∞ - Kado: the Respective Answers - 作:沖黍州
(沖黍州執筆分)
昼休憩の間、最寄りのコンビニから戻ると、デスクの上に「東京ばなな」と湯呑が置かれていた。エアコンがガンガンに効いた執務室で身体は冷え切っており、あたたかいお茶は案外嬉しいものだ。湯呑に触れると熱すぎず温すぎず、今飲むのがちょうどいいと分かった。そのように淹れられたのだろう。仕事場だけれど、お客さんの目を気にする必要もないので、久しぶりの東京ばななを楽しんで、お茶で胃に流し込んだ。
ついこの間まで、自分しかいなかった仕事場だ。二人分の仕事机と、二年に一度は更新される、リース契約のパソコン。その割には、十人くらいが入っても大丈夫なスペースが確保されているし、東京とのテレビ会議用の会議室や応接室もある。奥にはたった二人のために備えられた休憩室だってある。
文部科学省文化庁文化部国語課情報処理係、京都事務所。宮内庁京都事務所の地下三階に文科省が間借りしている四室のうちの一室が、我が城である。
「
湯呑を持ったままぼうっとしていると、声を掛けられていたことに気づいた。いつの間にかこの部屋のもう一人の主が帰ってきていたらしい。
「何、ぼうっとしてるんですか」
「いや、……お茶が美味しくて」
「これくらいでよければいつでも煎れますよ」
彼女はそういうと、鞄を机の下に仕舞い、買ってきた駅弁を広げ始めた。
「それ、伊右衛門のインスタントなんです」
「なに、買ってきてくれたの?」
「何もないよりマシですから。あ、お気遣いなく。ちゃんと経費から落とさせてもらいます。応接室だってあるのに、お茶だって準備されてないのはどうかと思いますよ」
確かに休憩室には客に出すものは用意されてない。この部屋で必要になったものは、だいたいコンビニで全部済ませていた僕の億劫さのせいだけれど、もっとしっかりした理由は、そもそもこの課は応接室に招くような客を想定していないというところがある。
「だってなぁ。必要ないじゃん? こんなとこに来る人なんていないさ」
「立山さん、何事も万一を想定することが大事だと思いますよ」
「そう? ……まぁ、こうしてお茶を昼に出してくれるんだから、僕としては嬉しい限りなんだけどさ」
「淹れた方としてもそう言われれば嬉しいです。せっかく京都にいるんですから、お茶くらい楽しみましょう……銘柄などにこだわりがあれば、適宜入れ替えますよ」
そう言われて気づいたけれども、僕は京都に住み始めて十年間目だが、自分で挽いてお茶を飲むなんてことはしたためしがない。自分はつくづく文化の素養というものがなく、京都という土地と相性がないと思う。
「東京バナナも美味い。久々に食った」
「駅のキオスクにあったんで。まだありますよ」
昼休憩という、貴重な労働者の休息期間を満喫する。仕事も二人ならば、無駄話に花が咲くこともある。スマホでニュースを確認しながら、この時間をとても愛おしく感じた。
ニュースはカドの話題が半分くらいだ。
「そう……それで、東京の省庁はどうだった?」
「……どの部局も
「カンファのほうも?」
小声で――盗聴されるような部屋ではないと思うけれども、それを警戒して――僕は尋ねた。
「カンファは、全員総出で事態の把握に動き始めているようですよ」
そう言うと、彼女は僕の方を向いて、
「立山さん、いいんですか? 国語課に裏の仕事も寄越せ、って上に言うのなら、私じゃ不適格ですよ。立山さんが直に行った方がいいんじゃ……」
と尋ねてきた。
「そんな疑問はね。新人が思うようなことじゃないんだよ、
「……」
無言のまま、彼女が席を回って僕のところにやってくる。僕は学習している。この子は、こちらがわざとやっていると分かるような冗談のときには結構物理的な攻撃を仕掛けてくる。
「肘打ちはやめてね。痛いから」
「じゃあ代わりに何にしましょうか? 十秒以内にお願いします。第一候補はローキックとかありますよ、いかがですか」
「ひぇ」
彼女との間によくある冗談なのだけれど、呆れた目の後ろ側に妙な殺気が隠れているような気がする。
だから、得意のローキックを喰らう覚悟で
すると、
「……もう夏ですよ? そろそろ後輩の名前も覚えてください。私はリザクラです、りおって誰ですかブラジルですか、あ、もしかして愛人ですかー? そうそう……」
理桜さんは
「立山さん、結婚はいつなんですか」
とんでもない心理的攻撃を仕掛けてきた。
今年で三一歳なわけだが、今のところ浮いた話をできる身分ではない。仕事を言い訳にすることもできるが、それにしたって所帯を持つのかどうかそろそろ考えなくてはいけないと思う。
理桜。この城の二人目の主。一九歳にて入局したこの子は、まだスーツが不相応な感じがするくらいの女の子ではあるが、大変聡明だ。さすがに一を聞き十を知る、とまではいかないけれど、新人の教育でスケジュールが圧迫されるようなことはなく、むしろ僕の仕事がはかどるようにサポートしてくれる。
「まだ適齢期は」
「そんなこと言って、相手もいないんじゃないですか……?」
「ねえ
「いるんですか?」
「いませんよ」
「いるんですか?」
「いません」
「いる」
「いません」
「……ですよねー。だからって私の名前間違えていいってわけじゃないんで」
「ごめんごめん」
僕は謝って、逸れた話を元に戻すことにした。
「……こほん。とにかく、カドの出現で僕らが急に動くことはないよ。
「はぁ」
「何も指示がないということは、動くな、という指示でもある」
僕の言っていることに含み、喩えはない。言われなくても利益を出すのが仕事という言説があるが、重大案件になれば話は別だ。きちんと上の裁可を待って行動する必要がある。
そして昼間にこんな馬鹿話をすることが可能な僕らの仕事というのは、カドへの対処と同じくらいには、人間にとって重大案件のはずだった。
「僕らの仕事は、カドよりも難攻不落な《儀 一号》の解読。そいつを進めておけ、というのが、しばらくの上の意向なんだろうさ」
僕がそう言うと、貴重な昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「あと四時間、頑張りますか」
「はい。立山さん、午後は出張の復命書を書けばいいですか」
「そうだね。あ、僕はちょっと倉庫に行くよ」
襟を正してスーツの上着を羽織る。外は三十度を超える灼熱地獄。京都御所の周りは四条通りよりも緑が多く、暑さは和らぐとはいえ、スーツを着て出歩くような環境ではない。きょとんとしている理桜に、目的地の文庫保管倉庫は寒いかもしれないんだ、と僕は言う。
「昔の報告書を探してくる。どうもこれから必要になりそうなんだ――四時頃には戻れると思う」
理桜戸籍抹消事件の顛末が記された報告書は文書保管倉庫の奥にある。中からうち鍵を厳重に閉めて、僕は報告書を読み始める。
監視対象と一緒に仕事をすることがこんなにもきついこととは思っていなかった。書類上の存在が、いざこうして実感を伴って自分の周りに現れるというのは、自分のポルターガイストと一緒に仕事をするより大変なのではないか。
ポルターガイスト。そういった超越事態といえば。
理桜は死んだことがある。それも公的に。
東京の三鷹市に彼女の死亡届は確かに存在する。死体を葬儀を執り行い火葬するには地方自治体の火葬許可証が必要だし、火葬許可証は医師の印鑑が押された死亡届の提出がないと発行されない。戸籍法第八六条・八七条に基づいた、戸籍という人の記録の削除手続きに沿って、理桜は適正かつ迅速にこの世から抹消された。
のだが、彼女は現に実体を伴って生きている。
このことは僕だけでなく、理桜にかかわるすべての関係者を当惑させている。
三鷹市の行政ミスと片づけられればよいのだが、残念ながら彼女の死は様々な状況証拠が裏付けしている。二〇〇八年、井の頭公園で起きた少女の池への転落事故。警察・消防署が出動した記録が残り、搬送された少女が医師によって心肺停止確認されたところまで書類は残っている。次に、火葬の記録。死亡した三日後に通夜が執り行われ、彼女の遺体は火葬された。
そう、理桜は井の頭公園の池に転落し死亡、火葬された少女なのだ。
しかるに五日後、火葬されたはずの彼女は公園に復活し、周囲を驚かせた。
驚かせたでは済まない。三鷹市は困った。いったん受理した死亡届、それも死体を検案したという医師の押印付きのものを、どう処理すればいいのかと。結局のところ、戸籍の抹消を打ち消すための裁判が行政の手続きに則って行われ、ありとあらゆる関係者の複合的な事務ミスにより起きた死亡届は抹消され、理桜の戸籍は元に戻った。
人間は訳の分からない事態に遭遇すると、自分の記憶を捻じ曲げる。確かに葬儀まで執り行ったはずの少女が生きているならば、自分たちの記憶が何かおかしいのではないか。超常現象を前にして、人は自分の記憶の妥当性を疑い、妥当性のない記憶を誤りの情報だと切り捨てる。理桜とその親の社会的評価が高かったこともあり、彼女の帰還は不気味がられるよりも、よかったねえ、という一言で片づけられていた。
僕は
倉庫から戻ったのは六時だった。定時に帰れとは言っているものの、名ばかりではあるが上司ということになっている私が帰らないと、理桜は仕事を終えることはないらしい。
「飯でも行くか?」
「奢ってくれるんですか」
「ああ」
「フレンチがいい! フレンチ!」
「お前なぁ……」
そんな素っ気ないやりとりの後、僕と理桜は(連れていくのが三回目になる)とんかつ屋に入っていた。気さくな彼女は、仕事上の付き合いと割り切ってかどうかは知らないが、独身である僕の楽しみである夕食についてくることがある。僕もイタリアンとかそういった数少ない女子向けな店を選ぶことなく、自分の好きな店を選んでいる。店内に入ると同志社大の学生と思われる集団が席を譲ってくれた。理桜と同じくらいの年齢にみえる。
備え付けのテレビでは、カドの特集が放送されていた。
「なぁ」
上ロースとんかつ定食を注文して、理桜と雑談を始めた。理桜は箸袋を器用に折って遊んでいる。
「何も通さない盾に何でも突き通す矛を刺すと、どうなるか知ってるか?」
「矛盾が起こります」
「いや、そうなんだけどさ」
「どんな答えを期待してたんですか」
「なんか理桜ちゃんなら奇想天外なアイデア出してくると思ったんだけど」
「そういうの得意な友達ならいましたが……」
「奇想天外な?」
「はい、それはもう。――それで?」
「何も通さない……フレゴニクス」
僕はつぶやいていた。
「『とんでもない隔絶』という意味だそうだ。この前、カドの特番でやっていたよ」
「そうですか。確かに、カドは本当に何も通さないようですけど」
「……そんなもの、本当に実在するんだろうか」
フレゴニクス。『フレゴってる』という言葉がAとBが相いれないという意で使われ始め、徐々に民間にも使われ始めたカドを示す言葉。
「立山さん、みんなそう思ってますよ。あれはなんなんだ、って。ヤハクィザシュニナとは何者なのかー、って。未来人説、宇宙人説、いろいろありますよ。私は未来人じゃないかな、と思っているんですけど」
「そうじゃない。カドの所有者よりも、カドそのものが気になるんだ。何も通さない盾なんてものが本当に実在するなら――」
「実在するなら?」
理桜に急かされて、僕は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。それは理桜の前で喋ってはいけないことだった。
「……なんでもない」
そう言った僕のことを、理桜は怪訝そうに見てきた。話題逸らしに、僕は理桜が作っているものが何かを聞いてみる。
「何作ってるの?」
「これですか……鶴ですよ」
「鶴?」
「箸置き。私、箸袋があるとこうして弄っちゃうんですよ」
「すごい」
「たいしてすごくありません」
理桜は少し恥ずかしそうに言って、
「すぐできます。ここをこう折って……立山さんのも貸してください」
「うん、いいけど……」
「鶴は比較的簡単なんですよ。じゃあ猫を作ってみましょう」
僕の箸袋を受け取ると、それを折り曲げ、器用に猫を作っていく。
「器用だ」
「どうも、ありがとうございます」
理桜が猫を作っている間に、とんかつ定食がやってきた。猫は鶴に比べて難易度が少し上がるらしい。店員からお盆を受け取り、理桜の分を置いてやるときに、ちょうど猫ができあがった。
「へぇ、確かに猫だ」
「私、食べちゃいますよ。揚げたてが美味しいって言ってたの、立山さんですから」
「そうだね」
二人でいただきます、と言う。
とんかつを食べながら、僕は猫について考えていた。何物をも遮断する箱。閉鎖空間。待てよ――京都御所だ。僕は気づく。あらゆるものを通さないということは、その物質で造られた箱、つまりカドの内部から情報が一切出てこないのと同義だ。僕はだいぶ前に読んだ量子力学の入門書を思い出す。どこかにそんな存在が書いてあったはずだ。宇宙の真理を捻じ曲げる存在を覆い隠す存在。あれだ。検閲官仮説。ブラックホールの中心は特異点といって、密度が無限大になる。その存在を認めてしまうと、物理法則が破たんしかねないらしいのだが、そもそもブラックホールには、ありとあらゆる物質、光ですら脱出不可能な、事象の地平面で囲まれた領域があるらしい。物理法則を乱す存在の情報を、あたかも検閲しているかのような地平面。カドは、フレゴニクスは、まさに情報という観点では地平面と同じ側面を持つのではないか。
カドをもっと知りたい、と思い始めた。全く関係のない超常現象と思っていたカドの出現は、情報という側面から見れば、僕の仕事のブレイクスルーになるのではないか……
東京に行くか、と僕は思った。昼に理桜に言ったこととは真逆になるけれども、今回の「カド出現」、思っているよりも《儀 一号》に関係している気がする。直接の因果関係はたとえなかったとしても、カドという存在がもたらすものが、《儀 一号》プロジェクトが抱える問題を解決してくれる可能性もある。上が理桜を通して僕に何かを伝えてこなかったのは、単に上がその可能性を気づいていないだけかもしれないし、もしかすれば、理桜にその情報を知られてはいけなかったから、という考え方もできる。スマートフォンで、のぞみの終電時間を調べてみた。今出川駅を出て九時三十七分までに京都駅に着けば、今夜中に東京に行ける。宿はどうにでもなるだろう。
考えを整理してからとんかつを一口。いつも通り、とんかつはとても柔らかかった。
「ちょっと」
理桜に断って僕は席を立った。まだ六時半。残業天国の霞が関にはやはり僕の上司がいて、明日から数週間、本省で仕事しますんで、とだけ伝える。理由も説明せず、辞令はあとからお願いしますとだけ伝え、電話を切る。次に、カンファのA――私の上司――にも電話をかけた。「話したいことが」とだけ伝え、文化庁への辞令交付の手回しもお願いした。するとその電話を予期していたかのように、Aは「理桜君も連れてきなさい」と答えた。
東京。カドの出現地、理桜の出身地、そして《儀 一号》が記録した場所。
果たして次に来られる日はいつになるのかな、と、僕はとんかつ屋の暖簾をくぐった。
はじめまして、沖黍州(ときびしゅう)です。
4月から放送されるアニメ「正解するカド」および、その脚本を執筆された野﨑まどさんの作品群の二次創作(リレー執筆)です。
邸 和歌さん(@yasiki_waka) と 私、沖黍州(@Tokibi_Shu)が、アニメ「正解するカド」を観ながら、野﨑ワールドのキャラクターを登場させるアナザーストーリーを、アニメの進行を反映させながら執筆していきます。
※ 邸さんのページ こちらでも本作が連載されます。
http://www.pixiv.net/member.php?id=22241534
あたたかい眼でみながら、ともに「正解するカド」を応援できましたら幸いです。