていく、その姿勢こそが大事だと編集の仕事から学んだ。管理職になっても、その考え方は変わらない。

「あれ?」

 理桜ちゃんが声を出す。

「どうしたの?」

「部長、街が、なんかざわついていませんか」

「うーん。これは、付白さんの連載、ミステリー街道の出番ですね! よし! 取材、取材」

「いつからミステリ担当になったんですか……」

 呆れた顔をする理桜ちゃんをしり目に、コンビニの周りを観察する。

 どの人もスマホに目を奪われている。

 または、そこらで大量に配られている号外を目に取っている。

「これは……事件の匂いですね」

「部長。きっとこれですよ――うわ、すごい。Yahou!ニュースが全部同じニュースだ。立方体……?」

「なにそれ」

 理桜ちゃんのスマホを覗き込む。慣れた手つきでスワイプしていく彼女は、NNKの動画ニュースを映し出した。

 NNKがネット上で無料の放映を許可しているのは、大震災以来じゃなかっただろうか。

 しかし、そのニュースの内容が要領を得ない。

 

  立方体、羽田空港上空に出現

  警察庁、羽田空港を封鎖

  謎の構造物 大きさは一辺約二キロメートルか

  政府、閣僚を招集 羽深(うぶか)官房長官は無言

 

「うわぁ……これは大事みたいだね」

「り、立方体って何なんでしょう?」

 まだ成人になっていない理桜ちゃんは、このニュースに結構驚いているようだ。

「なんだろうねぇ……ええっ!?」

 立方体の映像が目に飛び込んできて――三十路の私も驚いた。

 なんだ、これは。

 不思議な幾何学模様。まるで立体の曼荼羅のように荘厳だ。

 NNKの空撮映像を見る限り、それは現実感のない、架空の世界の報道(フェイク・ニュース)に見えた。

「理桜ちゃん……これ、新作の映画ってことはないよね」

「ないですよ、多分……」

 これが、真夏の東京路上、灼熱地獄で人々がスマホに見入っている理由だ。

「まるでSFの映画みたい」

 理桜ちゃんの言葉に、私も同意する。

「というか、理桜ちゃんSFいけるんだ」

「はい――いや、そんなに観ないですけど……小学生のときに、科学好きな友達がいて」

「最近、何か観た?」

「えーと……トム・クルーズが出てるやつを」

「あれ結構面白かったよね。ほら最初にBBCが出てくるところとか演出としてベタだけどリアリティがあるというか。というかトムやっぱりかっこいい。トムだよトム」

「私、トムはそんなに好きではないんですが……」

「そうなの?」

 理桜ちゃんが見たという映画は、日本のラノベが原作のハリウッド映画だ。深奥社が大売出ししようとしていた記憶がある。私の熱の入れように、理桜ちゃんが若干引き気味な気がする。気にしない気にしない。この業界、個性が大事なのだ。

 にしても、理桜ちゃんが挙げた映画は女の子が一人で見る映画じゃなさそうなので、自然とこの子のプライベートが推察できる。いいなぁ。彼氏と映画…………甘美だ。

 隣の美少女を羨みながら、滝のように汗をかいて号外を配っている新聞社の方にご苦労様、と声をかけて、私と理桜ちゃんはコンビニに入った。

 私がチキンサラダとツナのサンドイッチと爽(バニラ味)を買っている間に、彼女はアイスコーヒーを淹れていた。こういう目に見えないところで会計を済ます、上司に気を遣わせようとしない姿勢は繊細だと思う。守ってあげなくてはいけない、とてもいい子だ。

「会社に戻る?」

「はい……お弁当ありますし」

「そうだね」

 新聞を片手に帰る途中、ふと思った。羽田空港。

「ねえ、理桜ちゃん」

「はい」

茶水(さみず)君、朝一の便で発った?」

「いえ、朝に一度課の方に立ち寄ってから出発されましたよ。ぎりぎり飛行機に間に合う、って」

 茶水君というのは、理桜のいる第一翻訳部新言語課の課長だ。東央大の院を博士課程まで学んだあと、何故かこの茶水という優秀な人材は就職に困っていた。博士課程の論文が、『テキストマイニングに影響するテクスト濃淡の数式的解釈について』という、あまりに学術的にも社会的にもニッチなものだったからかもしれない。そんな彼を、我が社の社長はヘッドハンティングした。それなりの給料が出てるらしい。ちなみに彼の博士論文は遠淵社から刊行された。重版になることなく、数館の図書館になんとか引き取ってもらっている。営業が苦しんでいると聞いた覚えはある。あまりに担当の営業の子がかわいそうなので、私が一冊買ったからよく覚えている。内容はよく理解できなかったが、アイデアはとても面白かった。小説の見開きを、絵として解釈するというアイデアだった。

 私がこの翻訳部の部長になることを了承したのも、実は茶水君と理桜ちゃんのいる、社長の肝いりの新言語課の理念に共感したからだった。新言語課は翻訳の対象をいわゆる言語から拡張することを試みているのだ。

 例えば、茶水君のような理系の人が使う、数式。数式は最もシンプルで美しい言語なのだが、とかく専門性が高い。このような言語をいかに分かりやすく日本語に置き換えるかも、翻訳の仕事として認められるのではないか、と提唱している。

 日本語に置き換えるだけではない。新言語課では、数式をよりスピーディーに記述する方法も模索している。旧来、遠淵社が理系の学術図書を扱っていたことも幸いして、業界でも強みのある分野だ。マークアップ言語といい、ある言語をどう視覚的に表現するか、文章の構造を整えるか、そういった形式を記述する言語だ。

 茶水君は、インターネットのコードを見せて私にこの形式言語について教えてくれた。

 htmlという言語らしかった。</br>と打つと改行、<i>はインデントなど、いくつか簡単なものを私に教えてくれたけれども、フォントや紙の様式をこのように指定する方法を知らなかったことは人生の損だったとその時思ったことを覚えている。茶水君のような理系の学者にとってはLaTexという言語が有名らしい。それもまた覚えている。

「マークアップというのは、著者が編集者や出版社に伝える、という意味が語源なんですよ」

 彼はそう私に笑って説明してくれた。

 ちょうど、大ヒットしたSF小説がマークアップ言語をガジェットとして利用して売れた(おり)だったことも、我が社がこの領域に力を入れる理由になった。社長はその小説を読んだ時に目を輝かせて、小説にはまだまだ記述方法の可能性があったんですね、と言って、もっともっと我が社が小説を開拓しましょう、と口にしていた。いずれは超次元言語を私たちは探すんですよ! と意気込んでいた。

 そんなわけで、理桜と茶水君――正確には茶水課長――は翻訳部の超実験的な新鋭の課の素晴らしい人材なのだ。その茶水君が、今朝、サンフランシスコへの出張で羽田空港に向かうことになっていた。

 嫌な予感がする。

「理桜ちゃん、茶水君に連絡着く?」

「いえ……ライン、反応ないです。でも、飛行機の中だったら、電波繋がりませんし」

「そっか」

 サンフランシスコに着くのは何時間後だろうか。きちんと安否確認できないと今夜寝れないなぁ、と思う。社に戻ったら茶水君にメール入れておこう。サンフランシスコで必ず連絡入れること、と。

 

 ところが、事はもっと大事だった。

 会社に戻ると、社長がうわー、っと駆け寄ってきて、付白さんどうしようどうしよう、と言ってきた。

「社長、落ち着いて。どうしたんです」

 この社長、うっかり者の私がかすんで見えるくらい、何かが抜けているような人だ。その容貌が隣の理桜と同じくらい若く見えることも、私の印象を強めている。

「あのね……茶水君が」

 社長は少し間をあけて、嵐の到来を告げた。

「茶水君の乗った飛行機が、羽田空港の巨大な立方体の、下敷きになったって連絡が――」

 社長の言葉は、私たちを映画のキャラクターに据えるかのような、緊急事態を告げるものだった。

 

        ※

 

 立方体の出現とともに、午後は仕事仕事仕事・オブ・ザ・仕事といったスケジュールになった。

 何しろ、社員が一人行方不明になってしまったのだ。広報室や危機対策系の部署がない我が社では、社長以下管理職が総出で対策にあたることとなった。

 管理職の中でもメディアとの繋がりが一番多い私が、必然的にメディア対応に追われることになった。従業員からインタビューしようと、理桜ちゃんを追い回す報道陣を追っ払って、無理に帰らせたのも私。ついでだから、と来週の月曜日まで短い夏休みを与えてしまうことにした。茶水君がいなくなると、新言語課は理桜ちゃん一人になる。夜が更ける中、茶水君の安否が想像の中で最悪の場合の時に、彼女をどう動かすか、人事も頭を悩ませていた。理桜ちゃんとの会話を思い出す。彼女は大丈夫だと思う。多分。昼間に投げかけられた社長からの言葉(メッセージ)が、私たちの何かを突き動かす、燃え尽きることのない炉のような働きをしているからだ。

 

 午後、三時半。

 最初のメディア対応が終わったのち、私と理桜ちゃんは社長室に呼ばれた。理桜ちゃんがなかなか入ることもない社長室に緊張しているのは分かるが、重苦しい空気はそのせいだけではなかった。

「付白さん」

「はい」

「総務部の五十嵐部長が羽田に向かってくださいましたが……どうしましょう。茶水さんは今何をしているんでしょう」

「大丈夫です」

 にこやかに笑ったつもりだ。しかし、社長の顔は何か難しそうなことを考えているようだった。

 五十嵐部長はこの社の中で珍しい五十代の出版業界の大ベテランで、裏方の達人といえる人物だ。今も社にいろいろな情報を送ってくれている。

 警察や消防が羽田に大集結しており、特に東京消防庁のハイパーレスキュー隊が出動していたという情報は、示唆をもたらしてくれた。官邸の記者会見第一報は、羽深官房長官が発した「旅客機の乗客救助を最優先として、政府は動いております」との言葉だったが、警察と消防の行動はその裏付けとも取れ、日本国政府が立方体の下敷きになった旅客機について何らかの情報を握っていることが読み取れた。

「付白さん……もし茶水さんが生きていたとして……あの立方体の中で、どうしているんでしょう」

「は」

 突然の社長の言葉に、喉の奥から空気が漏れた。

 社長は茶水君が生きていると確信している。そのうえで、自分が何をすべきなのか考えているようだった。

「あの立方体は、()()()()()()()()()な存在です。ですが、茶水君も負けてはいません。彼は、ロボット工学や人工知能の分野では、この世で二十指には入る奇才なのです。手と足の指全部使ったら、その中に茶水君入るんですよ。すごくないですか? ……絶対に、失えない人材です。我が社だけのみならず、人類の損失です」

「それは、まぁ確かに」

 新言語課の理系分野をすべて一人でこなす人間だ。正直、会社としては後継ぎがおらず、代えが効かない優秀すぎる戦力ともいえる。

「課長ってそんなにすごい人だったんだ……」

 理桜ちゃんの呟きが聞こえた。

 ちなみに、理系の彼をサポートしている高卒新人の理桜ちゃんはそれはそれで代えの効かない優秀な人材なのである。今の基本給だと別の会社に引き抜かれないかと気が気でならない。しかし、彼女を活かせる環境もそう多くはないだろう。だから、茶水君がいなくなったことの心理的負担をしっかり除かなくてはいけない。

「あの立方体の中に、何か情報を送り込めないかなぁ……茶水君が生きていれば、何もしないわけないと思うの。ねえ、理桜ちゃん」

 社長が理桜ちゃんに意見を求めた。

 こういうときの社長は、広くいろんな意見を求めながら、自分のアイデアを拡げようとしている。

「理桜さん、ここでは畏まらずにいいから」

「あ、そうでしたね。ごめんなさい……わたし、社長という肩書ですけど、今は茶水君の心配をする同僚だと思って下さい――質問はこうです。茶水君が、間違いなく生きていると仮定します。ならば、同僚の私たちが最初に行いたいことは、彼と連絡を取ること。安否の確認を取ること」

「は、はい……」

 おずおずと、理桜ちゃんが口を開く。

「課長は、たしかにただでは起きないような方です。何か独特な考えを持っておられるように思いますし……あ、でも。課長には失礼になりますが」

「そういうことも言っちゃおう」

 理桜ちゃんの言葉を引き出す。

「……少し、お調子者のところもありますから――事件の当事者であることを、楽しんでいるんじゃないでしょうか」

「ぷっ――うん、うん」

 やや間を置いて、社長が答える。最初に少し笑っていたように思えたのは、気のせいか。

 しかし、この理桜という子、若干十九歳にして人が見る目があると私は思った。茶水君は博士課程を修了している科学者だ。あの立方体、幾何学模様を見て、何も発想しないとは思えない。

 彼女は科学者という本質を掴んでいた。

 彼らの本質は、この世の解析を楽しむことなのだ。

「では、次の質問です。……そんな立方体に囚われて呑気に楽しんでいるかもしれない茶水君に、私たちのメッセージを伝えるには、どうすればいいでしょうか」

「茶水君、楽しんでいることになってる……」

「仮定ですよ、仮定。でも、いい仮定でしょう?」

 最悪の事態など、あり得ない。そんな仮定の上で思考実験を行うのは、心の重しが取れるように感じられる。社長は社長で、私たちに気を使っているのだろうか。

「メッセージ、ですか」

 手を組んで考え始めた理桜ちゃんを、社長が子どものような目でわくわく見守っている。

「……メッセージとは、なんでしょう」

 十数秒、黙考した理桜ちゃんの答えは、問いだった。

「付白さんは、どう思いますか」

 その問いが、私に向けられる。

「メッセージは、人と人との間で交わされる言葉のやり取りです」

 さっと一般的な回答をすると、社長は頷いた。

「続けてください」

「人間という熟語がヒトのアイダという意味を包含しているように、人間の本質というものは、私はコミュニケーションにあると思っています。メッセージとは、何かを媒介にヒトのアイダを繋ぐものです。一冊の本を創るとします。その本は、基本的にはある作家が一定の読者に対して何かを伝えようとする媒介物として捉えることができます」

「そうですね。私もそう思います。理桜さん。いい例が出ました。考えてみてください――私たちが翻訳して媒介物になる意味とは、なんですか?」

 鋭い問いが、新鋭ホープに投げかけられた。

「……私が思う、翻訳です。部長がおっしゃられたように、メッセージがヒトのアイダを繋ぐものだとするなら、翻訳とは、そのアイダを取り持つ作業を行うことだと思います。私たちはお金をもらって仕事として出版をします。それは、つまり……言葉や文章といった人が創るものを、加工して、提供することです」

「加工。素晴らしい解答ですね」

 社長は嬉しそうな顔を見せた。私も驚いた。理桜ちゃんは四半期で、仕事に対する独自の哲学を持ち始めている。

「では、私たちが茶水君に何かを伝えるなら、私たちのメッセージを加工すればいいと思いませんか、理桜さん」

「は、はい……」

「私も本は読みます。それはもう、結構な数を読みました。和書も洋書も。その中で、翻訳という作業は興味深く思います。その時代によって、訳が変わることもあるんです。より読みやすく、伝わりやすく。情報の伝達を、加工することによって柔軟にする。それは翻訳の一業態であると信じています。時代や言語の違いという障壁を乗り越えることが翻訳。だから、立方体の中の茶水君に何かを伝えようと、立方体という物理的だか観念的だかよく分からないですが、その障壁を乗り越えようと努力することは、私たちの本当の仕事なんです」

 社長は力強くそう言い切った。そうか。メディア対応に追われて何か仕事が変わったように思うけれども、社長の観点からは私たちの仕事は何も変わっていなかったのだ。

 誰かに何かを伝える。そのために尽力する。

「ですが」

 一方で、そういった抽象的な考えが、現実問題の中でどのように働くのか疑問に思う私もいた。だから尋ねたのだ。

「あの立方体を通す翻訳というアイデアの現実性が、正直分かりません……言葉というのは、人間(ホモ・ロクエンス)だけが扱えます。猿ですら言葉という観念を理解しているか怪しいです。立方体に言葉を投げかけても」

「あるんですよ」

 社長は微笑んで、私の問いを受け止めた。そして正解への道しるべ(The Road to Answer)を告げる。

「超次元言語――人ならざるものが使う言葉は」

 私がその言葉の意味を反芻する前に、社長の言葉が続く。

「まずは()()です――世界には、私たちの知らない技術が無数に存在しているんです」

 

 ふと外を見ると、夜の空は月明かりに照らされて雲が棚引いていた。ビルの窓から眺められる立方体は、艶めかしい彩りを東京にもたらしている。これだけの騒ぎを起こしておいて、何も情報を出さずに粛々と佇む()()は、奇妙な矛盾だった。

 

 




はじめまして、沖黍州(ときびしゅう)です。


4月から放送されるアニメ「正解するカド」および、その脚本を執筆された野﨑まどさんの作品群の二次創作(リレー執筆)です。


せいさん(@seichan_0713) 、邸 和歌さん(@yasiki_waka) 、そして私、沖黍州(@sierrahotel920)が、アニメ「正解するカド」を観ながら、野﨑ワールドのキャラクターを登場させるアナザーストーリーを、アニメの進行を反映させながら執筆していきます。

※ 邸さんのページ  こちらでも本作が連載されます。
http://www.pixiv.net/member.php?id=22241534


邸 和歌さん(@yasiki_waka)
せいさん(@seichan_0713)
沖黍州(@sierrahotel920)


あたたかい眼でみながら、ともに「正解するカド」を応援できましたら幸いです。





【 ※ 注意 ※ 】

(1)
未完結のアニメを追う二次創作なので、結構な頻度で内容に矛盾が生じることがあります。
その都度リライトや、場合によっては改稿を行います。

(2)
現時点で、「観測する■■」として執筆していた分に関し、ストーリーの根幹が第三話までの展開と合致しにくいことから、全面的な改稿を行うことをしました。前作は後ろの方に載せてありますが、執筆している正二次ストーリーとは関連がありません。

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