絶対零度の空 作:鋼鉄の咆哮
燕
高度を上げれば上げるほど空は美しく見えると思う。
少しずつ、空の青が宇宙に近づいた蒼色に変わって。
この高度になると、鳥も滅多に上がってこない。邪魔者なしで、蒼色の絶景を本当に独り占めする。
その中で、今日何度目かの操作ミスで大きく左に振れてしまった高度計を見ながら、一人ため息をついた。
燕
事の発端は先々週だった。
日曜日は、いかな軍隊と言えども一応は半舷上陸やらなんやらで、一応の休息を得ることが出来る貴重な日…のはずだった。
しかし勤労意欲旺盛な敵は、なんと日曜日の白昼堂々低空で空襲をかけてきたのだ。
休息の日などとほざいてももう遅い。来てしまったものは迎え撃つ。
当然、自分だけが見逃されるわけもなく。
なんとも悲しいことに、月、火、木、金、土と出撃してふらふらになった俺にまで、出撃が回ってしまったのだった。
低空ですっ飛んできた敵を見つけるのは難しい。その結果、敵編隊を見張りが見つけた時には、既に基地の20km圏内にまで近づかれてしまっていた。
航空機がエンジンをかけ、飛んでいくまでにはそれなりの時間がかかる。つまり、自分の飛行機が離陸する時には敵は基地の真上にいる。そんな当然の事も忘れて、俺は自分の零戦に向かって駆け出していた。
────────榛名!
敵がすぐそこまで来てる事なんてわかっていた。自分の零戦も、格納庫に入っていて当然だった。
────なのに。
────滑走路には一機だけ、エンジンのかかった────
────自分の零戦が────
俺は零戦に呼ばれていた。今でもそうとしか思えない。
俺は零戦に呼ばれていた。戦の空に。
俺は導かれるようにキャノピーを閉めて、一気にエンジンを吹かす。誰かが呼んでいる声が聞こえた気がした。しかしもう振り返れない。
軽量化を徹底した零戦の機体は羽根のようで、五秒とせずトップスピード。
離陸と同時にさらに出力を上げる。一秒も早く。一刻も早く。
敵も、そんな俺の零戦を見逃してくれるほど優しくない。すぐに後ろを狙う。離陸のタイミングが丁度敵が滑走路の近くから離れた時だったからこそまだ生きている。そうでなければ、俺は零戦ごとミンチになっていたに違いない。
速度を上げて後ろの敵を振り切ろうとする。前にいる敵の爆撃機との距離が縮まる。
不意に凄まじい衝撃。左の主翼に描いてあったはずの日の丸が消えた。翼端をやられたと気づくその一瞬前に、爆撃機が照準器の中に入った。霞む視界の中で機関砲のレバーを引き続ける────
俺が覚えていたのはここまでだった。次に気がついたのはどこかのベッド。聞いたところでは、俺は軍港にいた戦艦────名前は分からない────に奇襲爆撃をしようとした敵を撃墜しながら自分も墜ちていったらしい。機体はそのまま着水し、俺は助かった。
が、本当の地獄はここからだった。
まず目が覚めると同時に榛名に泣きつかれ、その後赤松中尉にこっぴどく絞られた。中尉曰く、「敵が真上にいるのに勝手に飛んでいくとは何事か」と。余りにもその通りで返す言葉もなく、見事に顔面2発もらってしまった。その後「もう1人謝る奴がいるだろうが」とのありがたいお言葉により、無事俺は榛名に散々(具体的には二時間以上)連続でお説教を食らうことになったのである。途中で「二度と戦闘機なんかには乗せない、ずっと地上にいてもらいます」とまで言われた時にはさすがに背筋が凍ったが。
零戦自体は翼端をめちゃくちゃにされながらもトンボ釣りの駆逐艦に拾われたのだが、こちらも無事修理工場送りとなってしまった。その代わりの機体が無いということで、陸軍に頭を下げて戦闘機を借りざるを得なくなったのである。
そうして借りたのは、液冷の「飛燕」だった。ダイムラーベンツのエンジンを乗っけた戦闘機であり、性能は高い。機体自体に文句はなかった。機体自体には。
戦闘機の機種を変えるというのは、つまり戦闘機のコクピット内のレイアウトも全て変わるということである。戦闘機に限らず、どの航空機もどれ一つとして同じコクピット内の機器配置パターンが存在しないというのは、飛行機黎明期からの全パイロットに共通する不満だろう。しかも陸軍機と海軍機であれば、スロットルをどちらに動かせば出力が上がるのかという根本的な所から変わる。その結果、俺はこの飛燕に慣れるのに一週間以上かかるという、異様な事態になったのである。
いつまでも飛べないままだと禁断症状で死にそうだったので、何とか飛燕の扱いに慣れて三日目。
今日の任務は
朝焼けという程ではないにしろ、やや赤味を帯びた空を駆け抜ける。蒼色に赤味が混じる独特の色は、俺が最も好む色でもある。
こんなピーカンの天気で空戦したらさぞ楽しかろう、いややっぱり自分一機だけで戦うのは怖いな、せめて隣に赤松中尉の雷電でもいれば…と考えて目を上げた途端、俺は今日の偵察任務に当たったことを心の底から後悔した。
────戦闘機がいる。
俺は無線機をつかみあげた。
「ベディヴィエール・グラウンド、こちらガウェイン」
「こちらベディヴィエール・グラウンド。ガウェイン、里心でも────」
「ベディヴィエール・グラウンド、冗談の時間は終わりのようだ。敵機複数の編隊、南南東の針路、こちらの海岸線からはおおよそ120km」
「了解した、ガウェインは直ちに帰投せよ、無事を祈る」
「いや、ベディヴィエール・グラウンド、どうやら帰投できるか怪しい。…敵戦闘機3機接近中。確実に空戦になる」
「振り切れないか?」
「無理だ。こちらは反転したが距離を詰めてくる」
「分かった。すぐに増援を────」
「援護は不要。軍港の防空に専念してくれ」
「…今なんと?」
「繰り返す、援護不要。軍港防空に専念せよ」
「どうしてそんなことを」
「間に合わない。増援が来るまで生きていられればすぐに逃げている」
「…了解した。必ず帰ってこい、ガウェイン」
「了解。以上」
既に敵機は距離を1kmにまで縮めていた。あと500mも近づけば、機関銃は確実に当たる。
敵を侮ってはいけない。これは訓練生の時代から言われ続けてきた、対深海棲艦の教え。慢心は隙を生み、隙は死を生む。
油断すれば死ぬ、これがこの世界の残酷で、美しいルール。
俺は呟く。
「ガウェイン、エンゲージ」
「畜生この野郎!」
機関銃を当てても当てても、敵は墜ちない。1機の後ろを取れば別の2機に後ろを狙われる。そろそろ苛立ちが限界を迎えそうになる。「このクソ野郎!墜ちろ!墜ちろ!墜ちろ!」
20mmを短連射。どれほど硬い敵でも流石に20mmには勝てない。火を噴いて落ちていく。
しかし、1機の撃墜を優先した余り別の2機に後ろを取られた。ヒュン、ヒュンと風を切って機銃弾が横をすっ飛んでいく。その直後、2、3発翼にもらい、機体が微かに揺れる。
俺は飛燕を半ロールさせ、そのまま急降下。ほぼ垂直に機体が空を駆け下りる。銀色の地に青い塗装を施した飛燕が残像となって駆け抜ける。俺は機体を海面ギリギリにまで下げ、そのまま水平飛行。海面近い敵を上から狙うのは容易ではない。必然的に、真後ろについて撃つことになる。
海面から20m。敵の腕も相当なものだ。真後ろから機銃を的確に飛ばしてくる。
「やってみやがれ」
俺は叫びながら、機体をプロペラが海面を叩くほどに下げた。高度計は7mを指し、自らの視覚は警告をがなり立てている。
敵のうち、1機が盛大に海面に突っ込んだ。操作を誤り、僅かでも機首を下げたのだ。しかしもう1機は執拗に追ってくる。
これでようやく1対1。速度計は未だに迷いなく700km/h後半を指している。これなら────
昇降舵を微調整。相手が気づかないようにゆっくりと機首を上げていく。敵の機銃弾は変わらず自分の真横や上を通っていく。そして、速度計の針がゆっくり振れて、500km/hを指そうとする────
────その瞬間、昇降舵を一気に上げた。敵が泡を食ったように撃ってくるが、それを予測して機体を横にロール。機体の被弾面積が減ったその一瞬のうちに敵機の面前を駆け抜け、さらに深くロール。機体の表裏が逆になると同時に機首を下げ、先程とは逆方向への飛行を開始する。有名な空戦技術、「インメルマンターン」。速度は少々落ちるが高度を取りつつ方向転換が可能な技である。
突然の動きに慌てた敵機は今や、強引にこちらの動きに追従しようとしている。それを確認して、縦旋回戦へともつれ込む。宙返りを生かした、組んず解れつの格闘戦が始まる。
宙返りの頂点でも底でも体がシートに押し付けられる。脳から血が下がっていき、視界がモノトーンになるのを気合で押さえつけて、敵をはっきりと「視る」。今や俺は、その視界にはっきりと敵機を捉えていた。
────チェック・メイト!────
機首の12.7mm機銃2門、翼内の20mm機関砲2門が吼えたその時、俺は機銃弾が敵機に潜り込み爆発し、敵機の内部構造を引き裂いていくさまを幻視した。
奇怪な様相の深海棲艦機の左主翼、そこから紅蓮の炎が噴き出す。見る間に焼け焦げた敵の翼はポキリと折れて、青い、蒼い海面へと叩き込まれていった。
────勝った────
「ベディヴィエール・グラウンド、こちらガウェイン」
「こちらベディヴィエール・グラウンド、どうぞ」
「ガウェイン、敵3機を撃墜。これより…帰投する」最後の方で咳き込んだ。週6日の内5日戦った身にこの戦いは過酷すぎたと気づく。
「こちらベディヴィエール・グラウンド、了解した。さっさと帰ってきて熱い茶でも飲め、以上」
無線機を架台に戻して、狭いコクピットで伸びをして────
血がいくらか散ったはずの戦の空は、戦う前と同じくらい、高くて蒼かった。
第2話終わりです〜