肝心な部分をどうするかは結局何も思い着かなかったため、描写無しで読者の想像に任せる方針。人それを逃げと言う。
「ですからね、私としてはいけないと思うんですよそういうのは」
そう言ったのは中年のおっさんだった。
中肉中背、黒髪黒目。別段特徴らしい特徴を持たない、どこにでもいそうなごくごく普通の男。1つだけ特筆すべき部分があるとすれば、愛想笑いでも隠せないほどに眼が腐っていることーーようするに俺の親父だ。
「申し訳ありません。おっしゃる意味がわかりかねますが?」
親父の言葉に表情を変えることなく、しかしわずかに雰囲気を硬くして答えたのは妙齢の女性。
紺色を基調にした着物姿。その上に乗った恐ろしく整った顔に柔和な微笑みを貼り付けてはいるが、醸し出す気配は氷雪のそれ。正面に置かれた手付かずの湯飲みに氷が張るんじゃないかと錯覚するほどだ。
俺がこの女性を見知ったのはごく最近。この人は雪ノ下のおふくろさんだった。
二人とも顔だけ見れば笑顔だった。しかしこの光景を談笑と呼ぶ人間は、おそらくこの世に存在しないだろう。この空気、スピードワゴンですらも恐怖するぞ。
当然ながら、いくらハイスペックを誇ったところで一介の高校生にすぎない俺、そして雪ノ下は、俯いて嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。
なんやかやがあった末、俺と雪ノ下は付き合うことになった。
由比ヶ浜を泣かせることにはなったが、最終的には祝福してもらえたし、今でも交流は続いている。きっと俺たちに与えられた可能性の中では最上に近い結果だったのではないだろうか。
そんなこんなで三学期の修了も近づいたある日の休日、家に前にいきなり黒塗りの高級車が現れた。降りてきたのは雪ノ下とその母親(あと運転手)だった。
それから数十分後。
我が家のリビングにはひたすら下を向いて様子を伺う二人の高校生と、笑顔という凶器で人外の戦いを繰り広げる俺たちの親。そしてガラス製の安っぽいテーブルに乗せられた5つの札束という光景が出来上がっていた。
既に予想はついているとは思うが一応説明しておこう。
ようするに、俺と雪ノ下の交際を知った雪ノ下のおふくろさんが、俺たちを別れさせにきたのだ。
俺も雪ノ下ももちろん抵抗したが、何やら色々言われて黙らざるを得なかった。
納得したわけではない。ないのだが、反論しようにもそのとっかかりすらも掴めない。何より俺自身がおふくろさんの言葉が正しいと思わせられてしまっている。
説得という形はとっていたものの、ほとんど洗脳に近いシロモノだった。レベルが違いすぎてよく分からんが、俺だけならまだしも雪ノ下までまったく反撃できないところを見ると、そもそも抵抗しようという発想自体が間違いなのかもしれない。
しかし、その雪ノ下母の言に異を唱える者がいた。俺の親父だ。
それまで黙って成り行きを見守っていて、札束が飛び出した時にも眉1つ動かさなかったというのに、どういうわけか突然口を挟んできた。
「親父……?」
「うん、ちょっと黙ってろ八幡」
意図が読めずに声をかけるがすげなく一蹴される。それで確信したが、これは別に俺たちに味方しての発言ではないらしい。どうも雪ノ下母のセリフの何かが気に入らなかったようだ。
親父は俺や雪ノ下のことなど忘れたように、ただ雪ノ下のおふくろさんを真っ直ぐに見て口を開いた。
「つまりですよ?ようするにあなたは、娘さんがウチの愚息と恋人関係にあるのが気に入らないと、そういうわけでしょう?」
「そうではありません。私はあくまでお互いの将来のために、今はまだ深く関わるべきではないとーー」
「それですよ。発端は自分にあるのにその原因を娘さんに押し付けてしまっている」
雪ノ下母が虚を突かれたように黙る。親父はさらに続けた。
「娘の彼氏が相応しくないと思ったんならそれは良いんですよ。私だって自分の娘がこんな目の腐った男を連れてきたらぶち殺してますよ、確実に」
おい待てこら。少なくとも目に関してはあんたにどうこう言われる筋合いは無いぞ。
「親だって人間です。間違えることもある。親子だって他人です。解り合えなくて当然です。親が子供に幸せになってほしいと願うのは当たり前のエゴなんです。遠慮せずに押し付ければいい」
親父はそこで言葉を切り、
「……だけどあなたは、それを娘さんのせいにした。本当はただ、物事を自分の思い通りに動かしたいだけなのに、その責任を自分の子供に押し付けた。それはいかんでしょう。親として、大人として」
俺たちの前では一度も見せたことのない顔で、そう言い放った。
「……なるほど。随分と勝手で一方的な言い草ではありますが、そちらの言い分は理解しました。こちらになんの非も無いとはいえ、誤解させてしまったのは私の落ち度でしょう」
雪ノ下母は親父の無礼な言葉にもにこやかに返す。が、目が明らかに笑ってない。雪ノ下もギョッとした顔で怯えていた。
「それについては謝罪いたします。ですが、それは今回のお話しとは関わりの無いことと存じ上げます。まずは返事をいただきたいのですが?」
「そうですねぇ……」
親父は腕組みし、もったいつけるようにソファーに背を預けて続けた。
「そちらの主張はもっともです。このバカとそちらの娘さんとでは、あらゆる意味で釣り合いが取れないでしょう。何よりこいつがこんな美人を恋人にするとか俺が許せません」
常日頃から思うんだが、俺のおふくろはこのクズの一体どこに惚れたのだろうか。
「だからまあ、別れさせるのに反対する理由は無いというか、むしろ積極的に別れさせたいところなんですがーー」
親父はクズなセリフを一旦切ると、今度は前のめりの姿勢で組んだ手に顎を乗せたーーようはゲンドウポーズでニヤリと笑って言った。
「ぶっちゃけ私は貴女のような方が嫌いです。なんで、嫌がらせのためだけに息子を応援してみようかと思ってみたり?」
雪ノ下母は、親父の言葉にしばし沈黙した。そして、少なくとも表面的には一切の変化を見せずに再起動すると、ゆっくりと口を開く。
「…………気が合いますね、私も貴方のような男性が嫌いです。念のために聞きますが、私が『雪ノ下』であることは理解されてますよね?」
「ええ、もちろん」
「ならば、これからあなた方がどうなるかもご想像できているのですよね?」
「さて、どうなりますかね?」
「……脅しではありませんよ。今なら慈悲もありますが」
「ご安心を。こちらも脅しではありませんから」
「左様ですか。では私どもはこれで失礼させていただきます。ーー帰りますよ、雪乃」
雪ノ下母は立ち上がり、軽く頭を下げると玄関へ向かった。運転手も頭を下げていたが、それはあくまでも雪ノ下母娘に対してであるのがありありと判る態度だった。……千葉村からの帰りでもこんなだったな、そういや。
雪ノ下だけは何か言いたげに俺に視線を投げていたが、母親の「雪乃」という声に、結局何も言えずに帰っていった。
「親父、大丈夫なのか……?」
無力感に打ちのめされたまま、親父に問いかける。
「ん-……まあ、なんとかなんじゃね?」
親父は能天気にそう答えるだけだった。
翌日の夕方。
「会社クビになっちった☆」
「なっちったじゃねえだろぉぉぉぉぉぉっ!?」
「どうすんだよ親父!?」
「どうするっつってもなあ」
親父はビールをすすりながら呑気に答える。その親父につまみを出しながらおふくろが問いかけた。
「ハローワークは行ってきたの?」
「あー、ダメダメ。やっぱ雪ノ下の手が回ってて、どこもかしこも俺の名前聞いただけで不採用だったわ」
「あらそうなの。じゃあ仕方ないわね」
「いやだから仕方ないじゃねえだろ!?もっと危機感持てよ!?」
思わず声を荒げるものの中年二人はどこ吹く風。暖簾や糠のことわざが脳裏に浮かぶ。
「おい親父、マジでどうするつもりだ?割とシャレんなってねえだろこれ」
「大丈夫大丈夫。貯金ならあるしお前はメシの心配するなんか必要ねーよ」
「この際俺のことはどうでも良いんだよ!小町はどうすんだ小町は!せっかく受験に合格してこれからなんだぞ!?」
「バカヤロウ、小町だけは命かけてでも守るに決まってんだろ。万一の時はお前の受験費用を切り崩して小町に宛てるから心配すんな」
「そうか。ならひとまずは安心だな」
「相変わらず自分より小町が大事なのね、あんたは……」
おふくろは何故かため息を吐くと、空いた皿を持ってキッチンへ。俺は特に気にせず親父と話を続ける。
「んでホントどうすんだよ親父。なんか当てとかあんの?」
「当てってわけでもねえんだけど、そうだな……八幡、返し切れないほど莫大な借金抱えたら、お前ならどうする?」
「何そのイヤすぎるアンケート。マジで大丈夫なのかオイ」
「いいから答えろ。どうすんだ?」
どうするって言われても、んなもん答えは1つだろう。
「逃げる」
「だよな!死んで詫びるとか意味わかんね-よな!さすが俺の息子、よく分かってる!」
親父は上機嫌で俺の肩をバンバン叩く。どうやら正解らしい。つーか痛えよ。
「んじゃついでにもう1つ、家族を守るために他人を不幸にするしかない場合ならどうする?」
「……聖杯戦争に参加する予定でもあんのか?わかんねえよ、そんなの」
「あー、そういやあれもそんな感じだったな、四次は。んじゃ切嗣になった気分で考えてみろ、ほれ」
切嗣でって言われてもな。
あれは世界を守るために家族を犠牲にしたんだよな。結局偽者だったし、判断自体は正しいんだろうけど……
「……わかんねえけど、多分、家族を優先するんじゃねえの?他人が何人どうなったって、結局は対岸の火事だろうし」
「だよなー。災害ニュースとかで何千人死にましたとか聞いても、可哀想とは思ってもそれだけだもんなー」
「確かにその通りだけどよ、それがどうしたってんだよ?」
「ん-、ま、気にすんな。お前は今まで通り生活してろ」
親父はそれだけ言うとまたビールを飲み始めた。それ以降はろくに相手をしてもらえず、俺は仕方なく眠りにつくことになった。
それからしばらくは以前のような生活が続いた。
親父は「極楽だぁ~!」とか抜かしながらニート生活を満喫し、おふくろも仕方ないからとそれを放置している。
二人とも先の一件についてははぐらかすだけでまともに答えようとしない。心配ないとか言われても余計不安になるんですけど。
学校でも俺の生活はあまり変わらなかった。
俺は相変わらず1人を好み、時々戸塚や一色や材木座が声をかけてくる程度。葉山が寄ってきた時のパターンは脳から削除。赤い噴水なんて知らない。
そんな中で、雪ノ下だけは学校に姿を見せることはなくなっていた。
由比ヶ浜もいつも通りに振る舞っていた。ただし無理をしてるのは見え見えだったが。
由比ヶ浜は気丈に明るい態度を取り続けていたが、やはり部活の時間になるとそれにも陰が差すようだ。
しかし由比ヶ浜は、それでも尚平穏を支え続けている。彼女のその強さと優しさに、俺たちがこれまでどれほど助けられたか分からない。
「ゆきのん、どうしてるかなぁ……」
そんな彼女がふと漏らした呟きには、きっと言葉以上の意味など無かったのだろう。だが俺は自分の中の何かが強張るのを隠し切れなかった。
「大変じゃないと良いけど……」
「……すまん」
「え?なんでヒッキーが謝るの?」
「なんでって、俺のせいだろ。雪ノ下が来れないのは」
「いやだからなんでヒッキーのせいなの?ゆきのんの家が大変なのってヒッキーと関係あるの?」
「は?」
雪ノ下の家が大変?どういう意味だ?
そりゃ雪ノ下が俺みたいなのと付き合ってたのはそれなりに大事なのかもしれないが、雪ノ下はあくまでも次女にすぎない。家が大変って言葉に結び付かないんだが……
俺が疑問符を浮かべていると、由比ヶ浜は怪訝そうな顔で聞いてきた。
「ヒッキー、もしかしてニュース見てないの?」
「は?」
「親父ぃぃぃぃっ!」
「帰ってきたならただいまくらい言え、八幡」
「言ってる場合かボケェ!?」
慌てて駆け込んできた俺に、親父はビール片手に呑気に答えた。
正面のTVは夕方のニュース番組を映している。俺はそのTVを指差し思い切り叫んだ。
「どういうことだ親父!?」
「何の話だよ?」
「とぼけんな!」
TVの中ではニュースキャスターが、先ほどスマホで見た情報を繰り返していた。
『ーー○○は△△の株の60%を買い占めることに成功しました。買収や倒産によって機能しなくなった雪ノ下関連の企業はこれで五件目となります。今回のことで、千葉を本拠とする雪ノ下グループは事実上崩壊したこととなり、このことが政財界に与える影響について、専門家のーー』
ニュースの内容は大まかにこうだった。
由比ヶ浜の話では、ここ数日は雪ノ下家に関係するニュースが流れ続けていたらしい。俺は元々ニュースなどほとんど見ない上に、雪ノ下のことで頭がいっぱいだったためにまったく気付かなかった。
「しかし雪ノ下さんも大変だなぁ。これからどうすんだか」
「……おい、まさかと思うがこれ親父の仕業なのか?」
「何言ってんだお前は。ただのオッサンにこんな真似出来るわけないだろうが」
親父はそう言って否定した。が、その顔に張り付いていたのは、どう見ても『なにもかも知っててとぼけている』奴の笑いだった。
「……おいオッサン。これ、一体何人が不幸になったと思ってんだ」
「だから俺に言っても仕方ねえだろ。まあ、仮に俺の責任だったとしても気にすることねえだろ。先に仕掛けてきたのは雪ノ下の方だし、家族を守るためには必要な犠牲だ」
こ、このオヤジ……こないだのアンケートはそういう意味か……!
俺が戦慄していると不意にチャイムが鳴り響いた。
「お、来たか?」
親父は立ち上がり玄関へ向かう。不審に思って着いていくと、そこにいたのは雪ノ下だった。
「やぁいらっしゃい雪乃ちゃん」
「その、本日からよろしくお願いします。あの……本当によろしかったんでしょうか?」
「そんな固くならなくていいよ。狭いようなら八幡を追い出せば良い話だし」
「待たんかコラ」
説明無しで勝手に話を進める親父にたまらず突っ込む。
「なんだ、居たのか八幡」
「居たよ居るよ出てかねえよ。何がどうなってんだよいい加減説明しろやコラ」
「比企谷くん、聞いてないの?」
雪ノ下の話では、まともな経済力を失った雪ノ下家に代わって、高校卒業まで家で雪ノ下の面倒を見ることになったらしい。どこからどういう手順を踏んだのかは不明だが、とにかくそうなっていたのだそうだ。
「その、お前の家族はどう言ってるんだ?」
「……母は何も言ってなかったわ。脱け殻みたいになってしまってそんな気力も残ってないみたい。父は『母さんには私が着いているからお前は好きに生きなさい』と言ってくれたわ」
雪ノ下は最後に、いざという時にはやはり男の人の方が強いものね、と付け加えた。
「陽乃さんは?」
「爆笑していたわ。しばらく身を隠すと言っていたから捜し出すのは難しいでしょうね」
まあ、あの人なら心配は要らないだろうけど。
雪ノ下を連れてリビングに戻ると、親父は鼻歌混じりでビールを飲んでいた。おふくろがその親父につまみを出しながら一言告げる。
「明日から仕事探してくださいね」
「え」
固まる親父に、おふくろは容赦なく続ける。
「雪ノ下の圧力がなくなったんだから、もう働けるでしょう」
「い、いや、もうちょっと休んでも……せめて来週から」
「働け」
「……はい」
「……なあ、親父って何者なんだ?」
夕食後、洗い物をしているおふくろに問いかける。
雪ノ下は小町と入浴中。親父は晩酌しつつものっそイヤそうな顔でスマホを睨んでいる。求職情報を調べているらしい。
おふくろは俺の問いに、いたって平淡な口調で答えた。
「何って、お父さんでしょ」
「いやそうじゃなくて、なんであんな真似が出来んだよ?あり得ねえだろあんなの」
「だから」
おふくろは小さくため息を吐いて俺の言葉を遮る。そして、
「あんたの父親なんだから、クズではあっても無能なわけがないでしょうが」
振り返りもせず、ごく当たり前のことのようにそう言った。