1【例えばこんな再会】
物語は、SAOからの帰還から始まる。
「……っ!」
ツン、と鼻に付く匂いで目を開ける。その普段通りの生理的行動に対して過剰なまでの不和と億劫さを感じることに不思議な喜びを感じた俺は目をぐるりと動かす。凝った筋肉を動かすとパキパキとなるように目の筋もミシミシと鳴るかと思ったがそうでもなく、ぬるりと目の淵に伝わる感触とともに視界にはあまりにも細部まで描写された風景が映し出された。
消毒液の香りに宙を舞う埃。絹を擦る感触にに髪がおでこに張り付いたジメッとした感覚。
(……俺は、ようやく)
戻ってきたのだ。
ふと、すとんと胸の中に深い実感が腰を下ろしたような気がした。
それからしばらくして、病院内を騒がしく動き回る看護師達の足音をバックミュージックとして、俺は自身の今の状況を把握していた。今いるのが高校一年生の時も入院していた、あの懐かしの病院であること。体は動かさないほうが良いだろうこと、というか動かせないこと。しかし、思ったよりも体の調子が悪くないこと。特に目の調子が良い、ともすれば今となっては忌まわしいあのゲームに囚われる前よりも好調な気さえするくらいには良いこと。
そしてなにより、俺の寝ている布団の上に一人の女性が被さっていること。
(……雪ノ下、なんでここにいるんだよ)
「……八、幡くん……」
なぜここにいるのか。
なぜ下の名前で呼んでいるのか。
なぜ寝ているのか。
分からないことはたくさんあったが、今のコンディションでは昔のように悪態をつきながら彼女を起こしてやることもできない。小声でムニャムニャと自分の名前で呼ぶ彼女に対してむず痒さを覚えないこともなかったが、これも現実に帰ってきた証だと甘んじて受け入れることにした。
しばらくして、ガラガラと無機質な音を立てて扉が開く。
ジロリと見やってみれば立っていたのは、なんて事はない。マイラブリーシスター小町だった。
ただ、小町の体はなんて事ないなんて事はなく、随分と大きく成長しており(親父的な意味でもオヤジ的な意味でも)、成る程長い間あっていなかったことを実感させられた。
「……ょ」
よう、なんて声をかけてやりたかったが、声が上手く出ない。乾いた風が口内を急激にカピカピにしていく。痛い。
しかし、俺が掠れた声を出したところの意味、つまり俺が起きたという事は伝わってくれたようで、新品のスクールバッグを小町はポスンとてから滑らすと直立不動に固まった。ぴしり、と擬音語が聞こえて来るようだった。
喚くのか、飛びかかってくるのか。どちらにしてもメンドくさいなぁ、などと捻くれた照れ隠しを懐かしながらに内心ながらにしてしまった俺に対して小町は、意外なことにはらはらと静かに涙を流し始めた。
「……
泣くなよ、せっかく頑張って帰ってきたんだからさ。なんて、お兄ちゃんポイント(懐かしい!)の高いことを言おうにも、いっそもどかしくてどうにかなりそうな程に声は出ない。手を覆ってしゃがみこんでしまった小町に対して俺は口元を緩めることしかできなかった。
その涙につられたのか、懐かしい顔を見たことによってなのか。自分の中で今まで封をしていた記憶が堰を切ったように溢れ出す。それは、ゲームに囚われる前の記憶。
自宅・家族・飼い猫・マッ缶・学校・先生・クラスメイト・先輩・後輩。
そして、奉仕部。
湧き出た想いは遂には涙となって俺の目からも溢れ出す。
これまでの頑張りは無駄じゃなかった。報われたんだ。会いたかった。喋りしたかった。軽口を叩きたかった、叩いて欲しかった。遊びたかった、遊んで欲しかった。抱きしめたかった、抱きしめて欲しかった。
情けない感情と願いが手に届くことの嬉しさと、達成感が胸いっぱいに膨らんで、えも言えぬ寂寥感と混ざり合う。
「……八幡、君?」
いつの間に起きたのか、黙って涙を流す俺を見た雪ノ下。苗字で呼ばないのはどういう心境の変化のなのかは分からないが、数回目をパチクリとさせていた雪ノ下は静かに一筋涙を頰に伝わすと再び俺の眠っていた布団に伏せってしまった。そして嗚咽を堪えることなく咽び泣き出す。
普段騒がしい奴ほど静かに泣き、おとなしい奴ほど盛大に泣くのは感情のキャパシティのバランスを保つためだと何処かで聞いた気がするが、どちらにせよ、自分のために泣いてくれるというのはなんというか、こう、心に来る温かいものがあった。
静かで、閑としていて、それでいて、暖かい。
嬉しい涙が部屋を包み込む世界が、俺の目覚めを祝福してくれていた。と、いうのは些か言い過ぎか。
まあ、なんにせよ俺は、いろいろ変わる所はあったものの、無事に、この世界へ舞い戻る事が出来たのだった。
ー・ー・ー
小町が泣き止み、ナースコールを押してくれたのはそれから何分も経った後のことで、ナースを待つ間、赤い目をこすりながら小町はずっと、それからね、それからね、と俺のいない間の話をしてくれていた。総武高に無事入学したこと。一色が2年連続で生徒会長を勤め上げていること。奉仕部は、今や10人の部員がいる大所帯となっていること。
部室には俺と、雪ノ下と、由比ヶ浜の3人の写真が崇めるように飾られていることなんて聞きたくなかった事も教えてくれた。
雪ノ下はまだ泣き止まず、俺の手を抱え込んでグズっている。その仕草は、彼女が絶対に見せてくれなかった少女的な部分で、介護される身分ながら保護欲が掻き立てられる。
「それでね、それでね……。色々あったんだよ」
「……」
「お兄ちゃんがいなくてもね、みんなで話し合ってね、この場所を守ろうってね、頑張ってね、喧嘩もしたけど仲直りもしてね……小町だって色々とね」
「……ぁぁ」
「うん!そうなんだよ!」
会話の内容なんてどうでもよかったのかもしれない。
そこに愛する妹がいて、大切な仲間がいて、喋り合って。
そんな、いつまでも続いてしまいそうで尊い行為が何よりも嬉しかった。小町はまた泣きながらも、嬉しそうに笑って話しかけてくれる。お兄ちゃんのせいで泣き虫になっちゃったんだよ!なんて言いながら笑ってくれる。
嬉しくて泣いて、嬉しいから笑って。
看護師さんが医師を連れて入室するまでの間、あまりにも繊細なこの空間は、やはり現実だからこそなのだと、流れる大河の中に身を鎮めるような気持ち良さを体感していた。
ー・ー・ー
「ふむ、身体検査は後日精密にやるとして、しかし随分と無茶をしていたようだね」
「……」
ドクターが来てから数分。大まかなメディカルチェックを終えたであろう医師は滔々と説教を始めていた。
「1週間寝ずほぼ食わずで動き回り、休むのは攻略組がボスを倒すまでの僅かな間。ナーヴギアの解析班が最も危うい生活をしているプレイヤーとして君のことを何回も教えてくれたよ。監視してみれば心拍数を始めとするバイタル値は総じて上下上下の天変地異だ。そのうち左右にも動き出すのかと思うくらいに君のバイタル値は不安定だった」
俺よりもっと神経をすり減らしてレベリングに勤しみボスを倒してくれた皆がいる。頭を悩まして下層の統率を図ってくれた仲間がいた。そう思えばなんの苦でもなかった生活だった。
そんな訳で俺が不安定だとしたら攻略組はどうなるのだ、と思っていたら医師は首を振ってさらに言う。
「他のプレイヤーに聞いたよ。君は、『実際、睡眠を必要としているのは体だけで脳自体はほとんど休息を必要としていない。だから7徹位どうってことない』と言っていたそうだね。医師として言えば、よくもまあ、そんな暴論を振りかざしてくれたな、と怒り狂いたい気分だよ。そもそもこんなに脳のリソースを割くゲームをぶっ続けでやるなんて事自体が狂気じみていると言うのに、7徹だって?君はアホなのかい?確かに君の功績はあまりにも大きいし、多大なる賞賛を浴びるべきなのかもしれない。けどね、君のその危うさがどれだけの人を不安にさせてきたのかを考えたことはあるのかい?」
なかった。あるわけがなかった。
帰りたい。その一心で動いていた俺にとって名も知らない医師の言葉は自責を促すには十分だった。
「君にはこんなにも泣いてくれる人がいる。お見舞いだって毎日絶えることはなかった。それどころか見舞客は僕が不安を煽らないようにと隠していた君のバイタル値を見せろと言う。『せめて、八幡君と同じ気持ちでいさせてほしい』。健気だよね。けど、響くよね」
「……」
「これからの君の人生はお世辞にも穏やかで平凡とは言えないだろう。けど、君の周りは踏ん張って、頑張って、自分の人生の失敗を君のせいにしたくないと未来に進んでいってくれたんだ。……君の不幸は周りを巻き込むことはなかった」
それは、どれほどに幸せなことなのだろうか。
俺なんかのせいで。
もし、彼女たちの人生になりがあったりしたら絶対に自分を責めて責めて、身をボロボロにしていた自信がある。そう言う意味では、小町のさっきの報告は本当に心が軽くなったのだと今更ながらに気づいた。
医師はもうそろそろ次の覚醒者を診る時間だ、と残念そうに告げるとあぁ、そうだ。最後に言っておくけど、と口を開く。
「八幡君。ゲームクリア、おめでとう。そして、たくさんの人を助けてくれてありがとう。人を救うと他称される医者であることが恥ずかしくてたまらない一年だったけど、君の頑張りを聞くたびに嬉しく、頼もしく思っていたよ。情けない僕であることは変えようのない事実だけど、これからのことは全て任せてくれ。医者として、全力で君たちを現実に戻すと約束しよう」
それでは、お大事にね。
点滴の交換が終わったのを見計らって医者は出て言った。
泣き虫な自分を隠すことなく、俺は心の中で深く、一礼をした。
目を開けると、医者とすれ違うようにして入ってくる人影が見える。
霞む目を凝らして扉の方を見る。
「八幡……!」
「八幡!ううううゔぅ!!」
両親だった。
母の乱れた髪に、俺が受け継ぐこととなった父の死んだ目。懐かしい両親の顔は、二人とも前よりも一回りやつれていた。
父と母の顔を見て、嗚呼、言わなければならないのだと強く思う。
すると、不思議なことに動かないと思っていた顔はぐるりと2人に向き、ビクともしなかった自分の下顎は静かに開く。乾いた風が口内を触っていき、ヒリヒリと痛む喉に思わず顔を顰めてしまう。それでも俺は、言わなければならない。言いたい。会いたかった。見たかったんだ。俺は!
「…、っ、……た……だぃ。ま」
くしゃり、と調節の聞かない表情筋を無理矢理くしゃくしゃにして俺は言う。笑ったつもりなのだが、溢れ出る涙のせいで伝わったかは怪しいところだ。
次の瞬間、2人も俺と同じ
なんとなしに、あぁ、かぞくだなぁ。なんて思った。