午後四時を過ぎ、窓にオレンジ色の光が差し込み始める頃、つごもり眼鏡店店主である晦朔希は、座る場所を変える。
来客応対用の正面の机ではなく、店の北西角。作業机スペースへと。
客側からは朔希の手元が見えないようになるその机は、本業としての眼鏡の修理・加工をする場所である。と同時に、そこで読書をしていても、端から見れば作業をしているように見えるという一石二鳥の場所でもあった。
本業は大事。しかし読書も大事。朔希は二つの机をうまく利用しつつ、本業と趣味との両立を図っていた
「……そろそろ、かなぁ」
この時間になると、時々決まってドアベルを慣らすお客さんが増えてから、朔希はこの時間が楽しみになりつつあった。
ちりりん
夕陽が刺すガラス戸が押し開かれ、ドアベルが店内へと鳴り響く。
髪を後ろで一本に結った少女が、近所の中学校の指定鞄を背負って、店の入り口に立つ。
いつもの場所に朔希を見つけると、その口元を三日月の形に広げて。
「朔希さん、こんにちは!」
後ろ髪を跳ねさせつつ挨拶をすると、朔希の方も柔和な笑みそのままに、優しく返す。
「はい、あいちゃんいらっしゃい。ご覧の通り、お客さんはいないから独り占めよ」
◇◇◇
午後四時から五時にかけての時間は、朔希の経験上客は来ない。来るとすれば、あいが最初に来たときのように何か緊急の事があったときくらいで、社会人は五時を過ぎないとやってこない。
つまるところ、あいが来る時間帯はちょうど暇を持て余す時間帯で、朔希にとっても話し相手ができる貴重な、そして心安らぐ時間でもあった。
朔希はいつもの作業机に座り、あいはその向かいに座る。座る席の構図はまるで、バーテンダーとその客のよう。ただし客に出されるものはミルクココアで、持つものはシェーカーではなく文庫本なのだけれど。
「あー、朔希さんまた本仕入れたの? 早いなぁ」
「発売されてから一週間くらい経っちゃってるけどね。買った新刊の宣伝紙に掲載されてた本、気になったから買ってみたの」
あいがこの店に通い始めて――入り浸り初めて、と表現した方がいいかもしれない――一月以上が経った。最初こそ、至る所に詰め込まれているある本たちに目を丸くしていたあいも、
今となってはどこにどんな本があるのかは、もはや勝手知ったる実家のようなものになっていた。だから、展示用机兼本棚の中身が変わっていることに気づくのも、朔希以外ではあいがいつも最初。
主に買ったばかりの本を入れる棚の前にしゃがみ込んだあいは、ふんふんと鼻を鳴らしながら背表紙を眺め、見知ったタイトルを見つけると声を上げた。
「朔希さんの読むジャンル、ごった煮だもんね。私なんていくつかの出版社を追うのが精いっぱいで――あ、この本買ったんだ!」
あいが目を輝かせて手に取った本は、半月前ほどに販売された文庫本。本の表紙を眺め、愛おしそうに表紙を眺めた後の、ふとその目を細める。
「この作者の本が出るってリーフレットで見たときはすごく嬉しかったし、今月のお小遣いが入ったら買いに行こうーって思ってたんだー、この本」
本の背表紙部分を指でなぞりつつ呟いたあいの声色は、数秒前には無かった憂いの色が混じっているように朔希には感じた。
「……過去形?」
「うん。買うかは、まだ半々って感じでね。……いやー、ね。その本、どくしょメーターとか、あまぞんのレビュー見ると賛否両論真っ二つでさ。二の足を踏んじゃうっていうか、なんというか……」
そう言って本を持ったまま小さく息を吐く。その表情には、嬉しさの中に、ほんの少しの困惑が見て取れた。
「あー、色々書かれちゃってるんだ」
「そーなの。『良かった』って声ももちろんあるんだけど、『文章が稚拙』だとか『話の割に文が幼稚』だとか、そんなレビューが結構な数あってねー」
まだ本のリーフレットも取られていない本を両手で持って、表紙をじぃっと眺めるあいに、朔希は優しく声をかける。
「じゃあ、その本読んでみる? 私はまだ積んでる本あるし」
「いいのっ!?」
音が聞こえそうなほどに勢いを付けて振り向いたあいが、きらきらとした目を見せる。本好きだけが見せる、本を手にしているときの嬉しそうな顔。朔希はそれが見たくて、この所本の仕入れが多い傾向にあった。
「もちろん。そうしたら、感想聞かせてね?」
「うんっ、うんっ! 分かった! 読んだら真っ先に朔希さんに伝えに来るから!」
うずうずとして、今にも読みたくて堪らない。そんな様子を見せるあいは普段よりも機敏な動きでいつもの指定席に戻り、机の上にあったミルクココアに幸せそうに口を付ける。
「……ねー、ここで少し読んで行っていい?」
「もちろん。ゆっくりしていって」
あいは「やた!」と嬉しそうに鳴いて、自分の鞄から漆塗りの栞を取り出して本をめくり始める。口元は嬉しそうに横に広がり、目はわくわくとした眼光をたくわえている。
少し高めの椅子に座っているあいは、気分よさそうに話をするときは楽しげに足をぷらぷらとさせる。しかし本を読んで集中しているときは、足をまったく動かさない。
あいはしばらく本に没頭し、外が暗くなっているのに気づくと――もちろん、朔希が声をかけるまで気づくことはなかったけれど――慌てつつも大事そうに本を鞄の中に入れる。
「続きは帰ってから、じっくり読ませていただきますのでっ!」
「はい、楽しんでね」
「はいっ!」
普段よりも足音軽く、あいは店の呼び鈴を鳴らして店を出て行った。
翌日、午後四時過ぎ。
「朔希さんこんにちはっ!」
昨日店を出た時の勢いそのままに、あいがつごもり眼鏡店を訪れた。いつもの作業机に朔希がいるのを見つけた瞬間、軽快な足取りで仕事机の方に近づくと、開口一番。
「本、読了しました! ありがとうございました!」
朔希に本を差し出しつつ、勢いよく頭を下げた。本の上には個包装――ちゃんとした値札が付いていて、どこかで買ってきた事が分かる――のチョコレート菓子が載っていた。
あいが昨日帰ったのが午後五時過ぎ。家に帰ってから読むにしても、一冊を読み切るにはそれなりに時間がかかるはず。あいはそれでも翌日に読了報告をしたと言うことは――家に帰ってからもその本を読み続けたのだろうと思う。それこそ、かじりつくように。
本が気に召さなければ、借りて一日で読み終えることは無いだろうと思うし、返す時にこんな勢いで来ないだろうと朔希は思う。――となれば、この本はきっと、あい向けだったのだろう。
「ゆっくりでいいって言ったのに」
そう言う朔希自身も、眉の形こそハの字を描いていたものの、その声は嬉しそうな色をしていた。
本を受け取ると、朔希が言うより早く、椅子に飛び乗ったあいの方から矢継ぎ早に感想の言葉が飛んできていた。
「予想通りに、うぅん、予想以上に、話が面白かった! 全体としてみると主人公の成長物語なんだけど、その周りの人物がね、またいい味出しててね!」
拳を握りしめて、目をきらきらと輝かせて、頬を喜色に染めて、嬉しそうに楽しそうに、あいは語る。
「レビューで言われてるとおりに、確かに文章だけを見れば難しい言葉回しとかしてないのは確かなんだけど、この話に限ってはそれはもう野暮! この話あってのこの文章だもん。レビュー書いた人はちゃんと本の全部を見てレビュー書いたの? って感じでね? 私としてはもーーー大満足! すっごく満足! 二度読みしたいけど、まずは朔希さんに返さなきゃって思って、二度読みは私の本でやるね!」
「そ、よかった。あいちゃんが楽しんでくれたなら何よりよ」
「うんっ! とっても、とってもよかった! この本、やっぱり買います! 家にも置いておきたいもん!」
机に乗り出して顔を近づけてくるあいに、朔希は笑みを隠しきれない。
「そこまで喜んでもらえたら、買った甲斐があるわ。――今日もいつもので?」
「飲む!」
昨日の憂いの表情はどこへやら。唇の上にマシュマロのせココアの泡を付けながら、あいは更にあい自身のレビューを語り始める。
文体についての説明から始まり、登場人物の台詞回しから情景描写に至るまで、熱量のこもったレビューが続く。朔希はその勢いを受け止めつつ、嬉しそうにそれを聞いていた。
「でね! 中盤の盛り上がる所で持ってきたのが、一番最初に詳しく語られなかったところでね――」
あいが
周りの声がよく通って聞こえる昨今、現代っ子のあいが触れる情報量は、朔希が本を愛するようになった頃とは段違いなのだから。
「ってな所で、やっぱりそこはね、続刊で語られてほしいと私は思うわけで――あ、つい話しちゃっただけど、ネタバレとか、大丈夫、だった?」
「うん、そっちはいいの。むしろ嬉しくてね。レビュー見て尻込みしてたあいちゃんが、読んだ生の感想をあいちゃんの声で聞けたのが嬉しかったの」
朔希の言葉に少しきょとんとし、それから恥ずかしそうにはにかんだあいは、ココアのカップを両手で持つ。そして嬉しそうに口を付けては満足げに吐息を付いた。
「それにしてもさぁ?」
ココアを飲みきって、何度目かの幸せそうな息を吐いたあいは、心底素朴そうに一つの疑問を口にした。
「あの本、なんであんなに真っ二つになったんだろうなぁって。そんなに好き嫌い分かれるようには思えなかったんだけど……。昨日見たんだけど、やっぱり綺麗に星3つだったよ」
「うーん……そうねぇ」
朔希は少しだけ悩んでから、自分のマグカップをあいの目の前に置く。あいと同じ、ミルクココアが入っているマグカップは、半分ほどの量が入っている。
「例えば、マグカップに入っているココア、あいちゃんなら何て答える?」
「え? ……『まだ半分残ってる』?」
「そう、あいちゃんはまだ半分もココアが飲める。――それとは別に、これを『もう半分も飲んじゃった』と言う人もいるってこと、かしら」
空になったあい専用のマグカップにココアを入れ直しつつ、朔希は自分のカップを指差す。自分だったらどっちでとるだろう、と頭の隅で考えながら、愛する友人へと話を進める。
「同じものを見ていても、捉え方一つで真逆になっちゃうものだから。それこそ、まったく別の話をしているのかって思えちゃうくらい」
「んー、それと、本とって何か関係あるの?」
あいは素直な疑問を浮かべながら朔希からカップを受け取り、両手で持ち挙げる。ホワイトブラウンが立てる波を見ながら、頭の中で出てこない答えに首を横に傾げた。
「実はあるのよねぇ、これが。
『固すぎて読みにくい』、『語彙力豊富なのは分かるけど作者の自己満足感がすごい』
『言葉の選び方が綺麗で詩を読んでいる感覚』、『ラノベらしくない台詞回しが心地いい』
これ、同じ本に対してのレビューなの」
「固すぎて、語彙力豊富……あぁ、なるほど。良く言うかそうでないかってだけで、言ってること、みんな一緒」
得心を得たと何回か頷いて、ココアを啜る。
「そうなのよ。私はこの文体が好きだから後者の印象だったけど。本への感じ方って、そんなものなのよねぇって。だからね」
朔希が言葉を一度途切れさせる。あいをまっすぐに見た後、柔らかい笑みと共に口を開いた。
「あいちゃんには、そのままでいてほしいなぁって。さっきみたいに、嬉しそうに本を語るあいちゃんが好きだから」
両手を組んだ指に顎を乗せて、微笑んだ朔希にあいは。
「……、…………、そう、いうの…………ずるい」
目を上に向けたり下に向けたり、まっすぐに朔希の顔を見ることができないまま。ココアが入ったカップでその視線を遮るしかできなかった。
◇◇◇
それから数十分後。
「そんなかわいいあいちゃんに、つい最近私が読んだ、『私向け』だった本があるんだけど――」
「――! 読む!」
「そう言ってくれると思った。これなんだけどね?」
「この本は、すごく綺麗な言葉で描かれた友情の話。優しくて温かくて、そしてその温かさ故に涙する、そんな物語。この本の主人公は、図書館にすむ一体のドラゴンで――――」
『あなたの価値観、直します』
そんな張り紙が貼られている、入り口のガラス扉。
そこから見えるは、少女と店主の二人の姿。
つごもり眼鏡店の中からは、とある日から声が絶えない。