一色いろはは不機嫌だった。
というのも、彼女はここ2、3週間オヤツのお預けをくらった犬のような状態だったのだ。
(小町ちゃんのいぢわる)
言うまでもなく、お預けの内容は自分が恋する相手である比企谷八幡。水面下で結ばれた、乙女的独占禁止条約により毎日1人ずつ彼のお見舞いをしていたのだが、やっと自分の番が来たと思ったら小町直々にお見舞い禁止令をくらってしまったのだ。
勿論ただ黙って受け入れるなんてことは一色いろはの恋心が許すはずもなかったのだが、猛反発したところで小町の有無を言わさない語調と態度に敵うわけもなくあえなく撃沈。
その構図はやはり、犬と飼い主であった。
しかも、気合を入れて半年に一回の席替えに挑むも狙っていた窓側の席は欠席者にとられてしまう始末であり、まさに弱り目に祟り目。
思わず、相変わらず調子のいい顔で軽快に話す担任の話を余所に頬杖をついてしまった。
他人から見たその姿は、アンニュイな顔で何かを憂う、妖艶さと小悪魔的な可愛さが重なった非常に絵になる姿だったがしかし、その内心は年下の後輩に対する愚痴と年上の先輩に対する飢えが渦巻いているという、とても子供っぽいものであった。
(うぅ……八幡先輩)
なによりも、自分の順番の前でお見舞い禁止をくらったというのが来るものがある。他の人よりも一回少ないという不公平さが彼女の不満を増長していたのだ。
「えー、今日はみんなにサプライズがある。このクラスに転入生が来ることになった」
(……なんですと?)
生徒会会長である一色の元には通常、校則により転入生や留年生の話は全て事前に来ることになっている。しかし、この話は寝耳に水であった。
そんないかにも怪しい話題に対して乙女特有のセンサーが反応する。無論、ま、まさか八幡先輩?!といった具合だ。
クラスのノリの良い反応と共に男であることが分かると一層大きく彼女の心臓は脈打つ。自然とついていた頬杖はなくなり、身を乗り出して先生の話に耳を傾けるようになる。
見たところ今日の空き机は隣のここだけ。つまり、欠席者のものと思っていたコレはまだ見ぬ転入生のものとなるだろう。イケメンであるという情報に色めく女子とは別の理由に一色の心もまた色めき立つ。
こい、こい、こいこい!
情報を待つ彼女の心情はさながらサマーウォーズのラストシーンのよう。
しかし、先生の言葉は無情にも彼女の期待を真っ向から裏切ることになる。
先生曰く、転入生はフランスに一年間行っていたため、
(八幡先輩じゃないし……)
しゅぼぼぼーん。自分の中の色めきが穴の空いた風船のようにしぼんで行くのを感じた。少し前だったら高身長・イケメン・留学経験有りという、三種の神器のような好条件に舞い上がるあまり叫び出していたに違いないが、先輩を知ってからは他の男が随分とみすぼらしく見えており、どんなイケメンも、どんな口達者も、あのこじんまりと肩をすぼめながら、世界に対して毒を吐く小心者に劣っているように感じてしまうのだ。恋は盲目とはよく言ったものだ。自覚していても直せないとかが特に。
我ながら難儀な人に恋をしたのだと思う。けど、それでもやっぱり好きなのだからしょうがない。
自分とは真逆にテンションのボルテージが最高潮に達しつつある女子達に合わせるように、一色いろはは手を上げて先生に聞いた。
「はーい、先生!!ということはその子って、フランス語バリバリ喋られるんですか?」
ー・ー・ー
「あはははは!うひー!お腹いたいですー!」
もう泣きたい。
ホームルーム終わり、俺は机に撃沈していた。一年前もよくしていた懐かしの伏せ寝ポーズだ。あの教師はあの教師で、すまんすまんとか軽く謝るなりどこか行くし。スタートダッシュに失敗した生徒のフォローくらいしてくれたっていいだろ……。
「はふ、ふ、フラ、フランス語……あはははは!!」
「お前は笑い過ぎだ」
「だって、先輩があんなに可愛く『ぼんじゅぅる』とか言うんですもん───!」
「もうやめろ、いや、やめて下さい!」
もう八幡のライフポイントはゼロよ!遠慮なくバシバシと背中を叩く一色の笑い声を聞きながら俺は頭を抱えた。
八幡が頭を抱える一方、一色は一色で頭を抱えたい気持ちを必死で我慢していた。
(な、なんなんですかこの可愛いカッコいい人は!!本当に八幡先輩なんですか?!さりげなく八幡先輩って名前呼びするつもりが、先輩の顔を直視すらできないんですけどーー!)
さっきまで悶々と悩んでいた対象が自分の想像の何倍も魅力的になって再会した時の動揺といえば、下手したらSAO帰還時を超えるのではないか。
伸びてはいるがもっさりとしているわけでもなく、さりげなく整えられた髪にリハビリによって前よりもがっしりとした体格。少女漫画から抜け出したような王子様然とした甘いフェイスマスクは自分に縋るかのような不安げな表情でこちらを見ている。
SAO帰還後から、思わず頼ってしまいそうな風格が出てきた彼が、自分に助けを求め縋っているような錯覚を覚えた一色は『大丈夫だよおぉ』と八幡に抱きつきなでなでしたい衝動と必死に戦っていた。
(そして、なによりもこの目ですよ!!)
元々日本人にとって最も感情の現れる部位である目が『極度の濁り』と言う形で隠れていた八幡は、周りの人たちにとって何を考えているのかよく分からない存在であった。それ故に異端認定され、排斥されていた面もきっとあったはず。というか、そうでないと、そこそこイケメンで行動力もあり相手の心の機微を的確に読んで気配りが出来る人間が嫌われるはずがないのだ。
そんな男の数少ない欠点が、今やなんということだろうか。普通、いや、それ以上に感情を表しているのだ。
おそらく、彼にとって目に現れる感情など今まで隠す必要も無かったため、感情を隠す術を知らないのだろう。目まぐるしく変わる表情は実によく彼の両目に現れていた。まるで、無垢な赤ちゃんのように。純粋な子供のように。
一色からしてみれば、先程の彼の自己紹介も実はといえば面白い、というよりは(勿論面白さもあったが)萌えていた側面の方が強いのだ。ビクビクとした小動物を見ているような気がして、そう考えると今までのつっけんどんな態度もハリネズミの針のような気がして。
あー、もう、辛抱たまらん!なわけであった。
当然、他の生徒も予想以上にオーラのあるイケメンに色めき立っている。そして、『比企谷八幡』という名前にざわついてもいた。
なんせ、比企谷八幡は悪い意味で名を馳せた男であるのだから。
一年の頃の学園祭。
比企谷八幡は、実行委員では問題発言を繰り返し当日の最終日には実行委員長を泣かせた、そんか意地の悪い男として2・3年から語られていた。その上、しばらくして登校する姿が見られなくなってからは、耐えきれなくて転校したとか様々な噂が立ってもいた。
そんな人物が高嶺の花のような容姿だと知った時、人はどんな反応をしたらいいのか。
愕然とすればいいのか、ざわめけばいいのか、詰めかけたらいいのか。そんな訳で、一色いろは以外のクラスメイトは遠巻きに見るだけに留まり彼との距離感を見計らっていた。
SNSで、イケメンが転入なう。と書き込みながら。
「ねえ、先輩。今どんな気持ち?ねえどんな気持ち?」
「帰れ。つーか、空気読めよ。周り誰も話しかけてこないだろ。俺はこの一年間の立ち位置は決まったんだよ!……くそぅ、小町にかっこよくなったって言われたから頑張ろうと思ったのに。ごめんな、小町。お兄ちゃん、中学に続いて高校でも迷惑かけちゃいそうだわ……」
いっそ卑屈な笑いが出てきそうだけど、かつての友人に絶対するなと言われているのでなんとか我慢する。おそらくクラスのトップカーストに君臨するであろう一色に、現状打破はできないのかと相談してみれば、ふむふむ、と顎に手を当てると仰々しく頷いて彼女は言った。
「まぁ、なんの問題もないと思いますけどね。それよりも先輩!その姿どうしちゃったんですか?」
超適当にあしらわれた。そんなことよりだと?社会復帰を目指す社会不適合者にとって人間関係以上に気を使うことなんてねえんだよ!
「どうしたもこうしたもねえよ。リハビリして筋肉つけただけだよ」
「いや、顔顔。その目ですよ。普通にカッコよくて困るんですけど!……はっ!まさか前に私が目が腐ってるからって告白を断ったことを気にして綺麗になって出直して来たとかそういうことですか?!すみません、役所は今日は休みですのでまた明日にしてください!」
告白してないのにまた断られ……断られてない?!
「というか、告白からプロポーズに格上げされてる?!……というか目?多少疲れ目が取れた気がするけどそう大した変わりはないはずだぞ?」
せめていうならクマが取れた。
「イヤイヤイヤ!変わりましたから。月とスッポンですよ。泥と宝石とも言ってもいい位です!」
え?それ褒めてるよね?過去の自分が貶されすぎて、褒められているはずなのに悲しくなってくるんだけど。
「身長も伸びましたね!何センチになったんですか?」
「確か177はあった気がするけど、詳しい値はよく覚えてない。つーか、マジで一色のクラスかよ……」
「しかもお隣ですよ!これはもう勝ったも同然ですね!」
何に?俺が聞き返そうとしたら横からすっと女の子が現れた。
「い、いろはちゃん。ちょっといい?」
「む?なんでしょうか、私の友達にして名簿番号12番のサイドテールが印象的な快活系ボーイッシュ女子こと、
おお、一息で言い切ったな。
「うん、あのね。いろはちゃんが転入生について詳しいみたいだから紹介してもらおうと思って。ほら、他のみんなも色々聞きたいって言ってたしさ」
「……惚れましたね?」
「ギギギクゥ!!!」
ギギギクゥ!じゃないよ。本人の前でそういう分かりにくい上に紛らわしいやり取りはしないでくれ。なんて反応したらいいかわからないから。
一色は「これはまずりましたね……」とボソッと呟くと、いつもの笑みに戻って俺の紹介をしてくれた。
「えーと、比企谷八幡先輩は私達の一個上の先輩で、さっきっから気にしてるようだから言っちゃうと、学園祭の比企谷先輩で間違いないよ!あとは去年の会長選挙で私の、私の!応援をしてくれた人だねっ!クリスマスの少し後から向こうに行っちゃったんだけど、今年の春から復学したんですよね?!」
「ん?ああ、そうだ。まあ一個上ってこともあって緊張し過ぎてさっきの自己紹介でも少し失敗しちゃったけど、これから慣れるように頑張るからよろしくな」
上手いことさっきの失態のリカバリーをしつつヘラっと笑う。友人に禁止された『八幡微笑53次』の一つ、『初対面の章。薄ら笑い』だったが、文字通り初対面の人相手だからつい出てしまった。
「はぅっ」
「ちょちょちょっと先輩?!なんでそんな緩い笑み浮かべちゃってんですか?私にはほぼ無表情だったのに!」
「んだよ。つい出ちゃっただけだろうが」
え?何?目が綺麗だと薄ら笑いって緩い笑みになるの?なんというか、壁ドンに似た
「つい……つい……。こ、これってもしかして私の前だと気を許しちゃう的なやつ……?」
「百川さん?!違いますよ?ただの愛想笑いですよ?!」
いや、確かにそうだけどお前が言うな。
一色が本格的に騒ぎ出したのを皮切りに様子見をしていた人達がどっと押し寄せて来た。そして、質問責めにあう。フランス留学のことや学園祭の事。果てには部活勧誘までくる。あと、さりげなくスリーサイズとハヤハチとか言ってる奴は後で詳しく話を聞かせろ。負の遺産ならぬ腐の遺産を感じる。
ぼっちには大概捌き切れそうにもない質問責めに俺は静かに一色の肩を掴みちゃんと聞こえるように耳元で貸し一つで頼むと言うと、新しいクラスメイト達の目の前に差し出した。
頼むぞ
結局、人生で今後絶対にないだろうと断言できる位の俺への詰めかけは一時限目が始まるまで続いた。
良いクラスでよかったです。