雪ノ下雪乃の変化を一言で言うならば、大人になった。その一言に尽きるだろう。
化粧っ気のなかった高校時代とは違い、薄く口紅を侍らせた雪ノ下はただでさえ美人顔だったのに、更に見違えるほどに艶やかだった。雪ノ下しかり、一色しかり、由比ヶ浜しかり。周りが急に成長したことにある種の恐怖がないといえば嘘になる。しかし、同時に、こんなにも成長したのかという一種感慨深いものもあった。
我ながら、ジジくさい考えをするようになったものである。
「聞こえなかったかしら?罪ヶ谷八幡君?」
「……聞こえてるよ。あと比企谷、な」
「あら?随分と喉の調子が良くなったのね。昨日とは見違えるようだわ」
「今さっき急に良くなったんだよ。まだかすれかすれだけどそこは容赦してくれ」
「当たり前じゃない。容赦も恩赦もなんでもするわよ。……それより、いつの間に一色さんとあんなにも密な関係になったのかしら?」
「さあ?……あ、いや、事の始まりに心当たりはあるんだが、まさかなって感じだ」
動揺しないのね、雪ノ下は意外そうな目で俺を見つつ一色が座っていた椅子に着席した。時計を見れば面会時間はあと30分ほど。小町は今日はこれないと言っていたから、どうやら雪ノ下が最後の見舞客となりそうだ。
鞄の中から何かを取り出す雪ノ下。
「……なんだそれ?」
「ノートよ。授業の写しと私の考える要点を書いたもの。奉仕部の方針的にはアウトかもしれないけど私はもう大学生だからあげるわ。ちょっとした餞別ね」
「マジか。それは助かるな。ありがたく活用させてもらう」
忘れてはいけないが、俺は学生であり学生の本分は学勉だ。
こんなにも長い間ゲームなんかにうつつをぬかしおってと言われても仕方ない身分故、この申し出は非常にありがたいものだった。感謝のあまり、いっそ数学にもチャレンジしてみようかななんて思う程である。
「ありがたく活用しなさい。あ、そうだわ。本来なら私が帰った後に見なさいと言うつもりだったけれど、この際、今少し確認して見たらどう?もし合わないなら持ち帰ってしまうから」
雪ノ下は積み重なられたノートの中から一冊、黄色のノートを取り出す。俺は『国語①』と書かれたノートを手に取ると、筋力がなさすぎて震える指ながらも1枚表紙の堅紙をめくった。
ぱっと見白紙だったので、一ページ目は使わない派なのかと思っていたら、中央に何か書いてあるのを見つける。
『好きです』
整った明朝体で書かれた文字。
それは、雪ノ下雪乃という少女がひた隠しにしていたとある一つの感情だった。
思わず雪ノ下を見れば、彼女は耳まで赤くして下を向いている。
「雪ノ……下?」
「……い、一色さんがあんなに速攻するとは思わなかったのよ。ち、ちがうのよ!もしもあの印象が残っていて、最後に一色さんを選ぶなんてのは嫌だっただけなのだから、勘違いはしないでよね」
何が違うのか。頭のどこにある冷静な俺が突っ込む。
わたわたと雪ノ下はその後もツンデレのようなデレデレのようなセリフを吐いていたが、固まる俺を見て冷静に帰り、こほん、と一つ咳をした。
「……で、あなたという男は私の告白に対してどんな返事をしてくれるのかしら?一年以上も温めてしまった私というどうしようもない女の告白にどのような返事をしてくれるのかしら?」
「……悪いな。俺は、雪ノ下と付き合えない」
じっと、目を見てそう告げる。まさか30分と経たない内に2人の美少女から告白を受けて、しかもそれを断ることになるとは思わなかったな。これがモテ期か……。
「これは驚きね。一色さんの告白にあんな返事をしたのはてっきり、私の告白を受け入れるための方便なのだと思ったのだけれど……ま、まさか、結衣さんが本命なの?!」
「まず最初に何故そんなに自意識過剰なのか。そして、もしも俺が由比ヶ浜のことを好きだったとして何故それが意外なのか」
由比ヶ浜に失礼だろうが。
「それに、一色にあの理由で断ったんだ。雪ノ下なら尚更だって事くらい分かっていたはずだろ?」
雪ノ下にはあいつにはない枷がある。
家柄という、どうしようもない枷が。
「……ええ、分かっているわ。分かっていたことだったわ。───全く、ここでも雪ノ下という家系は私を邪魔するのね。……けどね、八幡君。私はちょっと驚いたのよ。あなたがこんなにも冷静で居られることに。そんな態度を取られると私が馬鹿みたいじゃないの」
俺が動揺していないように見える理由。自分としては十分驚いて、動揺して、慌てふためいているつもりだったのだが、彼女がそう見えなかったというなら、そうなのだろう。いつだって雪ノ下雪乃は正しくあったし、正しくあろうとしていたのだから。その見解はきっと正しいはずだ。
───しかし。
「もしも、俺の態度が冷静に見えるというのなら、その理由は多分、打ち消されたからなのだと思うぞ」
「打ち消された?」
「ああ。【好き】という種類に違いはあるものの、俺とお前が両想いだったという安心感によって、動揺が打ち消されたんだと思う」
「その発言は罪ね。貴方はそれを分かって言っているのだからタチが悪いわ」
「すまん」
謝るしかない。
ダメよ。雪ノ下は俺の鼻を軽くつまんで微笑んだ。微笑んだ彼女の目は慈愛と優しさに満ちていたけれど、なぜたろうか。その口元は目と反してキュッと一文字に引き締められていた。俺は彼女の突然の行動に告白された時よりもずっと呆けた表情をしていたのだろう。思わず、といった調子でクスリと笑った雪ノ下は、俺が一色にしたように俺の耳元に口を寄せると口を開いた。
「私、三ヶ月後にお見合いをするの」
ぞくっとするような湿っぽさを持った彼女声は俺の脳内にリフレインしていった。
ー・ー・ー
「……誰と?」
短く聞き返す。
「この人」
彼女のスマホに写っていたのはそろそろ三十代半ばになりそうなメガネ姿の好青年の姿。シャキッとしたスーツ姿にきちんと整えられた髪型は彼の誠実さを表すかのようにビシッと決まっていた。雰囲気は葉山達に近い物を感じるし、若い頃は、さぞかしモテていたのだろう。
俺はスマホに映し出されたその姿をして目を閉じる。
1、2、3。
ゆっくりと数字を数える。
それは、冷静になるための行為であり、熟考の構えでもあった。
はっきり言おう。
嫌な感じがした。
子供の独占欲に似た嫉妬から来るような感想ではなく、反応が告げる危機感にも似た嫌悪。俺は変な確信を以ってこいつはダメなやつだといつの間にか断定していた。そしてその考えは、いくら数字を数えようとも変わることはないものだとすら思えるほど凝固なものだった。
「名前は?」
「八幡君が知っているわけがないでしょうけど、まあ今の世の中では有名な人よ。とても立派なことをした人」
「名前は!」
「なによ?そんなに必死にならなくてもいいでしょう?それともなにかしら?……ひ、引き止めてくれるの?」
「……頼む、教えてくれ」
こうべを垂れて雪ノ下に頼み込んだ。雪ノ下の可愛い発言を無視したことが表すのはつまり、なにも聞くなということなのだが、彼女はそれを分かった上でため息をつき、一言。
「須郷さん」
と呟いた。
俺は、ありがとうと呟いて、再び目をつぶった。
須郷、心の内で小さく呟いて。