八幡がトマト嫌いなの完璧に忘れてました。
「せんぱ~い!」
背後からそんな声が聞こえた。
俺は特に気にすることなく階段を降りる。と、背後から襟首を引っ張られた。
「ぐぇっ」
「なんで無視するんですか~!」
「いや、俺のことじゃないのかと思って。つうか階段でやるなよ危ねえな」
崩れたバランスを手すりで支えながら振り返る。
俺を呼び止めたのは最近なにかと接点の多い後輩、一色いろはだった。彼女は二段ほど上で腰に手をあて、ぷんぷんと擬音が付きそうな顔で頬を膨らませている。平仮名なのがポイントだ。あざとい。
「んで、なんか用?」
「いえ、見かけたから声かけただけなんですけど……あ、もしかして今期待しましたか最近ちょっぴり良いかなと思ってますけどやっぱり無理ですごめんなさい」
「違うでしょ?なんで用聞いただけでフラれなきゃなんないの俺?」
「あ、先輩良いもの持ってるじゃないですか喉渇いてるんで一口貰いますね」
「あ、こら」
一色は俺の反応を丸っと無視し、俺の手からペットボトルを奪い取る。それに躊躇い無く口をつけ
「んぶっ!?」
「うわ汚ね!?」
むせて盛大に中身を吹き出した。
「けほっ、けほっ……。な、なんですかこれ~?ていうか先輩、女の子に向かって汚ないとかポイント低いですよ……」
「いや普通に汚ねえし。つうか吹くほど不味かったかこれ?」
なんでこいつまでポイント制導入してるのん?それはともかく人のもん勝手に取り上げといてこのガキ。
「いえ、普通の水だと思ってたから驚いただけなんですけど」
「そうか……新発売だったから買ってみたんだけどな、いろはすトマト。どうだった?」
「ん-、トマトは悪くないですけど、薬くさいのはどうにかなんないですかね?……はっ!いろはすってこれもしかして私のこと口説いてましたかごめんなさい今度は普通に気持ち悪くて無理です」
「普通に気持ち悪いとかいうな。今までで一番傷付いたぞ」
いや本当何回こいつにフラれりゃいいんだ俺は。
若干ふてくされながら一色に奪われたペットボトルに手を伸ばしーーまた引っ込める。
一色はそんな俺を見て、頭上に疑問符を浮かべた。
「どうしました、先輩?」
「いや……やるわそれ」
「へ?いいですよ。っていうかいらなくなったからって押し付けないでくださいよ」
「そういうわけじゃないんだが……」
「じゃあなんなんですかぁ~」
むうぅ~!と口を尖らせる一色。
あざとい、さすがいろはすあざとい。このフレーズがピクシブ百科辞典に登録されるのも遠くない気がする。ほら、某麻婆神父にも似たようなのがあるし。
くいくいと袖を引っ張る一色に、辟易しながら仕方なく答える。こういうの口に出したくねえんだけどな……
「いやだから、口付けただろ、それ……」
「ほへ……?」
俺の言葉に一色は口を開けてポカンとする。なんか想像以上に幼いな、こいつのこういう顔。
一色は少しだけ考えてから、不思議なモノを見るような目で答えた。
「え、なんですか。もしかして間接キスとかそういうの気にしてるんですか?」
「うっせえな、悪いかよ……」
「いや、悪いっていうか、この歳になってそんなこと気にするなんて想像しないじゃないですか。普通でしょうこんなの」
「お前は今全国の彼女いない歴=年齢の男全員を敵に回したぞ」
「でも、そうですか……。ふーん……」
一色は顎に指を当てて何事かを考える。やがて視線を持ち上げると、その瞳をキランと輝かせた。あ、これヤバい。
「せーんぱい♡これ飲んでください!」
「要らん」
一色はこれ以上はないというほどにあざとく輝く笑顔でペットボトルを押し付けてきた。俺はすげなく断るものの、その勢いは全く衰えない。
「ホラホラ!遠慮しなくていいですから!」
「遠慮じゃねえし。つうか元々俺のだろそれ」
「あ、認めましたね?じゃあ飲んでくださ~い。ホラ、男なら責任とって!」
「責任とか言うな!つうか階段で暴れんなよ、危ねえな」
「やだなぁ、平気ですよこのくらい。なんなら先輩が支えてくれ、て、きゃ……!?」
「バッ……!?」
不安定な足場で跳ね回っていた一色は、案の定足を踏み外してバランスを崩した。
俺は慌ててその身体に手を伸ばしたが、支え切れずに二人して転げ落ちる。
ってぇ……
身体のあちこちを打ち付けたが、とりあえず怪我は無さそうだ。痛みに顔をしかめながら目を開くと、そこには一色の顔のどアップがあり、バッチリと目が合う。
「????」
状況が理解できない。
改めて自分の状態を確認する。
俺は階段でバランスを崩した一色を受け止めて、一緒くたに転げ落ちた。幸い低いところだったので大したダメージにはならなかった。
俺は一色を庇うため、思い切り彼女の身体を抱き締めていて、俺より大分身長が低いはずの一色の顔が段差のためか丁度目の前に……
「「!!」」
互いの状態を同時に把握した俺たちは、二人して弾けるように身を離した。
一色は口元を手で押さえ、顔を真っ赤に染めて目尻に涙を溜めている。俺は俺でどうすればいいか分からず、ただ廊下の隅に視線をさ迷わせるのみ。
ごめんなさい。こういう時、どんな顔をすればいいか分からないの。などという定番ボケも思い着かない。思い着いてるじゃん。
とにかくなにか言おうと無理やりに口を開いたものの、
「その……済まん……」
そんな意味の無い謝罪しか出てこない。一色はそんな俺をキッと鋭く睨み着けて、ボソリと漏らす。
「責任……」
「ハイ?」
「責任とってください」
「……いや待て、責任って何しろってんだ。つうか問題があったとすれば不安定な足場ではしゃいでいたお前の方であって」
「初めてだったのに……」
「ぬぐ……!」
俺に落ち度は無かった。そのはずだ。
しかし男は初めてという言葉に弱いらしい。その、本来ならば何の拘束力も持たないはずの一言に、俺は抵抗する気力を根こそぎ刈り取られていた。
俺は諦めの境地でため息を吐き出し、一色に尋ねる。
「……分かったよ。何すりゃ良いんだ?」
「とりあえず、もう一度キスしてください。先輩から」
「What?」
「ファーストキスだったのに味も何も分かりませんでした。これってあんまりだと思います」
……いやまあ、言いたいことは分からんでもないが、良いのかそれは?なんか色々と。いや、確かにいきなりすぎて俺も味も感触も覚えてないけど。
役得、とは正直思えなかった。
一色が嫌とかではなく、なんつうか普通に怖い。言葉にするとビックリするほどヘタレだな、我ながら。
とはいえ俺にはそもそも逃げ道が無いわけで、結局承諾する以外になく……
「……分かったよ。目ェ閉じろ」
「ん……」
ファーストキスはレモンの味。
そんな言葉が流れ始めたのはいつからなのだろうか。
それが真実であるか否かを確かめる機会は永遠に失われてしまった。
ただ少なくとも、人生で二度目のキスは、ほんのりとトマトの味がした。