「おはようございますっ。せ、ん、ぱ、い」
眼前のいろは、後頭に窓辺。
特に意味はないけれど、そんなフレーズが頭をよぎった。時刻は12時45分過ぎ。四時間目の数学演習の疲れを補うべく机に倒れ伏していたら、隣から声がかかった。
「……お前、友達いないの?」
「いるわいっ!ばりいますわいっ!先輩の100倍はいますよ!」
「んじゃあ、そっち行けよ。俺は寝てるから」
「んもう、折角平穏な日常を取り戻したんですから学校生活をエンジョイしましょうよ。年下の可愛い後輩ちゃんと友達になっちゃいましょうよ」
ゆさゆさと肩を揺らすいろは。
平穏な日常、か……。
「お前と違って友達ごっこはしない主義なんだよ」
「本物ってやつですよね?分かっていますとも、先輩の言いそうなことは。ただ、偽物の関係を踏んでからこそ本物の芽生えってものがあるんじゃないですか?」
「一理ある。だが、ぶっちゃけめんどい。つーか、話題が合いそうにない」
合わせる気もない。無い無い尽くしのやる気のない奴は光合成でもして静かに過ごすに限るんだよ。とはいえ、前のクラスと違って戸塚が居ないのが辛い。……せめて、名前で呼びたかったなぁ。
「手強い奴め〜」
それそれ、と頰を執拗につついてくる。会話するたびにつつかれてるせいでそろそろ穴が空くんじゃないのかと適当な心配をしてみる。1分もやられているとチラチラと目の端に移ったり消えたりを繰り返す指が鬱陶しくなってきたのでしぶしぶと体を起き上がらせた。
「……分かった、分かったから止めろ」
「分かればいいんですよ」
「んで、何の用だよ。まさか母ちゃんのようなこと言いにきた訳じゃないだろ?」
実際の母ちゃんはそんなこと言ったことないけど。
すると、急にモジモジとし始めたいろは。なんだか嫌な予感しかしなかったが、ここは眼前のいろは、後頭に窓辺なので俺は露骨に嫌そうな顔をするというささやかな抵抗に全力を注いで彼女の返答を待った。
「あの、私達が付き合っているという噂が流れていまして……それで、その、どうしようかなぁって思いまして」
「……メンドッ」
予想以上に面倒くさい話だった。
希望的観測から胡乱げにいろはを見つめる。
「……そういうの、いろはの方が詳しいんじゃねえの?」
「いえ、それがですね、私って先輩の事好きだったりするので、この噂ばっかりは野放しにしておいた方が良いんじゃないかと思いまして。ほら、そうすれば先輩も恥ずかしがらずに私と付き合えると思いません?」
「なにが、ほら、だよ。思わねえよ。というか、消せるなら早く消してくれ。……まさか、また貸し一とか言うのか?」
「あはは、そんなこと言いませんよ。チュー1です」
「頭が中一?そんなの知ってるぞ」
「……ほほぅ?先輩はこの噂の放置をお望みと?」
「すみませんでした」
やだこの小悪魔。勝てるビジョンが全く見えないんだけど。例えるとフリーザに出会ったクリリンみたいな感じ。あがが……って奴な。
「わかった。じゃあこうしよう」
「マックスコーヒーはいらないですよ」
「……打つ手なし、か」
「そんな陳腐なアイデア一つの否定で黄昏るのはやめて下さい。情けなさ過ぎです。幻滅、はしません」
なんなんだよ、もう。この後輩デレデレかよ。デレ100%かよ。調子狂うわ。
そうこう言い合っている内に、昨日に続き机ロックを喰らい、あっという間に彼女はお弁当を開き始めていた。
「おい、やめろ。やっぱり周りに誤解させる気満々じゃねえか」
「うーん?いろは分かんなぁい」
はっ倒してやりたいあざとさ。しなを作って、口に指を当てて上目遣い。正直見た瞬間、『俺が落ちるのも時間の問題だな』と思うレベルのあざと可愛さだった。無論、そんな感情おくびにも出すつもりもない。
「おー、動揺してるしてる」
「してねえし」
「いやバレバレですよ?目は口程に語りますからね。『あー、マジいろはと付き合いてえな。こいつ、超良い女じゃん』とか思ってるのバレバレですからね」
「いやねえよ」
とも言い切れないことを思っていたのも事実なので、俺はそっと目線を彼女から外すのだった。
しかし、ヤバイぞこの状況。登校2日目だと言うのにこの有様というのは非常にマズイ。早急にどうにかしなければならないと煩悩が、いや、本能が叫んでいる。
もう、限界、と。
「……な、なぁおい」
「どうしたんですか?手作り弁当でも欲しいのですか?」
「着々と外堀を埋めようとするのをやめろ。いや、そうじゃなくてだな。その広まっている噂の話だが、真面目な話どうにかできないのか?」
いろはのパッチリとした目を見て尋ねる。
数回瞬きを繰り返したいろはは持っていた箸をケースに置いて吐息を一つ漏らした。
そして、俺の目を見て一言。
「私のこと、そんなに嫌ですか?」
彼女の目はどこから不安げに揺れているような気がした。
前にも言ったような返しを俺はする。
「いや、嫌いなわけがないと前にも言っただろ?ただ、今の俺は───」
「あのですねぇ!先輩!」
いろはが大きな声を出す。
彼女
教室の音が止まる。
「私がっ!私が、そんな程度こと気にする」
「そんな程度じゃねえだろうが!」
あ、やべ。と思った時にはこちらも大きな声を出していた。この二日間。ぼんやりと過ごしていたように見えていたため、そこまで快活な男に見られていなかったのだろう。数人の女子の方がびくりと震えたのが分かった。
「……ちょっと来い」
いろはの手を引く。
黙って引かれるいろは。
教室の扉を引いて外に出る。
落ち着いて寝るはずだったの昼間の時間。
転校2日目にして俺は、やはりぼっちルートへ進んでいるような気がしてならなかった。
ー・ー・ー
着いたのは屋上。
ありがたいことに外には誰もいなかった。
陽気な天気にも関わらず誰もいないのは、多分、今朝も出ていた花粉注意報のせいだろう。
掴んでいたいろはの小さな手を放す。
「悪かったな、さっきは大きな声を出して」
「いえ、私も焦って変なこと言ってしまってすみません」
焦って。頭の中に反芻される。
「この際だから俺の悩みを聞いてくれないか?」
「……悩み、ですか?」
「ああ。小町にも言えなかった、しょうもない悩みなんだが、ああいや、別に聞きたくないなら」
「聞かせて下さい」
いろはが食い気味にそう言ってくれた。
いや、そう言ってくれると思って言ったのだろう、と心の何処かが俺に向かって叫ぶ。そう自責することで何かが許されるわけでもないのに。そもそも彼女は何も思っていないだろうに。ループする考え。
どこまでもせせこましい自分が嫌になる。
悩みについて悩み始めると、いつもこんな気分になる。
陰鬱として、自分も、他人も嫌いになる。救われるのを待つ棒立ちの人間のようになってしまう。
助けなど、誰も来なかったのに。来てくれるはずがなかったのに。
だから悩むのが嫌になり、面倒が巨大化してしまう。
吐露しない自分を責めるくせに、それを言う勇気を持たない、いじらしい自分。俺は、そんな自分が好きで嫌いでもう、なんだかどうしようもない気さえしてきていた。
自分の性格も、悩みも、これからも。
「……俺は、怖いんだ」
話したいことすらまとまらず、ままならない口調で言葉を捻り出す。ズルズルと貯水タンクに背中を預けて座る。
なんだその行動は?可哀想に思われたいのか?
捻くれた感性はいつしか自分にも牙を剥くようになっていた。
「お前も、雪ノ下も、由比ヶ浜も、戸塚も、材木座も、葉山も、陽乃さんも、小町すらも……!」
「先輩?」
「俺自身にすら恐怖を覚える。現実が怖くてしょうがないんだ」
思い出すのは、成長した彼女たちの姿。
変わりきった自分の姿。
妥協を覚えた雪ノ下。
未来を見据えた由比ヶ浜。
背が高くなった小町。
本心を言えるようになった陽乃さん。
余裕が出た葉山。
そして、本物を求めるいろは。
その誰もかれもが俺の知らない誰もかれもで、その誰もかれもが俺の知っている誰もかれもだった。
他人が変わり、自分が変わり、環境が変わる。
何一つ違ってなくて、何一つ同じでないこの世界にいることが不安で、怖くてしょうがなかった。なぜ、こんなにも普通に暮らしていられるのかと狂いそうだった。
もしかしたら、俺は別の世界に来てしまったのではないか。そんな風に思った日だってあった。
夢じゃないのか?頬をつねったことは数え切れないほどある。
「皆、俺が変わったと言ってくる。皆、俺の容姿が良くなったと話す。それを聞けば聞く程俺は、誇らしさよりも、嬉しさよりも、なによりも。底知れぬ怖さが募っていったんだ」
変わったのはお前らの方だ。叫びたかった。
精神も成長しているだろ?気づいて欲しかった。
まるで、自分だけが世界に取り残されているような感覚。
持て囃されるたびに感じる空虚感。自分を否定されているかのような痛み。
それはともすれば、考えすぎで穿ち過ぎなだけなのかも知れない。捻くれた捉え方だ、素直に喜ぶべきだと言われるのかも知れない。
突然黄色い声と視線を送られる。結構じゃないか。享受しておけよ、これまでの一年のご褒美だよ。
思えるはずがない。
俺が追い求めていたのは、紛れもない本物であって、そんな薄っぺらい偽物じゃないのだから。
四苦八苦して、青春にもがいていた仲間達はいつの間にか大人になり、俺の帰りを喜んでくれる。かつてできなかったことをいとも簡単に行ってしまう彼らは独り苦心する自分を慰めてくれる。
やり直すために戻ってきたはずだったのに。アレだけ待望してきた夢の続きは知らずのうちに終わっていて、新しい青春は、とても怖くて。
たかが一年。されど一年。
人生の19分の1。割り切るにはあまりにも大き過ぎる時間だった。
急激な変化に対する戸惑い。
誰かと再開すればするほどソレは、巨大な壁となって俺を喰らおうとしていた。
「……こんなにも、いてもいなくても変わらないなら俺は、多分、戻ってくるべきじゃなかった。こんな気分になるなら向こうで」
「ダメです!!!」
いろはが叫ぶ。
駆け寄ってきて、かかんで、両手で俺の頰を挟む。至近距離で俺を覗き込む。
「先輩がそれを言っちゃダメです!」
「……『俺に構わず成長してくれて嬉しい。俺のせいで誰かの人生を壊さなかった』 そう思えって、担当の医師が言ってくれた。思おうとした。でも無理だった!」
「それでも」
「お見舞いに来てくれた。泣いて喜んでくれた。リハビリに付き合ってくれた。ありがたくて、申し訳なくてしょうがなかった。けど、無理だった」
「それでも先輩は」
「社会復帰した。皆ちやほやしてくれた。帰って来てよかった。マックスコーヒーも美味い。これからの人生頑張ろう。思えなかった。ダメだった。俺は、外に出るのが怖くて仕方なかった。……俺は、最低な人間なんだよ」
「……それでも先輩は、戻って来るべきだったんですよ」
「……自分の脳ミソ以外の全てが怖いんだ」
一年前と雰囲気も、髪型も、メイクだって変わった彼女が怖くて仕方がない。好意一つ伝えるのに一生懸命だった彼女とは明らかに変わっていた。
「俺は、あの場所を通して成長したって思ってたんだ。……戻って来て、あっと言わせてやる。そう思ってたんだ」
「……」
「実際は、この様だよ。『容姿は良くなった』 つまりは、そういうことだったんだ」
「……」
「お前とは、付き合えないよ」
容姿しか見ないような奴とは付き合えない。なんて意味ではない。いろはは、俺の内面の変化に気付いているのだろうし、そもそも好きになってくれたのは囚われる前の話だと言っていた。
だから、これは、彼女の問題ではなく俺の問題だ。
周りの変化を認められない、どうしようもない俺の、どうしようもない問題。
故に、どうしようもなく、いろはは諦める他なかった。
「なんて、言うとでも思っているのですか?先輩は」
「……」
「『私達の変化が怖い。急に変わっていた世界が怖い。見えない将来が怖い。思っていたのとなんか違かった』……あのですね、私達を、乙女を舐めてるんですか?私達が聞いているのはただ一つ、『私達のことが嫌いか好きか』の二択の何ですよ?そこにそれらの主張は入る隙間はないんです!」
「俺は」
「それにですねぇ先輩! 私達は先輩でないのですから、先輩の不安が分かるはずないのです。だから、それならそうと言って下さい。私達は、もう『本物』なんですよ?」
「どこがだよ。俺とお前の関係は、なあなあの『偽物』だろうが!」
「だったら、早く先輩が答えを出して下さい。どんな答えでも私達がそれで本物になれるのなら私は構いません!」
抑えていた両手を離したいろはは立ち上がる。
「悩みは聞きました。次は私の番ですよ。本物になった暁には、精々先輩の悩みをたくさん聞いてあげます」
振ってくれても構わない。けど、側にはいる。
そんな、
決意にも似た宣言を彼女はしたのだった。
……こんな、成長も見られない男に。