7【登校初日⒈】
てー、てっててってー、てってててー。
頭の中で安いっぽい、それでいて奥深い某始まりのテーマが流れる。
玄関に揃えてある、一年前にも履いていた革靴に足を入れる。つい先日磨いたばかりなので、その靴は目立つシワが数本あるものの一年の老化を感じさせることはなく綺麗に光を反射している。ナイスミドルって感じだな。
「お兄ちゃーん、早く行こー」
俺のチャリを引っ張り出してきた小町が呼んで来た。
「ちょ、おま、その歳で二人乗りする気かよ」
「いいじゃーん。そんな変わんないって。寧ろお兄ちゃんの背が伸びたから安定感ましましかも。あ、今の小町的にポイント高い」
「基準がいつにも増して謎いな。……今日先生見張ってたりしないよな?」
登校初日にして問題児認定とか、初日にしてぼっち認定されたあの時並みに辛いものがあるから絶対に避けたい。
「荷物検査は明日」
「……いつの間にそんな制度が」
一色が反対しそうなものなのに。
手提げの鞄を小町のものと纏めて自転車のカゴに放り投げ、後ろに乗るよう伝え、小町が自分の胴にしっかり掴まった事を確認しペダルを踏み込んだ。
「行けー、お兄ちゃん号!」
「気の抜ける名前だな。……んじゃあしっかりと捕まってろよ」
「あいあいさー!」
四月の陽気な日の下でお兄ちゃん号が走り出したのは始業式が始まる、実に一時間以上も前のことだった。
ー・ー・ー
それが、どうしてこうなった。
市立総武高に着いたのは始業式まで残り20分と、事前に職員室へ寄らなければならない俺にとっては結構な時間。本来ならギリギリ一時間前には着いて小町と一緒に校舎の思い出しも兼ねて散歩と洒落込むつもりが、今となってはじんわりとした汗をおでこに貼り付け駐輪場で荒い息を吐いている。
「あははは。まさかどっちも気づかないとは思いもしなかったね」
「ホントだよ。揃いも揃って公衆の面前でアホヅラ晒しちまったし……」
何を隠そう、2人を乗せたママチャリはあろうことか、小町と俺の母校である中学校へと行ってしまったのだ。
「ぐわぁああ、あっちぃ……」
「小町は涼しいけどねー」
そりゃ後ろに乗ってるだけだからな。パタパタとカーディガンの裾でこちらを仰いでくれる小町を恨めしそうに見ながら、自分もワイシャツの襟を掴んでボフボフと腹の方に空気を送る。
始業式の日だというのに校庭からはサッカーに励む声や、自己タイムに一喜一憂する陸上部の声が聞こえてくる。元気な事だと揶揄るように思った俺は、余程自分の方が揶揄される立場だと気づいて改めて落ち込んだ。
やがて誰かがゴールを決めた歓声を聞きながら、籠から二つの鞄を取り出し片方を小町に渡しす。
「もういいの?」
「時間がない。そういえばプリントに30分前までに職員室に来いと書かれていたのを思い出した」
「えぇ……しっかりしてよねー。まだ学校生活始まってすらないんだからね」
「まあ、なんとかなるだろ」
編入予定のクラスの担任、前の数学担当教師だったし。授業を受けた感じ優しそうな人だったからな。とはいえ、あまりにも遅れすぎても向こうの予定があるので、少し急ぎ足で歩く。
「小町の歩幅に合わないなら無理しなくていいからな」
「お兄ちゃんとせっかく来たのにここで別れるのもなんかもったいないじゃん。というか、周りに隠してる初々しいカップルみたいで気持ち悪いし」
「そんなもんなのか」
「そんなもんなの」
急ぎ足のおかげで、一分とかからないうちに昇降口に着いた俺は一旦小町と別れ、持って来た上履きに履き替え革靴を3533と書かれた下駄箱に放り投げた。
「それじゃ、2年D組25番、比企谷小町行ってまいります!」
「おう気張って楽しんで来い」
そうか、2年は逆方向だったな。小町がたたたっと駆けていくのを見送り、職員室に足を向けた。
職員室までの道中で、この校舎、全く変わってねえなと思う。長い間いなかったように思えても、実際はたった1年間と少しだからそう変わるものでもないのだが、雪ノ下雪乃がいなくても、由比ヶ浜結衣がいなくても、学校の本質は変わる事なく機能し続けていると思うと、不思議な気分だ。特別だと思っていた毎日は普遍的に続いているし、かつてクラスメイトが傷つけちまったと騒いでいた壁には、見知らぬ人がもたれかかっている。
余りにも変わらないので、ともすれば、確かに歴史を刻んだあいつらの足跡はまだ残っているんじゃないかと探してみるが、取って代わったように全く知らない人が居座っているばかりで、当然だが同学年の生徒は誰もいない。諸行無常を文学的に感じた俺は、所在なさげに伸びきった自身の髪のえりを人差し指と親指で擦り合わせるように捻った。
廊下を歩く事1分前後、職員室の前に立つ。俺からすれば職員室は、平塚先生にお仕置きされる場所としての印象が強いが、本来は職員が事務仕事や授業計画を立てるのに使う場所である。平塚先生も、もういなんだなぁ。
変わってないのに、変わっていることもある。
俺にとっては寧ろ、本質が変わっているのかもしれなかった。
鞄を扉脇におき、ノックして入る。数学科の区画は入室後直進して大股2、3歩の位置。国語科に続いて最も近い位置だ。扉を開けて直ぐ見えた見慣れた
「お久しぶりです。先生。比企谷です」
「……んぁ?おぉ、久し振りだな、比企谷、ってうぉおおお?」
「いきなり人の顔見て悲鳴あげるとかクラインかよ……」
小声でツッこむ。あいつもよく叫ぶ奴だった。
相変わらず調子の良い顔にハゲ頭がトレードマークの先生は目をまん丸にして挨拶もそこそこに、様々な角度からこちらを身始める。
「お前誰だ?」
観察の結果がそれかよ。捻りも何もない突っ込みを心の中で入れる。そういや親父も同じような反応だったな。
「比企谷八幡です。2-Dの小町の兄で今日から先生のクラスに編入する予定の八幡です」
「おいおい、比企谷といえば、俺の授業中毎回寝てる目の腐った、『俺、世界嫌いっす』みたいなやつだろ?間違ってもお前みたいな甘いマスクの好青年じゃねえよ」
どんな印象持たれてたんだよ俺……。今まで捻くれてるだとか、斜に構えているとか言われても特に気にした事なかったけど、これはストレートすぎて逆に普通に心にくる。
「……ほら」
先生に生徒手帳を渡す。
生徒手帳を受け取った先生は証明写真を見た途端に大声で笑い出す。
「あははははは!!これもういっそ別の撮り直したほうがいいだろ!全然ちげえじゃん!目と髪の毛でこんなに変わるのかよ!」
「おいこら教師。失礼なのは貴様もか」
第二の平塚先生か。いや、どっちかっていうと陽乃さんだな。遠慮ないけど、憎めない感じ。
「ちょっと、佐久間先生に渡辺先生。これ見てくださいよ!」
あ、ちょっと!
抗議する間も無く先生の笑い声につられた先生がぞろぞろと群がってくる。見世物じゃねえんだぞ。先生相手に一喝する勇気もなく俺は、職員室は笑いの渦に巻き込まれていくのを呆然と見守るしかなかった。
笑顔の溢れるいい職場だな。爆発しろ。
「いやぁ、悪い悪い。ほら、チョコやるから許せ」
英語科の先生がそう言ってザクザクとした食感が特徴のチョコを一つくれる。すると、俺も私もと先生たちが俺にお菓子を渡し出す。右手のひらから両手のひら、両手のひらから腕の中。アレヨアレヨと増えていくお菓子は結局ポケットパンパンになるまでに膨れ上がった。
「……先生」
「ごめんごめん。煎餅いるか?」
いるか。
煎餅の代わりに生徒手帳を取り上げ胸ポケットに……入らない!飴がすでに我が物顔で居座ってやがるだと!おい、というか、
「いやぁ、随分と変わるもんだなぁ。事情は聞いたが色々あったんだろ?」
「いや、まぁ……はい」
「俺は元気そうな顔が見れて嬉しいぞ。お前の授業態度は最悪だったが、なんだかんだ言って平塚先生とのやりとりは職員室の名物だったからな。あ、もう平塚先生はいないのか」
「アハハハ」
ギリギリのジョークを飛ばしてくる数学教師は笑いながらそうだそうだと一枚のプリントを渡してくる。何かと思って見れば、どうやら俺の境遇の設定集らしい。どういう事だ?
「いや、流石に比企谷があのゲームに囚われていたってことが大っぴらに知られるわけにはいかないからな。色々と大人の事情も絡み合って、比企谷は今日までの1年間と少しフランスのとある田舎の老夫婦の元にホームステイしていた事になった」
なんだその設定。プリントに目を通すとフランス留学を目指す経緯から、フランスまでに使った航空機の名前までしっかりと記述されている。
休日の過ごし方まで書かれているというガチ加減に少しばかりの恐怖を覚えつつも、せめての抵抗として先生に抗議することにした。
「……もう少し前に伝えておいて欲しかったです」
「詳しいことは学校組織の末端にいる俺には伝わってきてないが、噂だと手続きに手間取ってたらしいぞ。悪いが諦めてくれ」
組織、末端。おおよそ学校では聞かなそうなスケールの大きい話だ。しかし俺は大きいものには巻かれる事なかれな日和見主義。ここは大人しく引き下がっておくことが吉だと判断して抵抗を取り消した。
「しょうがないですね。……あ、もうそろそろ始業式が始まる時間ですけど、行かなくていいのですか?」
「比企谷の紹介が始業式後のホームルームだからそれまでは俺と職員室で待機だな。ほら、佐久間先生も行っちゃったからこの椅子使っていいぞ」
「すみません、お借りします」
それからは、当たり障りない程度にSAOのことを聞かれたり、労われたりして過ごした。あと、何故か会話のつまみとして、俺のもらった菓子が使われた。別に良いんだけど、なんだろうか、この釈然としない感じ。
ー・ー・ー
始業式が終わりホームルームが始まる。廊下に待機していろと言われたのでドアにもたれかかっていると、先生が俺の紹介にする声が聞こえた。
『今日はみんなにサプライズがある。このクラスに転入生が来る事になった』
『えー!!!』
おきまりの会話だ。しかし、その会話は徐々にあらぬ方へと飛んでいく。
『せんせー!その子女の子っすか?』
『残念だが、男だ。しかも高身長のイケメンだ』
『『『キャーーーーー!!!』』』
ハードルを上げるな。……大丈夫だよな?期待外れとか言われて虐められるとかないよな?もしそうなったら取り敢えず先生は密告する。絶対する。どこにすれば良いかわからないがとりあえずしよう。そうしよう。
『その転入生は、去年まで1年間留学生としてフランスに行っていたから、分からないことを聞いてきたら教えてあげるんだぞ』
『はーい、先生!!ていうことはその子って、フランス語バリバリ喋られるんですか?』
は?余計な質問するんじゃねえ。
ボンジュール以外分かんねえぞ?
『……あー、フランス語……。……ちょっとその辺先生分かんないや。けど、ホームステイだからそこそこ話せるんじゃないかな?それは直接聞いて見て下さい!じゃ、じゃあ入ってきてもらおうかな!ほら、もういいよー」
信じられねぇ、丸投げしやがった!つーか、ボロが出ないようにしすぎて展開を早めすぎだ。どんな顔して入って言ったら良いんだよ……。
……くそっ、ここで待ち続けてもハードルは高くなる一方だ。……い、行くしかないな?ないよな。
なるようになれっ!
ガラガラ
否が応でも集まる視線の数は左右両目合わせて60あまり。
緊張のあまり無言で教卓まで歩く。い、いや、喋りながら歩いてたらそいつは変な奴か。いかんな、緊張で思考が麻痺してる。
大丈夫。SAOで幾度となく繰り返したミーティングを思い出せば大丈……ばない!無理だ、種類が違い過ぎる。
ゲーム内では注目は注目でも、殺気立った注目だったから逆にやりやすかった。主役はあくまで俺の持っている情報であり、俺自身じゃなかったから。しかし、今は違って、かつてない程興味の視線が俺自身に降り注いでいる。
その注目はぼっちには猛毒で、既に脳は重度の感染状態。
戸惑って、焦って慌てて。何か言おう何か言おうとパニックになった頭が弾き出した答えは───、
「ぼ、ぼんじゅぅる」
見たこともないフランスに住む見たこともない老夫婦の下で培った、聞いたこともないフランス語だった。
「「ブホォ!」」
おいこら、クソ教師。誰のせいだと思ってやがる。俺の言葉に吹いた2人のうちの1人をで毒づく。くそぉ、どうすればいいんだよ。いっそ全員笑ってくれよ。何か期待してんのかよ……。
……ん?
ちょっとまて、吹いたのが2人だって?
恐る恐る、記憶をたどってもう一つの音源に視線を這わす。プルプルと震えるその身体は自分の予想よりも近く、教卓から二列目、窓から一つ離れた場所。
……な、なんでいるんだよ、一色。