俺は、いろはのことが好きなのだろう。
当たり前だろう。こんな奴を嫌いになれるはずが、いや、好きにならないはずがない。
なのに、口の奥から素直に出てこないのは……いや、これこそがいろはの嫌った考えなのだろう。
渦巻く感情から選び取るのは好きか嫌いかの単純な二択。……ならば、
「俺は、いろはのことが好きだ」
発した声は、何者にも遮られることなく屋上に響く。目と目を合わせて伝えた言葉が彼女に伝わった時、いろはの目が開かれるのが目に見えて分かった。そうしてしばらく目があった状態で沈黙が降りる。
数回のゆっくりとした瞬きの後。目の前の光景が変わった。
つう、といろはの頰に一筋の涙が流れた。
喜ぶわけでも笑顔になるわけでもなくただ涙を流す。
嬉し泣き、いや、彼女は悲しくて泣いていた。
「……私じゃ、ダメなんですね」
俺の胸元を掴んだいろはが喘ぐ。悲痛なまでに引きつった彼女の笑顔は次第に、それすらも保たなくなっていく。しまいには、俺の肩に頭をグリグリして、『すみません、もう少し待って下さい。もう少ししたら先輩の話を聞かせてもらいますから……』と呟いて静かに顔を埋めた。
慟哭にも似た声を受けた俺は、いろはの髪をそっと触る。力なくもたれかかる後輩の震える頭。塩水に湿っていく自分のワイシャツが肌に吸い付くのを感じた。
小さくまとまるいろははとても脆く感じる。力を入れれば壊れてしまいそうな程繊細な彼女。いつもの生意気さのなの字もない姿。
そうしてようやく俺は悟る。
彼女の強さは一重に意志の強さ、言い換えれば決意の強さにあったのだと。そして、それは雪ノ下、由比ヶ浜を始めとした多くの人の『成長』だと勘違いしていたものの正体であることを。
「小悪魔のようにあざとくて、小悪魔のように蠱惑的。小悪魔のように鬱陶しくて、小悪魔らしくちょこざい奴……だったはずなのになぁ」
小悪魔のように感じていたこの温もりは、天使のように俺の心に暖かく染み込んでくる。予鈴の音が学校全体を覆うのを感じながら俺は目を閉じた。
良い加減腹をくくろうと、決意をしよう、と彼女の表情を見てそう思った。
故に、俺は振り返る。今までの人生の全てを。
早熟した小学生時代に、周りとの精神年齢の差に苦しんだこと。
暗黒の中学時代に、辛いことが沢山あったこと。虐められたこと、告白したこと、振られたこと。
鬱屈とした高校時代に、平塚先生の言葉をきっかけとして青春に色彩が加わったこと。奉仕部のこと、クラスのこと、後輩のこと。
突然デスゲームに囚われたこと。初めのうちは何をすれば良いかも分からず右往左往していたこと。優しい老父に助けられたこと。治安形成のために下層を走り回った日々のこと。最前線への祝福を祈りながら待ったボス攻略日の夕暮れのこと。
ゲームクリア後からの日常のこと。自分の帰還を喜んでくれたあいつらのこと。あいつらとのギャップに悩み続けていたこと。自分が自分であることの確証すら持てない日々を送って来たこと。
そして、今日。それをこんなにも、か細くて、泣きじゃくっている後輩に向かってぶちまけてしまったこと。
そのどれもこれもが恥と後悔にまみれていて、そのどれもこれもが俺の糧となっていた。苦しんだ日常も、悩んだ超常もその全てが俺の経験した、れっきとした自分の過去であった。
我思う、故に我あり。
自分の人生がいくらあっても足りない位人生経験を積んだ人が悟った端的で簡潔な事実。自分に疑いを持っているその心は確かに自分である。だとすれば、俺は、比企谷八幡という人間は、比企谷八幡の他ならない。
自分の顔と性格に満足して、決して易しくはない人生を歩むことに充足する。そんなありふれた人間。
彼女達の成長を喜ぶ、僻むのではなく、自分の成長を尊ぶ。それを感じて悦に浸る。非常に道徳的でありながら背徳的。単純なようでいて引っかかる。そんな捻くれを許容した人間。
比企谷八幡は、今、ここに居た。
それを、今、見つけた。
腑に落ちる。とはまた違った感覚。
まるで、『魂が自分の体を見つけたような』実感。
チューニングのあった楽器を鳴らしたような感動。
目を開ける。
いろはの髪の毛を撫でた俺は、溜息をついて、一言放った。
「……これが夢なら良かったのに」
「?!」
現状の否定。最低に捻くれていて、最悪に終わるようなセリフに彼女の頭が上がる。彼女の決意を踏みにじるような、自ら失望を誘うような物言いに彼女は何を思うのだろうか。
俺は、その答えを待たずに口を開く。
「とか、前の俺なら言っていたんだろう」
それでいて、その次には『なんだっけ?告白の続きだったか?』とか相手を煽って。悪者であることとは、どのようなことなのかも分からず、ただ皮肉屋を演じるために無理矢理心を抑える。それも大根役者もびっくりの演技だということにすら気付かず。もっと言えば、それが演技であることにすら気付かず。
ポカンとした彼女の肩を掴んで、俺はつい、笑いを漏らす。心から笑ったのは本当に久しぶりかもしれない。嚙み殺す事なく自然に出た笑みは、これからする自らの宣誓を後押しする。
「俺はもう、絶対にお前から逃げない。この、クソみたいな現実にも、やるせない現状にも、どうしようもないこれからにも、正面から向かい合ってみせるとここで誓ってやる」
俺は俺でいい。
一年間に及ぶ迷子によって見失った、そんな簡単な答えを俺はもう無くす気はなかった。俺は宝物を見つけた子供のように、漏れる笑みを止める事が出来ずに口を開く。
「せ、先輩?」
「いろは、お前のことが好きだ」
「ひゃいっ?!」
「小悪魔のようなかつてのお前も、俺を好きだと言ってくれるお前も全部好きだ」
「ひゃぅ……しぇんぱい、無理してましぇん……?」
「だから、俺と、『本物』になってくれ」
雪ノ下と由比ヶ浜のような、そんな本物。
そんな本物をいろはとも築きたいと心底そう思った。
いろははじっと俺を見つめて嘆息を一つして微笑んだ。
「……んじゃあ手始めに彼氏彼女に……って訳にはいかないんでしょうね。全く、本当に、ほんっとうに先輩はメンドくさい性格ですね。戸部先輩なら即了承してるはずですよ?」
赤い目を隠す事なく彼女は俺の頰をつねって、笑う。
「───ただ、私、そんな先輩、嫌いじゃないですよ」
その笑いは、言いようもなく、ただひたすらに、美しかった。
かくして、二人の笑顔が至近距離で咲いた頃。
晴れた屋上には大きく五時間目の始まりを告げる大きな音が響くのだった。
ー・ー・ー
五時間目の終わり、化粧を直したいろはと、乱れた服装を直した八幡が並んで教室に入った時、二人の少女が駆け寄ってくる。
八幡は見覚えのない少女に困惑し、いろははクラスに多数存在する中でも、特に仲の良い二人の尋常ではない表情にギョッとする。
「は、八幡くん!」
「はい」
屋上でも一幕と、心情の安定により今まで常に張っていた緊張が取れてどっと疲れの出ていた八幡は淡白に返事を返す。対して少女は相手が先輩であろうがなんだろうがという気概を以って八幡に告げた。
「い、いろはちゃんは悪くないんですっ!」
「うぇっ?」
突然の指名にびっくりするいろは。
「いろはちゃん、凄い良い子なんです!生徒会長としての評判も前会長に負けないくらい良いですし、先生からの評価もびっくりするくらい高いんです!」
「おう」
「今はこの一年間ずっと私達に話しているくらい慕っていた先輩が」
「ちょちょちょっと待って下さい!ちょいちょいーっと」
嫌な予感、というより恥の予感を感じていろはが慌てて制止をかけるが暴走する彼女達は止まらない。
「帰ってきて舞い上がっているだけなんです!だからそんなに邪険に扱ったりせず、寧ろ、サービス精神を見せてあげちゃって下さい!」
どうやら、この二人の少女。先ほどの教室での二人の様子が、口喧嘩の末に少女が拉致されたように見えていたらしい。親友が酷い目にあって欲しくないと一言物申しにきたようだった。
赤く震えながら先輩に生意気きいてしまったという悔恨と達成感に震える女子2人に対して、八幡、普段ならしどろもどろに弁解をしているところだったが、疲れによる思考停止が為されていたため普段の彼ではありえない事を口走る。
「ああ、大事(な本物)だからな」
イケメンスマイル付き。
わざわざありがとな、と2人の頭を撫でる出血大サービスをして、席に戻っていった。
「……」
「……いろはちゃん。手強い人、好きになっちゃったね」
「うん」
そんなやりとりが交わされたという。
尚、上記のやりとりを疲れ切った八幡は覚えているはずもなく、妙なハイテンションさと疲労感を抱えたまま、アスナヘのお見舞いも忘れ放課後家に帰り、泥のように眠った。
四月の第1土曜日。キリトと須郷の初邂逅の日の出来事であった。