八幡は顔色一つ変えることなく断言する。
場を覆う言い表しようのない異様な沈黙。対照的な表情で黙り込むキリトと八幡とは違い、エギルは何か思うことがあったのか口を何度か開いたが結局自分の声帯を揺らすことはなかった。
意志を持って沈黙を貫いた八幡とエギル。
対してキリトは何か言おうとしたが何も出てこない様子で口をパクパクと開けては閉じてを繰り返す。
何故、と呈しかけては口を閉じ。
何で! と怒りかけては口を閉じた。
無責任とも取られかねない無表情で八幡が甘ったるいコーヒーを4口啜った所で、遂にキリトは声を出す。
「……理由を教えてくれ」
それは、疑問の声でも怒りの声でもない、諦観の響きだった。
ー・ー・ー
やっと喋ってくれた。堪え難い空気感に呑まれて震える手で掴んでいたカップをお皿の上に置く。アスナの話をし出してから明らかに情緒不安定な状態であったキリトは躁鬱で言うところのダウナー状態になったようで、ALOの話を書くときの鼻息の荒さはどこへ行ったのか縮こまってうなだれている。
まあそれも、アスナを小町に置き換えれば想像できるし、それも無理のないことなのだろうが。
……いや、こればっかりはキリトのみぞ知るなのだろう。
「キリトがどの程度の力を俺に求めているのかは分からないが、それがピンであれキリであったとしても俺はやっぱりノーと言わせてもらう」
「やってもいないのにか?」
「やってもいないのに、だ。これは放棄でも諦めでもない。ただの確信からくる答えなんだが」
あるいは核心からくる答えでもあるのだが。
「俺は、何もできないんだ」
「なにも、できない……」
キリトが分かりやすく「なにを言っているんだ、こいつは」といった目で見てくるが、俺からすればキリトの方が『何を言っているんだ』である。
こいつは、主人公が過ぎるのだ。
過ぎるが故に、見失う。分かりやすい解答もそこまでの道のりも。
「そう、できない。脅されているからできない、立場があるからできない、所用があるからできない……じゃなくて、
「そんなことないだろ!」
「いや、ある。お前だってSAOから戻って来てから一回は感じたことあるだろう?向こうで味わった全能感。そしてここで味わうことになった無力感。いや、無気力感を」
容姿がどれだけ改善されようが、背がどれだけ伸びようが感じたのだ。成長しきった大人予備軍が泣きわめくほどに感じたのだ。ましてや多感な時期であるキリトが感じないはずがない。
事実、キリトもやはり思い当たることがあったのか奥歯を噛み締めて俯く。
「自慢じゃないが俺は向こうの世界で色んなことをして来た。周りで人が精神的に参っているところを助けて、支えて、睡眠を惜しんで努力した末にあそこまで上り詰めたんだよ」
攻略を円滑を進めるのに最も適した地位に。
まるで金融会社のエリート街道を進むシュミレーションゲームを一人でやってる気分だったあの頃を思い出す。ろくな思い出がない上にその殆どが卓上業務であることに絶望して思い出すのを中止する。
今から考えると文化祭なんて屁でもなかったな。……だって、仕事に終わりがあるとかどんなホワイトだって話だよ。
「……俺がそこにたどり着くために必要なことは三つあった。一つはあらゆる立場のリセット。一つは繋がりを広めていくこと。そして最後が運、だ」
そしてそれを掴もうとしていた俺がこうして手に入れることができたのは奇跡でしかない。天文学的な数字が導いてくれた結果でしかないのだ。
「だが、現実世界ではどうだ?……分かるだろ?地位はごく平凡な両働の家庭の長子でしかなく、繋がりだって自慢じゃないが10にも届かないと言う自負がある」
「それは本当に自慢じゃねえな」
やかましいわ。その蓄えた顎髭引きちぎるぞ。
まぁ、運だけに限って言えばそこそこあるのだろうけれど。やたらと美人に縁があるしな。戸塚とか戸塚とか戸塚とか。
……それはともかく。
「それはALOだって同じ……いや、ALOの方がもっと難しいと言ってもいい。こんな状況で俺がお前に何をしてやれる?プレイヤースキルか?いや、俺がそれがないことはお前らがよく分かっているはずだ」
「……それでも第三者的な知恵なら」
キリトの言葉に苦笑いを浮かべそうになる。食い下がってくれるキリトの気持ちは嬉しいが、それが一番できないことは俺が一番よく分かっていた。自嘲を抱きながらコーヒーに映った自分の顔を見て、未だ無表情を保ってくれていることを確認した俺はこれ見よがしにため息をつく。
「『この人員でこの役割をしてもらおう。ボスはこんな感じって情報が集まったからこの対策ができているこいつはキーマンだな』ってな調子でか? ……お前はそんな誰にでもできる仕事をやっただけの男に期待をしすぎなんだよ。……いいか、キリト。俺はお前に貸してやれる力はない。情けないことにそもそも0の力を貸すことは絶対にできないからだ」
そもそもの話、そういった指揮や立案の仕方ですら真似っこの付け焼き刃。だからこそ、その偽物に限界を感じたからこそあんなことになったのだが───。
まぁ、それはおいといて。つまりは、この世界で理不尽に対抗できるのはどう足掻いてもキリトだけなのだ。ゲームというフィールドにおいては最強たりえるこいつしか成せないことで、主人公でもモブですらない俺ができるのはその背中を押してやるだけだ。
「……そんなに項垂れるなよ」
下げてから上げる。物語や信頼構築においての常套手段であるが、実際会話の持って行き方としてはひどく合理的な手法。
それを何の感情も抱くことなく友達に利用するという、相変わらず最低な自分を愛でながら俺は不出来な笑みを浮かべる。自嘲じゃなく、苦笑いじゃない。最大級の安心させる笑みを。俺の表情筋も豊かに動くようになったものだった。
「キリト。お前はゲームクリアの英雄なんだろ?大丈夫だって。なんだかんだ新たな仲間と出会ってなんだかんだたってアスナを助け出してめでたしめでたし。それで十分な話じゃないか。なにも、難攻不落な城を攻略しろって言われているわけじゃないんだ。ゲームシステム上攻略可能なダンジョンをたった一回攻略するだけだ」
だから、大丈夫。
そう、幸いアスナは雪ノ下のように社会と大人に手垢と欲で雁字搦めになっているわけじゃない。これはたまたま帰還中に魂を迷わせた少女を助けるだけの話。むしろ、アスナが助かることで他の未帰還者の行方も分かるかもしれない大団円への第一歩にもなりうる希望の道なのだから。
だから、英雄が迷うに値する現状などではないはずなのだ。
「タイムイズマネー。使い古された言葉だが金言だ。焦る気持ちもはやる気持ちも分かるから、とりあえず、行動できることをして落ち着いてこい」
最後にそう締めくくって俺はALOのパッケージをキリトに渡した。
あとは、キリトがナーヴギアに対してトラウマを発症させていたとかいうオチがない限りこいつは解決に走るだろう。悔しいが、こいつにはその力がある。
運命力なんてちゃちなものじゃない、もっと明確に手段として成り立つ力───ゲームの才能がこいつにはあるのだから。
「……ごめん、八幡」
帰り支度をしようとしていた俺の耳に届いた小さな悲鳴。
隣に座るキリトは「ごめん」と再び呟くと今度はエギルを見た。
「エギル。この店に誰も入らないようにしてくれないか?」
「これからが儲けどきなんだが……って、なんか事情があんのか」
「ああ。他言無用の世間を揺るがす胸糞悪い、俺が絶対に許さない奴の話がある」
「……」
エギルは無言で席を立って入口の方へ歩いていく。
数分後、戻ってきたエギルの手には二つのカップがあった。
「サービスだ」
ホットミルク。
「ありがとう」
お礼。
「んじゃ、聞かせてもらおうじゃねえか。その胸糞悪い話ってのをよ」
着席。
「ああ───」
承諾。
メンタリストは一挙一動が千の情報をもたらすと言うが、こればかりは心理学には疎いズブの素人でも分かる。
キリトは、明確に誰かに対して本気の殺意を抱いてた。
エギル同様今のキリトはどうこうできるものじゃないと判断して掴みかけた上着を再び膝の上に置き直した俺は、今日3杯目となるカップの中身を一口。
温かく甘い。
なるほど場の空気と余りにもかけ離れた味だった。
そいつを思い出すのすら嫌ならしいキリトはカップを持つ手の力を調節できずわなわなとミルクを揺らす。はぁ、と漏れる息すらどこか迫力を醸し出している気がする。ぶっちゃけ切れた雪ノ下並みに怖い。本物な殺意がある分こちらのほうがシャレにならないのだが。
そうして、シャレにならないキリトが話した情報はシャレにならないどころのものではなく、
俺は奴を知る。
初めてその名前を聞いた時の違和感と、雪ノ下の事情と、マスメディアの報道、そしていろはの話が全て噛み合った社会の闇、その最先端を知る。
くしくもそれは、考えうる限り最悪の情報であり、俺らが遺してしまったSAOの裏ステージ、その攻略の挑戦券となるのだった。
糞ゲーである
ー・ー・ー
「んじゃ、気をつけて帰れよ」
「ああ、俺は帰ったら早速ログインしてみるよ」
俺も適当な挨拶を交わして店を出る。
「……なぁ、キリト」
「なんだ?」
「さっきの話……マジなことなんだよな?」
「……っ!…… やっぱり、信じてくれないのか」
何を誤解したのかキリトは残念そうに呟く。見られるのが後ろ姿だけで顔を見ることは叶わないがおそらく失望の目をしているのだろう。
「嘘を一つもはいてないよな?いい漏らしたことは一つもないよな?」
「……ねえよ。俺はさっきの話で隠した事も言い忘れた事もなにもない。あれが全部だよ。お腹いっぱいなくらいだけどな!」
「そうか……なぁ、キリト」
「なんだよ!……!!!」
その日のことをしつこく問われたせいか荒れた調子で後ろを振り返ったキリトはなにを見たのかハッとした表情をする。
少し思うところのあった俺は心内すでに決まりきっているくせに理性で身の振り方を考えていたため、キリトがなにに驚いたのか問いただす余裕がなかった。葛藤していたのだった。
「……これ」
しばらく足を止めていたキリトはポケットから携帯を取り出す。
「連絡先だ。交換しようぜ」
「……ああ」
赤外線が恋しいな、と思いつつ違う機種なのでポチポチと互いの連絡先を入力する。少ない電話帳の中に新しく『桐ヶ谷和人』が加わったのを見て俺は「さんきゅ」と言った。キリトもお互いさまだと返して携帯をしまう。
携帯の画面は7:00を指していた。
「依頼は結局断られたけど」
歩きながらキリトは話す。
「連絡くらいはするから返せよ」
切れかけた街灯が点滅する。
「……わかった」
自分らしくもない。面倒いから気が乗ったらな、と普段なら答えていただろう。
そこから先のことはよく覚えていない。
ただ、その日の深夜。雪乃に一通のメールを送った事だけは覚えていた。
『須郷と繋いでくれ』
その日の夢で、動き出した歯車を空目した。
怒りに任せて振り返った時に見えたあいつの顔には俺以上の怒りがあった。