「あのなぁ、結衣!」
「うっさい!ヒッキーは黙ってて!」
碌でもなことを言うなと思わず結衣に怒鳴り返してからというものの、彼女はずっとこんな調子だった。ノートを勝手に取り出して丸っこい字で『ゆきのんを救え!大作戦!』と大きく書く。そして、彼女は一人でうんうんとそこに何かを書いては消してを繰り返す。
そんなこんなで五分経ったのだった。
俺も我慢の限界だった。
「いや言わせてもらう!いいか!雪乃の事は俺と、陽乃さんと、その上企業を巻き込んでもなお無理だったんだ!それが俺とお前だけの部活動でどうにかできると本当に思ってんのか!」
「で、できるもん!やる気ないからヒッキーは黙っててって言ってんじゃん!」
聞く耳持たずとはことか、とため息をついた。
しかし、どうもきまりが悪い。俺達は告白した・されたばっかりだというのに、それをそっちのけで喧嘩をしているのだからそれも当然といえば当然だが。こいつは何故こんなにも平然として居られるのか。
告白と救出。どちらが大事なのかは明らか。
そんなことは分かっている。だというのに、もっと大事なことがあるのに目先の事態に囚われてしまう俺は、いかにも凡庸で俗的な奴だと言われている気がしてならなかった。
「……なぁ結衣」
「なに?」
「もし、俺が雪乃を諦めてお前と付き合うからお前も諦めろって言ったらどうするんだ?」
「んー、ヒッキーと付き合う」
「はぁ?」
期待と違う答えに困惑する。
勝手に期待して勝手に困惑するというのはなんとも愚か。またひとつ自分の嫌な所を見つけて歯噛みする。俺が愚かなのか、俺らしい愚かさなのか。
……。
「そして、多分すぐ別れてまたゆきのんを助けようとする」
「……なるほど」
これまたどちらも捨てられない結衣らしい選択。
誰々らしい。
雪乃らしい、結衣らしい、いろはらしい、小町らしい。どれも言われたらこれだとパッと思いつく。八幡らしいと言われたら、多分、ひねくれ者と言われるのだろう。
だけど、誰々らしい選択。と言われたらどうだろうか。
もっといえば、比企谷八幡らしい選択。
半端な捻くれ者の選び方。
現在の俺は選択というよりかは末路。俺らしさと自分の嫌いな所を同一視してしまう俗人の成れの果て。
では、俺はどんな選択をしてきたのだろうか。今までは考えようとしなかった自分の奇跡。自分の後悔。
俺らしい選択。
結衣にあてられたせいか、少し考えてみようと思った。
ー・ー・ー・ー・ー
「今日も今日とて腐った目を社会に晒しているのね」
「そう言うお前はやけにご機嫌だな」
かつてのある日のとある時間。
曖昧な関係による具体性のない会話。
誰でも過ごせるような、どうとでも過ごせるような空間に身をやつしていた時代。
端的にいえば、高校二年生の放課後の忘備録。
俺は片手に持ったマックスコーヒーをいつも座る椅子近くの机に置いた。
「……それで、何かあったのか?随分元気じゃねえの?」
「いえ、特になにもないわ。強いていうなら、部室にゾンビが出現したことくらい?」
「もしもそれが俺のことを指しているなら、今夜の俺の予定は『まくらを濡らす』に決定だな」
「そんな飲み物を飲んでいるあなたの涙は、さぞかし甘いのでしょうね」
彼女の言葉に涙を流した。
しょっぱかった。
「その笑顔から察するに」
「察するに、何?」
発言に噛み付くような口調の雪ノ下。
「怖えよ。……あー、察するに、今回のテストの点数が良かったのかって言いたかったんだよ」
「まぁ、あなたに比べたら良かったわ」
「お前は学年最下位に近い順位の俺に勝って嬉しいのか?!」
「別に。それで喜んで居たわけじゃないわ」
「ふぅん。なら、別の何かで喜んでいたんだな」
「……えぇ、そうよ」
この世の苦いものを全て煮込んだ汁。それを口にしたかのような表情。苦渋でもそんなに長くはないんじゃないのかとすら思える。
……俺に失言一つしただけでそんなに悔しいのかよ。
「とても悔しいわ。比企谷君相手に失言するなんて。この失態は子々孫々と受け継ぐべきね」
「雪ノ下の中での俺の立ち位置がゴミ以下ってことはよく分かったよ」
俺は頭を抱えてガタン。と音を立てて座る
続いてため息ひとつついてコーヒーを啜る。マックスコーヒーをコーヒー、などと称したものなら雪ノ下から100の暴言を交えながらにマックスコーヒーはコーヒーに非ずと講釈垂れるに違いない。
そう思いながら二口目を口に含んだ。
「……ねぇ、比企谷君」
「なんだ?」
「何を読んでいるの?」
「御伽草子。太宰治の」
何回読んでも面白い、まさしく名作だな。雪乃も流石の名作に「なるほど」と感慨深く頷いた。
「あぁ、比企谷君が鈍臭い役で出演しているやつね」
「鈍臭い? 俺? ……あっ! 雪ノ下! お前今俺のことを亀に例えたな! 確かにネチネチと浦島を責め立てるところは俺に似てなくもないが、だとしても亀に例えるいわれはないぞ!」
「あるじゃない。というか今あなたが言ったじゃない。それで亀ヶ谷君、奉仕部のことなのだけれど」
「比企谷だ。ちなみに中学生の同級生がストレートに俺のことを亀野郎と呼んで居たことから、やはり雪ノ下がご機嫌であることは明白だ」
「なんて哀しい推論なのかしら……」
パタン、と珍しく新書を読んでいた雪ノ下。彼女は新書をしまうと、紅茶を入れ始めた。珍しく俺の分も。
俺を憐れんでいることがありありと伝わってくる一連の所作だった。
「さて、比企谷君。あなたに話さなくてはならないことがあるわ」
「なんだよ、改まって。まだ短い仲だがそれでも遠慮しぃなお前なんて初めてじゃないか?」
「うるさいわ、ゴミ」
「そんなド直球な罵倒も初めてだな」
「捨てるわよ」
「そしたら呪うからな」
最後のやりとりだけ聞けば、彼氏彼女のやりとりに聞こえなくも……ないな。少なくとも、俺はそんな彼氏彼女はごめんこうむる。
……しかし、珍しく依頼人がこない日だというのに俺との会話をしようというのか。
なんだか嫌な予感がする。
「……それで、話したいことってなんだ?」
「これよ」
ぱらりと一枚のプリントが渡される。
「えっと、『雪ノ下雪乃と比企谷八幡によるご奉仕対決その中間報告』?。……どうしたんだこれ。先生から渡されたのか?」
「ええ。点数はまあ妥当なものだからしげしげを見る必要はないわ。話したいのは、ここのこと」
そう言って身を乗り出した雪ノ下がプリント下部を指差す。そこには先生が書いたのであろう解決した悩みと未解決の悩みが小さなゴシック体で書かれていた。
「これがどうしたんだ?由比ヶ浜とか川崎のことが書いてあるが別に間違っちゃいないだろ」
他にも日常頼まれる細々とした事柄が多く書かれている。パッと見た所、特に不審に思うことも不思議に思うこともなかった。
雪ノ下はそんな俺に業を煮やしたのか更に俺に寄ってくる。そして、耳元で「ここよ」と囁くと彼女の細い指で一箇所を示す。とてもくすぐったいので是非止めてもらいたい。
『未解決』
「未解決ねぇ。……勝手に化学の先生の荷物運びだとか社会科室の掃除だとか未解決でもなんでもないだろ。俺に行ってこいってことか?」
「……違うわ。その下よ。雑用ごとの下。あなたの性格改変依頼の側を見なさい」
「ええと、これか?『青春謳歌』。確かに余計なお世話だな」
そんな心配している暇あったら自分の婚期の心配をしろという感じだ。先生に言ったら普通に殴られそうだけど。
「その下よ。亀ヶ谷君」
「察しが悪いことは謝る。その代わりお前はその呼び方を謝れ」
亀ではない。むしろ運動神経はいい方だ。連携は取れないが。いっそ陸上でもやろうかな?リレーじゃないやつ。
雪ノ下の怖い視線から目をそらしてあらためてプリントを見ると、小さく雪ノ下雪乃の文字が目に入った。
「『雪ノ下雪乃の救済』?なんだこりゃ?」
「分からないわ。少なくとも私は依頼していない。となればやりそうなのは由比ヶ浜さんか先生。……あるいは」
「陽乃さん。ってことか?」
「えぇそうよ」
誰が頼んでも雪ノ下が怒りそうな面子だった。
カーテンが風に揺れる。
「んで、それがどうしたんだよ。まさか救済の依頼か?辞めろよ俺はキリストでもブッダでもないただの高校生だわ。荷が重い」
内容は分からないが面倒くさいことは容易に分かる。
「誰があなたに助けを求めるのよ。せめて世界1つを救ってから出直しなさい」
「お前は世界よりも上位対象なのかよ」
世界救済って。
雪ノ下エンドまでのフラグ管理が大変そうだな。ユキノシタルートだけゲームディスク5までありそう。そしてそのうちディスク5までは世界救済編で埋まっているのだ。
ユキノシタ編はダウンロードコンテンツ。
「それでね、比企谷君。私があなたにこれを見せたのは思い出したことがあったからなのよ」
「なんだよ。記憶喪失でもしていたのか?優等生のお前が」
もしかして救済編への伏線か?記憶の檻に閉じ込められた私を救えってか?なら、これからエンディングだな。雪ノ下思い出しちゃったし。
……なんてな。
冷たい目線に耐えきれなくなり、俺は「なんだよ?」と再び尋ね直す。
「……はぁ。私がこの部に入れられたのもまた、理由があったのよ」
口を開いて、鈴を転がすような声でもって雪ノ下は言った。
その後の会話には意味はないので省略する。とはいえ、今までの会話にもさして意味はないのだけれど。
けれど、この会話は雪ノ下が自ら見せた貴重な自嘲を捕えた会話だった。
文字に起こせば一千と少しの会話。口に出したセリフだけ数えればもっと少ない文字数。
その中でさえ、雪乃は雪乃らしい口調で雪乃らしいことを話していた。無論俺だって俺らしい口調で俺らしいことを口にしていた。
雪乃が思う雪乃。比企谷八幡が思う比企谷八幡。
その会話の間、俺たちはある種のペルソナを作り出していた。自分が持つ合わせて2つの
俺たちはいつだって、自分らしさを知覚して会話をしていのだ。
そう、確固たる自分らしさをもっていた。
俺だって、半端なひねくれ者としてのキャラクターを自覚して話していた。つまり、選択していた。まるでゲームのように。有りもしないフラグを気にして、セーブ機能を夢見て会話を楽しんでいた。
高感度を気にして、談笑していたのだった。
ゲームのような世界からゲームの世界へ移り、ゲームのような世界へ戻ってきた。
それが良いことか悪いことかは分からないが、どの世界でもそこそこ楽しく生きていた。幸も不幸も好き嫌いせず食べていた。
今回は不幸だった。
今回は幸だった。
前回はよく考えれば不幸だった。
そんな風に可変的に幸不幸を捉え直しながら俺は自分の人生を歩んできていた。
俺らしい選択の末に俺があるのではなく。俺だからこそこの選択を取る。そう思って生きてきていた。
だから、今それを逆転しようと思う。
気まぐれに逆さにしてみようと思う。
もう一度頑張るとかそういうのではなくて、ただ、捉え直してみようと思う。そう、捻くれてみようと思う。
俺らしく。
自分だから諦めた選択をするのではなく、諦めた結果が自分であるのだと確かめてみる。
字面上、捉え直した結果の方が立ち直るには程遠い。
だけど、結衣は言った。
今度は、『奉仕部』だ。
『比企谷八幡』では無理なら、『奉仕部』として助けよう。
そう言ったのだ。
諦めた結果が奉仕部である。
その事象は正しいのか。
「それは、やはり間違っている」
だって、比企谷八幡が諦めていても、雪ノ下雪乃がどうしようもないと思っていても。
由比ヶ浜結衣は、諦めていないのだから。
「……あぁ、そうか」
俺は諦めたし、もう立ち上がらないだろう。
なら、今度は。
「俺は、奉仕部として、お前を助けよう」
俺が入院したあの日の言葉。
『引き止めてくれる?』
精一杯のSOS。彼女なりの依頼。
奉仕部員3人による互助活動。その最後の活動として俺たちはお前に奉仕する。
ー・ー・ー
「結衣」
「う、うきゃっ?!ひ、ヒッキー?!突然何するし!」
思わず抱きついた。
「……って、ヒッキー、泣いてるの?」
「泣いてない。……ただ、少しこのままでいさせてくれ」
目から水が止まらないのだ。
悲しいわけでもないし、嬉しいわけでもない。だというのに何故か涙が止まらない。泣いていないのに、涙が出るのだ。
「ヒッキー……。も、もー、しょーがないなー。貸し一だからね!」
「すまん……ありがとう……ありがとう」
何にお礼を言ったのか。自分でも分からなかった。
「いいんだよ。泣き止んだら計画立てんだからね!一緒に!」
「あぁ……ああ!」
ははぁ、と震え声が口から漏れる。
怖かったと今なら声に出して言える。
須郷のことも未来のことも。雪ノ下の行く末も、自分の行く末も。何もかもが不安で不安でしょうがなかった。
怖くて恐くてこわくてコワくて。
なにをしたらいいのか、どうしたらいいのか考えるのがこわくてたまらなかった。トラウマだとかPTSDとかではない。ただひたすらに何かをするのが怖かった。
須郷とあったせいで雪乃がよりひどい目にあうのが怖かった。
小町に何か話したせいで被害が及ぶのが怖かった。
陽乃さんとこれ以上付き合って迷惑かけるのが怖かった。
自分が行動するのが怖かった。
比企谷八幡が存在するのが怖かった。
いるだけで不幸を撒き散らす害悪であるという観念に囚われていた。
今でもそれを乗り越えたとは口が裂けても言えない。
「……結衣」
「なに?八幡くん」
「感謝している。……だけど」
言葉に詰まる。
結衣は不思議に思ったのか首を傾けて、俺の言いたいことに思い当たって手を打った。
「告白のこと?なら、保留でもいいんだよ。こんな状況だし」
「……いや、言わせてくれ。俺に、応えさせてくれ」
深呼吸して、結衣から離れる。
「やっぱ泣いてんじゃん」と結衣は笑った。
彼女がこんなにも悲しそうに笑うのは恐らく、なんて答えられるか予想がついているのだろう。
「……結衣。俺はお前とは付き合えない」
「うん、知ってた」
一瞬顔を強張らせた後の返答。彼女が無理をしているのは明らかだ。
「……じゃあ、ゆきのんを助けたらゆきのんと付き合うの?」
「いや断る。俺は、誰とも付き合わない。少なくとも、大人になるまでは。まぁ、その時に俺と付き合ってくれる奴があるとは思っていないが」
「理由を聞いてもいいのかな?」
悪戯っぽい表情で結衣は言う。
サブレが俺を威嚇していた。
「……決めたからだ。俺は、好きな女性を守れるようになりたいって」
小っ恥ずかしいことを言ったものだと思う。今までの俺なら死んでも言わないだろうセリフ。
けれど、それでも結衣には死んでも伝えなければいけないと思った。
「でもそれは、好きじゃないから助けないってこと、じゃないよね?」
「当たり前だ。……ただ、付き合う女性にはそもそも助けなきゃいけない状況になんてしたくない。俺は勇者でも英雄でもないからな。魔王と対決なんてごめんだ」
「……じゃあ、何になるの?」
「彼氏、夫、そして、父親。あと爺さんにもなりたい。俺は好きな人とそこまで歩んで行きたい」
俺の人生に冒険も探検もなにもないとはもう言えないのかもしれない。だけど、一緒に歩む女性には平和の中にいて欲しい。
それが、俺の思う守ることであり、護ることだ。
諦めた俺が、もう一度だけ立てる小さな目標。
「……そっか。なら、仕方ないかな。とりあえずは諦めたげる」
「……ありがとう」
「もういいって!さ!計画立てよ!さっさと奉仕部復活して卒業打ち上げ及び第一期奉仕部お疲れ様会するんだから!」
「……しょうがねえ、か」
解決策もなにもない。
ただもう一度。
そう思えただけの時間。
未来は未だ真っ暗だ。
だけど。少しだけ俺は、「助けられるかもしれない」そう思ったのだった。
ピロン!
ケータイから音がした。
「悪い、電話だわ」
小町からだろうか。
そう思って電話にでる。
「もしもし比企ヶ谷」
「『どーも、もしもしお元気ですか?』」
「はあ、どちら様でしょうか?」
ん?電話の調子がおかしいな。声が二重に聞こえる。
「『いや、オレだよオレ。ほら、オレだよオレ』」
「詐欺なら切るぞ?」
相変わらず不調な電話。スピーカーがいかれているようだ。しかもおかしいのは電話の主も同じ。思わずいらっとしてぞんざいな返しをしてしまう。
しかし、次の言葉で俺はその意外な電話の主を知ることになる。
そいつは、なんというか、かけがえのないやつだけど信頼も置いているけれど、心配だけは絶対にしないような相手。信用もあるし、仲だったよかったけど喧嘩ばかりしていた相手。
有り体な言葉をつかうなら、大切な仲間。
もっと簡単に言えば、それは───。
「『だーれだっ!』」
目に突然手が当てられる。
俺は驚いて思わずケータイを落とした。突然の目隠しに驚いたというのもある。しかし、その驚きの大半の理由はその声の主。
「……な、なんでここにいるんだよ!アルゴ!!」
かつて世界で釜飯を共にした仲間。
簡単に言えば相棒。
手を振りほどいて後ろを見れば、そこには少し痩せたもののゲーム内で見たあの顔があった。
「ニャハハハ!ネズミヒゲはないけど確かにそう!オレッチはアルゴだゾ!おひサー、色男。そして、朗報ダ相棒」
ニヤリ、と不敵な笑みでアルゴは笑った。
「一転攻勢ダ、影友」