「いやだ」
藍と灰色のツートンカラーをした少女が言った。名をウィースルイン。
「でもね、ウィーちゃん」
「いやだ」
「困りましたわね」
「困るのも困る」
ウィースルィンというのは元々鬼の名前。しかもこの島に暮らすものなら知っていてもおかしくはないほどの知名度のだ。今でこそ人の姿をしている藍と灰色の髪をしたこの少女は構成する概念にその鬼が混じっている。だから、彼女がウィースルインだとばれると少々厄介なことになる。具体的には討伐隊を組まれる可能性もある。いつまでもウィーちゃんで押し通すのは無理がある。
「でも、ウィースルインという名前はあの人がくれたもの。変えたくない」
思案する学士然とした女性、イェアはしばらく考えたのち
「ではウィースルインの後に、ファミリーネームのように何かを加えて名乗る時はそっちを使う……というのはどうでしょう?」
「それなら……いい、のかな?」
「よかったですわ……」
イェアはあからさまに安堵した表情をする。それを見て複雑な気持ちになりながらもウィースルインは言う。
「……じゃあ、ラシャ・ブラームスで。ウィースルイン・ラシャ・ブラームス」
「ラシャ・ブラームス?」
「そう」
聞いているイェアはもちろん自分で名付けたウィースルインですら理由もなく名付けたつもりだった。
しかし実のところ、これには理由がある。記憶に新しい四大遺跡事件の実質の幕引きとなったある人物とイルギジド・マイゼルとの戦いの際、四界の杖が使われたのだが、戦いとなった場所がゴディバ遺跡だった。ゴディバ遺跡というのが元々鬼だったころのウィースルインが封じられていた場所で、そこで四界の杖が使われたことによりウィースルインと四界の杖に縁が出来てしまったのだ。その時の四界の杖の所持者であったイルギジドの本当の名前ギムナム・ラシャ・オルシスからラシャ、四界の杖の前の所持者であった灰色の賢者ニビト・ブラームスからブラームスが思い浮かんだのだ。
「でもできるならウィースルインって呼んでほしい」
「はい。じゃあ、二人の時はウィーちゃんって呼びますね」
「うん」
その日からウィースルインはラシャ・ブラームスと呼ばれるようになった。
でもウィースルインは時々大声で主張したくなる。
私はラシャ・ブラームスじゃない! ウィースルインだ!
でもそれをすると私の大切な人たちが困るから。
そう考えられる分別が今のウィースルインにはあった。
だから、自分をウィースルインと呼んでくれる人、オリオール、リゼラ、ノエル、ノクトワイ、イェア、そしてあの人は特別になった。
だから気が付いた。その人は慌ただしく何かをしようとしていた。
ウィースルインは何か取り返しのつかないことになる気がして急いでその人のところへ行った。
夜だった。
「ノクトワイ様? 何をしているんです?」
「えっ、ウィーちゃん? ウィーちゃんこそこんな時間になんのようなのん?」
いけないわよ、こんな時間にウィーちゃんみたいなかわいい子がなどと続けるノクトワイ様をさえぎり再度問う。
「何をしているんです?」
ノクトワイはちょっときまり悪げな表情をして、
「ちょっと旅の準備をねん」
ノクトワイはこの地を去るつもりだった。諜報員としての任務も終わり、もういる理由がない。でもなぜこんなに急いでいるのか、自分でもわからなかった。
「行かないで」
ウィースルインは反射的に答えた。
「でもね、仕事だから」
仕事だから。確かにそうだ。でもそれだけだろうか。
「……また会えるよね?」
ウィースルインは何かにすがり付くように言う。
諜報員としての仕事が終わった以上、この島にいる理由はない。もう会うことはないだろう。
「うん。また会えるわよん」
「よかった」
そう言って、ウィースルインはノクトワイにすがり付く。
その瞬間ノクトワイに強烈な記憶がねじ込まれる。慈愛の満ちた大地の底の記憶、幸せに満ちる宝石の庭の記憶、逃げ回る者たちを千切り喰う記憶、誰かが死にゆく記憶。あまりの突然の記憶の奔流にノクトワイは知らずに膝をついていた。
その頭を藍と灰色の少女が優しく包む。
「そっか。そうだったんだ。……さようなら。でもあなたが任務を超えて私たちを仲間だと思っていてくれたことは忘れません。イェアに料理を教えてくれていたこともわたしは知っていました。私だけはいつまでも覚えています。……今までありがとう」
そう言うと、こらえきれなくなったようにポツリとウィースルインの瞳から涙かこぼれた。
このノクトワイにイェアに料理を教えた記憶はない。だが、彼女が言うなら、そんな過去もあったのだろう。
ポロリポロリと涙が続く。それを止めたくてノクトワイはあやすようにウィースルインを抱き寄せた。
その時わかった。自分はこの子たちと別れるのがつらくなるのが怖くて、これ以上情が移るのが怖くて急いで出ていこうとしているのだと。
頭をなでてやるとウィースルインは泣き止んだ。それを確認するとノクトワイは立ち上がり腰に差していた愛刀を抜いてウィースルインに渡す。幼子の姿の彼女の背ほどもある長刀を渡されてウィースルインはよろめく。
「それ、環の国の名刀、夜の刀カツマキルマって言うの。私の愛刀なんだけど、うっかり忘れて行っちゃうみたい。じゃあね」
「あの、」
「うん?」
「これからもノクトワイ様の視界を見てもいいですか?」
「ダメ」
「……わかりました」
諜報員の仕事は清いものばかりではない。それをウィースルインには見せたくなかった。
でもこんなふうに他人を心配しているようでは
(諜報員失格ねん。私もやきが回ったかしらん)
「じゃあね」
今度のサヨナラは止められなかった。
(いつかあのメンバーで幸せに暮らせたら)
そんな想像がわいてきて、急いで頭を振り夜陰へと消えたノクトワイだった。
ノクトワイが見えなくなってもウィースルインはじっとその方角を見つめていた。胸のあたりが痛い。彼女が初めて自分で感じる失う悲しみだった。
彼女はこれから人より長い長い時間を生きていく。
人であり、鬼であり、地母であり、翠霊である彼女。
でも人であり続ける限りこれから何度も味わうことになる痛みだった。
でもこの時彼女は、この痛みを大切にしようと心に決めた。