あいはちょくちょく朔希の元に遊びに行くようになりました。
あいと朔希が、ココアを飲みながら、机を挟んで本を手に感想を言い合う。そんな温かい風景っていいなって思います。
晦朔希は、全神経を指先と目に注ぎ込んでいた。
目の前にあるテレビ画面は紫色で染まっていた。遠くから見るとただの紫色の画面にしか見えないが、近く――テレビ画面からきっちり一メートル離れた朔希の位置――から見ると、その紫色は規則的に動いている紫色の球形をしたものの集合体であることが分かる。
正座の姿勢を崩さない朔希の体は微動だにしない。いや、体の一箇所だけ、指先だけは小刻みに動いていた。
カカッ、カカッ、カチッ。部屋の中にはレバーの操作音と、朔希の浅い呼吸の音だけが響く。
紫色に染まっている画面の中を、緑色をした何かが動いている。その緑色はしばらく画面の中央部にとどまっていたものの、紫色に追いやられるように少しずつ下方へ下がっていく。画面の一番下まで下がりきったその瞬間――――
「――――あっ!」
ひゅぅぅん、とSEが鳴ったと思うと、画面が紫色からグレーへと色が変わる。
CONTINUE? 10
→YES NO
画面に白い文字で表示された数字は、秒を追うごとに数を減らしていく。カウントが0になった瞬間、重々しい効果音と共に画面が完全に黒く染まり、画面からは軽快な音楽が流れ始めた。
「あぁ――――もう、もう少しだと思ったのに……」
レバーから手を離し、机の上にある麦茶に口を付ける。プレイ中は気づかなかったが、頬を汗が伝っていた。思った以上に体からは水分が抜けていたようで、一口だけ飲もうと思っていたところを半分以上飲んでしまった。
心頭滅却すれば火もまた涼し、とはよく言ったもので。朔希が集中できる瞬間――本を読むか、このようにシューティングゲームをしている間だけは、夏の最中であったとしても、その暑さを感じずにいた。
「やっぱり、難しいわね」
正座の姿勢を崩して、床へと背中から倒れ込む。「難しいったらありゃしない」と呟いて大きく息を吐き出すその顔は、しかし満足げな笑みの形をしていた。
ちりりん。
ふと、扇風機の音に混じって鈴の音が部屋の入り口から聞こえてきた。
朔希が居るのは、自身が経営している『つごもり眼鏡店』の、従業員用の休憩スペース。従業員が一人しかいないこの店では、朔希の個室と言っても差し支えはない状態だった。
――おや、今日はもう開店休業かと思っていたのに。
「朔希さーん、いらっしゃいますかー? ……あれ、留守、かなぁ? でも、準備中の札は無かったし……。さきさーん?」
それから聞こえてくるは可愛らしい声。最初の呼びかける声は張っているものだったが、次第に迷い子のような、そんな声色へと変化していく。
この声は――。朔希は立ち上がりながらその声の主を頭に浮かべる。ふとしたきっかけで知り合い、このお店に通うようになってくれた、私の小さなともだちの姿。
――ともだちを待たせる訳にはいかないわね。
朔希は従業員用のエプロンを頭から被りながら、店の中へと戻っていった。
◇◇◇
胸の辺りを右手で押さえ、入り口できょろきょろと辺りを見回していた朔希のともだち――あいは、作業場兼受付の奥から人が出てきたのを見て、ほっと安堵した顔を浮かべた。
「もー、朔希さん、いないのかと思ったよ」
拗ねているのが5割、安堵したのが5割といった声色で話すその少女は、声は作れても表情までは隠すことができない。口元は尖らせていても、その顔はニコニコとしていて、口元にはえくぼが見える。
「ごめんね、ちょっと席を外してて」
「朔希さんが出てこなかったら、勝手に椅子に座って本を拝借してたのに。ざんねん」
それは普段やってることと変わらないのでは――と指摘しようとして喉元まで出かかった声を飲み込む。ゲームに夢中になっていたのは自分なのだし、客が来ないと思って休憩室に向かったのは自分なのだから。ここはちいさな友人の顔を立てることにする。
「待っててもらったお詫びにココア入れてあげるから。いつものところに座ってて」
「わぁい! 朔希さん大好き!」
朔希の作業場兼受付台に慣れた足取りで向かったあいは、丸椅子に飛び乗る。鞄から慣れた手付きで文庫本を取り出すと、台の上にそれを置いた。
「ねー早くー。借りた本の感想、いつまでも言えないじゃない」
「はいはい、急ぐわね」
あいは歓声を上げて、足をぷらぷらと動かす。
眼鏡店には、いつもの光景が広がっていた。
「……あれ、朔希さん、そんな眼鏡してたっけ?」
マシュマロが溶けたココアを手に話し込んで数十分、あいは朔希の顔に違和感を覚えた。
普段、朔希が掛けているのはアンダーリムのレンズが小さいもので、その優しそうな瞳がはっきりと見えるものだった。
しかし今日掛けているのは、もっと台形をしたもの。瞳の上部分がフレームと重なっていることに、今更になって気づいたのだった。
「熱心に私を見て話すものだから、もう気づいているものかと思ったけれど」
「昨日読んだ感想は今日の内に話しとかないと忘れちゃうもん。話すことに集中してたら目から入ってくるものなんて分かんないよ」
「それもそうね」
朔希もあいの言うことには思うところがあるのか、否定はしないで小さく頷くだけ。
「あと色も付いてる。サングラスー……じゃ、ないよね」
「うん、ブルーライトカットって言ってね。目が疲れにくくなるものなの。画面を見続ける人は楽よ」
「うん、知ってる知ってる私のもそうだし……え、朔希さんが、画面、を?」
うんうんと頷いていたかと思うと、その首の動きがぴたりと止まる。
ぎぎぎ、と壊れたブリキ人形のようなぎこちなさで朔希の方に顔を向けるあいの表情は、驚愕に満ちていた。
「私をなんだと思ってるのかしら」
「え、本ばかり読んでて、てっきり私とおんなじ紙の本至上主義かと思ってた……」
自分が持ってきた本を口元近くまで掲げ、朔希に見せつける。上目遣いな視線は、どこか困惑したような、そんなようにも見えた。
「違うわよ、私も本は紙派。そうじゃなきゃ店の中はこんな風にはなりません」
ふん、と鼻息一つ。それから店の中――壁一面が本棚と化している――を見回す。あいもその視線に合わせ振り返り、ほぉ、と嘆息を打つ。
「だよね。下手したらiPadにここの本全部入っちゃうもん」
「そういうこと。ただゲームをしているだけよ。その時に掛けているだけ。あいちゃんが来たから、そのままで出てきちゃったの」
「ゲームって何々? ロープレ? ADV? アクション? それとも朔希さんだからクイズとか?」
机に両手を付いて、あいの体勢が前のめりになる。目をきらきらさせているのを見ると、おそらくあい本人もそれなりに嗜んでいる側なのだろうと簡単に予想が付いた。――そして、あいがやっているであろうジャンルも。
「残念ながらどれも外れ。あいちゃんの年代は知ってるかな、シューティングって」
「動画でよくあるアレのこと? たまがばぁーって出てくる」
「それそれ。最近は画面が縦のものが主流なんだけど、それより前の、横に画面が進むものを知ってからなんだかハマっちゃったのよねぇ。で、今に至る」
朔希はぽーっとした視線で、店の天井付近を見る。しばらく頬杖を付いて視線を遠くにやって、「懐かしいなぁ」とぽつりとこぼした数瞬ではっと我に帰って視線をあいに戻す。
「ね、ちょっと昔話をしていい? 私が、あいちゃんよりもちょっとだけ年が上だったころのお話し」
普段、ここでのやりとりはあいが話し、朔希がそれに返すのが普通だった。朔希の方から話すなんて珍しい――とあいは思う。優しい笑みをして「どう?」と聞いてくる優しい声に、あいは首を縦に振るだけだった。
ふぅ、と一つ息をついて、朔希は話し出す。
「そのゲームを知ったのも、結局は本からなのよね。『それゆけ! 宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコ』ってシリーズ、古本屋で一気買いして、わくわくしながら読んでたなぁ」
その目は、あいと似て、きらきらとした少女の目をしていた。
◇◇◇
そのシリーズの主人公。山本洋子は生粋のゲーマーで、特にシューティングゲームにおいては男子顔負けどころか、男子でも早々果たせないであろう記録が、作中で何度もたたき出される。その結果、横シュー、引いてはシューティングゲームというものに対して前知識を持たずとも「なんだかとてつもなくすごい人」という印象が植え付けられる。
そしてその知識が、技量が、作中の操船技術として遺憾なく発揮されるのを目の当たりにすると、新たに知った知識が、まるで実際に体験をしたような錯覚を覚える。
その本をきっかけにシューティングゲームというものを始めたのが朔希だった。
家にあったゲーム機で『グラディウス』をし始め、ちょうどそれから数年後にとある個人が頒布した縦シューティングゲームが話題になったことをきっかけに、実際にゲームセンターの筐体で――コインを入れて――行うようになる。
「あの頃は、ただレバーで自機を――自分の戦闘機ね――を動かして、自分で弾を撃って、相手を倒すっていう流れだけで楽しかった。それでね、自分より遙かに大きいボスを倒した時なんか、嬉しいのと爽快感でたまらなかった」
それは子どもがお人形を与えられて、その人形の手足を動かすだけで日が暮れるようだった――と朔希は語った。
「それが次に『いつもやられちゃう場所で、どうやったら先に進めるんだろう』って、そう思い始める。……当然、100円で長くプレイした方がお財布にも優しいし、楽しいからね。
そして考えて考えて、仮説を立ててやってみて――それがうまくいった時は、やっぱり嬉しかった。
そこでこう思ったの、こうやって少しずつ進めていけば、本の中で読んだような、山本洋子みたいな、そんな世界が見えるんじゃないかーって。……一つの自己投影ってものね」
そこまで言って、朔希は恥ずかしそうに舌を出した。
「ちょっとずつ上手くなって、家でも練習したりしてね。そしてあるときにね、偶然に偶然が重なって、通しでクリアできちゃったの。最初なんて一面で終わってたのにね。我ながら奇跡が起きたなんて思ったわ」
「…………すごい」
「で、ゲームが終わったときにスコアが高いと名前を入れられるんだけどね、私のイニシャル、S・Tって名前が5番目に表示されたの。努力が報われた気がしてね、嬉しかった」
あいに見せる笑みとは違う、自分の中から喜びが浮かんでくるような、そんな笑みを浮かべる。心の底からの笑みに、あいはふと胸が高鳴るのを感じた。
「そしたらね、私の名前が載っているランキングの一位の人の名前が、Y・Yだったの。――偶然でしかないし、その人が山本洋子な訳はないんだけどね。それでも何か縁みたいなのを感じて、それからはその人のスコアを目指して、頑張った」
――で、話は今に戻るだけどね。
人差し指を立てた朔希は、歯を見せて子どものように笑う。
「結局そのゲームセンターは無くなっちゃったし、通える範囲にそのゲームが無くなっちゃったから、今は時間があるときに家で少しずつやってるってわけ」
「……朔希さん、もしかしてさっきまで――」
「そういうこと。
私は、その本に出会って、ゲームを始めて。それから結構な年数が経ったけれど、その時にみたY・Yさんのスコアに届くこともなければ、横シューをハードモードで周回するような、ヤマモト・ヨーコにもなれてない」
ふぅ、と息をついた朔希は、満足げな笑みを浮かべてマグカップの中のココアを啜る。
「これで私の話はおしまい」
「……あれ、ここで? そこからY・Yさんとの恋物語とかそういうのは?」
「無いわよ」
「なぁんだ。そこから心がうきうきわくわくするような、青春小説みたいなお話しになるかと思ったのに」
「期待に添えられなくて残念ね。現実は小説ほどよく出来てないのよね」
「ね。異世界にも行けないし」
「特殊能力を神様から貰えないし、ね」
そう言って二人はくすくすと笑う。話の途中で冷えてしまったのか、冷めてしまったココアを啜って、「ところで、朔希さん」と先生に発言を求めるような仕草を見せる。
「なぁに?」
「朔希さんは、その、作中の人に憧れてゲームを始めた、んだよね?」
何か推理をするかのように、あいは顎に指を当てて目を細めて朔希の方を見る。
追求する、というよりも、素朴な疑問を問うような、そんな声色をしていた。
「そうねぇ、それで大体合ってる、かしら」
「いっぱいやって、頑張って、名前が載って、嬉しかった」
「うん。嬉しかった」
「そのY・Yさんと朔希さんの差って、どのくらいあるの?」
「うぅん……私が10人で束になってかかったらちょうど互角くらい、かな?」
「ひぇぇぇ、じゅうにん……」
あいは、自分の分野に置き換えて考えてみる。小説サイトの数字で十倍という数イメージした瞬間、ずん、と頭が重くなるのを感じた。
十倍という数字は、果てしなく高い差で、それは自分の力だけでは追いつけないほどのものではないか、と。
「もしかしたら、このままやり続けたとして、Y・Yさんの数字には生きている間に追いつけないかもね」
「……えと、朔希さんは、憧れている人を目指してる。でも、追いつけないかも、しれない。
…………それでも、やっぱり、憧れるし、続けるの?」
ぽつりぽつりと、たどたどしく紡ぐ言葉に、朔希は話の相手が言葉を選んでくれているというのが手に取るように分かる。きっと、自分を傷つけないようにしてくれているのだろう、と。
「あら、相手に憧れて、それを目指したいって思うのっていけないこと?」
あいが精一杯考えた言葉に対して返ってきたのは、そんなあっけらかんとした言葉。
――なんで。
なんで朔希さんは、そんなに即答できるのだろうか。
だって、十倍だよ。十倍だなんて――同じくらい努力してそのくらいの差が付いちゃうとして、それなら、どれくらいのがんばりを自分はすればいいのだろうって逆に思ってしまうし。それくらい壁が高いのだったら、それは憧れない方が――――
頭の中で言葉を選んでいるうちに、気がつけばあいの頭に朔希の手が乗っていた。
「憧れる相手がいて、その人みたいになりたいって気持ちを持つとね、胸の中があったかくなって、やるぞって思えるようになる気がしない?」
「……それは、分からなくもない、けど……」
「でしょう? 前向きになれる何かって大事。車が燃料が無いと走れないのと一緒でね。
それにね――頑張ったことに意味が無いことなんて、無いと思うの。十年くらい、知らない人の背中を追いかけ続けた私が、あいちゃんに保証する」
あいの髪の毛をくしゃくしゃとなで回して、朔希は笑う。
「あ、でも今のところシューティング力が役に立ったことはないわね……。でもいつか、役に立ったって思えるんじゃない? たぶん、きっと」
朔希は少し屈んで、おずおずと顔を上げたあいと視線を合わせる。
自分を映しているその目は、次第にしっかりとしたものへと変わる。
にひっと笑いかけてやると、目の前のともだちも笑顔を見せた。
目指すものに向かって歩んだとして。
たとえ目指すものになれなかったとしても、目指した方向に歩いていたその過程には意味があるものなんじゃないかって思います。