19【つかの間の平穏事変⒈】
「さあ、起きるのじゃー」
「ぐえ」
どむん、突如腹に強くのしかかった圧力で目が覚める。
残念ながら、『SAOを経験したことで眠っている最中も気が尖るようになりました』とかそんな変化は無かったため、その一撃は(当たり前だが)俺にとって不意打ちだった。つまり半端なく痛い。
「あはは、ぐえ、だって、お兄ちゃんカエルみたい、ヒキガエル君だね!」
「おい、朝っぱらから兄のトラウマをほじくり返してなんのつもりだよ」
「あの時は大変だったなぁ、小町も蛙の子は蛙とか言われたし」
「……」
なんかすまん。俺の悲鳴は兄妹のトラウマを引き出してしまったようだった。
当時の俺が聞いたら半狂乱で小町の教室に突撃しそうな事実を知りショックを受ける。ベッドで2人身動きせずに目を合わせていると、いつの間にか互いに互いを気遣って気まずくなってしまっていた。
……この光景、B型H系で見たことあるぞ。いや、それとはまたちょっと違うか。
「うん、違うね。天と地ほど違うね。お兄ちゃんのヘタレ具合だけで言ったら確かに似てるかもしれないけど」
「失礼な。そんな男も女も傷つける程ヘタレてないから」
「……昨日の話、いろはちゃんから聞いたんだけど」
「俺はこれ以上にない位、心身ともにヘタレでございます」
いろはすよ。青春の一ページを相手方の妹に暴露しちゃうのはどうなんだ……。やっぱあいつ、小悪魔だわ。
「まあ、義姉ちゃんを増やした所は小町的にポイント高いけどね。……というか、早く着替えて降りて来てね!もう9時だよ?」
「休日9時の起床は帰宅部学生にとって早すぎるくらいだけどな」
そんなぼやきが聞入られる筈もなく。
ごちゃごちゃ言ってないで早く来てね!と言い残して、たたたーっと部屋から出ていった小町。久し振りの学校で疲れが溜まってるしもう少し寝たい。体がだるい。だかまぁ、ここで二度寝なんてしたものなら小町が拗ねるのは確実。ここは小町ポイントを稼ぐため、のろのろと起き上がる事にした。
いつの間にかひっついていたカマクラを引き剥がしてパジャマを脱ぐ。
背丈が変わってしまったから着るものも迷うほど無い。いろはと買った服の中から適当にイージースラックスに長袖を合わせて部屋から出る。そういえば、最初の頃は服の着替えも一苦労だったなー、とリハビリ生活を思い出しつつ洗面所に入り顔を洗った。
そういえば、目の隈も取れたことからも分かると思うが、肌の状態が過去最高に良い。目の下の張った感じが、無くなってなんだか別の体を動かしている気分になる。
だるい体にスイッチを入れるために頭を濡らしてタオルでゴシゴシ拭いていると、後ろから誰かが近づく気配がした。両親は例によって休日返上系会社員になっているのでその気配は必然的に小町だと推測できる。
「どうしたー、小町?」
ちょっかい出される前に牽制の意味も込めて名前を呼ぶと、彼女は動きを止めて言った。
「あら、八幡君。まだお寝坊さんなのかしら?それともなに?背が多少伸びた位で、私の事を小町ちゃんと間違えても良いような人間だと、そんな塵芥にも満たない人間だと思うようになった……ってあばばばばば」
「……は?」
振り向けばそこには俺の本物の一人。雪ノ下雪乃が凛とした佇まいで相変わらずの雪乃節を効かせていた。
え?なんでいるんだよ。ていうか、
……あばばばばば?
ー・ー・ー
「い、いえ、別に動揺なんてしていないけれど?寧ろ動揺したのはあなたの方でしょう?ほぼ人妻と言ってもいいような女が婚約者でも無いような男が住んでいる家に忽然と立っていたのだから。しかも、あなたからしたら美少女が見たこともないようなメイクをして、おめかしも普段の10割増しでしているような格好で佇んでいたのだから。いくらあなたの身長が伸びて、目が澄んで、顔全体の印象が文句の付け所のないようなイケメンになっていたとしても私は決して動揺していないしこれからも動揺しないわ。つまり、私はあなたと平常心で向かい合っているってあわわわわわ」
……。
……色々言いたいことはある。大いにある。しかし、もしも1番言いたいことだけを彼女に言うのならばこれだろう。
「落ち着け」
話はまずそこからだった。
面倒な事に今の俺はそれなりに長い髪の毛を持っているので、ドライヤーをかけずに放っておくことができない。だから彼女の頭を冷やす時間を取る、という意味でも少し時間をもらう事にする。一瞬、俺の頭は熱くなるんだけどな、とか言いかけたけど、よく考えると(よく考えなくても)クソほどにつまらないジョークだったので特に口に出すことなく、コードをつないでドライヤーをかけ始めた。
そして、数分後。心なしかふわふわした髪の毛を触って湿っていないことを確かめ、彼女に声をかける。
「……待たせて悪かったな」
「いえ、動揺はしていなかったけれど、整理はできたのだし、ここはフィフティフィフティにしましょう」
全くもって動揺が解けていない物言いだったが、彼女の反応がどことなく陽乃さんとの邂逅の時に似ていてやはり姉妹なのだと実感し、思わず口が綻んだ。
「つーか、俺の写真をいろはが送っていただろう?勝手に。そんなに驚くなよ」
「あの時の八幡君は目を閉じていたからこんなになっているとは予想もしていなかったのよ。……通りで小町ちゃんが貴方との面会を禁止したわけだわ」
最後にぼそっと雪ノ下が呟いた。羞恥を覚えたのか雪ノ下の頰は仄かに赤く染まっていたが、野暮に触ることはせず話を続ける。見舞いの時にも気になっていたがズルズルと引き伸ばして聞けていなかったことだ。
「……そういえば、お前、前まで八幡君って呼んでたか?」
「いいえ、ただ、あなたが起きたらそう呼ぼうとと思っていただけよ。私のことも雪乃と呼んで良いのよ?どうせ来月には雪ノ下が通じなくなるのだし」
「……お、おう」
「大学卒業を待たずに人妻になる私の言うことを憐れんで言うことを聞く気概はないのかしら?」
雪乃は表情を変えずにグイグイとナイーブなジョークに踏み切ってくる。余りの積極性に、もしや雪ノ下雪乃は須郷とやらとの婚約に対して割と前向きなのではないのか、と推測しそうになったほどだ。
それもまあ、次の彼女の一言が否定してしまったけれど。
「須郷雪乃。語呂が悪くて反吐が出そうだわ。どうせなら漢字3文字の苗字が良かったのだけれど。……あら、そういえば比企谷くんの苗字はなんだったかしら?」
「……なんつーか、お前、逞しくなったな」
いろはとは別ベクトルの強さを身につけている気がする。どちらにせよ、俺が敵うような範囲を軽々と飛び越えた成長だった。
「いいじゃない、どうせこんなことをできるのももう少しなのだから」
変わらぬ調子で、なおざりに雪ノ下が言う。
その様子で分かったが、彼女は逞しいというよりかは吹っ切れた、もしくは、自暴自棄になっているようだった。
ともあれ、この話題を続けるのは両者の精神衛生上良くないと思い、俺はやや強引ながらも俺は話題を変える事にする。あくまでも戦略的撤退であり、雪ノ下の問題から向き合うのをやめたとかそんな理由でないことは分かって欲しい。昨日の誓いは依然、心に留まっている。
「そういえば、なんで雪ノ下はここに来たんだ?」
「ふふ、頭の回転は変わらないようね、遅々ヶ谷くん」
「どストレートに俺という人間性をスローにするのはやめろ。というか流石になんでいるのかは予想はついているが、聞きたいのはそこじゃねえんだよ」
「あら、それじゃあ何か当ててもらおうかしら?」
正解も何も、雪ノ下が既に正解を言っていた。つまり、ついこないだ小町が話していたその日が来たんだろう。
『お披露目会』
それはつまり、リハビリ後の俺を披露するというなんだかよく分からない会だ。普通に退院おめでとう会とかやってくれた方が何万倍も嬉しいのだが、小町も中々に俺の性格が移っていたらしい。
まだ雪ノ下の問いに答えていないのに「正解よ」と告げられ、自分の考えに確信を持った俺は、これからを思い体のダルさがぶり返して来たのを切に感じながら雪ノ下に問う。
「……他の奴らも揃ってるのか?」
「ええ」
「お兄ちゃーん、まだー?」
リビングの方から小町の声が聞こえてくる。雪ノ下は楽しそうに笑って、『行きましょう』といって俺の腕を引っ張った。あー、と声にならない声を出した俺は、やるせない気持ちを手荷物タオルに込め、それを洗濯カゴに渾身の力で投げ入れた。
ー・ー・ー
「……マジで勢ぞろいかよ」
リビングには小町は勿論、由比ヶ浜、いろは、戸塚、川崎姉弟がいた。勢ぞろいといいつつも材木座がないない事に涙を禁じ得なかった。ハブられたとかではなく小町がただ単純に連絡先を知らなかったらしい。より涙が溢れる話だった。
「あ、先輩おはよーございますっ」
「ああ、おはよう帰れ」
「早い!挨拶から命令までがノータイムすぎますっ!せめて句読点くらい入れて欲しかったです」
「おう、帰れ」
「それはそれで嫌です!」
買った服きてくれてるんですね!とはしゃぐいろははさておいて、まあ予想通りというかなんというか、固まっている来客の皆様の体を解くとする。
「まぁ、なんつーか、ほらアレだな、久し振りだな」
ソファは来客に占拠されているため、テーブルの椅子について挨拶ともいえないような挨拶をする。すると、いち早く自我を取り戻したのは最も接点のなかった川崎弟こと、川崎大志だった。
「お、お兄さん、めっさイケメンになったっすねぇ!一瞬誰だか分かんなかったっす」
「まず、お兄さん呼びとメッサとかいう頭の悪そうな単語を使うのをやめろ。お前は関西人の若者か」
「……この感じ、確かにお兄さ、比企谷先輩っすね!」
眼力に押し負けて言い直す大志。制服的に総武高では無ようだが、川崎姉の方の繋がりもあったためか、未だに小町とどこかで通じているようだった。手を出してねえだろうなと殺意に満ち溢れそうになっていると続いて覚醒したのは川崎。誰が先に戻ってくるかレースの最下位が由比ヶ浜に決定した瞬間だった。どうでもいいな。
「ひ、比企谷なの……?」
目が見開いて信じられないと、分かりやすい表情で川崎が尋ねる。彼女も一回けーちゃんと見舞いに来てくれたが、改めて見ると、印象が大分変わっていた。腰まで伸びたロングの髪を綺麗にまとめて凛とした表情で座るその姿は、まさに気の強いおかん気質の大和撫子といったよう。心なしか、スタイルも良くなっておりサイズの小さい服で正座されると非常に目のやりどころに困るものがあった。
「まあな、スカラシップ生。ちゃんと国公立いけたか?」
「お陰様で……と言いたいところだけど、優秀者の学費免除使って私立行ったから。ま、どっちにしてもあんたのおかげみたいなもんだけどね。って、ほんとにほんとに比企谷?」
「しつけえよ。言っておくけが、俺の変化なんて、川崎のその髪の色が地毛だと信じるよりかは全然受け入れられる範囲だからな」
「んな!気にしてることを!」
「こっちだって気にしてんだよ!」
一触即発。そこになるのは争いの幕開けを告げる銅鑼の音。あるいは意識が戻って来た由比ヶ浜の声。
「ヒッキイイイイイイイイイイイイイイイイイ!」
「うるせえ!」
お前は情緒不安定の動物か。
ドタバタと駆け寄ってくる由比ヶ浜。身長差が大きくなったこともあり、入院の時とは違って彼女は小さく見えた。
「えええええええ」
「……なんだよ」
「ヒッキー!カッコよくなりすぎ!!もう別人じゃん!!」
「さらりと失礼だな」
「いやいやいや、だって、目も髪も背も全然違うって……あぁー!」
大きくのけぞった由比ヶ浜。
「……今度はなんだよ」
「ヒッキー、ツイッターに載ってたでしょ!陽乃さんといろはちゃんと葉山君とのヤツ!!」
あー、あの写真だいぶ出回ったらしいからなぁ。そりゃリア充バリバリやってます系の由比ヶ浜だったら当然知ってるわな。
「ちょ、なによそれ。私知らないのだけれど」
雪ノ下も俺に詰め寄る。
俺は2人に返答を返すことなく静かに指をさして一言。
「あのいろはとかいう後輩が悪いです」
いろはの顔がみるみるうちに白くなるのを見てほくそ笑みながら初代奉仕部達に伝えた。再び(今度は雪ノ下も)石のようになり、ギギギと錆びついた機械のような動作でいろはの方を見る。表情は見えないが、いろはの絶望した顔を見るに相当な修羅顔になっているらしい。
「いろは、俺トイレ行ってくるからあと頼んだわ」
俺は一足先にこの場所から逃げ出した。
寝起き30分の激動は1日を飾り立て、逃げた先では眠気などとうに晴れていたことを自覚させられた。